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2006年10月

2006年10月31日 (火)

学習発表会

先週金曜日は、小学校の学習発表会を見に行きました。5年生の発表は、自分勝手でわがままな男の子が、その欠点に気づき、反省するというテーマを、オムニバス形式の劇で表現していました。小5の次女は、劇には登場せず、BGMの音楽隊でピアノを弾きました。朝からヘアスタイルと服装に気をつかい、出かけていきましたが、観客席に対して、ずっと後向きに座っていたので、表情は見えません。ただ、練習どおりに大きなミスもせず、弾きこなすことができたようで、親としてはホッとしました。

オムニバスには、七夕の織姫・彦星、桃太郎と花咲か爺さん、浦島太郎、宇宙探検隊、ターザンと、いろいろな人たちが出てきましたが、最後の話は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」でした。日本人なら誰もが知っていると言っていいような、有名な短編ですが、クリスチャンになって再びそのストーリーにふれると、考えさせられるところが多々あります。

聖書によれば、地獄に落ち、手遅れになる前、この世を生きる一人ひとりにイエス・キリストという、天国へ通じる「糸」がたらされています。その糸による救いを信じ、自らの手でつかみさえすれば、自分で必死に登らなくても、神様が天国に引き上げて下さるのです。(自力で登るのは、不可能です。)それは、大勢の人がしがみつくと、切れてしまいそうな弱々しい糸ではなく、世界中の人がつかまっても決して切れない、丈夫な「命綱」です。他の人をけ落とす必要はまったくなく、すべての人がつかまるようにと、「神の糸」なるイエス・キリストは呼びかけておられます。

芥川龍之介は、聖書にふれたことがあったようですが、残念ながら、この「糸」を手にすることがなかったのか、35歳の若さで自殺してしまいました。最近は、痛ましい自殺のニュースが続きます。人々が「神の糸」のことを知り、しっかりとその手で握ってほしいと願ってやみません。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Iテモテ2:5、新改訳第3版)

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2006年10月30日 (月)

神の賜物を燃え立たせる(IIテモテ1章)

Flower061029 昨日の礼拝からは、テモテへの第二の手紙に入りました。イエス・キリストこそが旧約聖書に約束されている救い主であり、父なる神、聖霊なる神とともに天地万物の創造主であり、すべてを治めておられる天の王である、と信じ、宣べ伝えることは、大きなコストを伴いました。今なお世界各地で続く、キリスト教会迫害と殉教の歴史が、パウロやテモテの時代、すでに始まっていたのです。パウロがこの手紙を書いたのは、ローマ皇帝ネロの下、牢獄の中に捕えられ、自分の死が迫っていることを感じている時でした。「第二の手紙」は、ローマ帝国各地に福音を伝えてきた使徒パウロが、「愛する子」テモテに書き送った遺書と言っても良いでしょう。

パウロがテモテに先ず言いたかったのは、神様がテモテに与えて下さった人生の目的を忘れず、熱き思いをもって、自らの使命を果たしていきなさいということでした。神様は、人それぞれに異なった才能や力、「賜物」を与えておられますが、それらはすべて、十分に生かしきることが期待されています。私たちの多くは、いつも「燃えている」わけではなく、時には「さめている」ような状態、「ぬるま湯」のような状態の時もあります。もちろん、静まって休息する期間も必要ですが、ずっとそのままで良いわけではありません。与えられた「賜物」を燃え立たせ、本来の目的のため、十分に生かしていくことが大切なのです。

「福音=よい知らせ」をただ伝えていた人が捕えられ、殺されるという状況に置かれると、他のクリスチャンたちは、大きな選択を強いられます。いのちをかけて大胆に、信じることを語り続けるのか、それとも社会的な圧力に屈して、信仰を捨ててしまうのか、という選択です。日本にも、そのような時代がありました。江戸初期には、踏み絵を踏まなかった多くの人たちが殺されました。また第二次大戦中には、国家神道を拒否し、「非国民」扱いされた人たちが捕えられ、死に至るケースもあったのです。当時、「国家神道は宗教ではないから、全国民がその儀礼に参加すべきだ」と強要されたようで、これは、昭和初期の急速な右傾化の記憶が風化しつつある今、決して忘れてはならない歴史的事実です。

「何のために、神様がいのちを与えて下さり、今、生かされているのか、もう一度思い起こしなさい。」迫害の中、死を間近にしたパウロは、弟子テモテに対して、そう書き送ったのです。私たちも、それぞれ与えられた人生の目的と使命を、見失わずにいきたいと思います。

「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」(IIテモテ1:6、新改訳第3版)

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2006年10月27日 (金)

祝福

北海道日本ハムファイターズが、日本シリーズを制し、とうとう日本一になりました! 選手と関係者の皆様、そして、私を含めて応援していたファンの皆様、おめでとうございます。北海道に生まれ育った道産子としては、冬のハンデがある野球というスポーツで、北海道から強いチームが生まれるなんて、かつては全く考えられませんでした。2年前に駒大苫小牧が甲子園で優勝し、日ハムがプレーオフに進出した時も、「シンジラレナーイ」と思いましたが、今年の日ハム優勝も、本当に「シンジラレナイ」ような出来事です。

昨日の試合は、感動的でした。今シーズン限りで引退を表明している新庄選手が、試合終了前からずっと涙を流し続け、周りももらい泣きし、優勝インタビューのアナウンサーまで涙声でした。監督批判でプレーオフに出れなかった金村投手が謝罪して復帰し、みごとに勝利を飾った一昨日の試合後のインタビューも感動的でした。人々の記憶に残る、素晴らしい試合を見せてくれたことを感謝しています。

トレイ・ヒルマン監督は、クリスチャンだそうです。こちら(http://www.heartlanders.org/candycane/japanese/testimony.html)のPCサイトに、その証しの言葉が掲載されています。2年前の11月のファン感謝デーには、キリストの愛を伝えようと、キャンディーケインを配ったそうです。キャンディーケインは、今はクリスマスの飾り物のようになっていますが、もともとは米国インディアナ州の飴屋さんが、救い主イエスを伝えようと作ったもののようです。羊飼いの杖の形は、イエス様が良い羊飼いであることを示し、逆さにするとジーザスの「J」になります。白い色は、イエス様の聖さを、赤い色は、十字架で流された血潮を表しているそうです。

優勝インタビューの中で、ヒルマン監督は、「このような選手たちの指揮ができたことは、祝福(blessing)でした」と語っています。「祝福」という言葉は、一般になじみが薄いせいか、日本語には通訳されていませんでした。祝福とは、神様が愛をもって与えて下さるプレゼントと言って良いでしょう。4万人の大観衆とテレビを見ていた多くの人々の前で、ヒルマン監督は、すばらしい恵みを与えて下さった神様に、感謝をささげていたのかもしれません。

「忠実な人は多くの祝福を得る。」(箴言28:20、新改訳第3版)

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2006年10月26日 (木)

テレビ出演

小・中学校の同期生の一人が、私のテレビ出演のことを覚えていました。もう私と母以外、覚えている人はないだろうと思っていたので、少々驚きました。小6の時だと思いますが、フジテレビの「小川宏ショー」に出演させていただいたのです。1965年から17年間放映された朝のワイドショーで、今で言うと、「とくダネ!」の時間帯になります。(小倉智昭さんも一時、小川宏ショーのレポーターをされたそうです。)その友人によると、学校で皆で見たので、覚えているとのことでした。

確か、「子ども金曜編集室」というコーナーで、3、4回の出演だったと思います。通常は、大人たちが、「金曜編集室」というコーナーで、時事問題について議論したようですが、その年の夏休みは、全国から5名ほどの子どもたちが集められました。札幌、東京、名古屋、大阪、沖縄の子たちだったような気がします。(沖縄は、復帰直後だったのでしょうね。)私のいた小学校からも一人、候補者を出してほしい、という要請があったようで、札幌からは何故か、時事問題にうとい私が参加することになりました。

東京に行くのも、飛行機に乗るのもまったく初めてで、たいへん楽しかったです。当時のジェット機は、よど号ハイジャック事件に巻き込まれたボーイング727とか、ダグラスDC-8とかが飛んでいました。今よりずっと音がうるさく、時々、酔いそうなくらい揺れました。羽田空港はまだ狭く、汚れていて、国際線もすべて集まっていたので、人波でごった返していました。モノレールにはもちろんエアコンなどなく、開け放った窓からは、川の水の嫌な臭いが漂ってきました。「公害」が大きくクローズアップされた時期でもありました。

番組の中で何を話したのか、まったく覚えていませんが、ただ、最終回のテーマだけは、記憶に残っています。「驕(おご)るなかれ、『大国日本』」というタイトルでした。小学生にとっては難しいテーマで、どういう意味か最初、よく分からなかったので、特に印象に残ったのだと思います。当時は高度成長を経て、まだオイルショック前でしたから、日本もずいぶん調子が良かったのでしょう。しかし、30年以上たった今でも十分通用する、時事性の高いテーマのように思えます。神様も、驕り高ぶりを嫌われると、聖書にも記されています。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Iペテロ5:5、新改訳第3版)

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2006年10月25日 (水)

プチ同期会

今年は、昔の友人たちによく会う年で、月曜日も、中学時代の同期生たちに会いました。場所は、東京・新橋のガード下です。久しぶりに顔を見て、昔話に花を咲かせ、また、最近の悩み事などにも話が及びました。中学を卒業して、まさか30年後に連絡を取り合って再会し、当時は一度も話をしたことがない人とも、長年の友人のように会話がはずむというのは、まるで想像もできなかった体験です。

東京という大都市は、田舎暮らしの私の目から見て、いつも、「どうしてこんなにたくさん人がいるんだろう」と思うくらい、人間で溢れかえっています。大学進学のため、たった一人で上京した時には、大勢の群集の中、孤独感がありました。どこに行っても、知らない人ばかり。電車が到着するたびに、次から次へと数え切れないほどの人たちが降りてきて、その中に誰も知った人がいない、というのは、何だか不思議な情景でした。

見知らぬ人ばかりの雑踏の中、親しい友に出会うのは、砂漠の中にオアシスを見出すようです。何年ぶりに出会っても、昔と変わらぬ語り口と笑顔、そして以前と同じような行動パターンで、ちょっとホッとした気分になり、渇いた心がいやされます。いつも人を笑わせる人がいて、ちょっと気取った人がいて、せっせとお世話をする人がいて、物静かで遠慮がちの人がいます。「神様は、多様性を好まれる」と言った人がいますが、個性豊かな一人ひとりを、造り主なる神様は、深く深く愛して下さっているのだと思います。

孤独感と戦い抜いた私が、たどりついた結論は、「互いに愛し、愛される共同体をつくりたい」という強い願いでした。神様の愛を土台として、先ず愛に満ちた家庭を形成し、さらに「拡大家族」であるキリストの教会を建て上げるという作業を、20年ほど続けています。函館、所沢、ロサンゼルス、七飯と活動の拠点を移してきましたが、今年は札幌や東京、そしてサイバースペースにも、少しずつコミュニティが広がりつつあるようです。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19、新改訳第3版)

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2006年10月24日 (火)

吹奏楽

日曜日の午後は、中学校の吹奏楽部・定期演奏会に行って来ました。中1の息子が出演するためです。定期演奏会は、長女の時以来、3年ぶりになります。長女はフルートで、3年の時には部長もつとめましたが、息子はユーフォニアム(小さなチューバ?)を吹き始めたばかりです。フルートは前の方に座るため、観客席から見やすかったのですが、ユーフォニアムは80名以上いる部員の真ん中あたりなので、妻と二人で3階席まで行き、ズームを駆使してビデオを撮りました。

私は、部活はずっと体育会系であり、楽器も得意ではなく、さらには父と違ってオーケストラ演奏等もあまり聞かなかったため、吹奏楽にはまるで関心がありませんでした。高校の時は、放課後、屋上か音楽室方面から、金管楽器の練習らしき音が聞こえていたことだけは覚えています。大学の時は、友人が応援部でトロンボーンを吹いていたので、確か、演奏会を聴きに行ったような気もします。しかし、私はどちらかというと、屋内の演奏会よりも、神宮球場で野球部を応援する方が好きでした。

中学校の吹奏楽部と関わるようになり、たいへん感銘を受けたのは、顧問の先生や部員たちの頑張りはもちろんですが、親たちが実によくお手伝いをしているということです。妻も日曜日は朝、弁当を作り、礼拝後は昼からお手伝いにかり出され、演奏会の受付から慰労会の雑用までこなし、息子と二人で帰ってきたのは、夜9時頃でした。他にもさまざまな演奏会やコンクールがあり、これが3年間続きます。親もよく頑張って応援していると思います。

私たちの人生を見守って下さっている神様も、同じように私たちのことを、応援して下さっているに違いありません。天使たちも、もうすでに天国に入れられている人たちも、私たちのことを見守ってくれているのではないでしょうか。たくさんの応援に力づけられ、地上における人生を、しっかりと完走していきたいと思います。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1、新改訳第3版)

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2006年10月23日 (月)

敬虔な生き方を求める(Iテモテ6章)

Flower061022 昨日の礼拝のテーマは、「敬虔な生き方」です。「敬虔なクリスチャン」という表現は、熱心なキリスト教信者という意味で、よく耳にします。しかし、私の知りうる限り、クリスチャンの間ではあまり使われる言葉ではなく、クリスチャン以外の人が、信者の人を指して言うことが多いようです。どうしてでしょうか。私の想像では、おそらく、イエス・キリストを実際に信じる人にとっては、「敬虔」という言葉は、たいへん重い言葉であり、自分たちは決してそのレベルには達していない、という意識が働くからだと思われます。

「敬虔」とは、辞典には、「うやまいつつしむこと。特に、神に深く帰依してうやまいつかえること」とあります。英語では、「godliness」と言い、「神のおきて(意志)に従順な、神を敬う、信心深いこと」という意味になります。もともとは、「god」+「ly」から派生している言葉ですから、「神のようだ」という意味も含まれます。聖書的には、「イエス・キリストが父なる神を敬い、仕え、従ったように生きていくこと」と言ってよいでしょう。これはそう、容易なことではありません。

敬虔には、満ち足りる心が伴うとも書かれています。私たちは、足りないことばかり目につきがちで、すぐに不満をもらします。しかし、必要なものは、神様がすべて備えて下さると約束して下さっており、その約束を信じる人は、すでに与えられていることを感謝して生きることができるはずです。敬虔は、神様に近づく生き方であり、永遠のいのちにつながる道でもあります。

パウロは「愛する子」テモテに、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とも勧めています。運動選手が毎日、トレーニングを欠かさないように、神の子どもたちは、毎日、霊的な訓練を重ね、イエス様の姿に少しでも近づくことができるよう、祈り求めていくことが大切です。ただ人間の努力だけで、近づくわけではありません。神様の方向を向いて生きていく人を、神様は少しずつ変えて下さり、その人格を整えて下さるとも約束されています。「敬虔な生き方」は、神様から与えられる恵みでもあるのでしょう。

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」(Iテモテ6:6-8、新改訳第3版)

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2006年10月20日 (金)

パソコン

80年代後半の書類作成は、「書院」や「文豪」等のワープロ専用機全盛時代でした。私のいたメーカーでは、当時、パソコンはもっぱら製造、販売、収支等の数値管理のみで、それ以外の文書は、ワープロ専用機で作成されました。専用機の方が、格段に見栄えのよい書類を作成できたからです。私の仕事上、パソコンはせいぜい、「日経テレコン」とか「帝国データバンク」等の情報を利用するため、時々、使ったくらいです。

パソコンに初めてさわったのは、確かその数年前、「塾」にいた時でした。(「塾」については、こちらhttp://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_376d.html

その頃、ある表計算ソフトがたいへん使いやすいということで、大ヒットとなり、一世を風靡(ふうび)した新進のパソコン・メーカーがありました。塾でもそのパソコンを購入し、私も名簿作りか何かで、利用させてもらったのです。

せっかくだから、塾生が社長さんにお話も伺いたいということで、講師として来ていただきました。当時、その企業の業績は絶好調でしたから、話にも勢いがあります。しかし、「私は、財閥を作りたい」と言われた時には、少々驚きました。「何のために財閥を作るのだろうか」、「だれがそれを応援するのだろうか」、「そんなことは、うまくいくだろうか」といろいろ考えましたが、特に質問もせず、黙っていました。

「栄枯盛衰は世の習い」と言います。「その会社は、どこまで成長するだろうか」、「本当に財閥を作れるだろうか」と、個人的に注目していました。すると残念なことに、表計算ソフトの次のヒットが生まれません。業績は次第に落ち込み、どうにもならない状況に追い込まれたようで、ついには旧財閥系の大手企業に吸収合併されてしまったのです。

「社長さんはどうしただろう」と思っていたら、その同じ企業で働くようになったという雑誌の記事を見つけました。写真を見る限り、塾でお会いした時よりは、穏やかで、すっきりとした表情をされているように見えたことを覚えています。

「富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。」(箴言23:4-5、新改訳第3版)

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2006年10月19日 (木)

作文

メーカーに転職して、しばらくは挨拶まわりだとか、工場見学だとか、実習だとか、歓迎会だとか、お決まりのコースを通過しました。専門用語なども多く、覚えることは、たくさんありました。一通りの「通過儀礼」を経て本社に戻った時、与えられた当面の仕事は、「作文」でした。私のいた部署の主要な仕事の一つは、経営情報の収集、整理、提供であり、各自が与えられたテーマについて報告書を作成し、月報にまとめたのです。

男性3名(後に4名)、女性1名という布陣で、部専用のデスクトップワープロが一台しかありません。最初は私も他の人と同様、手書きで原稿を作成し、タイピング担当の女性にワープロ打ちをお願いしました。しかし、その女性もオーバーワーク気味で、新入りで残業もせずに帰る私の原稿打ちは、あまり嬉しそうではありません。そこで、私専用に、ラップトップタイプのワープロを購入してもらいました。

当時はまだ、液晶画面が1行からせいぜい数行くらいのものが多かったのですが、これでは文章は書けません。シャープの「書院」シリーズで、やっと10行くらい表示してくれるワープロを販売し始めたので、それを購入しました。確か、黄色っぽい画面で、もちろん単色です。それでも自分専用の機械で、順番待ちも気兼ねもなく、文章を打ち込めるのは、たいへん快適でした。ローマ字入力すれば、慣れているタイピングには何の問題もありませんでした。

ただ一つ、問題は、私は小学生の頃から、作文が苦手だったということです。何をどのように書いていいのか、まるで分からなかったからです。神様は不思議なことをなさるもので、今の私のメインの仕事には、原稿書きと、もう一つ苦手意識のあった楽器演奏(伴奏)が含まれています。強みではなく、弱みが用いられるとは、人生、何が起きるか分かりません。会社での仕事も、きっと神様が与えられた、文章書きの訓練だったのでしょう。

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(IIコリント12:9、新改訳第3版)

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2006年10月18日 (水)

タイプライター

小4の時だと思います。父がある日、タイプライターを買ってきました。仕事でコンピュータを使うため、キーボード入力の練習用だったようです。(父の専門は、最近いろいろと問題になった、建築物の構造計算でした。)無料講習券が4枚ついていましたが、父には行く時間がないため、「お前、行くか?」と聞かれました。新品のタイプライターに興味津々だった私は、面白そうだったので、行くと即答したのです。

一人でバスに乗り、札幌・大通にあったビル内の講習会場を訪れました。秘書か、その予備軍と思える「お姉さんたち」が何人もいて、私の持って行ったシンプルな手動タイプではなく、サイズも音もずっと大きな電動タイプライターを、軽快にバチバチと打ち続けています。「場違いな所に来てしまった」と思いつつも、4回分の講習券がもったいない気がしたので、タイピングの練習に通いました。

最初は、キーの位置を覚えるため、アルファベットの文字を一つずつ、打っていったと思います。少し慣れると、講師からローマ字書きの日本語原稿を渡され、この通り打ってみなさいと言われました。手動タイプを子どもの手で打つと、特に小指と薬指に力が入らず、文字の濃さにかなりのムラができました。お姉さんたちの機関銃のようなタイプ音の中、私の音だけがのんびりと、「パチリ、パチリ」と鳴っていました。

当時は何の役に立つか、まったく分からないようなタイピング練習でしたが、大学で、レポート作成のために電動タイプを打つようになった時は、指がキーの位置を覚えていました。その後、パソコンを動かすようになった時も、キーボード入力には、まったく苦労しませんでした。たった4回の無料講習が、ずいぶんと役に立ったものです。自分の子どもたちにもタイピングソフトを購入し、小学生のうちから、ブラインドタッチの練習をさせています。

「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(伝道者の書11:6、新改訳第3版)

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2006年10月17日 (火)

サラリーマン

実は私は、子どもの頃から、サラリーマンにはなるまいと思っていました。父は大手企業のサラリーマンだったのですが、どうも人間関係でずいぶん苦労したらしく、少なくとも私が小さかった頃は、子どもの目から見て、決して幸せそうに見えなかったからです。

祖父は僻地の診療所で医師をしていましたが、父は医者にはならず、大学院卒業後、札幌に本社のある会社に就職しました。結核で大きな手術をしたため、修士課程に6年もかかってしまい、その上、就職した当時は、学卒扱いだったようです。社宅に入れず、建売住宅を購入しましたが、ローン返済のため、家でアルバイトをしていました。一級建築士の資格があったので、図面引きです。部屋にはT定規だとか、計算尺だとか、小学生にとっては面白そうなものが置いてあったので、父の留守中、時々いたずらしに行きました。

平日は仕事とアルバイト、土日は接待ゴルフ、それ以外は碁を打ちにいったり、一人でクラシック音楽を聞いたりで、いわゆる「家族サービス」の記憶は、あまり残っていません。囲碁やゴルフのテレビ番組を、一人でごろ寝しながら見ている後姿は、なんとなく悲しげな雰囲気が漂っていました。会社生活が終盤近くなった頃に、やっと努力が報われたらしいですが、そこに至るまでは長年、サラリーマン生活の悲哀を味わったようです。

「とうとうサラリーマンになってしまった」というのが、私がメーカーに転職した時の正直な気持ちでした。数年後には留学したいという私の思いを両親は知っていたはずですが、それでも私の転職を喜んでくれたようです。トラックの仕事よりは、安定感があるように見えたのでしょう。心配ばかりかけている息子も、時には親に喜んでもらえるものです。

「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」(箴言23:25、新改訳第3版)

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2006年10月16日 (月)

愛する家族を形成する(Iテモテ5章)

Flr061015 昨日の礼拝のテーマは、「愛する家族を形成する」ことでした。 聖書が語る教会とは、特定の場所や建物ではなく、イエス・キリストを信じ、「神の家族」とされた人々のことを言います。「家族」ですから、さまざまな年齢層の人たちが集まります。神様の不思議なご計画により、一つの家族として結び合わされ、互いに愛し、受け入れ合う関係を築く、世代を超えた共同体、それが教会なのです。

愛とは、自由意志に基づくものです。強制や洗脳によって生まれた関係は、支配であり、愛ではありません。神様は人間を、自由意志をもった存在として、創造されました。それは、神様が人間を愛して下さっているのと同じように、人間も、自らの自由意志に基づいて神様を愛し、また人間同士、互いに愛し合うことができるようにという目的があったからです。

愛する関係を築くため、教会では互いにどのように接するべきか、大切なキーワードは、「勧める」、そして「敬う」という二つの言葉でした。指導をする人は、人を支配したり、操作するのではなく、聖書に基づいた「勧めのことば」を語ります。そして指導される側の人は、指導者に敬意を払い、語られた内容が本当に聖書に基づいているかどうかを吟味しつつ、勧めのことばを受け入れます。そこにあるのは、支配・被支配の関係ではなく、自由意志に基づいた愛の関係なのです。

「神の家族」としての教会は、決して強制や洗脳といった方法によって、形作られるのではありません。愛を土台とした勧めのことばが語られること、そしてそれを自由意志に基づいて受け入れていくことにより、形成されていくのです。

「年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。」(Iテモテ5:1-2、新改訳第3版)

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2006年10月13日 (金)

転職(2)

東京・大手町の本社に面接に行くと、人事部長の方にずいぶん、問い詰められました。将来は牧師になるつもりなのか、教会の集会が優先なのか、2、3年で留学予定というのは本当か、などと、厳しい質問が続きます。前回の面接官の人とは、まるで様子が違うと思いつつ、嘘をつくわけにもいきませんでしたので、すべて正直に答えました。

結構、緊張感のある固い雰囲気だったので、ここも駄目かな、と思って帰りました。すると、また電話があり、今度は役員面接をすると言います。以前、「塾」(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_376d.html)の試験を受けた時は、3回面接がありましたから、少しは慣れていましたが、面接の度ごとにトラックの仕事を休まなければならないのは、ちょっと困りました。「日給月給」と言って、休んだ日数の給与はもらえませんでしたから、休めば休んだだけ家計に響いたのです。普段は原付で出かけ、作業着を着ているのに、面接の日だけはスーツとネクタイを身に着け、徒歩で駅に向かうギャップは、自分でも何だか笑えました。

役員の方からは、どこか子会社に行ってもらいましょう、と言われ、結局、日本橋に本社があるメーカーに就職が決まりました。新しくできた「総合企画部」の部長さんが、有り難いことに、私のことをほしいと言ってくれたようです。そちらでも役員面接がありましたから、某スポーツ団体の時を含めると、計4日の休みになってしまいました。決まってくれて、本当に良かったです。

バブルの頃とはいえ、27歳にしてビジネスのことも、その会社の製品や業界のこともよく知らず、水曜は教会の集会があるため、必ず定時に帰ると言い、しかも2、3年で辞めると宣言している私を、よく採用してくれたと思います。神様の恵みと、私を採って下さった方々に、感謝しています。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33、新改訳第3版)

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2006年10月12日 (木)

転職(1)

トラックの仕事を始めて1年近くたった頃、妻から転職を考えてほしいと言われました。妻はその時、妊娠していましたが、赤ちゃんが生まれたら、今のままの給与では生活していけないと言うのです。運送会社の社長さんは、いろいろと気を遣ってくれましたが、定時に帰ってくるルート配送の仕事では、どうしても足りないところがありました。私は、日曜祝日が休みで、夜があまり遅くならず、しかも給与が今よりもアップする仕事なんか、あるだろうかと思いましたが、とりあえず、就職情報誌を買って研究することにしました。

実は私は、2、3年の後、米国の神学校に留学することを願っていたため、長年、同じ会社に勤め続ける気持ちはありませんでした。たいへん条件の良い会社を一つ、見つけたのですが、その会社に行けば、ずっと働き続けることが期待されそうな様子です。黙っていれば採用してくれる感じでしたが、それでは誠実さを欠き、いきなり辞めれば、ずいぶん迷惑をかけるだろうと思いました。正直に留学への思いを伝えたところ、相手側も採用は無理だと思ったようで、たいへん残念がっていました。私も、残念でした。

次に、あるスポーツ団体の試験を受けに行きました。そのスポーツは私自身、あまりしたことがありませんでしたが、テレビで観戦するのは好きでしたし、神様がなぜか、そこに導いておられるように感じました。筆記試験の後、面接で話を聞くと、一年の3分の2の日曜日は、何らかの大会の事務局として仕事があると言います。私も「日曜休み」だけは譲れませんでしたから、「駄目ですね」ということで、面接官と意見が一致しました。しかし、面接官の一人が、何やら「別な機会」があるような、思わせぶりな口調だったため、どういう意味だろう、と不思議に思いながら家に帰りました。

1週間後の夜、その面接官から電話がかかってきました。「実は私は、ある会社から出向で、この団体に来ているのだが、出向元の会社の方で中途採用をしているので、受けてみないか」と言うのです。断る理由もないので、とにかく面接を受けてみることにしました。(つづく)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7、新改訳第3版)

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2006年10月11日 (水)

悪夢

その時、私はトラックを運転していました。東京都心部、汐留付近の大きな交差点にさしかかるところです。普通に直進していると、突然、右側からセダン型の乗用車がすぐ目の前、ほとんどぶつかりそうなタイミングで、無理に割り込んできました。私は急ブレーキを踏み、思わず大きな声で叫んでしまいました。

「バカヤロー!」

声の大きさに自分自身驚き、次に見たものが、交差点と混み合う車ではなく、真っ暗なアパートの天井だったことに、もっと驚きました。夢だったのです。隣に寝ていた妻は、大きな声に飛び起きて、「どうしたの?」と聞いてきました。まだ結婚して数ヶ月しか経っていなかったため、「夫には、自分の知らない別な人格があるのではないか」と思ったそうです。将来は牧師になると宣言し、教会スタッフとして中心的に奉仕している身としては、何とも気恥ずかしい思いがしました。

子どもの頃は覚えていませんが、大人になってからは、妻を含め、人前ではもちろん、トラックを一人で転がしている時でさえも、「バカヤロー」と言った記憶がありません。なぜ、この言葉が急に出てきたのか、私にはよく分かりませんでした。確かにその頃、ストレスがかなりたまってはいましたが、おそらくはっきりしているのは、たとえ口に出さなくても、心の中で同じような思いを抱いていたに違いないということです。

人が心に思うこと、それが言葉や行動となって、外に表されます。私たちの言動が神様に喜ばれるものとなるには、まずその心が、神様にきよめられていかなければなりません。

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ6:45、新改訳第3版)

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2006年10月10日 (火)

若きドライバーたち

2トン車の仕事(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_cf38.html)の仲間は、ほとんどが20代前半の若い男たちでした。積荷はインテリア材ですから、それほど汚れる仕事ではなく、問屋へのルート配送で日曜・祝日は休み、しかも普通免許で運転できるという条件だったため、ちょこちょこ新人が入ってきました。しかし、体力的にキツイところもあり、若い人でないと長続きしません。入れ替わりが激しく、1年も働くと、職場では先輩格になりました。最初はコラムシフトでハンドルの重い、古いトラックだったのが、後にはフロアシフト・パワステの新車になり、真新しい車のにおいをかぎながら、軽々とハンドル操作ができるようになった時は、嬉しかったです。

ドライバーたちは、とりあえずトラックをやっている人、ミュージシャン志望の人、副業の洗剤販売で稼いでいる人、ほとんどアル中の人、いろんな人がいました。まだ若いですから、互いに張り合う意識も強く、どれだけ正確に配達をこなし、要領よく、早く帰って来ることができるかで、毎日、競争のようになっていました。しかし、人間的にはほとんど裏表がなくストレートで、困った時には助け合う、気の良い仲間たちでした。

その中の中心人物だったのは、「富(トミ)ちゃん」です。いつもきれいに磨いてある、派手に飾りつけたトラックに乗り、運転は速く、勘と機転がきき、仕事にミスはなく、口は達者で、しかもケンカをすれば強そうでした。まだまだ若く、荒削りではありましたが、彼にはみんな、一目置いていました。私よりもおそらく年下でしたが、会社では先輩にあたり、いろいろ教わるところがありました。彼も、ちょっと変わった経歴を持つ私に対しては、気を遣ってくれているようでした。

富ちゃんは、バラバラになりそうなドライバーたちをまとめ、新人たちに仕事の要領を教え、自分でもその模範を示していました。職場の上司は他におり、富ちゃんは特に「肩書き」がついていたわけでもありませんでしたが、彼がいなければ、きっとドライバー同士の関係づくりが難しかったのではないかと思います。リーダーは、どうあるべきか、彼を通しても、考えさせられたところがあります。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3、新改訳第3版)

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2006年10月 9日 (月)

りっぱな奉仕者となる(Iテモテ4章)

昨日の礼拝のテーマは、「りっぱな奉仕者となること」でした。テモテへの手紙というのは、リーダーとして立てられたテモテに対して、その師パウロが書き送ったものですから、もちろん、テモテ自身がリーダーとして、何を心掛けていくべきかについて記されています。初代教会における偉大な指導者の一人、使徒パウロが語る「リーダーの心得」のキーワードは、「奉仕者」でした。

イエス・キリストは、十字架につかれる前日、「最後の晩餐」の直前に、弟子たちがあっと驚く行動をとられました。彼らの足を洗ったのです。それは本来、しもべのする仕事でした。何が起きているのかよく分からない弟子たちの足を洗い終わった後、主イエスはこう言われたのです。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:14、新改訳第3版)「使徒」と呼ばれ、これから教会の土台を築いていこうとする十二弟子に対し、キリストは、リーダーシップの模範を示されたのでした。

「1分間マネジャー」シリーズの著作で有名な行動科学者、ケン・ブランチャード氏は、キリストに学ぶ「サーバント・リーダーシップ(奉仕者としてのリーダーシップ)」についても、本を出版しています。日本語のタイトルは、「新・リーダーシップ教本」(生産性出版)というのですが、原著のタイトルは、「Leadership by the Book」というもので、そのまま訳すと、「聖書によるリーダーシップ」となります。「キリストというリーダーシップの天才」は、「サーバント・リーダーシップという抜本的に異なるやり方を生み出し、実践し、立証し、それによって、人間の歴史の道筋を変えたのである」と、ブランチャード氏は語っています。

パウロが若いテモテに伝授しようとしたのも、まさにこの奉仕者としての模範を人々に示すリーダーシップでした。そしてその原則は、変転極まりない現代社会、教会以外の諸分野においても、今なお通用する考え方のようです。

「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(Iテモテ4:12、 新改訳第3版)

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2006年10月 6日 (金)

祖父の死

私の親族で戦死した人の話は、あまり聞いた覚えがありません。身近な人で初めて亡くなったのは、祖父だったと思います。小学2年生の時でした。母方の祖父は、私が生まれた時、すでに亡くなっていましたが、父方の祖父には、ずいぶん可愛がってもらいました。祖父は道東・紋別の高等小学校卒というのが最終学歴だったようですが、軍隊で衛生兵になり、除隊後、樺太でX線技師になり、満州で医者になったそうです。(今なら、考えられませんね。)

私が小学校に上がる前は、道北・天売(てうり)島の診療所に勤務していました。絶滅危惧種になっているオロロン鳥(ウミガラス)などの海鳥が生息する美しい島ですが、「コトー先生」の島よりは、ずいぶん寒そうでした。その後、襟裳岬の近く、様似(さまに)町の診療所に移り、脳卒中で倒れました。まだ60代半ばだったようです。札幌にいた私は、ちょうど病み上がりで親戚にあずけられ、葬儀には連れて行ってもらえませんでした。

うちには墓も仏壇もありませんでしたので、法事のたびにお寺の地下にあった納骨堂を訪れました。夏の暑い日、お坊さんがお経をとなえる間、半ズボンで正座をして、あせもが痒かったことを覚えています。納骨堂に入ると、中はひんやりと涼しく、天然のクーラーが効いているようでした。位牌を見ながら、「おじいちゃんは、どこに行ってしまったのだろう」と思いました。

祖父の死は、「死後の世界」を意識する、一つのきっかけになったような気がします。法事に一緒に出席した叔父は後に62歳で、そして父はその後70歳で、天に召されました。二人とも、クリスチャンになっていましたので、天国で再会する希望があります。祖母は99歳でまだ健在ですが、夫と二人の息子に先立たれた時は、「佐藤家の男性は早死にだ」と何度も口にし、嘆いていました。それを目の前で聞いていた私と弟、いとこ、そして私の息子も、「佐藤家の男性」だったのですが…。その祖母も、その後、洗礼を受けることができました。神様の恵みを感謝します。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」(ヨハネ11:25 、新改訳第3版)

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2006年10月 5日 (木)

慰霊碑

太平洋戦争の「慰霊碑」は、これまでいくつか訪れたことがあります。パールハーバーのアリゾナ記念館では、海底に沈む戦艦アリゾナから今なお流れ出し、無念と悲しみを告げ知らせるかのように、水面に浮かび続けるオイルを見ました。海の中には、1000人以上の遺体が、そのまま沈んでいるそうです。私は、平和で静かな青空を見上げ、「その日曜日」の朝は、この空を爆弾や魚雷を搭載した日本の飛行機がうめつくしたのだろうかと、少し信じられないような気がしました。

かつて札幌で住んだ家の窓からは、藻岩山とロープウェイ、そして中腹にある白い「平和塔」がよく見えました。この平和塔の辺りは小学生の頃、私の遊び場で、夏は裏の方にある池にサンショウウオをとりに行き、冬はいつもスキーをしに行きました。小学校か中学校か忘れましたが、スキー学習もここでやった記憶があります。平和塔の中は、確かちらっとだけ覗いたことがありますが、この塔は、太平洋戦争の戦没者供養のため建てられたものでした。

数年前に沖縄に行った時には、ひめゆりの塔や平和祈念公園に案内してもらいました。終戦直前に日米がぶつかり、あの戦艦大和も海の藻くずとなった沖縄戦では、20万人以上の人が亡くなり、その数は当時の沖縄の人口の半数近くだったそうです。平和祈念公園では、多くの人が身を投じたという海に面した場所に、米兵を含め、当時の戦いで死亡した人たちの名前が、国籍にかかわらず、すべて石に刻まれています。私を案内して下さった牧師の親族の方も、そこに名前が残っていることを教えていただきました。

今年5月にワシントンDCを訪れた際には、スミソニアン博物館でゼロ戦やそのライバル「ワイルドキャット」(米国の艦上戦闘機)を見たほか、第2次大戦記念碑にも足を運びました。そこでは、戦闘が行われたパールハーバー、ミッドウェイ、硫黄島、沖縄などの地名が、噴水の周りに刻まれていました。「今、銃砲は静まり、大きな悲劇は終わった。…世界中が平和の静けさにつつまれている」というマッカーサー元帥の言葉が、その一角に記されていたのが、強く印象に残っています。

「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1、新改訳第3版)

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2006年10月 4日 (水)

パールハーバー

85年にハワイに行った時、パールハーバー(真珠湾)も見てきました。終戦で大陸から引き揚げてくる時、何もかも失ったという話を、母からよく聞かされていたため、第二次大戦のことは、小さな頃から関心がありました。小学5年の時には、太平洋戦争をテーマにした「決断」というアニメ・ドキュメンタリーがTV放送され、これも欠かさず見ました。真珠湾攻撃に参加した、ゼロ戦や空母赤城のプラモデルを作成したこともあります。

パールハーバーの現地に行って、一番印象に残っているのは、なんとなく冷たいように感じた観光船の米国人たちの視線と、船の中に置いてあった新聞の見出しです。当時は、パールハーバーに行く日本人は少なかったのか、船に同乗した日本人は、私たちのグループ3人だけでした。アジア系の人は他になく、会話はもちろん日本語でしたので、船の中で私たちは、たいへん目立っていました。

ハワイ現地時間1941年12月7日朝の出来事を、1面トップで報じた当時の米国紙には、大きな文字で、「Blasphemy」(神への冒涜)と書いてありました。その見出しを見た瞬間、「日本は、何と言うことをしてしまったのだ」と思いました。12月7日は日曜日であり、多くの人々が礼拝に行こうとしていた朝だったのです。その静かな朝に、宣戦布告なしの奇襲をかけることにより、日本は「神に敵対する悪者」として報道され、参戦をしぶっていた米国世論を一気に燃え立たせてしまったのでした。

この時、日本海軍の攻撃隊長だった淵田美津雄中佐は、戦後、イエス・キリストを救い主として受け入れ、米国に渡って、アメリカ人たちに平和の福音を宣べ伝えるようになります。そのきっかけになったのは、キリストの愛を伝えていた米国人との出会いでした。(PCの方、詳しくは、こちら「NL0112」をご覧下さい。)

憎しみは憎しみを生み出しますが、愛は愛を生みます。私たちは、覇権を争って互いに敵対する者ではなく、隣人への愛に基づいた「平和をつくる者」になっていきたいと思います。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9、新改訳第3版)

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2006年10月 3日 (火)

ラルフ・モア

ハワイに、有名な牧師が2人います。ラルフ・モアとウェイン・コデイロというお二方で、両方ともフォースクエアの牧師です。(「フォースクエア」という名より、彼らの教会名である「ホープチャペル」や「ニューホープ」の方が知られていると思いますが…。)所沢で開拓を始めた牧師は、函館にいた頃から、このうちの一人、ラルフ牧師の影響を受けていました。

私も85年、洗礼を受けてすぐハワイに行き、その教会を訪問したことがあります。ホープチャペル・カネオヘ(当時)は、学校の体育館を借りて、礼拝を行っていました。「教会は建物ではなく、人の集まりである。だから、お金をかけるなら建物ではなく、人材育成のためにかける」というのが、ラルフ牧師の考え方でした。

礼拝が始まると、ギターを弾く男性とボーカルの女性の若いコンビが、現代風の賛美をリードします。私はまだ、牧師に会っていなかったので、牧師はどこにいるのだろう、ときょろきょろ周りを眺めていました。賛美が終わったところで、アロハシャツにショートパンツの男性が、マイク片手に前に出て来ました。「お知らせ」でもするのかと思いきや、その人こそが、ラルフ本人だったのです。礼拝では必ずフォーマルウェアという、牧師の「固いイメージ」が打ち砕かれた瞬間でした。

ラルフ牧師は、人材育成について、独自の哲学を持っていました。牧師を育てるのは学校(神学校)ではない、というものです。「すべての生物は、同じ種類の生物を生み出す。犬は犬を生み、猫は猫を生む。神学校の教師は神学校の教師を生み、牧師は牧師を生む」というのが、彼の考えでした。つまり、師匠となる牧師が、将来の牧師候補生たちを、教会の実際的な働きを通して育てていくべきだ、と主張していたのです。最近は、メンタリングやコーチングが注目されるようになりましたが、ラルフ牧師は20年以上前からこれを実践し、神学校を持たずに、何百人という牧師たちを育てていきました。

87年に所沢の教会開拓を手伝い始めた時、私は、洗礼を受けて2年足らずでしたが、その後の数年間で実に多くのことを学びました。教会学校で中高生を教え、教会学校の校長として他の先生方をまとめ、日曜の礼拝では賛美の奉仕をし、土曜の礼拝では司会、通訳、そして月に1度、メッセージ(説教)までしました。バンドのボーカルとして他の教会に奉仕に行くこともあり、また、小グループのリーダーも経験しました。その他、月一度の特別集会やクリスマスのイベントを、スタッフの一人として取り仕切ることもありました。こうして数年後、神学校で学ぶ機会を得た時には、各教科が実践の中でどのように役立つのか、よく理解することができたのです。

「すぐ神学校に行くのではなく、まず教会の働きを経験した方が良い」という、かつての牧師の助言は、実に的を射ていたと言えます。

「忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。」(箴言19:20、新改訳第3版)

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2006年10月 2日 (月)

神の家を建て上げる(Iテモテ3章)

昨日の礼拝のお話は、テモテへの第1の手紙3章です。「愛する子」テモテへ手紙を書き送った使徒パウロは、テモテを遣わしたエペソの教会が、「神の家」としてどのように建て上げられていくか、たいへん気にかかっていました。特に重要だったのは、どんな人を教会のリーダーとして選んでいくか、という問題でした。教会は、誰にでも門戸が開かれていますが、誰でもリーダーになってよいかというと、そうではありません。どんな人がリーダーになるかにより、教会の性格と方向性が定まるからです。

米国の経営学者で、ビジネス・コンサルタントでもあるジム・コリンズ氏は、飛躍した企業に見られる特徴の一つに、「適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろす」ことがあると指摘しています。米国では、同氏の主張は営利企業だけでなく、教会を含む非営利組織でも、ずいぶん注目されてきたようです。どのような人に、リーダーとしての働きを担ってもらうのか、という課題は、営利・非営利に関わらず、すべての人の集まりにおいて、極めて重要なポイントなのです。

教会の「監督」である牧師に必要な条件として、パウロが最も強調しているのは、品性です。「教える能力」が条件のリストに登場するのは7番目であり、その前後に挙げられている条件はすべて、品性に関わる内容です。牧師とともに教会を支える「執事」の条件でも、品性が強調されています。それは、どうしてでしょうか。教会は、キリストの愛と人格を伝える役割を担っているからです。教会のリーダーが、品性に問題のある人だったら、キリストの品性を伝えることができません。

もちろん、完璧な人格を持った人は誰もいません。私自身、自分は牧師をやっていていいんだろうか、と思ったりもします。しかし、この箇所を通して、キリスト教会は神の家として何を目指すべきなのか、そのリーダーはどんな人であるべきなのかを、はっきりと知ることができます。神様の愛を伝える「家」を建て上げるため、さらにキリストの人格に近づいていきたいと願っています。

「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。」(Iテモテ3:2~4、新改訳第3版)

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