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2006年9月

2006年9月30日 (土)

合唱コンクール

今日は、朝から子どもたちが皆、家にいて、にぎやかです。妻は、小学校のPTAの用事で出かけたため、昼ごはんは、コンビニおにぎり&弁当になりました。10月からは、土曜日の更新もお休みにして、週休2日にしたいと思います。それ以外も、これからは都合により、お休みする時が出てくると思いますので、読者の方はどうぞご了解下さい。

昨日は、中学生の息子の学校祭で、近くのホールを借り、合唱コンクールがありました。息子は指揮者で、伴奏の女の子も長く教会学校に来てくれた子なので、妻と私、そして早く授業が終わった高校生の娘と一緒に、様子を見に行きました。声がよく出るだろうか、きれいなハーモニーになるだろうか、ピアノと指揮者のテンポがずれないだろうか、などと、ハラハラしながら聞きました。先生方の熱心なご指導、そして一生懸命にした早朝練習の甲斐あり、学年で1位となりました。息子と友人たちに良い経験を与えて下さったことを、神様に感謝します。

私も、中3の時、合唱コンクールの指揮者でした。2年から3年になる時、クラスは持ち上がりだったのですが、担任が変わっただけで、雰囲気が一変しました。2年の時は、クラス全体の空気が重く、まとまりもなく、学級対抗の行事でも、ほとんど入賞することがありませんでした。ところが学年が変わり、新しい担任になった時から、ほとんどの大会で上位入賞するようになっていったのです。そして、その始まりは確か、私の記憶に間違いがなければ、合唱コンクールでした。

私は、その時、変わらなければいけないことを感じていました。クラス全体の練習を通して、指揮をする私の熱意が伝わっていくことを期待していました。しかし、突然、2年の時と打って変わって、高いレベルを目指そうとする私に、ついて来れない人たちもいたようです。音楽室を借りて練習をしていた時、クラスメートの一人とぶつかり、部屋から出て行ってもらったこともあります。それだけ本気になって練習した結果、コンクールでは7クラス中、3位入賞を果たしました。それが突破口となり、その後のクラスの快進撃が始まったように覚えています。

私たちが歌ったのは、「モルダウ」でした。息子たちが歌ったのは、「あの素晴らしい愛をもう一度」です。「歌は世につれ、世は歌につれ」ではありませんが、コンクールで歌われる曲にも、時代の流れを感じますね。教会で歌う賛美も、今は、新しい曲が次から次へと出ています。

「新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(詩篇33:3、新改訳第3版)

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2006年9月29日 (金)

球技大会

もう一つ、自転車で思い出しました。中3の夏休みのことです。休み明けに、球技大会が予定されていて、私はバレーボールに出場することになっていました。同じクラスのメンバーと一緒に、夏休みに練習することを決め、真駒内の「アイスアリーナ」に通いました。同アリーナは、72年の札幌オリンピックの時に建設され、あのジャネット・リンが銅メダルを獲得した屋内スケート場です。(これも、若い人には分かりませんね。)五輪後は市民に開放され、冬はスケート場、夏は体育館として利用されていました。

受験勉強もろくにせず、ほとんど毎日、自転車で練習に出かけました。他の人は、ひょっとしたら「夏期講習」とかに行っていたかもしれませんが、ただのんびりしていた私だけでなく、そういう人たちも無理やり巻き込もうとしたのですから、人迷惑な話です。国道は路線バスが走っていましたが、時には、ペダルを必死にこいで競争したりもしました。バスは、停留所ごとにお客さんが乗り降りするので、その間に追いつき、追い越しました。若かったですね。

一緒にいつも練習につきあってくれた友人は、岩崎宏美の大ファンで、いつもロッカールームで、「あなたお願いよ~♪」と、当時のヒット曲(「ロマンス」)を口ずさんでいたことを覚えています。練習の甲斐あって、球技大会では、優勝することができました。そればかりか、それをネタにして、校内の弁論大会に出て優勝し、さらに、同じネタを使いまわして、札幌市の英語弁論大会にまで出場してしまいました。残念ながら、英語弁論大会では入賞すらできませんでしたが、良い思い出として残っています。

(ちなみにその時、優勝して姉妹都市のポートランド行きをゲットした才媛は、高1でクラスメートになりました。今はお医者さんで、かつジャズ・ピアニストのようです。天は時には、二物も三物も与えるようですね。)

もう30年もたってしまったなんて、信じられないような気がします。神様が、その時期にだけ咲く貴重な花を、開かせて下さったのでしょう。

「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。」(詩篇103:15、新改訳第3版)

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2006年9月28日 (木)

自転車

最初に自転車に乗ったのは、いつだったか覚えていませんが、小さな時から自転車が好きでした。10年ほど前、こちらに越してきた頃に、結構いい自転車を購入したのですが、住んでいる場所が坂道ばかりなことと、春と秋は花粉症になることから、残念ながら今は、時々しか乗っていません。お隣のご主人は、MTBに凝っているようで、時々、いかにもそれふうの格好をして、自転車で出かけられますが、私は面白そうだと思いつつも、もう体力的に一緒についていくのは無理かと感じています。

子どもの頃から、あちこち自転車で走り回るのが好きだったので、ケガは絶えませんでした。いつも手足のどこかに、「赤チン」のあとがありました。スキーと同じく、たくさん転ぶことで、安全な転び方をマスターできたかもしれません。中学の頃は、街中まで自転車で遊びに行きました。高校は、家から歩いても10分くらいの場所だったのですが、冬と雨の日以外は、自転車で通いました。今から考えると、ずいぶん危険な乗り方もしていましたね。

荷物はいつも、後ろの荷台にくくりつけておいたのですが、ある日、なぜかバレーボール・シューズを入れた靴袋だけ、手にぶらさげて自転車に乗りました。ドロップハンドルを握った手から、靴袋がブラブラ揺れていました。石山通(国道230号線)を越えて、小さな道に入ったとたん、靴袋が前輪にはさまり、自転車が突然ストップし、私は、前のめりになりながら、前方にすっ飛んでいきました。

次の瞬間、ふと気づくと、無意識のうちに柔道の受け身をして、道路の真ん中に立っていたのです。これには私自身、驚きました。誰も見ていなかったので、一人で笑ってしまいました。車が来なかったので助かりましたが、同時に、体育の授業をまじめに受けておいて良かったと思いました。体育担当の先生は、バレー部の顧問だったので、サボりようがなかったのですが…。

「原動機付き自転車」に乗ったのは、トラックの仕事を始めるようになってからですが、タクシーのドアが開いた時に、とっさに避ける動きをとれたのは、ひょっとしたら、過去に自転車で数え切れないほど転んでいたことが役立ったかもしれません。もちろん、神様は、その瞬間も私のことを守っておられたと信じています。

「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。」(詩篇145:14、新改訳第3版)

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2006年9月27日 (水)

事故

結婚して3週間後、事故にあいました。妻は、エアコンのよく効かない所沢の古いアパートで、毎日、汗だくになり、慣れない家事の合間に、一人で引越し荷物を片付けていました。ほとんど北海道でしか暮らしたことがない彼女にとって、梅雨明け直後の暑さは、想像をはるかに超えていたようです。炎天下の配送に疲れ果てて帰る私は、いつも無口で、良い話し相手になってあげることもできませんでした。

どこか涼しいところに行きたいと言うので、思い切って休みをとり、軽井沢に行くことにしました。土日も祝日も、すべて教会の行事で埋まっていたので、平日に休みをとるしかなかったのです。明日は軽井沢に行くという日の夕刻、配達を終えた私は、いつものように、原付で練馬から所沢のアパートに向かいました。

西武線所沢駅西口の富士銀行(当時)からダイエーに向かう道は、車が渋滞しており、まったく動きがありませんでした。あと数分で自宅でしたので、早く帰りたかった私は、ずらっと並ぶ車と歩道の間を、すり抜けて行きました。すると突然、数メートル前で、タクシーが自動ドアを開けたのです。車が動かないので、お客さんが急に降りると言ったらしく、後方を確認せずに開けたということを後で聞きました。

「ぶつかる」と思った私は、ブレーキをかける間もなく、瞬時に左の歩道側に倒れ込みました。幸い、歩道側に障害物はなかったのですが、ぎりぎりの所でタクシーのドアを避けきれず、右ひざの少し上、太腿の外側部分がドアの左端に接触しました。骨が折れた感じはなかったので、ただの打撲かと思ったのですが、タクシーの運転手は後のことを考えてか、救急車を呼ぶと言います。そこで、目の前にあった公衆電話から、家に電話しました。「交通事故にあって、これから救急車で運ばれる」と言うと、妻は真っ青になって、アパートから駆けつけて来ました。

初めて救急車に乗り、何だか少し、嬉しいような気持ちもありましたが、お医者さんの話では、筋肉が切れたので入院だと言うのです。「軽井沢がパーになった」と思いました。会社や教会には、突然休むことになったので、迷惑をかけましたが、しかし、ギブスがとれ、復帰するまでの1ヶ月間、私にとっては良い夏休みの時となりました。妻とゆっくり話をする時間もとれ、仕事に復帰する前日には、軽井沢に行くこともできたのです。

「イエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい』と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」(マルコ6:31、新改訳第3版)

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2006年9月26日 (火)

新婚旅行

新婚旅行は、ヨーロッパに行きたいと最初、言っていたのですが、いろいろ不都合が重なり、結局、仙台1泊になりました。(ずいぶん、計画が縮小しました。)妻が実家に車を置いていたので、結婚式の翌日、特急で函館に行き、次の日、真っ赤なスズキ・セルボに荷物をいっぱい詰めて、青函連絡船に乗りました。

青森から東北自動車道に乗り、仙台の秋保温泉に向かいました。今はどうか知りませんが、当時は、スパイクタイヤのためか、道路がわだちのようにえぐれていて、そこに水たまりができ、軽自動車は走りづらかったです。

他の車が、速いスピードでどんどん追い越していくので、なんとなくそれにつられて、100キロ以上出して走っていました。弟から、盛岡のあたりで測定をやっているかもしれないと聞いていたのですが、すっかり忘れていました。すると確かに、盛岡インターのところで、お呼びがかかったのです。軽四は80キロ制限なので、23キロオーバーだとのことでした。

罰金もとられましたが、トラック・ドライバーとしては、点数を失ったのが痛かったです。その日は秋保温泉に1泊し、翌日、青葉城を見た後、また東北自動車道に乗りましたが、今度は浦和で降りるまで、ずいぶん気をつけて走りました。新婚旅行というと、必ず、盛岡インターのことを思い出します。何でも、急ぎすぎてはいけないものですね。

「急ぎ足の者はつまずく。」(箴言19:2、新改訳第3版)

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2006年9月25日 (月)

神に喜ばれる生き方をする(Ⅰテモテ2章)

Flower060924 最近、うちの会堂では、花壇にコスモスが咲いており、教会員の人が朝、咲いている花を切って、礼拝の始まる前に花瓶に飾って下さいます。茶道の心得の中に、「花は野の花のように生け(る)」という言葉があるようですが、草花にほとんど無頓着な私でさえ、いつも感心させられるのは、自然な色合いと曲線をみごとに生かし、花壇で咲いている以上に美しく生けているように思えることです。

昨日の礼拝では、Ⅰテモテ2章から、「神に喜ばれる生き方をする」というお話をしました。神様は、親が子を大切に思うように、私たち一人ひとりのことを愛し、私たちの存在自体を喜んでいて下さいます。私たちも、神様の子どもとしてその愛に応え、神様に喜ばれるような生き方をしていきたいものです。

先日、札幌に行く途中で、ルスツの道の駅に立ち寄ったところ、浪越徳治郎さんの銅像を発見しました。「指圧の心は母心」で有名な(と言っても、若い人は知らないかな?)、あの浪越さんですが、なんと子どもの頃、ルスツにいたというのです。7歳の時、香川県から虻田郡留寿都村に移住し、リウマチだったお母さんにマッサージをするうち、指圧の技術を生み出したそうです。出発点は、お母さんに喜んでもらいたいという、子どもの一心の思いだったようです。

私たちは、どのように生きていけば、天のお父さんに喜んでもらえるのでしょうか。ここの聖書箇所では、他の人のために祈ること、神様の愛を伝えること、そして、良い行いをしていくこと、の3つについて記されています。「パパ」を喜ばせようとする私たちの姿を、父なる神様は、温かな眼差しで見守っていて下さるに違いありません。それはひょっとすると、美しく飾られた花のように見えるのかもしれませんね。

「そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(Ⅰテモテ2:3、新改訳第3版)

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2006年9月23日 (土)

結婚

恋愛とか結婚について、話をするのが苦手な男性は結構、多いのではないかと思いますが、私もその一人です。妻と初めて出会ったのは、85年の冬で、妻の25歳の誕生日前日でした。晩婚化が進み、結婚しない人も増えた今は、死語のようになりましたが、当時は、「クリスマスケーキ」という言葉をよく耳にしました。クリスマスケーキが、12月25日になると売れなくなるのと同様に、25歳になるとなかなか結婚できない、などと言われたものです。24歳最後の日に私と出会ったのは、神様の絶妙なタイミングだったのでしょうか。

どんな人と結婚して、どんな家庭を築いていくか、ということは、しばらく前から考えていました。それまで、いろいろな人の思いを聞き、さまざまな家庭の様子を眺めて来ましたが、長年、夫婦円満でい続けることは、簡単ではないと痛感していました。ただ一時的な感情ではなく、いつまでも良好な関係を築いていくには、夫婦がともに立ち返ることのできる、共通の土台のようなものが必要ではないか、と思いました。そして、クリスチャンになった時、それは、神のことばである聖書だと気づいたのです。

妻は、86年2月に洗礼を受けました。私も彼女に、聖書の話をずいぶんしましたが、彼女としても自分の人生を振り返って、考えるところがあったようです。最初の頃は、「牧師の奥さんは、クリスチャンじゃなきゃいけないの?」とか聞いていたので、信仰を持ってくれた時は、やはり彼女が結婚すべき相手なのだと確信し、ホッとしました。洗礼式の後、すぐに近くのお花屋さんに行って、赤いバラの花束をプレゼントしました。「たいへん安くて、1,700円だった」と、口走ったようです。私は覚えていないのですが、妻は、しっかり覚えていました。余計なことは、言うものではありませんね。

87年7月に私の実家がある札幌で結婚しましたが、その時、私は所沢、妻は函館でしたので、準備がたいへんでした。ずいぶん働かされたと、後から父がぼやいていました。当時、大通りにあった札幌のフォースクエア教会が狭いので、すぐ近くのルーテル教会の会堂をお借りすることになりました。できたばかりの真新しいビルで、音楽ホールの上の階に、パイプオルガンと木のベンチという、素敵な会堂がありました。そこでの結婚式は初めてだとのことでしたが、牧師の先生に伺うと、何と、私が幼稚園や日曜学校、そして英語のクラスに通った教会が、そこに移転してきたというのです。神様は、そんな所にも、サプライズを用意されていました。

「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」(創世記 2:18、新改訳第3版)

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2006年9月22日 (金)

英語

英語を勉強し始めたのは、小学校2年生の頃だったと思います。私が通った幼稚園の2階(教会の一室)で、ネィティブの方が教えて下さるという話があり、面白そうだったので行ってみました。後から日本人の先生も教えるようになりましたが、楽しかったので、6年生まで続けました。ずっと発音の良い先生方に習っていたので、中学校に入った時、英語の先生の発音にビックリした記憶があります。心に思うところが外に現れたのか、後で先生の一人に、「最初から態度の大きい生徒だった」と言われました。

高1の夏休みにカリフォルニアに行った時、自分の使える表現が実に少なく、もどかしさを覚えました。大学1年の時は、米国人の先生の英会話クラスを選択したのですが、そこでは帰国子女や留学経験者たちの英語に圧倒されました。流行のファッションに身を包み、自由にペラペラと英語をあやつる彼らの様子は、いつも冴えない格好をしていた私から見て、まばゆいばかりでした。小2から英語を習っているのに、会話が満足にできない自分が情けなく、今まで一体、何をして来たんだろうと思いました。

当時、注目されていた松本道弘さんの本を読み、英字新聞やタイムをとり、FEN(米軍のラジオ放送)を聞き始めました。しかし、一朝一夕に上達するわけがなく、いつかは留学したいと思いつつも、英語だけの授業についていく自信はありませんでした。後に函館の教会で訓練を受けた時も、一つだけ「できない」と言って奉仕を断ったことがありますが、それは、宣教師の礼拝メッセージ(説教)の通訳でした。

トラックの仕事をしていた時、運転中は文化放送も聞きましたが、FENを聞いていることが多かったように思います。ニュース以外は音楽番組が多く、マドンナやシンディー・ローパー、そしてU2などが、よくかかっていました。英語放送をガンガンかけて、都内を走り回っている配送のトラックは、あまりなかったかもしれません。最近は、「英語耳」とか言われますが、トラック内でも1年間、FENを聞き続けたことは、少しはリスニングの訓練になったのではないでしょうか。神様はどのような経験も、私たちの訓練のために用いて下さるようです。

「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命記8:5、新改訳第3版)

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2006年9月21日 (木)

バレーボール

中2から高3までは、部活でバレーボールをしました。小学校の頃は、「巨人の星」の影響で野球をやっていましたが、ミュンヘンオリンピックで男子バレーが金メダルをとってから、バレーボールをやってみたいと思っていました。松平康隆監督率いる日本男子チームを題材としたアニメドキュメント、「ミュンヘンへの道」という番組も見ました。ずいぶん、テレビに影響されやすかったですね。

中学の頃は、指導してくれる先生もなく、チームもバラバラで、一勝もしたことがありませんでした。不完全燃焼だった私は、高校に入ってもバレーを続けることにしました。高校のバレー部は、顧問の先生も熱心であり、また何年か前に全道2位となって、全国大会に行った時の先輩たちが時折、指導に来ていました。

本当はアタッカーになりたかったのですが、身長が足りず、セッターをすることになりました。しかし、他の高校のセッターたちのようには、なかなか良いトスを上げられません。本業のトスまわしではなく、ブロックやレシーブで好プレーをしたことしか覚えていないので、やはり出来の良くないセッターだったのでしょう。

高3の高体連、最後の試合では、肉体的、精神的な疲れから、集中力を切らしていました。すでに受験勉強を始めていたので、そちらの気がかりもあったのです。以前は負けることのなかった相手に敗北し、札幌市で4位となり、全道大会に進めませんでした。悔しがるチームメイトの姿が目に焼きつき、その後は挫折感が残りました。

大学でバレーをしなかったのは、時間を自由に使って、本をたくさん読みたかったという理由もありましたが、この挫折感が大きかったと思います。ネットがさらに高くなるため、体力的にも自信がありませんでした。しかし、高校のバレー部で毎日毎日、体を鍛えたことは、トラックの仕事をする上で、確かに役に立ったようです。実際、重い荷物を手積み手降ろしする日々は、体力的にも結構、ハードでした。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28、新改訳第3版)

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2006年9月20日 (水)

配送

トラックの配送(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_0284.html)は、運動量が多いのはもちろん、実にストレスの多い仕事でした。朝、所沢から練馬までホンダの原付で走り、そこから2トン車(三菱キャンター)に乗って、東品川の配送センターに向かいます。積荷はインテリア材で、カーテン、壁紙、カーペット、タイル等を、その配送センターから都内各地の問屋さんに運びました。

配送センターでは、自分が走るルートの伝票の束をもらい、その伝票に記された品物を集めて、トラックに積み込みます。伝票通りに間違えないようにし、積む時は、品物を下ろす順番を考えつつ、すべての商品を荷崩れしないように積み込まなければならないので、これは結構、気を遣う作業でした。

すべて積み終わると、出発します。午前便と午後便の2回の配達があり、すべて配り終わった後、練馬の会社に戻りました。問屋さんは、注文された商品をお客さんに持っていくため、配達を待っています。少しでも遅れたり、配達し間違ったりすると、すぐ文句を言われます。こちらは20代の「あんちゃん」、相手はだいたい海千山千の営業マンですから、そこでもずいぶん気を遣いましたね。

朝と帰りは一般道のみ、配達の時は首都高も走りましたが、いつも時間との戦いです。教えてもらった裏道をぬうように走って、なんとか間に合わせようとするのですが、時には積むべき商品がなかなか見つからなかったり、思わぬ所で渋滞していたりします。そしてもちろん、他の車やオートバイ、自転車、そして歩行者の動きに細心の注意を払いつつ、運転しなければなりません。ストレスがたまるのも、当然でした。

それでも、配送の仕事は結構、好きになりました。この仕事を通して、トラックを運転する人たちの気持ちや生活の様子が、少し分かったような気がします。以前、ある電器メーカーの工場や販売店で、「体験学習」をしたことがありましたが、トラックの仕事で、また少し幅が広がったかもしれません。私に、この仕事を勧めてくれた「先輩」も、どうやらそういう狙いがあったようでした。

「人の歩みは主(神)によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」(詩篇37:23、新改訳第3版)

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2006年9月19日 (火)

パラダイム・シフト

中学生の息子は、この夏、「相対性理論」についてレポートを書き、自由研究として学校に提出しました。テレビのCMに出ていた「e=mc²」という方程式について、いろいろ質問されたので、「それを自由研究にしてみたら?」と提案したのです。私も大学の頃は、関心のあるテーマで、かつてはいろいろ本(入門書ですが)を読んだこともありました。

大学のクラスで、一番インパクトがあったのは、1年の哲学の授業です。理科系の学生向けに、この先生は、自然科学における「パラダイム・シフト」のお話をされました。パラダイムというのは、科学研究の土台となる大きな枠組みのことで、その枠組みが根本から変わってしまうのが、「パラダイム・シフト」です。「科学革命」とも、呼ばれるそうです。17世紀に、天動説から地動説に変わったのがパラダイム・シフトであり、また20世紀に、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論に「進化」したのも、そうだというお話でした。

何よりも衝撃的だったのは、またいつでもこのパラダイム・シフトは起きる可能性があり、科学理論はすべて、土台とするパラダイムの枠内の「仮説」にすぎない、という点でした。最近は、「99.9%は仮説」という本が売れていたようですが、30年近い前の当時は、そんな話は、まったく初めて聞く内容でした。「科学法則は絶対」と思い込み、理科系の学科に進学しようかと当初、考えていた私は、それこそ自分の「パラダイム」が揺り動かされるような衝撃を受けたのです。

「世界は人間中心ではなく、創造主なる神様を中心として動いている。ただ意味もなく、偶然に宇宙が誕生したのではなく、すべては神様の計画の下、詳細な設計図に基づいて組み立てられた」と考えるのも、大きなパラダイム・シフトです。大学1年の哲学のクラスが、創造主なる神様への信仰の準備になったとすると、これも本当に不思議なめぐり合わせでした。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書3:11、新改訳第3版)

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2006年9月18日 (月)

愛を目標とする(Ⅰテモテ1章)

うちの教会では、土曜夜と日曜朝に、礼拝をしています。(ちなみに、カトリック教会では「ミサ」と言いますが、プロテスタント教会では、「礼拝」と呼びます。)礼拝では、賛美の後、メッセージ(説教)と呼ばれる聖書のお話があります。昨日のメッセージでは、新約聖書の「テモテへの第一の手紙1章」を開きました。

テモテというのは、英語では「Timothy」(ティモシー)、略すと「Tim」(ティム)で、結構ポピュラーな名前です。「神の国の福音」をローマ帝国各地に伝えた使徒パウロが、自分の子どものように可愛がった弟子が、テモテでした。エペソ(エフェソス)という町の教会で牧師をするテモテに対して、パウロが書き送った手紙が、2通、新約聖書の中に入っています。

テモテ第一の手紙1章では、イエス・キリストが与えた「命令」は、愛を目標としていることを教えています。エペソの議論好きな人たちは、この目標を見失い、意味のない論争に明け暮れているようでした。無益な議論の勝敗を競うことより、どんな人のことも愛して下さっている、神様の素晴らしい愛を伝える方がずっと重要です。エペソの人々に、そのように勧めなさい、とパウロは、テモテに語っているのです。

私たちの日々の生活は、愛を目標としているでしょうか。意味のない比較や競い合いをして、優越感や劣等感の奴隷となっていないでしょうか。神様は、どのような人であっても、愛して下さっています。そして、その愛を、互いに表す生き方をしてほしいと願っておられます。神様の愛を目標として、歩んでいきましょう。

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(Ⅰテモテ1:5、新改訳第3版)

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2006年9月16日 (土)

10年くらい前から、ブライダルチャペルの結婚式をお手伝いしています。以前は、新郎新婦とあまり変わらない思いで司式をしていたのですが、最近は、花嫁の父の気持ちを少し、考えるようになりました。うちの娘が、そろそろ「お年頃」になってきたせいでしょうか。

式の前に、「結婚とは、神様の前で結ぶ契約です。いつまでも愛し続けることが、その契約の内容なのです」と説明します。式の中では、聖書から、「夫は、命をかけて妻を愛すること」、「妻は夫を、家庭におけるリーダーとして敬い、従うこと」を教えます。真剣な表情で聞いている人、ニコニコと嬉しそうにしている人、感極まって泣いている人、反応はさまざまです。

誓約の場面では、「喜びの時も悲しみの時も、健やかな時にも病める時にも、富む時にも貧しい時にも」愛し続けることを、互いに誓います。この言葉が、本当に守られていったら、今の日本で見聞きする多くの問題が解決するのではないか、と思います。結婚するお二人が、誓約の言葉をいつまでも忘れずに、守っていけるよう、心からお祈りします。

最近、読んだ本の中で、夫が病気になった時、「健康な時も病気の時も」という結婚式のフレーズを思い出した、と書いている奥様がいました。夫婦が互いに愛し、受け入れ合い、その愛の中で子どもたちが成長していくような家庭が増えていけば、子どもたちやさらにその次の世代もまた、愛に満ちた家庭を築いていくことができます。その時、日本の社会は、ずいぶん変わって行くのではないでしょうか。

「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリント13:7-8、新改訳第3版)

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2006年9月15日 (金)

トラック

87年春、函館の牧師が埼玉県所沢市に転勤し、そこで教会を開拓することになりました。私は、新たにできる教会の方が実地訓練の場が広がり、学ぶところが多いだろうと考え、ついていくことにしました。「丁稚生活」(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_609e.html)は結局、1年半ほどで終了となりました。

夏に結婚する予定でしたので、急いで仕事と住居を探す必要がありました。最初は学習塾の講師をしようかと思っていたのですが、日曜朝の礼拝や水曜夜の集会に、出席できなくなりそうでした。それだと、せっかく「実地訓練」のために、所沢に来た意味がなくなってしまいます。

その時、一緒に所沢の教会堂に居候していた「先輩」が、素晴らしいアドバイス(!)をくれたのです。「シゲキ、オメェ、トラックの運ちゃんやってみたら? オメェがトラックの運ちゃんやったら、絶対おもしれぇぞ。」(この人、ちょっと「こち亀」の両さんの雰囲気があります。)そこで、就職情報誌にあたり、東京・練馬の小さなトラック会社に面接に行きました。

社長さんは、私の履歴書を見るなり、「うちで、いいの?」と驚いていました。都内を中心としたルート配送で、日曜は休みだったし、夜はあまり遅くならないし、条件はちょうど良かったので、「はい、お願いします。」と答えました。

その後、アパートを借りに行くと、不動産屋さんがかけた電話の向こうで、大家さんが渋っている様子でした。大家さんが持つ「トラックの運転手」のイメージが、良くなかったようです。不動産屋さんは、私を見て笑いながら、「良さそうな人ですよ」と電話で説得してくれました。

こうして、再び首都圏に戻り、開拓教会のボランティア・スタッフとして、訓練を受けることになったのです。神様が、そのすべての動きを、導いておられました。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主(神)である。」(箴言16:9、新改訳第3版)

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2006年9月14日 (木)

奉仕者

函館の教会堂に住み込んで(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_609e.html)、一番印象に残っているのは、ただ黙々と無償で働く、無数の奉仕者たちの姿です。

私が引っ越してきたのはクリスマス前でしたが、仕事帰りに来て、夜遅くまで、クリスマスの飾り付けを作成している人がいました。ある看護師の女性は毎週、非番の時に、会堂のトイレ掃除をしに来ました。教会学校(日曜学校)のクラスは、幼稚科から成人科まで、たくさんありましたが、ほとんどのクラスを支えていたのは、ボランティアの若い先生たちでした。

彼らの仕える姿を見て、私も同じように、いや彼ら以上に「仕える者」になるべきだと実感しました。それまで、「禅寺では、一番偉い人がトイレ掃除をするんだ」とか、「ある会社の社長さんは、自ら率先して、素手で会社のトイレを掃除する」とかいう話は、耳にしていました。しかし、教会に来てみると、仕える模範を示している人たちは、その辺にいくらでもいました。

後に会社勤めを少ししましたが、「ピラミッド型組織を逆さにして、一番上のお客様に仕える企業にすべきだ」とか、「指導者は、サーバント・リーダー(仕える指導者)であるべきだ」などといった考えが、世間に注目されるのを目にしてきました。でも、教会の奉仕者たちを知る私にとっては、何も目新しい話ではありませんでした。彼らはただ、イエス・キリストの模範に従って、愛をもって仕えていたのです。

「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22:26、新改訳第3版)

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2006年9月13日 (水)

マイムマイム

聖書を読んでいると、面白い発見をすることがよくあります。何年か前、マイムマイムというフォークダンスの曲が、旧約聖書のことばを歌っていることを発見しました。98年にイスラエル旅行をしたのですが、その時に教えてもらったのかもしれません。ユダヤ人クリスチャン(メシアニック・ジューと呼ばれます)の賛美曲を収録したCDを旅行中に購入しましたが、この中にも、マイムマイムが入っていました。

もともとの歌詞は、”Uv-sha’avtem mayim besason Mima’anei ha-yeshua”(ウシァヴテム マーイム ベサソーン ミマィネィハ イェシュア) というものです。これは、紀元前700年代に生きた、イザヤという預言者によることばで、「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(イザヤ12:3、新改訳第3版)という意味になります。「マイム」は「水」、「ベサソーン」は、「喜びながら」という意味です。

荒野で水を汲む喜びを歌っており、泉を囲んで踊る振り付けになっているようです。ホロコースト後の1948年、イスラエルが建国された時に踊られたようですが、この中の「救い」という語(イェシュア)は、実は、イエスという名前の由来になっています。つまり、イエス・キリストによる救いを預言したことばの一つであると、理解することができるのです。

イザヤ書12章のすぐ後には、「主(神)をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。」(イザヤ12:5、新改訳第3版)とあり、世界中にこの喜びの「良い知らせ」(福音)を伝えなさいと命じられています。救いの喜びを歌った曲なので、日本語版を作り、子どもたちによるクリスマス降誕劇の終わりにも、何回か踊ってもらいました。 「喜びくもうよ 救いの泉 みんなで飲もうよ イエスの水を マイムマイム…」という歌詞です。

紀元前1000年頃、イスラエルの王ダビデは、人々の前で、喜びを踊りによって表現しました。現代の礼拝でも、賛美とともに踊る人たちが出てきています。体全体で喜びを表すことは、旧約聖書の時代から、神の民の中に受け継がれてきた伝統なのです。

「踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。」(詩篇149:3、新改訳第3版)

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2006年9月12日 (火)

歌うことは、子どもの頃から好きでした。祖父が天売島で長い間、診療所の医師をしていましたが、幼稚園に上がる前、訪ねたことがあります。オープンリールのテープレコーダーに、小さな私が歌う「高校三年生」を録音してくれました。

ピアノを習っている時は、まったく練習して来ない私に、先生が愛想をつかしたのか、発声練習ばかりしていました。少年野球で鍛えた大きな声と、大きな態度(?)が目立ったのか、学校では先生によく立たされたり、叩かれたりしていました。当時は結構、ビンタもありましたね。クールファイブの「そして神戸」とか、ちあきなおみの「喝采」のモノマネをよくしました。

中学でギターを始めた時(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_20e3.html)に友人たちと演奏したのは、かぐや姫の「22歳の別れ」、「妹」、「なごり雪」という曲でした。かの有名な「神田川」は、アルペジオで弾きやすかったのですが、残念ながら、もう文化祭の時に他のグループに歌われていました。

高校はバレーボール一色で、音楽も選択で取らなかったため、あまり歌うことはありませんでしたが、大学に行ってからは、カラオケにはまりました。「氷雨(ひさめ)」とか「昴(すばる)」とかを、よく歌ったように記憶していますが、当時は悲しみの曲が多く、数多く歌うと、歌った私も悲しい気持ちになりました。河島英五の「酒と泪と男と女」なんてのも、歌いましたね。

函館に来てからは、礼拝で歌うワーシップソング以外に、バンドのボーカルとして、教会や近くの喫茶店で開かれるコンサートで歌うようになりました。人生の悲しみではなく、神様に生かされている喜びを歌えるようになったのは、大きな変化でした。最近は、「音楽療法」というのがあると聞きますが、喜びを歌を通して表現することにより、私の心も喜びで満たされるようになったのです。

「 さあ、主に向かって、喜び歌おう。

われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、

賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」(詩篇 95:1-2、新改訳第3版)

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2006年9月11日 (月)

丁稚

洗礼を受けて3ヶ月の後、東京に戻っていた私は、函館の教会に電話をかけました。「神学校に行こうと思っている」と私が言うと、牧師は、「まだ教会のことはあまり知らないだろうから、函館にしばらく移り住んで、実際の働きを経験してみてはどうか」と勧めてくれました。

古い教会堂の2階、集会兼用の一室をあてがわれた私は、丁稚(でっち)のような住み込み生活を始めます。クリスマス準備が進みつつある、11月のことでした。一応、教会スタッフ見習いのような扱いでしたが、無給でしたので、家庭教師の口を紹介してもらいました。

聖書知識も初心者レベル、教会の仕事もほとんど知らない私が、最初にできたことは、掃除と洗車、それに雪かきと「おつかい」くらいでした。ほとんど未知の世界だということすら理解せず、そこにいきなり飛び込んだ結果、それまで25年間教わってきたこと、特に大学やその後の「塾」(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_376d.html)で学んだこと、積み重ねてきたことが、すべてゼロになったように感じました。かつて、「君たちは、日本の将来を背負って立つ指導者になるんだ」と、さんざん持ち上げられていたのが、もう遠い昔の色あせた夢のようでした。

しかし、振り返ってみれば、私にとってこの「丁稚生活」は、たいへん貴重な体験になりました。朝から晩まで、教会堂にどんな人たちが訪れ、教会は毎日、どのように動いているのか、手に取るように分かりました。いったん「ゼロ」になり、リセットされた私は、真新しいスポンジのように、まわりからすべてを吸収していくことができたのです。

「イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マタイ16:24 新改訳第3版)

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2006年9月 9日 (土)

両親

確か秋頃、25歳の誕生日前後だったと思います。札幌に住む両親に、牧師になる決心を伝えに行きました。洗礼を受けた時は、「あ、そう」程度の反応だったのですが、今度は、たいへん険悪な雰囲気でした。

「どうしてそう思ったのか」、「世の中のことが嫌になったのか」、「東京になんか、行かせない方が良かった」と、いろいろ言われました。宗教とほとんど関わりのないサラリーマン家庭を築いてきた両親にとっては、「牧師になること」イコール「世捨て人になること」のように思えたのかもしれません。

しかし、私の決心が固いことを見て取った父は、最後には、「お前の人生なんだから、好きなように生きたら良い」と許してくれました。それから1年半の後、両親は、そろって札幌の教会で洗礼を受けることになります。母は私に、「『老いては子に従え』だからね」と言って、笑っていました。

母は今も健在ですが、父は5年前、ガンで亡くなりました。逆らってばかりいる悪い息子で、ほとんど親孝行などできませんでしたが、クリスチャンになって天国に送り出すことだけはできて、本当に良かったと感謝しました。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31、新改訳第3版)

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2006年9月 8日 (金)

のがれの地

函館に来た頃は、街中で、タンポポがたくさん咲いていました。砂利道があり、空き地があり、のんびりしていて、いい町だと思いました。子どもの頃過ごした、オリンピック前の札幌のようでした。アパートの大家さんに自転車を借り、あちこち走り回りました。まる6年、首都圏の喧騒の中で暮らした私にとって、ホッとできる街並みだったのです。

函館を「玄関」としてきた北海道は、歴史上、「のがれの地」(避難所)としての役割を担ってきました。「函館」(もとは「箱館」)という名称は、15世紀に津軽から逃れてきた安東氏の家来、河野政通という武士が、函館山の中腹に箱型の館を築いたことが発端だそうです。17世紀のキリシタン弾圧の時は、多くのカトリック信者たちが、「蝦夷地」に渡ってきました。1639年には、106名の切支丹が、江戸幕府の命を受けた松前藩の手により、千軒岳で処刑されています。

ペリー来航後、開港された函館は、外国人船員たちが寄港し、休みをとり、時には「外人墓地」に葬られる人もいました。宣教師たちが次々と来て、後に函館のシンボルとなる「ハリストス正教会」も建設されました。西洋式の「とりで」を築く必要を感じた幕府は、五稜郭を建設。本州での戦いに敗退し、落ち延びてきた土方歳三ら旧幕府勢力がここに拠点を築き、明治新政府軍と最後の戦い(箱館戦争)をしたことは、よく知られています。

明治維新後は、主として旧幕府側の武士たちが、屯田兵として移り住んで来ました。函館郊外の七飯には、西洋式近代農業を取り入れるため、農業試験場が作られました。札幌に新設された農学校(北大の前身)で、クラーク博士の指導を受けた若者たちも、その多くは、新しい知識を吸収して身を立てるしかない、旧幕府方の没落士族の子たちだったようです。そう言えば、今でも「北海道に飛ばされる」という表現を、耳にしたりしますね。

札幌生まれ、札幌育ちの「道産子」である私にとっても、函館は、「のがれの地」でした。ここで私は、神様こそが駆け込むべき「避難所」であることを知り、神ご自身の「とりで」の中で、しばらくの間、安息と訓練の時を持つことになります。

「しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。」(詩篇59:16、新改訳第3版)

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2006年9月 7日 (木)

フォースクエア

私が洗礼を受けた教会は、フォースクエアという教団に属していました。日本では、キリスト教会のことは、一般にあまりよく知られていなく、ましてや「フォースクエア教会」と言っても、「なんじゃそれ?」という人が多いと思いますので、簡単に説明します。

キリスト教会(初代教会)が誕生したのは、キリストの復活と昇天直後の紀元1世紀のことですが、その後、迫害と殉教を通して、ローマ帝国内に多くの教会が生み出され、4世紀には、とうとう帝国の国教となりました。5世紀には、唐代の中国にも宣教がなされたそうです。

その後、11世紀にローマ・カトリック教会と東方正教会が袂(たもと)を分かち、16世紀にはプロテスタント諸教会が生まれます。この頃、来日したフランシスコ・ザビエルは、カトリックの修道士(イエズス会)でしたね。

プロテスタント諸教会の一つとして成立した英国国教会の中から、18世紀、規則正しい生活方法を重視するメソジスト運動が誕生し、19世紀には、さらにその中から「きよめ」を強調するホーリネス運動が生まれてきました。そして20世紀の初頭、この流れの中から、初代教会の時と同様に、今も聖霊なる神様が働かれると信じる、ペンテコステ運動が始まります。ロサンゼルスで始まったリバイバル(信仰復興運動)は、今からちょうど100年前、1906年のことでした。

ペンテコステ・リバイバルの奉仕者の一人、エイミー・センプル・マクファーソンという女性伝道者は、宣教をさらに進めていくため、1927年、フォースクエア教団を設立します。フォースクエアというのは、イエス・キリストが「救い主」、「いやし主」、「聖霊のバプテスマの与え主」、「来たるべき王」であるという、4つのポイントを強調した教え(四重の福音)を意味していました。

日本でフォースクエアの宣教が始まったのは1950年で、今は北海道から沖縄まで、38教会が設立されています。世界全体で見ると2006年現在、147カ国に5万以上のフォースクエア教会があるそうです。世界人口60億人のうち、20億人はクリスチャンだそうですから、イエス・キリストが生み出された教会は、大きく成長しましたね。イエス様は、2000年の時を超え、今なお信じる人とともにいて下さり、その歩みを愛をもって支えて下さいます。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8、新改訳第3版)

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2006年9月 6日 (水)

行ってみた教会は、若い人が多く、たいへん活気がありました。礼拝は、聖歌・賛美歌ではなく、ワーシップソングと呼ばれる現代風の新しい曲を、30分以上、元気にみんなで歌っていました。歌詞をOHPで映し出し、伴奏にはエレクトーン、ピアノ、ギター、ベース、ドラム、そしてフルートがつきました。賛美と献金の後、牧師による聖書の話が、40~50分ほどありました。昔あった「うたごえ喫茶」というのは、こんな感じだったのだろうかと、馬鹿な想像をしていました。

何回か礼拝に出席し、聖書の勉強会にも参加した後のことです。函館の街中にいた時、神様からの語りかけを感じました。「洗礼を受けて、わたしのことばを語りなさい。」そう言われたのです。将来の道を探し続けていた私は、すぐにそれが、「牧師になりなさい」という意味なのだと理解しました。

最初に語りかけを受けた頃(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_c2d1.html)から、しばらくの間は、天地創造の神様と、イエス・キリストとの関係が分かりませんでした。しかし、一人で聖書を読み続けた結果、函館に来た頃には、イエス・キリストが神の子・救い主であり、私たちと父なる神様との関係を回復させて下さる唯一の「道」であることを、知るようになっていました。

土曜日に教会に行って牧師と話をし、翌日すぐ、洗礼を受けることになりました。通常は「洗礼準備会」に何回か出席しなければならないので、これはかなり例外的だったようです。いきなり「語りかけがあった」とか、「牧師になりたい」などと言っても、本気にしてもらえないだろうと思ったので、それは黙っていました。

洗礼を受ける日曜日の朝、国際交流団体のスタッフの一人に電話をして、「洗礼を受けることになった」と言うと、「その教会、大丈夫なの?」と聞かれました。「大丈夫じゃなかったら、出ればいいよ」と答えたのを覚えています。今から考えれば、カルト団体でなくて良かったです。洗礼式を見に来てくれた彼女とは、その2年後、結婚することになりました。

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6、新改訳第3版)

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2006年9月 5日 (火)

年貢の納め時

85年の5月、函館に来ました。友人から紹介してもらった、ある国際交流団体の調査という名目でした。夏に大きなイベントがあるため、一度、見に来ないか、と当時の事務局長の方にお誘いをいただいたのです。

その時その団体は、ある会社の古い独身寮の一部を事務所として使用しており、数名の職員以外は、みなボランティアで手伝いに来ていました。

ある日、30代くらいの男性の方が、ボランティアとして来られました。どんな仕事をしているのかと聞くと、教会の「伝道師」だと言うのです。私は、それを聞いた瞬間、これが「年貢の納め時」だと思いました。

神様の存在を信じるようになってから、一人で聖書は読んでいましたが、どこの教会にもつながっていませんでした。大学3年の頃の「使者」の人は大学卒業後、フランスに留学し、音信不通になっていました。

(その人については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_0660.html

なんとなくどの教会にも行きづらかった私に、神様は、もう一人の「使者」を遣わされたのです。自分の進むべき道を見出す糸口になりそうだと感じた私は、すぐに礼拝の時間と場所を聞きました。誘いもしなかったのに、「礼拝に行きます」といきなり私に言われたため、その伝道師の方は、少し驚いている様子でした。

もうそろそろ教会に行かなくてはならないと感じ始めていた、まさにその時、神様は絶妙なタイミングで、人との出会いを用意されたのです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」 (伝道者の書3:11、新改訳第3版)

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2006年9月 4日 (月)

ギター

ギターを始めたのは、中学3年の時です。きっかけは、秋の文化祭で他のクラスの人たちがバンドを組み、ステージの上で、ギターを弾いて歌ったことです。それを見た瞬間、「私もやりたい」と思いました。

親にねだってギターを買ってもらい、友だちをさそって4人のグループをつくり、受験勉強そっちのけで練習に励みました。その甲斐あって3月に、札幌市内の大きなホールで「3年生を送る会」が開催された時、そのステージで演奏することができたのです。結果は、テンポが合わなくて散々だったのですが、よい思い出になりました。

ところが高校に入った後、どうしても友人たちが弾くようにはギターを弾けないため、自分にはやはり才能がないと考え、すっかりやめてしまいました。実は小学校の頃、ピアノを習っていたのですが、全然練習しなかったため、ちっとも上手くならず、楽器に対して少し苦手意識を持っていたのです。「ギターもやっぱり駄目か」というのが、私の思いでした。

再び弾くようになったのは、クリスチャンになった後、賛美(ワーシップソング)の伴奏が必要になった時のことです。もうそれから20年前後になりますが、今も礼拝でギターを弾き続けているのは、不思議としか言いようがありません。

何年たっても才能がないのか、あるいは練習不足のせいか、ちっとも上手くならないため、「趣味はギター」などとは決して人に言えません。でもきっと、少々下手くそであっても自分にできることをして、それで人の役に立っていれば、神様はそのような姿を喜んで見ていて下さるのではないでしょうか。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第Ⅰペテロ4:10)

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2006年9月 2日 (土)

帰るべき家

幼稚園の頃から高校卒業まで住んでいた家は、道のつきあたりにありました。電車通りから住宅街を突き抜けているその道に入ると、3ブロックほど直線道路が続き、私の家が数百メートル先に見えました。明るい時はもちろん、暗くなった時も、窓の光を遠くから眺めることができました。雨の日も、雪の日も、その光を目指してまっすぐ進んでいけば、温かな家庭のだんらんが私を待っていたのです。もうその家は売却して、人手にわたっていますが、その帰るべき家のイメージは、今でも心の中に焼きついています。

私たちは、この人生を通して、どこに向かい、どこに帰ろうとしているのでしょうか。

同窓会に顔を出すと、一人二人と、すでに亡くなっている方がいることに気づきます。その方々が、どこでどのように亡くなられたかは知りません。しかし、人間、いつどうなるか分からないのだということを、名簿に記された「逝去」、「物故者」という言葉によって、再確認させられます。

神様は、私たちのため、「帰るべき家」を用意していて下さいます。イエス・キリストは、私たちをその「永遠の家」に招待するために、この世に来られました。誰でも、このお方を信じる人は、「天の家」が自分のまっすぐ帰ることのできる住まいとして、与えられるのです。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2、新改訳第3版)

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2006年9月 1日 (金)

大学卒業後の進路をどうしようか悩んでいた時、父が新聞の切り抜きを送ってきました。その数年前に創設された、政治家を中心とする将来の指導者養成を目的とした、「私塾」の募集広告でした。ある伝説的な起業家-経営者が、日本の将来を憂慮し、ポケットマネー70億円(!)を投じて作ったというものです。

私は、正直なところ政治家になりたいわけではなかったし、あまりにもかけ離れた話のような気もしました。後で父に確かめたところ、父も、私に政治家になってほしかったということではなかったようです。でも、なぜか神様がそこに導かれているように感じたため、入塾試験を受けてみることにしました。

3次試験の面接で、その伝説的な経営者に会いました。もう80歳代後半だったはずですが、眼光鋭く私を直視し、この人に嘘はつけないと思いました。将来の希望をあいまいに話すと、一言、「志を持たな、あかん」と言われました。

実に不思議な神様の計画により、この「塾」でしばらくお世話になることになりましたが、それから2年あまりの間、「志」を求めて、悩みぬくことになります。天地創造の神様のため、そして価値観が崩壊しつつある日本のため、自分は一体、何をしていったら良いのか、それがなかなか分かりませんでした。そして、それが分かった時、私はその天才的な経営者の学び舎を巣立つことになったのです。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13、新改訳第3版)

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