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2006年10月23日 (月)

敬虔な生き方を求める(Iテモテ6章)

Flower061022 昨日の礼拝のテーマは、「敬虔な生き方」です。「敬虔なクリスチャン」という表現は、熱心なキリスト教信者という意味で、よく耳にします。しかし、私の知りうる限り、クリスチャンの間ではあまり使われる言葉ではなく、クリスチャン以外の人が、信者の人を指して言うことが多いようです。どうしてでしょうか。私の想像では、おそらく、イエス・キリストを実際に信じる人にとっては、「敬虔」という言葉は、たいへん重い言葉であり、自分たちは決してそのレベルには達していない、という意識が働くからだと思われます。

「敬虔」とは、辞典には、「うやまいつつしむこと。特に、神に深く帰依してうやまいつかえること」とあります。英語では、「godliness」と言い、「神のおきて(意志)に従順な、神を敬う、信心深いこと」という意味になります。もともとは、「god」+「ly」から派生している言葉ですから、「神のようだ」という意味も含まれます。聖書的には、「イエス・キリストが父なる神を敬い、仕え、従ったように生きていくこと」と言ってよいでしょう。これはそう、容易なことではありません。

敬虔には、満ち足りる心が伴うとも書かれています。私たちは、足りないことばかり目につきがちで、すぐに不満をもらします。しかし、必要なものは、神様がすべて備えて下さると約束して下さっており、その約束を信じる人は、すでに与えられていることを感謝して生きることができるはずです。敬虔は、神様に近づく生き方であり、永遠のいのちにつながる道でもあります。

パウロは「愛する子」テモテに、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とも勧めています。運動選手が毎日、トレーニングを欠かさないように、神の子どもたちは、毎日、霊的な訓練を重ね、イエス様の姿に少しでも近づくことができるよう、祈り求めていくことが大切です。ただ人間の努力だけで、近づくわけではありません。神様の方向を向いて生きていく人を、神様は少しずつ変えて下さり、その人格を整えて下さるとも約束されています。「敬虔な生き方」は、神様から与えられる恵みでもあるのでしょう。

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」(Iテモテ6:6-8、新改訳第3版)

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