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2006年11月

2006年11月30日 (木)

優先順位

妻が長女を連れ、所沢に戻ってくると、たいへん忙しい毎日となりました。私の担当は、長女を毎晩、お風呂に入れること、寝かしつけること、土曜日に公園に連れて行くことであり、日曜日はもちろん、毎週家族で礼拝に行きました。男性の方が手が大きいから、片手で赤ちゃんの両耳をふさぐことができると言われ、お風呂は私が入れることになりましたが、最初は、なかなか上手くいきません。一度、お湯の中に赤ん坊を落としてしまい、「死んでしまっただろうか」と一瞬、ひやりとしたこともありました。

長女はなかなか簡単に寝ない子で、寝かしつけるのには苦労しました。抱っこして、賛美の子守唄を歌いつつ、心地よく感じられるよう揺らしてあげるのですが、やっと寝たと思って、ふとんに移そうとすると、すぐに目を覚まします。妻が台所で、食事の後片付けをしている間、いやその後も、私は6畳の寝室で、ずっとBGM付きの揺りかご状態でした。

私は、牧師になろうと思った時から、家庭を大切にしなければならないと感じてきました。村上龍さんのベストセラー・「13歳のハローワーク」は、子どもたちに数多くの職業を紹介している本ですが、その中に、「神父・牧師」という項目があります。牧師になるには、他の「牧師の推薦を受け、プロテスタントの神学校で学んで牧師になるのが一般的」と書かれています。確かに私も、「どうしたら牧師になれるのですか?」と聞かれた場合には、同じように答えます。

しかし、聖書が語る牧師の条件は、第一に「自分が牧師になることは神様の計画である」という「召命感」であり、次には、その人自身の人格とその人格が家庭の中でどのように現れているか、なのです。どの学校で何を学んだか、というのは、重要なポイントではありません。優先順位は、第一に神様との関係、第二に家族との関係、第三に教会との関係、第四にその他の関係、ということになるでしょうか。

会社で残業する人たちの白い目を感じつつも、せっせと定時に退社し、家庭サービスに努めました。それは、聖書に書かれる牧師(監督)の条件を、なんとかしてクリアしたいと願っていたからに他なりません。

「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──」(Iテモテ3:2-5、新改訳第3版)

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2006年11月29日 (水)

第一子

最初に、妻から妊娠を告げられた時、ドラマのように、手放しで喜ぶことはできませんでした。私のとまどったような反応は、妻にとっては、ちょっと意外だったようです。私にはまだ、父親となる心の準備ができていませんでした。自分の父にはずいぶん反発してきた私でしたが、自ら父親になる番が来ると、責任の重さをずっしりと感じ、良い父親になれるかどうか、まったく自信がなかったのです。

つわりがひどくなかったことは感謝でしたが、7ヶ月目くらいに、お腹の子が順調に育っていないと言われた時には、たいへん困りました。自分ではどうすることもできず、ただ祈るしかありません。栄養状態を改善するため、かかりつけの病院に入院したところ、あまり環境がよくなかったので、妻は早めに、函館の実家に帰ることにしました。

88年の初夏、友人の結婚式に出席したある土曜日、式から帰ってくると、所沢のアパートに電話が入りました。「今日、生まれました」という、義母からの連絡です。予定日までまだ3週間あったため、突然の誕生にびっくりしました。その日、検診を受けると、胎児がいつもより元気だったので、急遽、帝王切開で生まれさせたと言うのです。思ったより早く、いきなり父親になってしまいました。

すぐに休暇をとって、函館に飛びました。妻は、立派な個室にいて、食事もよいようなので安心しましたが、長女は別な大きな病院の未熟児病棟に入院していました。無菌室のような部屋に入ると、インキュベーター(保育器)の中に、「箱入り娘」が寝かされていました。2253g、43cmと小さく、鼻には母乳を供給するためのチューブが挿入されていました。あまりに弱々しく見えたため、この子は元気に育つだろうか、と心配になりました。

早いもので、その子も今は、高校3年生です。母親よりも背が高く、ティーンエイジャーらしく、元気いっぱいです。親として一生懸命ではありましたが、初めての子は試行錯誤が多く、良い父親であったかどうか、よく分かりません。ただ、神様が愛をもって、ここまで育てて下さったことを感謝しています。

「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:4、新改訳第3版)

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2006年11月28日 (火)

ドラッカー

「経営学の父」と呼ばれる、ピーター・F・ドラッカーの著作を読み始めたのは、88年に会社勤めをするようになった時だったと思います。所沢から池袋に出て、山手線外回りで神田まで行きましたが、往復3時間の通勤時間は、たっぷり読書をすることができました。ドラッカーの著作に関心を持ったのは、聖書的に考えると、企業とは一体、何であって、何をすべきなのか、自分なりに答えを出したいと思っていたからです。

「企業=営利組織ではなく、企業の目的は、顧客を創造することである」とするドラッカーの見解は、たいへん印象的でした。「会社は、利益を上げるために存在する」というのが、私の周りの人々の「常識」だったからです。企業は、人々が求めているものを見出し、それを満足させるために存在していると考えると、それは広い意味での社会貢献活動ととらえられ、松下幸之助の「企業は公器である」という主張にもつながります。聖書から見ると、それは「人の必要に仕える」行為なのだと理解することができました。

ピーター・ドラッカーはクリスチャンで、信仰と教会への関心が、経営学研究の道につながったようです。13歳の時、宗教のクラスを教えていた牧師が、「君たちは、どのような人として人々に記憶されたいか」と聞いたそうです。「今、答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」とも言われました。同級生たちは、60年ぶりの同窓会を開いた時、皆、その言葉を覚えており、その言葉で人生が変わったと言ったそうです。

ドラッカーは、昨年11月、95歳で天に召されました。若くして神様と出会い、その信仰をベースとして数多くの著作を発表し、その革新的な経営思想は、世界中に大きな影響を及ぼしてきました。「どんな人として、人々に記憶されたいか。」ドラッカーは、晩年に至っても、これを自ら問い続けたそうです。私たちも、神様から与えられている天命を全うし、有終の美を飾った人として、人々の記憶に残りたいですね。

「 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、…自分の務めを十分に果たしなさい。」(IIテモテ4:5 、新改訳第3版)

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2006年11月27日 (月)

天命を成就する(IIテモテ4章)

Flower061126 昨日の礼拝は、「天命を成就する」ことが、そのテーマでした。テモテへあてた遺言とも言える、この第二の手紙の最後にあたって、パウロは何を、愛弟子に伝えたかったのでしょうか。それは、神様が、テモテの人生に与えて下さっている使命――天命――を全うしていきなさい、ということでした。

私たち一人ひとりの人生は、神様が永遠の昔から、祝福の計画を用意して下さっています。ところが人間は、祝福の源泉である神様から離れ、本来、用意されている最も幸いな道、神様とともに歩む生き方を見失ってしまいました。創造主なる神様から離れた生き方をすること、これが罪と呼ばれます。

神様と私たちの間に存在する大きな溝に、橋を架けて下さったのが、イエス・キリストです。私たちの罪の身代わりとして十字架について下さり、神様の赦しが与えられる、新たな道を開いて下さいました。イエス・キリストを信じる者は、神様が永遠に祝福して下さると、約束されています。

テモテの使命は、パウロの働きを引き継いで、この「良い知らせ」を伝えていくことでした。神様から与えられている務めを十分に果たし、人生の最期に至るまで、人々の模範となってほしい、有終の美を飾るような生き方をしてほしい、とパウロは願っていました。それは、パウロ自身が求め続けた生き方でもあったのです。そのような「天命を成就する」生き方をする人には誰でも、神様が「義の栄冠」を授けて下さる、と記されています。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(IIテモテ4:7-8、新改訳第3版)

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2006年11月24日 (金)

クラーク博士

内村鑑三、新渡戸稲造、ときたので、ここで「少年よ、大志を抱け」で有名な、クラーク博士についても、ふれておきましょう。ウィリアム・スミス・クラーク博士は、1826年、米国マサチューセッツ生まれ。アマースト大学教授、南北戦争における北軍少佐(のち大佐)の後、マサチューセッツ農科大学学長に就任します。専門は、園芸学、植物学、鉱物学で、アマースト大学時代には、留学中の新島襄とも会っているようです。

欧米の近代的農業を導入したいと考える、日本政府の熱心な招聘により、1876年、札幌農学校の教頭(実質上の校長)として来日します。休暇を利用した、たった8ヶ月間の札幌滞在であり、一期生にしか直接、教えなかったにもかかわらず、今なお語り継がれるほどの大きな影響を残していきました。「Boys, be ambitious」は、馬上からの別れ際、学生たちに告げた最後の言葉だったそうです。

クラーク博士は、ピューリタンの精神を受け継ぐ、ニューイングランドの農村で育ちました。先祖は、メイフラワー号の舵手だったようです。大学2年の時に経験した劇的な回心が、後に札幌農学校の学生たちに福音を伝える土台となったのでしょう。実際、アジアの小さな島国を訪れた時、彼は、学者であると同時に、宣教師としての大きな使命を担っていることを意識していました。

北海道開拓使長官・黒田清隆(のち第二代内閣総理大臣)から、学生たちに道徳教育を施すことを依頼されると、道徳教育には聖書が不可欠だと主張します。黒田清隆は、キリスト教解禁前の1872年、函館のハリストス正教会信徒を「国禁を犯した罪」で逮捕した、張本人でした。(ちなみに、この事件が欧米に知れ、問題視されたことが発端で、翌年、キリスト教は解禁になります。)その黒田の反対を押し切って、クラーク博士は、熱心に学生たちに聖書を教え続けました。

クラーク博士が辺境の途上国・日本に遣わされ、その弟子たちが「札幌バンド」と呼ばれ、日本プロテスタント宣教初期の一つの源流となり、その中から内村鑑三、新渡戸稲造らが出ることは、神様の永遠の計画の中にあったことなのでしょう。博士は、神様の呼びかけに応答し、太平洋を渡り、国境を越えて初めて訪れた国の若者たちを愛し、神様の愛を伝えるという使命を果たしました。それはちょうど、旧約聖書の預言者イザヤが、神様の召命に応えた次のことばに、共通するところがあります。

「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」(イザヤ6:8、新改訳第3版)

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2006年11月23日 (木)

新渡戸稲造

内村鑑三と札幌農学校で同期だったのが、新渡戸稲造です。新渡戸稲造は、1862年、南部藩士の三男として、岩手県盛岡市に生まれました。札幌農学校の二期生として、内村らとともに、ハリス宣教師から洗礼を授けられています。東京帝国大学(今の東京大学)進学後、渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学で学びつつ、クエーカー派の集会に集うようになりました。

クエーカー派というのは、17世紀にイギリスで始まったキリスト教会の一派で、信者一人ひとりの心のうちに住まわれる神様(「内なる光」)の語りかけに、静かに耳を傾けることを重視するグループです。礼拝に決まった形がなく、誰かが語りだすまで沈黙が保たれることが多いようです。ジョージ・フォックスがその創始者で、キリスト友会、フレンド会などとも呼ばれています。新渡戸は、その集まりで、メリー・エルキントンと出会い、後に結婚することになります。

新渡戸の名前が国際的に知られるようになるのは、英文の著書「武士道」によってでした。カリフォルニアで病気療養中に書き上げたこの本は、1900年に出版され、たちまち各国語に翻訳されてベストセラーになりました。極東の小さな島国である日本が、なぜ急速に近代化を遂げ、眠れる巨竜・清国との戦争に勝利したのか、欧米の多くの人々には、不思議に思えたからでしょう。これを読んだセオドア・ルーズベルト米大統領が感激し、日露戦争後の講和条約締結に一役かってくれたのは、有名な話です。

新渡戸稲造はその後、第一高等学校(東大・教養の前身)校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長、国際連盟事務次長など、要職を歴任します。一高在職時、矢内原忠雄らを内村鑑三に紹介したのも、新渡戸でした。日本が軍国主義に覆われた時代には、国内では軍部に対抗し、多くの人々から糾弾され、渡米しては冷たい反応の中、反日感情を和らげるため奔走しました。

彼には、「愛国心」があったでしょうか。もちろん、熱い思いで祖国・日本を愛していたと思います。「太平洋の架け橋になりたい」という、青年時に抱いた「大志」を、まっすぐに貫いていったような人生でした。それは、キリストによってもたらされた平和を、自らの人生において実現しようとする生き方であったと、言えるかもしれません。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14-15、新改訳第3版)

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2006年11月22日 (水)

内村鑑三

「愛国心」で思い出すのは、あのいわゆる「不敬事件」を起こした内村鑑三です。内村鑑三は、1861年、高崎藩士の長男として、江戸小石川に生まれました。明治維新の「負け組」だった旧幕府側に属していたため、自らの才覚で身を立てるしか道がなく、東京英語学校を経て、札幌農学校(今の北海道大学)に入学しました。

初代教頭として赴任していたクラーク博士の影響の下、イエス・キリストを信じ、函館のメソジスト教会宣教師M・C・ハリスにより、洗礼を授けられます。卒業して北海道開拓使に勤務した後、米国に留学し、帰国後、第一高等中学校(東京大学の前身)の嘱託教員となります。「不敬事件」が起きたのは、この時でした。

1891年、講堂で行われた教育勅語奉読式において、天皇直筆の署名に対して最敬礼を行わなかったことが、他の教師や生徒たちから非難され、新聞にも取り上げられる大問題となりました。聖書が禁じる「偶像礼拝」を避けようとした内村の行為は、多くの日本人には理解されず、「不敬の徒」としてのレッテルを貼られた結果、辞職に追い込まれます。その後、急速に右傾化していく日本の、先行きを暗示するような出来事でした。

内村鑑三には、愛国心がなかったのでしょうか。彼は、こう告白しています。「自分は2つのJを愛する。ひとつはジーザス・クライスト(Jesus Christ)であり、ひとつはジャパン(Japan)日本である。2つのJ-イエスと日本-そのどちらをより多く愛するか、自分は知らない。」

辞職後、内村は多くの著作を発表し、雑誌「聖書之研究」、「無教会」を創刊し、自宅で聖書の講義を始めました。弟子の中には、後に東京大学総長となった南原繁や矢内原忠雄がいました。南原は戦時下の大学でファシズムを批判し、矢内原は平和主義を説き続けたようです。弟子を見れば、師がどのような人だったか、伺い知ることができるとも言います。内村鑑三は、彼なりの方法で、日本と日本人を愛したに違いありません。

「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(Iヨハネ3:23、新改訳第3版)

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2006年11月21日 (火)

国を愛する心

先週は、タイ・バンコックに行ってきました。私たちの教団・フォースクエアのアジア・オセアニア大会があったためです。(フォースクエアについては、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_268a.html

多くの宣教師を送っているアメリカ・カナダを含め、31カ国、600名以上の参加者――赤ちゃんからお年寄りまで――が、一堂に集い、神の家族として親睦を深めました。4日間の大会で、礼拝、聖書の学び、分科会、会議など、朝から晩まで、盛りだくさんの内容でした。私も、一つの分科会で、リーダーシップのレベルアップについて、お話しさせていただきました。

2年に一回開かれるこの大会で、毎回恒例となっているイベントは、「カルチャー・ナイト」です。各国からの参加者が、それぞれ民族衣装を着て、歌や踊りを披露します。日本のチームは今回、踊る人はいませんでしたが、全員、浴衣やハッピを着て、日本語の新しい賛美を歌いました。ステージ上で、お茶(お薄)も振舞われました。

参加国のすべてが、日本のように、宗教の自由が保障されているわけではありません。帰国すれば、迫害や殉教の危険が待ち受けている人たちもいます。しかし、それでもなお、信仰を貫き、イエス・キリストの十字架と復活を告げ知らせようとするのは、神様を愛し、自分の祖国とその国民を愛しているからにほかなりません。

聖書が教える「愛国心」とは、すべての民族とその多様性を愛して下さっている、天地創造の神様の無限の愛を、なんとかしてそれぞれの国の人々に、届けようとする心なのです。それは、ある場合には、命がけの行為となります。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。』」(マタイ16:24-25、新改訳第3版)

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2006年11月20日 (月)

与えられている望み(マタイ14:22-31)

Flower061119 昨日の礼拝テーマは、「与えられている望み」でした。たとえ大嵐の中を通されることがあろうと、私たちには、神様が与えて下さっている、決して消え去ることのない希望があります。どんな状況においても、神様がともにいて、支えて下さり、すべてを導いていて下さっていることを知ると、私たちの心は平安で満たされます。

ある時、ガリラヤ湖畔で舟に乗った弟子たちは、祈るためにとどまったイエスを置いて、先に向こう岸を目指して出発しました。向かい風となり、波に悩まされていた弟子たちの舟に、イエスは、湖水の上を歩いて近づいて来ます。最初はびっくりした弟子たちも、それがイエスだと分かると、自分も水の上を歩いてみたいと思いました。ペテロは、同じ奇蹟を自分にも起こして下さいとお願いしますが、許しを得て、実際に歩き出してみると、風がこわくなり、沈みかけてしまいます。

このエピソードは、私たちが不測の事態に遭遇して、いかに信仰や希望を失いやすい弱さをかかえているか、ということを象徴しています。私たちは、目に見える状況で、物事を判断しがちです。しかし、実は、これから起ころうとしていることは、まだ目には見えていないわけで、それは、私たちの想像をはるかに超えた出来事かもしれません。そして、そのすべてを治めておられるのは、やはり目には見えないお方、天地万物の創造主なる神様なのです。

私たちに求められるのは、どんな状況の中にあっても、目の前の状況すべてをみ手の中に治めて下さっている神様に、いつも信頼していくことなのでしょう。それは、年老いて、子どもがいなかったにもかかわらず、「星の数ほどの子孫が生まれる」との神様の計画を聞いた、信仰の父アブラハムの生き方にも共通するものであり、次のことばにも表現されています。

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」(ローマ4:18)

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2006年11月13日 (月)

困難な時代を乗り切る(IIテモテ3章)

Flower061112_ 昨日の礼拝テーマは、「困難な時代を乗り切る」ことでした。パウロの時代、多くのクリスチャンたちは、ローマ皇帝ネロによる迫害により、殉教の死をとげました。今でも、多くの国々で、クリスチャンや教会に対する迫害があります。物理的な迫害がない国でも、いわれのない中傷や悪口などによる、「精神的苦痛」を受ける場合もあります。今、問題になっている「いじめ」に、つながるテーマかもしれません。

パウロは、困難な時代を乗り切るため、テモテに対して、1)聖書の教えにとどまること、2)愚かな言動を避けること、3)迫害に耐えること、を指針として書き送っています。どんな苦難の中にあっても、神様はともにいて下さり、聖書のことばを通して、私たちを励まし、何をして、何をすべきでないかを教えて下さり、苦難に勝利する力を与えて下さるのです。

聖書に記された神様のことばに、しっかりとつながっている時、私たちには人格的な成長が与えられ、神様が喜ばれる「良い働き」(善行)に励むこともできるようになります。自分自身の力ではなく、神様の不思議な力によって、私たち一人ひとりは、神様が計画された、本来あるべき姿へと変えられていくのです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(IIテモテ3:16-17、新改訳第3版)

P.S. 都合により、今週の記事は本日のみとし、火曜から金曜までお休みします。来週月曜日にまた、お会いしましょう。

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2006年11月10日 (金)

道ありき

大学3年の頃だったでしょうか、三浦綾子さんの青春時代の自伝・「道ありき」を読みました。クリスチャンの友人の勧めです。(その友人については、こちら→http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_0660.html

戦時中、小学校の熱血教師として、子どもたちに教えていたことが、戦後、すべて否定され、虚無的になり、病気で寝込んでしまった、という著者の状況が、生きる意味をなかなか見出せない私の心と、どこか重なりあうような気がしました。

肺結核で臥せている綾子さんのお見舞いに通い続けた、前川正さんのまっすぐな生き方には、心打たれるものがありました。絶望の中で死を望み、周囲に辛らつな言葉をぶつけ続ける人に対して、「綾ちゃん、人間はね、一人一人に与えられた道があるんですよ」と言って、神様の教えを説き、励まし続ける姿は、容易に真似のできるものではありません。

綾子さんがイエス・キリストに希望を見出し、洗礼を受けたすぐ後、前川さんは結核で亡くなってしまいます。彼は、20世紀後半の日本における偉大なクリスチャン作家を、虚無と絶望の淵から「召し出す」ため、神様から特別に遣わされた使者だったのでしょうか。その後、綾子さんは、前川氏と面影が似ていたという、三浦光世さんと結婚し、デビュー作・「氷点」を皮切りに、数々の作品を発表していきます。「塩狩峠」、「細川ガラシャ夫人」、「ちいろば先生物語」、「銃口」など、これまで私も多くの小説やエッセイを読ませていただいたように思います。

大学4年の頃は、自宅アパート近くの小さな公園で、日向ぼっこをしながら、三浦綾子さんの本をよく読んでいました。東池袋で、サンシャインが見え、すぐ近くを首都高5号線が走っている道沿いで、車の音が賑やかでした。まさかその時は、その何年か後、自分も洗礼を受け、牧師になろうと決心し、さらには目の前の高速道路を、2トントラックで走るようにもなるとは、思ってもみませんでした。神様は、一人ひとりを、不思議な冒険の道に案内して下さるようです。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8、新改訳第3版)

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2006年11月 9日 (木)

宮本武蔵

松本道弘さん(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_5b28.html)の著書にしばしば登場するので、私も、「宮本武蔵」を読んでみることにしました。大学の3年か4年の頃です。最近は漫画「バガボンド」が注目され、NHKの大河ドラマにもなりましたが、私が読んだのは、講談社文庫版の吉川英治さんの作品です。もともとは、1930年代に朝日新聞の連載小説だったようです。

「――どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。」という、関が原で敗残兵となってしまった武蔵の、物語冒頭の言葉から、

「波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を、水のふかさを。」という、巌流島での勝利直後の、結びの言葉に至るまで、一気に読み通しました。吉川文学の流れるような、美しい日本語にすっかり魅了され、いっぺんに宮本武蔵のファンになってしまいました。

特に印象に残ったのは、暴れん坊だった武蔵が、沢庵との出会いを通して「悔い改め」、剣を通して、人としての道を究めようと決意する場面です。武蔵は剣を手にし、「これに生きよう! これを魂と見て、常に磨き、どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう!」と 決心しました。私も、何かを通して自分を高めたいと思いましたが、特に格闘技をしていた訳でもなく、自分にとって剣とは何なのか、その時はよく分かりませんでした。

今は、聖書に記されるみことばを通して、神様が人格的な完成へと少しずつ導いて下さることを信じ、感謝しています。神のことばは、人生の戦いに勝利していくため、聖霊なる神様が与えて下さる剣であるとも、聖書に書かれています。

「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:17、新改訳第3版)

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2006年11月 8日 (水)

異文化間コミュニケーション

私が、異文化に初めて関心をもった一つのきっかけは、小学生の頃、おそらくロシア人と思われる、可愛らしい子どもたちを見かけたことだったかもしれません。1、2年時に通った小学校の向かいが公園になっていて、そのすぐ近くに、旧ソ連(今はロシア)の総領事館がありました。高い塀と頑丈な金属製の門に囲まれた建物で、中を見ることはできませんでしたが、ある日、その公園で、きれいな金髪の子どもが二人、遊んでいたのです。

まだ小学校に上がるか、上がらないかくらいの子で、砂遊びか何かをしていたように思います。もちろん他の子どもたちは皆、黒髪でしたから、その二人は、遠くから見ても、はっきりと目立っていました。外国人の子など、まったく目にしたことのなかった私にとって、その光景はたいへん印象的で、公園の土色を背景とし、金色に光り輝く子どもの髪が、今でも絵画のように脳裏に焼きついています。

大学の頃、「異文化間コミュニケーション」(ジョン・コンドン著、サイマル出版会、1980年)という本を読んだ時、言葉と文化のかかわりに関心を持ち、言語学を学んでみたいと思いました。専門を何にしようか、かなり悩んでいた私が、この本を読んで進路を決めたのですから、かなり影響の大きな本だったと言えます。著者は、国際基督教大学(ICU)で教鞭をとったということですから、クリスチャンだったのでしょう。文化により住む世界が異なり、違う言語を話す人は、まったく違った世界を見ている可能性がある、と主張する、いわゆる「サピア=ウォーフの仮説」は、たいへん衝撃的な内容でした。

言語と文化の違いに興味を覚えた私は、同時に、「では、その違いを超えた、どんな言語や文化にも共通する、普遍的なものは何だろう」と考え始めました。どんな国の人にでも共通する土台がなければ、言語や文化を超えたコミュニケーションは、成り立たないのではないか、とも思いました。今はそれが、神様の愛と、その愛を伝える聖書のことばであると信じています。この愛は、かつて公園で、日本の子たちとはまったく違った存在のように見えた、ロシア人の子どもたちにも、自信をもって伝えることができると思います。

「主(神)はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」(詩篇145:9、新改訳第3版)

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2006年11月 7日 (火)

英語道

大学に入って読んだ本の中で、大きな影響を受けたものとしては、前にも少しふれましたが(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_d33b.html)、松本道弘さんの著作があります。「速読の英語」、「速聴の英語」、「私はこうして英語を学んだ」、「タイムを読む」、「英語道」など、当時出版された本を、一通り読みました。受験英語で合格点を取ったにもかかわらず、会話の場では英語を使いこなせなかった私は、なんとかして上達したいという思いがありました。

どの本だったか良く覚えていませんが、強烈なインパクトがあったのは、英語を使いこなすためには、日本人はインプット(読むこと、聞くこと)が、圧倒的に不足しているという指摘です。日本はある意味、たいへん便利な国で、国内にいる限り、日本語だけで生活ができます。英語ができなくても、ほとんど不自由することはありません。これは国民にとっては、たいへん幸せなことだと思いますが、同時に、この環境が、英語をマスターできない理由になっているという訳です。英語の授業以外の毎日の生活では、英語で聞く、話す、読む、書く、という活動が、通常まったくありません。これでは、言語習得がうまくいかないのは、当然です。

そこで松本さんは、英語でたくさん読むこと、そして聞くことを重点的に行うべきだと主張していました。話す、書く、というアウトプットをする前に、十分なインプットが必要だと言うのです。確かに、子どもが言語を学ぶ上では、インプットが先であり、多くの言語表現にふれればふれるほど、自分で使いこなせる言い回しが増えていきます。ただ単に「使える表現」を暗記するだけでなく、語るべき内容も蓄えておかなければ、簡単なあいさつ程度の表面的なやりとりだけで話が終わってしまい、軽く見られるだけだ、という厳しい指摘もありました。

松本道弘さんという方は、海外渡航経験なしに独力で英語をマスターし、同時通訳者となり、NHKのテレビ英語講座の講師も一時、つとめました。柔道の有段者で、宮本武蔵に心酔し、英語を通して道を究めるという「英語道」の提唱者でもあります。私は結局、「英語道」では道を究めようとする者になりませんでしたが、今は、イエス・キリストを通して、創造主なる神様が与えて下さった、人としての道を信じ、歩んでいます。それはひょっとしたら、「聖書道」とも、呼べるかもしれません。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主(神)である。」(箴言16:9、新改訳第3版)

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2006年11月 6日 (月)

恵みによって強くされる(IIテモテ2章)

Flower061105 聖書の中で、「恵み」という言葉は、特別な意味を持っています。ヘブライ語では、「ヘセド」(chesed)、ギリシヤ語では、「カリス」(charis)という語になります。(ちなみに英語では、「グレイス」(grace)です。)それは、「本来、与えられる資格のない者に対し、神様が一方的に与えて下さる良いもの」という意味になります。

私たち人間は、どんなに自分で努力しても、神様の完全な基準に、とうてい達することができません。私たちが神様から与えられるプレゼントは、当然、受け取る資格があるから獲得できる賞品や報酬ではなく、神様が限りない愛をもって、ただ一方的に与えて下さる、天からの授かり物なのです。

神様は、恵みによって天地万物を創造され、恵みによって人にいのちを与え、恵みによって私たちが、意味と希望のない人生から救われる道を備えて下さいました。目的をもってすべてを造られた神様から離れ、生きる目的を見失ってしまった私たちに対し、イエス・キリストによって、もう一度、人生の意義を再発見できる可能性が与えられたのです。これは、神様の恵みに他なりません。

昨日の礼拝では、「恵みによって強くされる」ことについて、お話しました。神様は、生きる力を失ってしまいがちな私たちに対して、必要かつ十分な力をも、与えて下さいます。私たちは、聖書の語る真理を知り、そのことばにとどまることによって、力が与えられます。私たちのために命を捧げて下さり、いつも愛して下さっている主イエスを思うことにより、力が湧き上がってきます。そして、その教えを周りの人に分かち合うことにより、互いに強められていくのです。

使徒パウロは、自分の死後も、「愛する子」テモテが力強く生きていくことを願っていました。そして、その力は、ただ神様の恵みによって与えられることを、愛弟子に伝えたかったようです。

「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」(IIテモテ2:1、新改訳第3版)

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2006年11月 3日 (金)

同窓会

先週土曜日は、札幌で、高校の同窓会に初めて出席しました。同窓会というのは、たいてい土曜日に開催することが多いため、日曜朝がメインの仕事である私は、なかなか出席しづらい状況です。

今年は6月に、海外出張帰りで、成田から東京の同窓会に直行し、時差ボケと戦いながら日曜早朝の便で七飯に帰りました。8月には、帰省とファミリー・キャンプから帰宅した翌日、高速バスで単身また札幌に戻り、偏頭痛をこらえながら中学の同期会に出席した後、同日の深夜バスでとんぼ返りしました。今回も、東京出張から戻った2日後、悲鳴を上げている運動不足の足腰にムチを入れつつ、8月と同じパターンでバス旅行でした。もう若くない身としては、同窓会に出るのも、なかなかハードです。

9月に天皇皇后両陛下が滞在された、中島公園脇のホテルの2階宴会場には、数百人の「昔の若者たち」(!)が集まっていました。立食パーティーで、入り口近くにあった同期のテーブルを、見たことのある人たち(と、そうでない人たち)が囲んでいます。横の壁際には、バイキング形式で、美しく盛り付けられたパーティー料理が並んでいます。うれしいことに、かつて部活帰りによく立ち寄ったお好み焼屋さんも、大きな鉄板を持ち込み、その場で出張調理してくれました。

二次会は同期だけで、4階の小さな部屋に移り、今度は数個のターンテーブルを囲んで座りました。たいへん美味しい食事とにぎやかな語らいのひと時を、楽しませていただきました。

神の国――天国――は、宴会にたとえられています。イエス・キリストは、すべての人を、天上の宴会に招待して下さっているのです。私と関わりのある多くの人が、その招待に応えて、天の御国に集い、永遠の喜びをもって食事をともにしてほしいと、強く願っています。

「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」(ルカ14:15、新改訳第3版)

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2006年11月 2日 (木)

聖路加国際病院

先日、聖路加国際病院を見学させていただきました。ご存知、あの日野原重明さんが、95歳で理事長をつとめる病院です。高校時代の友人が、そこで医師をしているので、平日の夜、かなり忙しいとも知らず、おしかけてしまいました。緩和ケア(ホスピス)病棟と小児科病棟を訪問し、スタッフの方々にご挨拶し、またチャペルを見ることもできました。

聖路加というのは、もちろん新約聖書の福音書の一つを記した、医者ルカにちなんだ名前です。米国の聖公会から宣教医師として派遣されたルドルフ・トイスラーという方が1902年、東京・築地に診療所を開いたのが、そもそもの始まりだそうです。正面玄関を入ったすぐ右側の壁に、病院創立の理念が次のように記されています。

「キリスト教の愛の心が 人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて その人は生まれ変わったようになる この偉大な愛の力を だれもがすぐわかるように 計画されてできた生きた有機体が この病院である」

1階ロビーを見て驚いたのは、美術館のように、壁に絵が飾られていたことです。他の場所には、彫刻も並べられていました。私も仕事柄、あちこち病院を訪問してきましたが、そんな病院は初めてのように思います。展覧会のような催しもしていました。訪れた人の心が和むことを、意図しているのかのようでした。チャペルは、大きなステンドグラスにパイプオルガン、木のベンチを配し、トラディショナルで荘厳な雰囲気でした。常駐の牧師がいて、定期的な祈りや礼拝、日曜学校の他、結婚式や病院で亡くなられた方の葬儀も行われるとのことです。

緩和ケア病棟は、静かなたたずまいでしたが、小児科病棟は、少し元気な子どもたちが、遊んでいました。白血病等の小児ガンのお子さんたちは、治療のせいか、髪の抜け落ちている子もいて、痛々しい限りです。一緒にいる親御さんたちの必死な思いが、こちらに伝わってきます。私の友人を含め、医療スタッフの方々も、病院の方針とされている、以下の「黄金律」を実践しようと、日夜、力を尽くしておられるようでした。

「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31、新改訳第3版)

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2006年11月 1日 (水)

二十歳の原点

大学でやりたかったことの一つは、読書でした。中3の担任の先生からは、ずいぶん大きな影響を受けましたが、専門が国語だったためか、「本を読め」と繰り返し言われました。私の国語力、特に作文力の弱さを知る先生の目からは、読書不足が明らかだったのでしょう。私も、小学校の頃は、よく図書室に行って、「シャーロック・ホームズ」の全集を読破したりしましたが、中学・高校では、教科書や参考書・問題集と、バレーボールの雑誌以外、ほとんど本を読むことはありませんでした。

大学では部活にも入らず、興味の向くまま、手当たりしだい乱読しました。最初は、何を読んでいいか分からなかったため、海外と日本の文化を扱ったエッセイが多かったように思います。英語に関心があったため、英語関係の本も、読みました。理科系だったため、科学哲学関係のカタイ本も、読んだ記憶があります。いわゆる文学作品に手を伸ばすようになるのは、文学部に移った3年以降だったでしょうか。

いつ頃か、よく覚えていませんが、友人に勧められて、高野悦子さんの「二十歳の原点」という本を読みました。新潮文庫の表紙をめくると、ちょっとチャーミングな女の子の笑顔の写真があり、その何ページ後か、本文が始まる右側のページに、この本のテーマとも言える、彼女の成人式の時の言葉が記されています。

「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」

栃木から京都の大学に入った彼女は、1969年の大学紛争に翻弄され、恋にも破れた後、孤独感と未熟感をかかえたまま、20歳と6ヶ月で、鉄道自殺してしまいます。大学ノートに書き綴られた日記が、死後、父親によって整理され、「二十歳の原点」と題して出版されました。読んだ当時、私は子どもの立場でしたが、今はもう、父親の立場です。読んでからの20数年、彼女のその言葉に、自分は何と答えようか、考え続けてきました。「君は決して、独りじゃないんだよ。神様は、未熟な君を、そのままで受け入れ、愛して下さっているんだよ」と、今でも彼女に伝えたい気持ちがします。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Iヨハネ4:9、新改訳第3版)

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