命拾い
命拾いをした体験は、これまで三度ほどあります。最初は、生まれる時のこと。私は、札幌の天使病院で生まれましたが、逆子で、へその緒が首に巻き付いていたそうです。そのまま通常分娩で足を引っ張ると、首が絞められて、死んでしまいそうだったので、帝王切開になりました。今でも、のどが弱いのは、巻きついていたへその緒のせいなのでしょうか?(笑)
小学校1年の時、学校の中庭の池に落ちたことがあります。休み時間に、しゃがんで池の中で泳いでいる魚を眺めていたところ、誰かがぶつかったのか、後ろからドンと押され、水の中に落ちました。それまで泳いだことなど一度もなく、何をどうしたら良いか分からなくて、ただ沈んでいったのだと思います。水面が明るく揺れて見えたことだけ覚えていますが、次に気がついた時は、保健室のベッドの上でした。その後、誰が名付けたのか、「ジャボンチャン」というニックネームがつきました。
大学の頃は、以前も書いたように、自殺しようかという思いが少しあったのですが、まったく意図せぬところで、一度、死にかけています。東京の冬は、下宿の部屋が思った以上に寒く、ガスストーブをいくら焚いても、札幌の家のようには暖まりませんでした。ある日、ストーブをつけたまま、ふとんにくるまり、うっかり寝てしまいます。朝方、目が覚めた時は、おかしな臭いがし、四畳半の部屋に煙が立ち込めていました。ふとんが、火のついたストーブの上にかぶさっていたのです。
幸い、ふとんにぽっかりと穴が開いただけで、火が燃え広がることはなく、一酸化炭素中毒にもなりませんでした。あわてて火を消し、すぐに換気しましたが、よく火事にならなかったものだと、一人で胸をなでおろしました。大家さんの家の中に、一部屋借りているような下宿でしたから、私の部屋から出火などしたら、私の死後も、補償問題などで親がたいへんだったかもしれません。
命を与えて下さった神様は、拾っても下さったのでしょう。この世に生かされている間は、神様の目的があるのでしょうね。
「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:2、新改訳第3版)
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