トップページ | 2006年9月 »

2006年8月

2006年8月31日 (木)

奇跡

24歳で洗礼を受け、クリスチャンになった後、キリスト教関係のキャンプで、かつての8年間のクラスメートとばったり出会いました。(その人の話は、こちら→http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_b75a.html

もう何年も会っておらず、そこで顔を合わせることは予想していなかったので、びっくりしました。しかし、私がイエス・キリストを信じ、さらには牧師になろうと考えていることを知った彼は、私よりもずっと驚いていたのです。

「シゲキは救われないと思ってた」というのが彼の言葉でした。かつての私の悪事の数々を良く知っている彼にとって、教会の集まりにさそっても来ようとしない私は、もう救いようのないヤツだと思えたのかもしれません。私は何も言わず、ただ苦笑するしかありませんでした。

神様はどんな人のことも愛しておられ、間違った生き方をしている人に、救いの手を差し伸べて下さいます。最近は、ヤクザの人たちの中にもクリスチャンとなり、牧師になる人が出てきています。決して変わりようのない人の人生がまったく新しく変えられること、これは神様だけができる奇跡なのです。

「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27、新改訳第3版)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年8月30日 (水)

小学校、中学校、高校を通して通算8年間、文字通りクラスが一緒だった、かつての「同級生」がいます。彼は、ある教会の牧師の長男であり、学業優秀でスポーツもでき、何よりも誠実な人柄でした。自分勝手でワガママな私は、彼とは親しい友人でしたが、性格面ではどうがんばっても私に勝ち目がないことを感じていました。

彼とは、小学校では野球仲間であり、中学3年の時にはギター仲間でした。高校1年の夏休みには一緒に、アメリカでホームステイも経験しました。高校で私はバレー部、彼は剣道部でしたが、練習場所が近かったので、放課後もよく顔を合わせていました。

8年間クラスが一緒だったということは、今から考えれば、神様の計画があったと思います。日曜学校に行かなくなった後、クリスチャンの友人は、彼だけでした。神様の不思議な導きにより、私も彼と同様、牧師を志しましたが、今でも私は、彼の責任感あふれる行動を思い出します。そして、年賀状やメールのことばを通し、今なお彼の誠実な人柄に感銘を受け続けているのです。

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」(箴言27:17、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月29日 (火)

幼稚園

数年前、かつて住んでいた札幌の家の近くに行って、大きなショックを受けたことがあります。なんと、私の卒園した幼稚園が、一般の駐車場になっていたのです。それは、中央区の石山通沿いにあった、エマヌエル幼稚園でした。

私はそこを卒園し、小学校低学年の頃までは、同じ建物だった札幌エマヌエル・ルーテル教会の日曜学校に行っていました。小2から小6までは、英語のクラスにも通い、教会で英語劇もしたように覚えています。

エマヌエル幼稚園は1950年に開園しましたが、1980年には別な幼稚園と合併となり、もとの場所は売却したようです。昨日もう一度見に行ったら、今度はファストフードのお店になっていました。

大学4年の夏休みだったと思います。東京から帰省して、本棚を眺めていたら、古い新約聖書を発見しました。なんとなく見覚えがあったので、手にとって開いてみると、「1967年3月17日、成紀ちゃん、贈、エマヌエル幼稚園」と記してありました。卒園記念にいただいた聖書だったのです。

それまで私は、かつて幼稚園や日曜学校で聖書の話を聞いたことも、祈りを教えてもらったことも、すっかり忘れていました。でも、神様はそんな小さな時から、いえ、実際は私が生まれる前から、私がこの幼稚園や教会に通うことを愛をもって計画されていたのです。

エマヌエル(インマヌエル)とは、神様がともにいて下さる、という意味です。神様は私たちの生まれる時から、私たちが意識する、しない、に関わらず、いつもともにいて、その愛を注ぎ、支えていて下さっているのです。この呼び名は、乙女マリアを通して生まれた、イエス・キリストの別名でもありました。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(マタイ1:23、新改訳第3版)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月28日 (月)

とうきび狩り

きのうは、教会でとうきび(とうもろこし)狩りに行きました。教会員の中に農家の方がいて、毎年、収穫の終わった畑で自由に取らせて下さいます。収穫が終わったといっても、ただ規格に合わなかったというだけで、ごく普通の、というより、スーパーで売っているものとは比べものにならないほど、美味しいとうきびです。

うちの家族だけで、150本くらい取り、近所の方々や、お世話になっている人たちに配ってきました。残った分は、ゆでた後に実をとったり、コーンスープ用にすりおろしたりして、冷凍しておきます。この作業が、結構たいへんなのですが、何と言っても美味しさには代えられません。今年のとうきびは特に甘く、果物を食べているようです。

農業をしていると、特に神様の恵みを感じるそうです。みごとに調和した生態系の中、日の光がエネルギーを与え、雨が水を与え、そして土から必要な栄養分を吸収し、農作物は育ちます。そのバランスが少しでも崩れると、実は豊かに実らないのです。この調和は、偶然に生まれたものでしょうか。すべてのいのちは、ただ意味もなく、偶然に存在しているのでしょうか。

聖書には、すべては神様(主)の永遠の計画の下に創られ、保たれていると、記されています。

「主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。」(詩篇104:14、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月26日 (土)

語りかけ

大学4年の春、私は進路を見失っていました。卒業論文のテーマが、見つからなかったのです。よく考えてみると、そもそも私には、続けて勉強していきたいテーマなど、なかったことに気がつきました。大学院に行っても、何を研究したら良いのか、もう分かりませんでした。

大学に入った頃から将来、何をしていこうか考え続け、やっと方向性を絞ってきたというのに、これでまた、すべてが振り出しに戻りました。そうです。何のために生きているのか、というあの重大な問いにも、まだ答えが見つかっていなかったのです。

東京・池袋の薄暗いアパートで一人、うずくまっていました。もう将来に向けて、何をしたら良いのか分かりませんでした。自分には結局、何もできないのではないか、と思いました。絶望感だけが心を支配していました。

その時です。突然、誰かが私に語りかけるのを感じたのは。その「声」は、こう語ったのです。「あなたは何もできないと思っているけれども、あなたには目があって見ることができるし、耳があって聞くことができる。手があって物をつかむことができるし、足があって歩くことができる。頭で何かを考えることもできる。それらで何かができるのではないか。」

その瞬間、それが天地万物の創造者であり、支配者である神様であることを感じました。涙がぼろぼろ出てきました。「語りかけて下さった神様は、自分のことを愛し、気にかけておられる。自分にも何かできるかもしれない。この神様のために、何かしていきたい。」まだその時点では、具体的に何をしていったら良いか分かりませんでしたが、その時、すべてが美しく輝いて見えたことを覚えています。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月25日 (金)

使者

フランス語のクラスで、見ず知らずの人が話しかけてきました。大学3年の時です。彼女は1年先輩で、フランス語がペラペラ、しかも大学の女子バレー部のキャプテンでした。この文武両道の才女は、私にいろいろと質問を投げかけてきました。「どうしてそんなに勉強しているの?」「どうして大学院に行こうとするの?」「どうして大学の教師を目指すの?」

ただ周りに流されるように、なんとなく大学院へ行こうかと思っていた私は、それを素直に認めるのも嫌だったため、「ただそうしたいんだ」と意地をはって答えました。すると彼女は、「あなたは自分のことしか考えていない。私もかつてはそうだったが、クリスチャンになって変えられた。だからあなたも、聖書を読んで教会に来なさい。」と言いました。

元来、意地っ張りで負けず嫌い、しかも「あまのじゃく」である私は、仏教書を数冊買い込み、読み始めました。もちろん、教会になんか絶対行くものか、と思っていました。しかし、彼女は、後から考えれば、確かに神様が私に遣わされた「使者」でした。何のために生き、何をしていったら良いか分からなかった私は、数年後、自ら聖書を読み始め、教会に行くようになるのです。

「悪い使者はわざわいに陥り、忠実な使者は人をいやす。」(箴言13:17、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月24日 (木)

いのち

大学に入ってすぐ、クラスメートが自殺しました。クラスにはほとんど出てこなかったので、会ったことのない人でしたが、彼と親しかった友人の悲痛な顔は、よく覚えています。

その人がなぜ、自殺に至ったのかは、知りません。「必死の思いで受験勉強をして、やっと念願の大学に合格したばかりなのに、なぜ?」という疑問が、私にはありました。でもそれ以降、私自身、自殺も一つの選択肢だろうかと考え始めたのです。

生きる意味が、分かりませんでした。人生の目的が、私には見出せませんでした。大学受験という大きなハードルの向こうには、さらにいくつの高いハードルがあり、どれだけ厳しい坂道が続くんだろうと、嫌気がさしていました。

私がその時、自殺に至らなかったのは、親の心を思ったからです。それまで手をかけ、時間をかけ、お金をかけて息子を育て、東京に送り出し、ここで何も言わずに自殺してしまったら、親はきっと悲嘆に暮れるに違いないと想像しました。自殺したクラスメートの友人の表情が、ずっと心の奥底に焼きついていたのかもしれません。

神様は私たち一人ひとりにいのちを与え、愛をもって育てて下さっています。私たちの創造者として、親として、人生に意味と目的を備え、私たちの生き方を見守っていて下さいます。そのことを知るのは、もう少し後になってからのことでした。でも、そこに至るまでの道のりも、今から考えると、確かに神様が導いて下さっていたようです。いのちを与えて下さった方は、私たちがいのちを絶つことを、望んではおられません。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月23日 (水)

良い知らせ

20日の日曜日には、数年前に事故にあい、足を切断しなければならないかもしれないと言われていた人が、初めて礼拝に出席してくれました。今も片足は曲がらないのですが、結局、切断せずに済んだということでした。

今日は、横浜から手紙が届き、病気だった息子さんがいやされて、教会の奉仕をされているというお話でした。

お二人のために祈った祈りを、神様が聞き届けて下さっていたことを感謝します。

ブログを見ていた人たちからも、コメントの書き込みやメールが届きました。神様が、日本各地に住む人たちとの関係づくりをして下さっていることを感謝します。

聖書が語る最大の良い知らせは、もちろん、イエス・キリストが私たちと神様との関係を回復して下さったということですが、このような日々の小さな良い知らせもうれしいですね。

「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。」(箴言25:25、新改訳第3版)

暑い日が続くと、特に冷たい水は生き返るような心地がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月22日 (火)

ファミリー・キャンプ

今年の夏の旅行は、札幌・滝野(http://www.takinopark.com/)で2泊、苫小牧・アルテン(http://www.dp-flex.co.jp/arten/)で2泊しました。両方とも、きれいに整えられたキャンプ場で、家族で楽しい時を過ごしました。

札幌では昨年同様、大丸、エスタ、ソニープラザ、スターバックスを訪れ、苫小牧に行った後、登別伊達時代村、地球岬、白鳥大橋に行きました。

子どもたちも、最初にキャンプを始めた頃から比べるとずいぶん成長し、いろいろと手伝ってくれるようになりました。神様が、子どもたちを守り育てて下さっていることを感謝します。

「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」(詩篇127:3、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月21日 (月)

駒大苫小牧

駒大苫小牧が、今年もいい試合を見せてくれました。

決勝戦再試合で早実に4-3で敗れ、惜しくも3連覇は逃しましたが、最後まであきらめない、素晴らしい戦いぶりでした。

私たちも、最後まであきらめない、しぶとい生き方をしていきたいですね。

「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:6-8、新改訳第3版)

こう語った、使徒パウロのような生き方をしたいと、願っています。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年8月19日 (土)

七飯シオン教会10周年

今年はまた、七飯シオン教会の満10周年でもあります。

6月30日が正式な設立記念日なのですが、7月16日に10周年記念礼拝を行いました。教団総理の比嘉幹房先生(沖縄新生教会)をゲストに迎え、札幌のCFNJ聖書学院のアウトリーチ・チームも来てくれました。礼拝後は、駐車場でバーベキューをし、会堂内では抹茶(お薄)もふるまわれました。

神様がこの10年、私たちの教会を支え続けて下さったことを感謝します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月18日 (金)

再会

今年は昔の友人・知人たちと、たくさん会いました。

5月29日から6月1日までは、ワシントンDCに行って、米国フォースクエア教団の大会に出席してきました。11年ぶりにアメリカの友人や恩師たちと再会しました。

6月3日には、札幌南高校の同期会が東京であり、同期の人たちやバレー部の仲間と顔を合わせました。27年ぶりの人もいました。

7月2日には、やはり高校卒業以来会っていなかった真部淳くんが七飯を訪ねてくれました。

7月20日には、高校3年の時の同じクラスの人たち何人かと、東京で会いました。

8月12日には、伏見中の同期会が札幌であり、30年ぶりに友人たちや恩師の顔を見ることができました。

以前は、同窓会には少し気後れがして、ほとんど出席したことがありませんでした。自分がこれまでしてきた多くの失敗や思い出したくない出来事をまた見つめなおさなければならないような気がして、気がすすまなかったのです。

でも、今年は出席して良かったです。友人たちの笑顔を見ると、楽しい思い出も多くあったことに気づかされました。失敗の多かった自分の歩みの中にも、神様が多くの恵みと祝福を与えて下さっていたことを感謝します。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年8月17日 (木)

ココログスタート!

ココログを始めてみました。

続くかな?

神様の祝福が流れ出るようなブログになったら良いですね。

七飯シオン教会(http://homepage3.nifty.com/nanaezion/)は、神様の愛が心の奥底からいのちの水のように溢れ、一人ひとりを満たし、外側に流れ出していくようなコミュニティ――「いのちの水の郷」――づくりを目指しています。

このブログでも、そのようなコミュニティをつくっていきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2006年9月 »