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2006年10月 6日 (金)

祖父の死

私の親族で戦死した人の話は、あまり聞いた覚えがありません。身近な人で初めて亡くなったのは、祖父だったと思います。小学2年生の時でした。母方の祖父は、私が生まれた時、すでに亡くなっていましたが、父方の祖父には、ずいぶん可愛がってもらいました。祖父は道東・紋別の高等小学校卒というのが最終学歴だったようですが、軍隊で衛生兵になり、除隊後、樺太でX線技師になり、満州で医者になったそうです。(今なら、考えられませんね。)

私が小学校に上がる前は、道北・天売(てうり)島の診療所に勤務していました。絶滅危惧種になっているオロロン鳥(ウミガラス)などの海鳥が生息する美しい島ですが、「コトー先生」の島よりは、ずいぶん寒そうでした。その後、襟裳岬の近く、様似(さまに)町の診療所に移り、脳卒中で倒れました。まだ60代半ばだったようです。札幌にいた私は、ちょうど病み上がりで親戚にあずけられ、葬儀には連れて行ってもらえませんでした。

うちには墓も仏壇もありませんでしたので、法事のたびにお寺の地下にあった納骨堂を訪れました。夏の暑い日、お坊さんがお経をとなえる間、半ズボンで正座をして、あせもが痒かったことを覚えています。納骨堂に入ると、中はひんやりと涼しく、天然のクーラーが効いているようでした。位牌を見ながら、「おじいちゃんは、どこに行ってしまったのだろう」と思いました。

祖父の死は、「死後の世界」を意識する、一つのきっかけになったような気がします。法事に一緒に出席した叔父は後に62歳で、そして父はその後70歳で、天に召されました。二人とも、クリスチャンになっていましたので、天国で再会する希望があります。祖母は99歳でまだ健在ですが、夫と二人の息子に先立たれた時は、「佐藤家の男性は早死にだ」と何度も口にし、嘆いていました。それを目の前で聞いていた私と弟、いとこ、そして私の息子も、「佐藤家の男性」だったのですが…。その祖母も、その後、洗礼を受けることができました。神様の恵みを感謝します。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」(ヨハネ11:25 、新改訳第3版)

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