優先順位
妻が長女を連れ、所沢に戻ってくると、たいへん忙しい毎日となりました。私の担当は、長女を毎晩、お風呂に入れること、寝かしつけること、土曜日に公園に連れて行くことであり、日曜日はもちろん、毎週家族で礼拝に行きました。男性の方が手が大きいから、片手で赤ちゃんの両耳をふさぐことができると言われ、お風呂は私が入れることになりましたが、最初は、なかなか上手くいきません。一度、お湯の中に赤ん坊を落としてしまい、「死んでしまっただろうか」と一瞬、ひやりとしたこともありました。
長女はなかなか簡単に寝ない子で、寝かしつけるのには苦労しました。抱っこして、賛美の子守唄を歌いつつ、心地よく感じられるよう揺らしてあげるのですが、やっと寝たと思って、ふとんに移そうとすると、すぐに目を覚まします。妻が台所で、食事の後片付けをしている間、いやその後も、私は6畳の寝室で、ずっとBGM付きの揺りかご状態でした。
私は、牧師になろうと思った時から、家庭を大切にしなければならないと感じてきました。村上龍さんのベストセラー・「13歳のハローワーク」は、子どもたちに数多くの職業を紹介している本ですが、その中に、「神父・牧師」という項目があります。牧師になるには、他の「牧師の推薦を受け、プロテスタントの神学校で学んで牧師になるのが一般的」と書かれています。確かに私も、「どうしたら牧師になれるのですか?」と聞かれた場合には、同じように答えます。
しかし、聖書が語る牧師の条件は、第一に「自分が牧師になることは神様の計画である」という「召命感」であり、次には、その人自身の人格とその人格が家庭の中でどのように現れているか、なのです。どの学校で何を学んだか、というのは、重要なポイントではありません。優先順位は、第一に神様との関係、第二に家族との関係、第三に教会との関係、第四にその他の関係、ということになるでしょうか。
会社で残業する人たちの白い目を感じつつも、せっせと定時に退社し、家庭サービスに努めました。それは、聖書に書かれる牧師(監督)の条件を、なんとかしてクリアしたいと願っていたからに他なりません。
「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──」(Iテモテ3:2-5、新改訳第3版)
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