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2007年2月

2007年2月28日 (水)

教育

「教育再生」を語る指導者の見識が、今、問われています。国家主導による教育の目的は、つきつめて言えば、国づくりのために有用な人材を育てるということになるのでしょう。明治維新以降、政府が国民教化に力を入れたのは、欧米列強に肩を並べる近代国家を形成しようとしたからでした。学校教育の場で、「公共の精神を尊び」、愛国心を植えつけようという最近の動向も、「国家形成」という大義名分に沿ったものと言えます。

明治維新が契機となったモノの考え方には、「立身出世主義」もありました。「士農工商」の身分制から解き放たれた人々は、「教育」によって身を立て、世に出て行くことが可能となったのです。これにより「教育」は、人間的成長の機会以上に、「より上の社会」に入るための手段となってしまいます。戦後、すべての学校は偏差値によってランク付けされ、受験競争を勝ち抜いて「いい学校」に進学することは、バラ色の将来を約束するかのようになりました。

これに対して、聖書が語る「教育」は、創造主なる神様によって主導される訓練です。その目的は、神様を信じ、神の国の民とされた人が、人格的に成長し、愛をもって与えられた使命を果たす生き方をするようになることです。それは、もちろん「民族国家」とか「国民国家」といった枠組みを超越しています。どの時代のどこの国に生きる、どんな民族の人であっても、同じ「神の家族」の一員として、愛に満ちた神様のことばにより、教え育てられていくのです。

一人ひとりの人間は、神様から与えられた能力や才能を、それぞれ違った分野で生かし、愛をもって互いに仕え合う者とされています。どこで何を学んだ、どの民族の人であるかが、人間の優劣を決めるものでは一切ありません。神を愛する人はすべて、出世の階段を必死で上らなくても、イエス・キリストにより、すでに圧倒的な「勝ち組」に属していると、聖書に約束されています。

私が聖書大学や神学大学院で学んだのも、決して、「さらに上を目指した」からではありませんでした。神様に与えられている使命を果たしていく上で、より十分な知的訓練の必要を覚えたからです。神様を全身全霊をもって愛し、人々に仕えていくためには、知性をも総動員することが不可欠なのです。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30、新改訳第3版)

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2007年2月27日 (火)

バイブル・カレッジ

私が最初の留学先に選んだのは、ロス近郊にあるバイブル・カレッジ(聖書大学)です。この大学は、私の所属する教団の創始者が、1923年、神様の愛を世界中に伝えていくリーダーを育成するため、設立しました。もともとはロス中心部に近い場所にあったのですが、私が留学した頃には、郊外のたいへん環境の良い地域に引っ越していました。

最初から大学院に行かず、学士入学でこのバイブル・カレッジに行った理由は、二つありました。一つは、教団の創始者とアメリカの教団の様子について、もう少しよく知りたかったこと。もう一つは、最初から大学院レベルの神学の勉強に、ついていく自信がなかったことです(笑)。大学で少し勉強してみて、それから大学院入学を考えてみようと思っていました。

行ってみて分かったのは、感謝なことに、この大学は、聖書を学ぶ上でたいへん良い学校だったということです。素晴らしい先生たちが、揃っていました。そして私には、各教科が何のために役立つのかが、良く分かりました。7年近くの教会における実地訓練を通し、聖書知識の不足を痛感してきたからです。

高校を卒業してすぐ来たような若いアメリカ人学生たちは、何でこんな勉強をするのだろうといった様子が、時折、見て取れました。しかし、仕事を辞め、妻子を引き連れて留学して来た30過ぎのオジサンには、そんなモラトリアムは許されません(笑)。すべてのクラスが、真剣勝負でした。

神様が与えておられる真の希望を人々に伝えていくためには、もちろん、聖書を良く知らなければなりません。聖書を、どのように研究したら良いかということも、大学のクラスで教えてもらいました。最初から大学院に行くのではなく、先ずバイブル・カレッジで学んだことは、私にとって大きな益となったのです。

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(Iペテロ3:15、新改訳第3版)

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2007年2月26日 (月)

諸国の民の光とされる(イザヤ49章)

Flower070225 昨日の礼拝では、「諸国の民の光とされる」ことがテーマで、イザヤ49章を開きました。この箇所は、私にとって思い出深いところです。留学した聖書大学では、教室での勉強のほか、教会における奉仕が義務付けられていました。奉仕先が決まっていない学生向けに、受け入れ教会のリストが配布されます。確か、そのリストの一番上に、ロスのダウンタウンにある、ホームレスを対象とした教会がありました。

実は私は、アメリカの教会で奉仕をするつもりは、全くありませんでした。理由は先ず、勉強が第一の目的であり、奉仕の時間はほとんどないと思われたこと。第二に、留学前にいろいろあり、疲れ果てていたこと。第三に、奉仕するだけの英会話力に自信がなかったことです。3年間は、勉強に集中し、奉仕は休みにするつもりでした。

ところが、その教会リストが配られた時、ホームレスの教会に行きなさいと、神様から言われているような気がしたのです。あまり気乗りがしなかったのですが、とりあえず地図を頼りに礼拝に行ってみると、自分は何をしなければならないのかが、分かったように思いました。その教会には、賛美のリーダーがいなかったのです。

ひょっとして使うこともあるかと思い、ギターは持って渡米しましたが、英語の賛美は、ほとんど何も知りません。幸い、アパートを提供してくれた教会の礼拝で歌う曲の多くは、日本の教会で歌っていた曲でした。そこで、日曜午前の礼拝や教会学校などで歌った曲の歌詞を、賛美しながらメモし、それをパソコンで打ち直して、日曜午後にあったホームレス教会の礼拝に持っていきました。

英語の曲を知らず、ギターもそれほど上手ではなく、うまく話もできない「Asian(アジア人)」の私が、なぜ毎週日曜午後、その教会に行き、ほとんどがアフリカ系とヒスパニック系のホームレスの人たちのため、賛美をリードしなければならないのか。私自身、「なぜ私なのか」が、よく分かりませんでした。いきなり賛美のリードをすると言う私の申し出に、牧師も最初は、少し驚いた様子でした。

「聖書概論」のクラスの宿題で、イザヤ49章6節を読んだ時、神様は、私に語りかけて下さいました。私は日本に帰って、日本人だけに福音を伝えようと思っていたけれども、そうではない。神様が遣わされるところ、世界中のどこにでも行き、すべての国の民に仕え、神様の愛を分かち合いなさいというのが、神様のみこころだったのです。ホームレス教会の賛美リーダーに関する、神様の「サプライズ人事」には、深い意味があったのでした。

「主は仰せられる。『ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」(イザヤ49:6、新改訳第3版)

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2007年2月23日 (金)

フリーウェイ

「L.A.」、または「Greater Los Angeles」と呼ばれるロス一帯は、実は100以上の市の集合体で、ロサンゼルス市自体は、そのうちの一つに過ぎません。この地域には、2006年の統計で、約1,800万人が住んでおり、ニューヨーク周辺に次ぎ、米国第二位の大都市圏になるそうです。

鉄道がほとんどないこの大都市で、人や物のスムーズな流れを支えているのは、フリーウェイです。それはあたかも、体中に血液を絶え間なく供給し続けている、極太の血管のようです。日本の高速道路と違い、文字通り「フリー(free)」、つまり無料で、料金所も一切ありません。出入口も至る所にあり、どこに行くにもたいへん便利です。ガソリンも日本より格段に安いですから、自家用車さえあれば、今さら大金を投じ、大規模な工事をしてまで鉄道に乗りたいと思う人は、ほとんどいないのでしょう。

聖書大学の入学式の日、やっと車を手に入れた私は、翌日の朝、アパートのすぐ近くの乗り口からフリーウェイに入り、しばらく北東に走った後、分岐点で東に向かうルートに乗り換えます。両方とも、片側4車線くらいあったでしょうか。かつてトラック運転手をしていた時、毎日のように走った首都高速湾岸線に、少し雰囲気が似ていました。何事もなく、無事に学校に着いた時は、少しホッとしました。その日は授業終了後の夕方、新入生歓迎パーティーが予定されていました。

大学新入生のパーティーですから、20歳前後の人たちは、たいへん盛り上がっていました。しかし、初対面のアメリカの若者たちの中に積極的に入っていけるほど、会話も社交術も得意でない、30過ぎのシャイなオジサンは、ただ「大人しく」していました(笑)。パーティーから解放され、再びホッと一息ついた頃には、もう日が暮れていました。

来た道をただ引き返せば良いだけでしたが、フリーウェイに乗ってすぐの分岐点で、うっかり別なルートに入ってしまいます。疲れていたこともあったでしょうが、暗くて、案内表示が良く見えませんでした。後から思えば、しばらく走って、次の分岐点で西に向かうルートに入れば良かったのですが、その時は、私もまだ、フリーウェイ網がどこでどう繋がっているのか、頭に入っていませんでした。

あわてて次の出口で一般道に降り、逆方向の入口が分からなかったので、コンビニのような店に飛び込んで地図を差し出し、「ここはどこだ」と店員に尋ねました。ところが店員は、「分からない」と言います。家もまばらな、ただ道だけが四方に延びる、真っ暗な見知らぬ土地で、私は必死に地図を眺め回しました。正確な位置は、結局分かりませんでしたが、こちらに走れば良いかと思われる方向に少し走ると、感謝なことに、フリーウェイ入口への案内表示がありました。

アパートに帰ると、妻と長女、そして隣に住む教会スタッフの夫婦が、心配して待っていました。今度は、皆でそろって、ホッとしました。これが私の、フリーウェイ運転第一日の記念すべき出来事です(笑)。迷子になりそうな時でも、いつも、行く道を導いて下さる神様に感謝します。

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14、新改訳第3版)

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2007年2月22日 (木)

渡米して3週間、しっかり休暇になった大きな理由は、車でした。ロスが東京など日本の大都市と大きく違うのは、よく知られているように、公共交通機関があまり発達していないことです。西部劇の馬がそのまま自動車に変わったかのようで、車がなければ、どこに行くのも不自由です。住む予定のアパートから学校までも、フリーウェイ(高速道路)を飛ばして30分かかるため、早急に車を調達しなければなりませんでした。

渡米後、すぐ運転できるよう、引越しの土壇場の中、わざわざ所沢から鴻巣まで行って、国際免許を取ってきました。ところが、国際免許の有効期限は1年で、カリフォルニアは、居住者となって10日以内(?)に州の免許を取らなくてはならない、と定められていることが分かります。しかも、車を購入するのにも、州の免許が必要だとのこと。そして、免許取得のためには、「社会保障番号(Social Security Number)」がいるという話でした。

ビバリーヒルズの家の管理を任されている男性は、「行きたいところには乗せて行ってあげるから、レンタカーは借りなくて良い」と言ってくれます。お言葉に甘えて、社会保障番号事務所にも連れて行ってもらいましたが、発行までに2週間かかりました。運転免許の学科試験問題も取り寄せ、家族で遊びに行く合間に、じっくりと勉強しました。

3週間経ち、教会のアパートに移った後、教会スタッフの車を借りて、広い駐車場で運転の練習をしました。左ハンドルですから、勝手が違います。うっかりすると、道を曲がった時に、左車線に入ってしまいます。学校が始まるまで、もうあまり時間が残されていませんでしたので、試験の時は、たいへん緊張しました。感謝なことに、一発で合格できました。

牧師から、教会員で中古車販売をしている人を紹介してもらい、日本車にこだわって、白いスバルを4,000ドルで購入しました。所沢を出る際、真っ赤なキャロルを売却した値段と、ほぼ同額です。キャロルには、10枚入りのCDオートチェンジャーまでついていましたが、今度はエアコンもコンポもない、1800ccのシンプルな3ドアクーペで、おそらく車種はレオーネだったのではないでしょうか。入学式の日には間に合いませんでしたが、翌日の授業からは、何とか自分の車で登校することができました。

「レオーネ(leone)」とはイタリア語で「雄ライオン」、転じて「勇者」を意味するそうです。キリストのことは、「ユダ族から出た獅子」と表現されていますが、私たちもこのお方がともにいて下さる時、勇者とされます。車を購入した時、名前の意味は知りませんでしたが、神様が留学生活の中にともにいて、「勇士」のように前進していくことを助けていて下さったのでしょう。

「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(士師6:12、新改訳第3版)

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2007年2月21日 (水)

ビバリーヒルズ

米国留学中は、ロサンゼルス近郊にある教会のスタッフ用アパートに、無料で住まわせてもらえることになっていました。その教会の牧師は、海外宣教の働きを支援するため、アパートの一区画をいつも、海外から留学してくる牧師たちのために提供していたのです。

ただ、私たちの前にアフリカからの留学生が住んでおり、彼らの引越し日と私たちの渡米日との間に、3週間のオーバーラップがありました。その3週間、家族3人でどこに滞在しようかと頭を悩ませていたところ、ビバリーヒルズに家を持つ方から、こちらも無料で滞在させて下さるというお話があったのです。

この方は、日本人の女性で、アメリカに渡って映画プロデューサーをしておられました。息子や姉の自殺、夫との離婚を経て、クリスチャンになり、日本の故郷にも教会を開拓したいとの思いがありました。私たちに開放して下さった家は、ビバリーヒルズといっても、静かな住宅街の一角にある普通の家のようで、裏の方には小さなプールが付いていました。

この家に滞在した3週間は、久々の夏休みのようでした。毎日のようにプールで泳ぐのはもちろん、ロデオドライブで食事をしたり、映画「バットマン・リターンズ」を見に行ったり、ディズニーランドやユニバーサル・スタジオにも連れて行ってもらいました。特に思い出深いのは、ユニバーサル・スタジオの「バックドラフト」のセットです。ご存知、消防士兄弟が主人公の映画ですが、前年に公開されたばかりだったためか、セットには長蛇の列ができていました。

私は、まだ映画を見ていなかったので、あまり関心がなかったのですが、見よう見ようとさそわれて、列に並びました。少し歩き回って疲れた長女は、だっこをすると、すぐ寝てしまいました。4歳になったばかりで、15キロくらいだったのではないでしょうか。よほど寝心地が良かったのか、まったく起きる様子がありません。列に並んでいた1時間半、十分に休息をとり、建物の中に入ると、すぐ自ら目を覚まして歩き始めました(笑)。だっこし続けた私も、まだ30歳代前半で、若かったですね。

渡米するまで、教会の引継ぎ、仕事の後始末、留学手続き、引越し、函館と札幌への訪問など、忙しい日々が続きました。学校が始まる前、ビバリーヒルズでの3週間は、やはり神様が用意して下さった休息の時だったのでしょう。私の頭の中の計画では、いろいろと動き回って、準備したいこともあったのですが、神様の定められたスケジュール表には、この3週間はしっかりと休暇の予定になっていたようです。

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3、新改訳第3版)

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2007年2月20日 (火)

プログラム・コーディネーター

留学準備にあたり、妻にはたいへん助けられました。妻は以前、函館の国際交流団体で、日本人向けに米国留学のお手伝いをしていたのです。大学での専門は英語教育で、在学中に1年間、テネシー州への留学の経験があります。国際交流団体を訪れた私が、最初に妻と名刺交換をした時、私の肩書きは「塾生」でしたが、妻は「プログラム・コーディネーター」でした。留学生のための奨学金プログラムが、担当だったのです。

私はその頃、その団体の東京事務所に出入りしていました。ある日、奨学金支給者の選抜試験を行うため、代表の人と一緒に函館に行くことになります。事務所にあったアメリカの大学資料を持ってきてくれと頼まれました。代々木上原の下宿から新宿のオフィスに立ち寄り、その後、羽田に向かいます。山手線の椅子に座る時、荷物の一つを網棚に乗せ、もう一つは手元に置きました。これが問題でした。

眠っていたのか、本を読んでいたのか覚えていませんが、浜松町に着いた時、あわてて電車を降り、網棚の荷物のことはすっかり忘れていました。あっと気づいた瞬間、電車のドアが閉まります。呆然と立ちすくむ私の前を、緑色の電車が最初はゆっくり、そして次第にスピードを上げて、走り去っていきました。

私は、すぐに駅事務所に駆け込んで、忘れ物をしたことを告げます。何両目のどの辺りにある、どのようなカバンか説明しましたが、結局、どの駅でも回収できず、その車両が山手線を一回りしてくるまで待つことになりました。駅から空港に電話を掛け、最終便に変更してもらいました。ホームで待つこと1時間、目指す車両が到着すると、先刻置き忘れたカバンが、そのまま網棚にのっています。今度は、間違いなく荷物を降ろしました。

夜、函館の事務所に着いた時は、くたびれ果てていました。代表の人は、妻と翌日の試験の打ち合わせをしていましたが、私はご挨拶した後、すぐに休ませてもらいました。妻の話では、「ずいぶん具合の悪そうな人だ」というのが、私の第一印象だったそうです(笑)。

妻はこの団体を通し、20数人の日本人留学生を米国に送り出し、結婚後は、夫をも(自分や娘と一緒に)送り出すことになったわけです。私は、留学手続きのことはほとんど何も知りませんでしたが、妻に聞けば事が済むので、別に調べる必要もありませんでした。英語で電話したりするのも私より得意なようで、私にとっては、たいへん心強い「助け手」でした。神様のご配慮を感謝します。

「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」(創世記2:18、新改訳第3版)

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2007年2月19日 (月)

みことばに耳を傾ける(イザヤ48章)

コミュニケーションという行為は、少なくとも3つの要素から成り立っています。情報の送り手と受け手、そして伝えられる情報自体(メッセージ)です。昔、学んだ情報理論では、さらに雑音(ノイズ)という、もう一つの要素もあったように記憶しています。「雑音」とは、もちろん、正確な情報伝達の邪魔をするものです。

夫婦や親子間(あるいは学校と保護者間)のコミュニケーションが大切だという話は、よく耳にします。しかしその際、情報の送り手と受け手がどんな状態にあり、伝えられるメッセージがどのようなもので、雑音となるのは何なのかということを考慮しなければ、「コミュニケーション」は、期待したような効果をもたらさないかもしれません。

神様が私たち人間にメッセージを伝えられる際、直接語られる場合と間接的に語られる場合の二つのケースがあります。直接語られる場合は、メッセージの送り手である神様と受け手である私たちを、ただまっすぐ直線で結んだようなシンプルな形になります。間接的に語るというのは、送り手である神様が、特定の受け手にまずメッセージを伝え、その人がまた別の受け手にメッセージを語るという方法です。伝言ゲームのようですが、受け手は誰でも、伝えられたメッセージが本当かどうか、神様に直接確かめることができるので、これは直線的ではなく、神様を頂点とした「三角形のコミュニケーション」と言えるでしょう。

神様が用いられる「特定の受け手」は、「預言者」と呼ばれます。人々に神様のメッセージを伝えるため、特別に選ばれ、神様のことばが「預けられた」人のことです。旧約の時代には数多くの預言者が輩出し、伝えられたメッセージは書き留められ、聖なる巻物(書物)として大切に保管されました。これが旧約聖書の成り立ちであり、イザヤ書は、そのうちの一巻になります。

昨日の礼拝では、イザヤ書48章を開き、「みことばに耳を傾ける」ことが、そのテーマでした。神様は私たちに、訓戒のことば、予告のことば、導きのことばを語って下さいます。預言者が書き記した聖書のことばを通し、私たちは、神様の愛のメッセージを受け取ることができます。しかし、私たちが素直に受け取ろうという心の態度を持っていないと、それが雑音となり、正確なメッセージの内容を理解することができません。

ノイズをできるだけ減らし、「クリアな音質」で、神様の語られるメッセージをしっかりと受け取っていきたいですね。神様のみことばによって、私たちは、何が本当に益となり、どこに進んでいったらよいのかを知ることができます。

「あなたを贖(あがな)う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。』」(イザヤ48:17、新改訳第3版)

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2007年2月16日 (金)

渡米準備

留学のための必要書類には、TOEFL以外に、高校と大学の卒業証明書と成績証明書がありました。最初に行こうとしている聖書大学に、日本語を読める人など、もちろんいませんでしたから、すべて英語でなければなりません。高校の書類は大丈夫だろうかと、少し心配して電話をかけたところ、二つ返事で、すぐ送ってきてくれました。

ところが、出身大学の学部事務所を訪れ、同じように書類作成を要請すると、英語の成績証明書は作れないので、自分で作ってくれと言います。私は、大いにあきれましたが、そう言われれば作るしかありません。会社で作業するわけにいかないので、自宅から教会堂に自分のワープロを持ち込んで、もらってきた日本語の成績証明書を見ながら、せっせと英語版を作成しました。

当時のワープロは、父から「お下がり」をもらったNECのデスクトップ型「文豪」で、一回一回の変換に数秒かかるというシロモノでした。このワープロとコピー機、修正液を駆使し、機械ではなく手作業でカット・アンド・ペースト(切り貼り)をし、美しい「作品」に仕上げます。図工の自由研究のようでしたね(笑)。「作品」が完成したら、再び大学事務所に行き、内容に「偽装」や「捏造」がないことを確認してもらった上で(笑)、学部長のサイン(実際には印鑑)をいただきました。

必要書類をすべて揃えて、アメリカに送りましたが、今度は待てど暮らせど、向こうから何の音沙汰もありません。出身高校、大学とも、GPA(グレード・ポイント・アベレージ=成績の平均点)は入学基準を十分クリアしていたので、すぐにI-20という学生ビザ申請書類を送ってくれるはずでした。私は英語で電話をかけるのが苦手だったのですが、いくら待っても送ってこないので、意を決して、留学予定の大学に電話をしました。

入学手続きの担当者と話をすると、私のファイルを探し、書類の一つがまだ来ていないと言います。「そんなはずはない。すべて送った」と私が主張すると、電話の向こうで、「あっ、ここにあります」との返事。やれやれ。担当者はどうも、学生アルバイトのようでした。やっと送られてきたI-20を見ると、今度は私の誕生日が間違って記載されています。もう再発行は間に合いそうにないので、そのまま米国大使館に持っていき、ビザの申請をしました。祈りが聞かれたのか、記載ミスは問題にされなかったようです。

神様が示された地に行くのも、準備はたいへんです。しかし、私たち一人ひとりに最もふさわしい道を備えておられる神様は、私たちがどこに行くべきかを教えて下さり、その歩みを助け、祝福して下さいます。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1、新改訳第3版)

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2007年2月15日 (木)

バレンタイン

Img_07931 聖書の中には、神様からのメッセージを、命懸けで語った人たちが数多く出てきます。エジプト王パロ(ファラオ)のもとに遣わされたモーセ、イスラエル王ダビデに罪を指摘したナタン、偽預言者たちと対決したエリヤ、国の滅亡を予告したエレミヤなど、旧約の預言者たち。そして、十字架につけられたイエス・キリストと、その復活を宣べ伝え、世界中で殉教していった弟子たち。信教の自由が保障されていない国々では、今なお、迫害と殉教の歴史が続いています。

「バレンタイン・デー」の起源となった聖ヴァレンティヌスも、命懸けでメッセージを語った一人だという伝承があることを、先ほどウィキベデイア(ネット上の百科事典)で発見しました。ヴァレンティヌスの実像は、はっきりしないようですが、ローマ帝国でキリスト教が公認される前の3世紀頃、教会の司祭だったそうです。ゴート族などのゲルマン民族との戦いに明け暮れた皇帝クラウディウス2世は、兵士の士気低下を防ぐため、結婚を禁止しました。ところが、ヴァレンティヌスは、この禁令を無視し、密かに結婚式を執り行い、新婚カップルに自分で摘んできた花を贈ったそうです。その結果、彼は捕えられ、投獄されました。

監獄の看守の召使の娘は、目が見えませんでしたが、ヴァレンティヌスは、彼のもとをたびたび訪れた娘に、神様のメッセージを語ったそうです。するとある日、娘の目が見えるようになり、彼女の家族はみな、クリスチャンになりました。皇帝は怒って、ヴァレンティヌスを絞首刑にしたそうです。その後、彼はカトリック教会で、恋人たちの守護聖人とされ、処刑日の2月14日は「バレンタイン・デー」として、男女の愛の誓いの日になったとのことです。

日本では、バレンタイン・デーといえばチョコレートで、しかもなぜか女性が男性に贈るものと、かつては相場が決まっていました。外国ではそうではないようで、実際、留学先のアメリカでも、男性から女性にプレゼントする場合もあり、必ずしもチョコレートとは決まっていなかったようです。日本の最近の傾向は、「義理チョコ」が減り、「友チョコ」、「自分チョコ」が増え、男性側からのプレゼントも増加しているようですね。

私の家でも、女性陣は、思い思いのチョコレートを製作したり、購入してきたりで、昨日は、普段よりもたくさんポリフェノールとカロリーを摂取しました(笑)。プレゼントにこめられた「愛のメッセージ」を感謝するとともに、バレンタイン・デーの起源である、ヴァレンティヌスが命懸けでメッセージを伝えた生き方を、いつも心に留めておきたいですね。

「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」(使徒4:29、新改訳第3版)

(写真は、妻の力作のチョコレートケーキ)

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2007年2月14日 (水)

サバティカル(安息年)

人間は、オンとオフの切り替えが大切です。神様は、人に「労働」を命じられましたが、同時に「安息の時」も与えられています。6日働いて1日休みを取るのは、ご存知「安息日」で、現在、世界中で用いられている週7日制の起源ですね。イスラエルには毎年、過越(すぎこし)の祭り、七週(ペンテコステ)の祭り、仮庵(かりいお)の祭りという三大祭りがあり、祭りごとに「労働」はお休みになります。そして、6年働いた後、7年目は安息年と呼ばれ、一年間休むことが旧約聖書で命じられています。英語ではこれを「サバティカル(sabbatical)」と言います。アメリカでは、大学の先生たちが7年ごとに一年間の有給休暇をもらい、本を書き上げたりするようです。

牧師になるための実地訓練が6年ほど経過した頃、私は、そろそろ次の段階に進まなければならないように感じていました。教会での奉仕は一通り経験し、牧師とは具体的に何をする仕事なのか、だいたい理解できました。会社勤めをしながら、所沢で毎週、土曜礼拝の司会をし、月一回メッセージ(説教)をし、渋谷で毎月開かれる小グループのリーダーもしていました。牧師が異動で一時不在になった時には、事実上の牧師代行となり、日曜礼拝の司会とメッセージの両方を、月3回のペースで半年ほど続けました。「安息」をとらないと、そのうち燃え尽きてしまいそうでした。

実地訓練の中で、一番たいへんだったのは、やはりメッセージです。礼拝に集まった人たちに、聖書の中から、日々の生活の指針や励ましとなるようなお話を、30分ほどします。当時の聴衆のほとんどは、私よりも年長で、信仰歴が長く、聖書に詳しい人たちでした。その人たちに対して、クリスチャンになってせいぜい2年、人生経験も浅いまだ20歳代の私が、ほとんど独学で聖書を研究し、「説教」を始めたのですから、神様から与えられた務めとはいえ、簡単なはずがありません。何をどう話して良いのか、まったく手探り状態でした。

最初は、聖書のあちこちを開くのではなく、一箇所を選んで、そこに書かれていることを語った方が良いと、牧師からアドバイスされました。これは、専門用語で「講解説教」と呼ばれます。別の牧師からは、「自分の話したいこと」ではなく、「聖書が語っていること」を、そのまま伝えなさいとも言われました。そこで、聖書を読んで心に響いた箇所の前後を、何度も繰り返し読み、祈りつつ全体のテーマを定め、いくつかのポイントを拾い、自分の感じたことや例え話を交えて、分かりやすくお話しするようにしました。毎回、試行錯誤の連続でしたが、20年ほどたった今も、ほぼ同じ方法でメッセージを続けています。

メッセージ準備で痛感したのは、読解力の弱さでした。聖書は、ただでさえ分厚く、内容は膨大で、しかも数千年前の異国・異文化の出来事やその中で語られた教えを、翻訳で読むという難しさがあります。会社の仕事と教会の奉仕をしつつ、解説書や神学書を一人で読み続けるのは、時間的に大きな制約がありました。私のいた教会には、聖書を専門的・体系的に教えられる「教師」もいませんでした。数年間の実地訓練(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)の後、今度は現場を離れ、「オフ・ザ・ジョブ」で、プロの「教師」に教えてもらう必要を強く感じるようになったのです。

留学期間は、3年でした。3回分の安息年を使い切ってしまったのか、あるいはユダヤ人ではなく異邦人のクリスチャンだからか(笑)、帰国後は、なかなかサバティカルの時がないですね。何年か前に、私の夏休みは家族旅行の1週間だとドイツ人の宣教師に話したら、「それだけしか休みをとらないのか。働き過ぎの日本で、牧師が十分に休暇をとる模範にならなくて良いのか」と言われました。そのうちまた、安息年が神様から与えられることを期待したいですね(笑)。

「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。」(レビ25:2-4、新改訳第3版)

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2007年2月13日 (火)

留学の時

大学3年か4年の頃、留学したいと思って、TOEFLの試験を受けたり、フルブライト奨学金の資料を見に行ったりしたことがあります。TOEFLは、大学院留学のためには点数が足りず、フルブライトも、非常に難しそうだということが良く分かりました。支給対象となる学術分野という項目を見て、自分は一体、留学をして、何を勉強しようとしているのだろうと考えました。当時の専門だった「言語学」ではないような気がしましたが、次に何を勉強したら良いのか、まったく分かりませんでした。

「塾」にいた頃は、英語を教えていた外国人教師から、英語の力を伸ばすためには、留学した方が良いと言われていました。牧師になる決心をした頃には、母教会の牧師から、実地訓練が一区切りした後、米国の神学大学院に留学してはどうかとも言われました。教会で通訳の奉仕をするためには、留学して聞き取り能力を高め、聖書や神学の用語も覚えなければならないと思っていました。

91年夏に、教団の理事長(当時)から、カリフォルニアの聖書大学と神学大学院への留学が勧められた時、ようやく留学の機が熟したことを感じました。大学の頃から10年ほど経ち、教会での実地訓練も、その時点でほぼ6年が経過していました。結婚して、長女は当時3歳になっており、もう半分、留学は諦めかけていました。ですから、その話があった時、本当に嬉しかったです。私と妻の両親も、双方とも応援してくれると言ってくれたので、突然、留学に向けて順風が吹き出したような状況でした。

心配だったのはTOEFLでしたが、再受験してみると、自分でも驚いたことに、今度は大学院留学のために十分な点数を取ることができたのです。英語のラジオ番組を聴き、英字新聞や雑誌、書籍その他を読み、「塾」や勤務先での英語のクラスに積極的に参加し、苦労しながらも教会で時々、通訳をしていたことが、いつの間にか力になっていたようです。

大学の頃は、まさか家族連れで留学するなど、思いもしませんでした。神様は、すべてのことに計画をお持ちであり、時を定めておられます。

「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」(伝道者の書3:4、新改訳第3版)

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2007年2月12日 (月)

主の勝利に期待する(イザヤ46章)

Flower070211 昨日の礼拝テーマは、「主の勝利に期待する」ことで、イザヤ書46章を開きました。イザヤ書というのは、紀元前8世紀に生きた預言者イザヤによる預言をまとめたものというのが、伝統的な理解です。全部で66章あり、大きく分けて、1~39章の「さばきの書」と40~66章の「慰めの書」という、二つの部分に区分されます。これが旧約聖書39巻、新約聖書27巻に対応しているようにも考えられ、救い主の福音(良い知らせ)を力強く伝えるメッセージが、数多く記されています。

46章のメッセージは、捕囚の地にあって、神様の約束をなかなか信じようとしないイスラエルの人々に対して、語られたものでした。目の前に見えることだけから判断すれば、彼らがバビロニアの地から解放され、国を再興することなど、不可能としか思えなかったはずです。しかし、そのような人々に対し、神様は、「必ず勝利を与えるから期待しなさい」と励まされたのです。神様は、どんな絶望的に見える状況をも、変えることのできるお方だからです。

創造主なる神様は、私たちを、生まれる前から背負われており、年をとっても同じように背負い、救って下さると語られています。かつてエジプトの地からイスラエルの民を解放したように、神様がお告げになった計画は、必ず成し遂げられると宣言されています。そして、定められた時機が来たら、勝利がもたらされることを約束して下さっているのです。

神様は、私たち一人ひとりが置かれている状況を、すべてご存知です。そして、自分の力では、もうどうしようもないと思ったとしても、神様はその中から、私たちを救い出して下さることのできるお方なのです。イエス・キリストは、私たちを罪の中から、死の力から、絶望の暗闇から救い出して下さいました。そして今、私たちを「圧倒的な勝利者」として下さっています。私たちは、この勝利を約束して下さっているお方に、いつも信頼し、期待していきたいですね。

「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。」(イザヤ46:13、新改訳第3版)

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2007年2月 9日 (金)

寮生活

「塾」は、1年半は同期生が共通の研修を受け、その後は各自の活動に入っていくという方式でした。最初の1年半は全寮制で、同期だけでなく、寮内に残る先輩や後輩たちとの交流もありました。寮は、5階建てと3階建てのアパート2棟のような構造で、一区画に6畳の個室が4つと和室(談話室)が1つありました。

なかなか方向性が見えず、大いに「アパっていた」2年の頃、私のルームメイトは先輩一人、同期が一人、そして後輩が一人でした。先輩は、塾外の活動が多く、ほとんど寮にいませんでしたので、実質、3人の生活でした。私の課題研究がかなり煮詰まっていた時、気分転換にトランプをするようになり、別の階にいたもう一人の先輩も巻き込んで、毎日のように「四人組」の戦いが続きました。何をしたか良く覚えていませんが、ポーカーか大貧民あたりだったのではないでしょうか。酒もあまり飲まず、賭けもせず、マージャンのように徹夜するわけでもなかったので、たいへん「健全」でしたね(笑)。

ある時、同期のルームメイトが、急に思いついたように猛勉強を開始しました。どうも留学を考えていたらしく、TIME誌のリーディングマラソンを始めたのです。彼は几帳面な性格で、部屋は私のところとは比べ物にならないほど、素晴らしく整理整頓されていました。私と後輩は、そこに押しかけ、部屋をちらかし、よく勉強の邪魔をしました。しかし、彼はそんなことには決してめげず、入試を控えた受験生のように机に向かい続けます。その後、留学を果たした彼は、みごとにPh.D.(哲学博士号)を取得し、今は大学の先生をしています。

トランプ仲間の先輩は、当時、タブロイド版で発行されていた「塾報」編集部で、記者としてその力量を大いに発揮されていました。その後、地元に戻って会社を立ち上げ、今は観光を含めた地域プロデュースのような仕事をされているようです。同室の後輩は、細やかな心遣いをしながらも、人をバサバサとなで斬りにする、実に口の立つ男で、その後、マスコミ関係に進みました。今は、報道現場のトップで、バリバリと活躍しているようです。

私が塾を出て函館に行くことになったのは、実は、同期のルームメイトの助言がきっかけでした。将来の方向性が見えず、諦めて就職しようとしてもうまくいかなかった時、函館で国際交流をしている民間の団体があるから、そこに行ってみたらどうかと、勧めてくれたのです。その国際交流団体で今の妻と出会い、その地で洗礼を受け、牧師になる決意を固めたわけですから、私にとっては、非常に大きな助言でした。

大学の先生になった同期の友人は、数年前、うちの教会で洗礼を受け、クリスチャンになりました。神様が人の一生を通して、大切な出会い、「邂逅」を用意して下さっていることを感謝します。茶道では一期一会と言って、一回一回のお茶席での出会いを大切にするとのことです。私たちも、日々の出会いを大切にしていきたいですね。

「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12、新改訳第3版)

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2007年2月 8日 (木)

品格

「日本と世界の進みつつある方向」などという、大きく漠然としたテーマを掲げ、誰の指導も受けず、思いつつまま手当たり次第に本を読み、全く白紙の状態にあった自らの進路を定める、というのは、かなりしんどい作業でした。遅々として進まないそのプロセスは困難を極め、行く先の見えない状況の中、絶望的な気分にもなりました。そんな私の状態が、無気力(アパシー)に見えたのでしょう。他の塾生たちは、私のことを「アパっている」と形容していました。

もちろん、励ましてくれる人たちもいました。保安(守衛)のYさんも、そのうちの一人です。当時、60歳代だったYさんは、戦時中、陸軍の兵士で満州やフィリピンに行き、レイテ島で終戦を迎えたそうです。軍隊生活で上官を見つつ、指導者を見る目が養われたのかどうか、塾生一人ひとりに対する評価は的確なもので、たいへん参考になりました。「この人はダメ」とか「あの人はいいよ」とか、かなりはっきりと意見を言う人でした。塾生たちのことを詳しく知っていたため、「影の塾長」とも呼ばれていたようです。

大学の頃、辞書を片手に原書の出だしだけ読んだ、デカルトの「方法序説」に、こういう言葉がありました。「良識(bon sens)は、この世のものでもっとも公平に分配されている。」Yさんの良識の前では、塾生たちの間でよく話題にのぼったマキャヴェッリもマックス・ウェーバーも、哲学者のハンナ・アーレントも経済学者のハイエクも、まったく関係ありませんでした。いま考えると、Yさんの判断基準は、おそらく「人間性」であり、最近はやりの言葉で言うと、指導者としての「品格」だったのではないかと思います。

手元の国語辞典に、「品格」とは、「節操の堅さ、見識の高さや、態度のりっぱさ、姿の美しさなどから総合的に判断される、すぐれた人間性」とあります。政治家に最も問われるのは結果責任である、というウェーバーの主張も分からないではないですが、だからと言って、品格に大きな問題を抱えた人物が指導者の椅子に座り続けると、その悪影響が多方面に及んでいくと考えられます。道徳の退廃は、長期的に見れば、国や組織を滅ぼすものであり、上に立つ者は、つねに率先垂範を心がけていかねばなりません。

保安のYさんの言葉からは、期待と励ましが感じられました。それは、ただ結果を残すのではなく、品格あるリーダーになっていってほしいという期待だったのでしょう。イエス・キリストが自ら示して下さった、完璧な品格の模範にならう者となっていきたいですね。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6-8、新改訳第3版)

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2007年2月 7日 (水)

日本と世界

「塾」ではもちろん、多くの人が政治分野に進みたいと言っていましたが、私はまず、自分は何をすべきなのか、何ができるのか、全く白紙の状態から考えてみようと思いました。それには、日本と世界がどのような方向に進みつつあるのか、大まかなイメージをつかむことが必要でした。そこで、明治以降の日本近・現代史を中心に、手当たりしだいに本を読み始めます。「塾」の人たちは、司馬遼太郎ファンが多く、しばしば話題にのぼったことも、一つのきっかけだったかもしれません。

ある方が、日本史の40年周期説を唱えておられました。1868年の明治維新から1905年の日露戦争終結までほぼ40年、そして1945年の第二次大戦終戦まで40年、それから1985年まで経済成長の40年があり、その後、2025年までの40年間に日本の真価が問われるといった内容でした。日本は、欧米への「追いつき型」の政策は得意で、1905年や1980年代にそれぞれピークを迎えるわけですが、追いついた後は、国としてのビジョンがはっきりせず、方向性が定まらなくなってしまう傾向があります。「坂の上の雲」に到達した後は、「坂の下の沼」しか見えない、というようなことを言った方もいました。

1905年以降の40年間は、大正デモクラシーという民主主義(民本主義)的な時期もあったのですが、世界恐慌後の経済危機や大陸における軍部の暴走(満州事変等)、および国内での反乱(五・一五事件、二・二六事件)を通し、国全体が急速に右傾化していきます。その結果、国を挙げての全面戦争へと突入していくことになりました。

私が「塾」にいた1980年代半ば、すでにソ連は弱体化しつつあり、かつて日本の若者たちの多くをひきつけた共産主義や社会主義は、もはや色あせて見えました。価値観の多様化が叫ばれ、何を自らの指針とし、社会を形成する土台とすべきなのか、よく分からなくなっていました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられ、漫才ブームが起こり、難しい話は、流行らなくなっていたように思います。

「追いつき型」の経済復興が終わった後、日本の将来は、よく見えなくなってきていました。当時、中曽根内閣のキャッチフレーズは、「戦後政治の総決算」でした。ある学者は、左翼が力を失った今、かつての世界恐慌のような危機的状況が起これば、日本人の多くが一斉にしがみつこうとするのは、三島由紀夫の「英霊の声」的な価値観だろうと当時、予測していました。私は、その流れを食い止めるには、どうしたら良いのだろうかと考え続けました。

「国家」、「国民」の枠を超え、人々がともに平和で満ち足りた社会を築いていくため、共通の土台となりうることが世界史上、実証されている普遍的な価値観は、何か。私が出した結論は、仏教、イスラム教、キリスト教のどれかであろう、ということであり、最終的にはそれが、イエス・キリストへの信仰へとつながっていったのです。

キリストの次の言葉を実践する人が増えれば増えるほど、日本も世界も、まるで違った光景になっていくのではないでしょうか。

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」(ルカ6:27、新改訳第3版)

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2007年2月 6日 (火)

書道

070203 「塾」で学んだ「日本の伝統文化」は、先日お話した通り、剣道、茶道、書道、座禅でした。このうち剣道は、高校の時に体育の授業で少しやったことがありましたが、茶道と座禅は、全く初めてでした。

書道は、もちろん小学校の授業で誰もが経験しますが、実は私は、小学生の頃、学校以外でも習字を習っていました。あの頃は、英語とピアノ、習字の教室に通い、一時期、絵画も習い、外では野球、家ではプラモデル作りで、さらにテレビや読書、そして時々宿題をやるという生活ですから、よく時間がありましたね。

「塾」では、講師の先生が熱心に指導して下さいましたが、どんな文字を書いたか、残念ながら覚えていません。ただ、寮の共同スペースの和室に、「大忍」と書かれた塾創設者の色紙が飾られていたことを覚えています。志を成し遂げるには、大きな忍耐が必要である、という意味だったのでしょう。そう言えば、座禅の指導に来られていた円覚寺のお坊さんも、「良いものは、すぐには出来ない」というのが口癖でした。

「塾」の自室でも何か書いてみたくなり、「写経」を始めました。といっても、仏教の経典は、どうも読んでもピンと来なかったため、わざわざ中国語の聖書を買いに行き、その聖書のことばを書いてみたりしました。今は、「聖句書道」の講座があったりしますが、当時は、私自身まだクリスチャンでもなく、ちょっと試しに書いてみた程度でした。

米国留学から帰り、七飯に住むようになると、義母が、孫に習字を教えてくれると言います。義母は、長い間、函館で書道教室を開いていました。そこで、私も一緒に行き、習字を再開することにしました。私の希望は、聖書のことばをできれば色紙に書くことでしたので、なかなか上達しない一般の講座はそこそこにして、神様のみことばを書き続けています。

いつまで書いても、さっぱり上手くはなりませんが、主の教えを、昼も夜も口ずさむように何度も「書」き記し、神様から与えられている「道」を、喜んで歩き続けていきたいですね。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」(詩篇1:2、新改訳第3版)

(写真は、先週土曜日に書いてきたものです。)

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2007年2月 5日 (月)

救い主を仰ぎ見る(イザヤ45章)

Flower070205 日本は、有史以来、国が消滅したり、国民の大部分が外国に強制的に移住させられるという経験がありません。そういう意味では、たいへん幸せな国と言えるでしょう。イスラエルは、神様との特別な契約を守らなかった結果、国は滅ぼされ、国民のほとんどが世界中に散らされるという経験を、何度かしています。

アッシリアという国に北イスラエル王国は滅ぼされ、その国民は「失われた十部族」と呼ばれるように、すっかり行方不明になってしまいました。バビロニアという国に南ユダ王国は滅ぼされ、その国民は、征服者たちの国に連れ去られました。この「バビロン捕囚」に遭った人々は、異国の川のほとりにあって故郷を思い、涙を流したという詩が、詩篇137編に残されています。

国土を失い、国民の多数を失い、異国で捕われの身となるという絶望的な状況に置かれていた人々に対し、神様は再び、「救い」の約束を語られました。ペルシヤ王クロスによって、バビロニアは滅ぼされ、捕囚の民は解放され、イスラエルの国が再興されるという預言です。実際、歴史は、その預言の通りに動いていきました。

創造主なる神は、世界のすべてを造られ、歴史を導き、正義を貫かれる真の神様です。だからこそ、この「救い主」であるお方に信頼し、その「救い」に期待して生きていきなさいと、神様ご自身が呼びかけられておられます。昨日の礼拝では、イザヤ書45章を開きました。そこに語られている通り、「救い主を仰ぎ見る」生き方をしていきたいですね。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22、新改訳第3版)

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2007年2月 2日 (金)

世話人

今年、還暦を迎えるというもう一人の元・「塾」職員の方は、塾生が受ける研修の企画・運営を担当しておられたW氏です。入塾から卒塾まで、身勝手で自己主張が強い塾生たちの世話を焼き、日々、苦労が絶えなかったと思います。鳴り物入りで日本全国から集められた、あの輝ける1期生たちの担当を任された人です。かなり、実力を見込まれていたのでしょうね。私は4期生で、W氏としては、2回目の受け持ちでした。

確か、柔道をされていたように記憶していますが、いかにも武道家といった風貌で、短髪で無口、無表情。いつもは背広にネクタイでしたが、家電メーカーの社員というより、警察官か自衛官の方が似合っているのではないかと思えました。当時、塾生がつけたニックネームは、「岩石」です。しかし、この方、意外とインテリで、新左翼の教祖的存在だったという吉本隆明(作家「よしもとばなな」の父)を好んで読み、退職後は、詩人として生きたいそうです。

「塾」も設立後30年近くなり、今はある程度、「かたち」が定まってきたようですが、私が在塾した頃は、まだ試行錯誤の過程にあり、さまざまな「研修」がありました。早朝の清掃、ランニング、朝会から一日が始まり、政治経済や中国古典の講義から日本文化の習得ということで剣道、茶道、書道、座禅の時間までありました。塾創立者を知るために、ということで、家電の工場や販売店での実習も経験しました。W氏が塾生と一緒に受けた研修も、多かったですね。

一番印象に残っているのは、「100キロ歩行」です。体力と精神力を鍛錬する目的だったのでしょうか。塾のあった茅ヶ崎から鎌倉、横須賀を抜け、三浦半島を一周して帰り、100キロを一日で歩きぬくという研修でした。W氏は、塾生と一緒に深夜0時にスタートし、驚くべきスピードで歩き続け、その日の夕刻、トップでゴールします。W氏に負けるものかとライバル心を燃やした同期の塾生たちは、ペース配分に無理をして、ほとんど途中リタイヤしました(笑)。私のチームは、最初からW氏についていくのは無理だろうと思っていたため、ゆっくりと自分たちのペースを守り、夜10時頃、帰塾しました。塾生たちが、ちょっとやそっとでは歯が立たない、実に逞しい「岩石」でしたね。

昨日お話ししたM氏が「案内人」だとしたら、W氏は、「世話人」だったと言えるでしょう。私たちは、多くの人のお世話を受けながら、成長していきます。神様は、そのような人たちを、私たちの周りに置いて下さるのです。神様ご自身が、いつも変わらぬ愛をもって、私たちのお世話を焼いて下さるお方だからです。

「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。」(エゼキエル34:11、新改訳第3版)

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2007年2月 1日 (木)

案内人

私の周りには、団塊の世代のサラリーマンや、その世代を多数雇っている経営者の方はいません。ですから「2007年問題」というのは、あまり身近な話ではなかったのですが、今年、二人の方が還暦を迎え、退職されるということを聞きました。お二人とも、かつて私が在籍した政治家を育成する「塾」の職員だった方々です。某家電メーカーのエリート社員で、一時的にその「塾」に出向しておられました。

(「塾」については、こちら→http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_376d.html

先週の土曜日、都内のホテルで、お二人の「還暦を祝う会」が開かれたそうで、ウェブアルバムのアドレスが送られて来ました。残念ながら、私は行けませんでしたが、お元気そうな様子を、写真で拝見することができました。

退職後、ボランティアや畑仕事をしようかと考えているM氏は、在塾当時、新入塾生の募集や選考の担当で、人なつっこい笑顔が印象的な方でした。入塾試験は、面接の他、ミニサッカーやディスカッションなどがありました。もちろん、試験には真剣に取り組みましたが、ただ一度、やる気を失う場面があったのです。それは、「予算ぶんどりゲーム」でした。

参加者数名が、それぞれ各省庁を代表する大臣として、限られた全体の予算から、できるだけ多くの金額を自分の省庁のために「ぶんどってくる」というゲームです。政治家になれば、そのような場面に遭遇するのかもしれませんが、私は、ゲームの趣旨を聞いた時から、真面目に取り組む気がしませんでした。ただ自分の省庁の懐が暖かくなれば、他がどうなってもいいのか、という思いがあったからです。

一緒に参加した人たちは、熱心に取り組んでいましたが、私は、自分の省庁の主張はせず、結果として、一銭ももらいませんでした。本当の大臣や官僚なら、すぐ失脚でしょうね(笑)。試験には、落ちたと思っていました。しかし、不思議なもので、選考担当のM氏は、どうも「無欲な姿勢」(笑)を評価してくれたようで、それが合格につながったようです。人生、何がプラスになるか、分からないものです。

牧師になる決心をして、塾を離れる時、M氏は、「違う世界に行くことになり、もう会うことがないと思うけれど、頑張って下さい」というようなメッセージを下さいました。政治の道を選択せず、残念ながら、M氏の期待に応えることはできませんでした。神様がなぜ、あの「塾」に私を導かれたのか、実は今でも、よく分かりません。しかし、少なくとも大学卒業後の2年余りの期間、日本と世界の将来を思い、自分は何をすべきか徹底的に考え抜くという、貴重な時間を与えてもらったように思います。

M氏は、そこに私を導くため、神様が備えられた「案内人」だったのでしょう。神様は、私たちが進むべき道を教え、羊飼いのように、私たちを導いて下さいます。

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(イザヤ48:17、新改訳第3版)

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