教育
「教育再生」を語る指導者の見識が、今、問われています。国家主導による教育の目的は、つきつめて言えば、国づくりのために有用な人材を育てるということになるのでしょう。明治維新以降、政府が国民教化に力を入れたのは、欧米列強に肩を並べる近代国家を形成しようとしたからでした。学校教育の場で、「公共の精神を尊び」、愛国心を植えつけようという最近の動向も、「国家形成」という大義名分に沿ったものと言えます。
明治維新が契機となったモノの考え方には、「立身出世主義」もありました。「士農工商」の身分制から解き放たれた人々は、「教育」によって身を立て、世に出て行くことが可能となったのです。これにより「教育」は、人間的成長の機会以上に、「より上の社会」に入るための手段となってしまいます。戦後、すべての学校は偏差値によってランク付けされ、受験競争を勝ち抜いて「いい学校」に進学することは、バラ色の将来を約束するかのようになりました。
これに対して、聖書が語る「教育」は、創造主なる神様によって主導される訓練です。その目的は、神様を信じ、神の国の民とされた人が、人格的に成長し、愛をもって与えられた使命を果たす生き方をするようになることです。それは、もちろん「民族国家」とか「国民国家」といった枠組みを超越しています。どの時代のどこの国に生きる、どんな民族の人であっても、同じ「神の家族」の一員として、愛に満ちた神様のことばにより、教え育てられていくのです。
一人ひとりの人間は、神様から与えられた能力や才能を、それぞれ違った分野で生かし、愛をもって互いに仕え合う者とされています。どこで何を学んだ、どの民族の人であるかが、人間の優劣を決めるものでは一切ありません。神を愛する人はすべて、出世の階段を必死で上らなくても、イエス・キリストにより、すでに圧倒的な「勝ち組」に属していると、聖書に約束されています。
私が聖書大学や神学大学院で学んだのも、決して、「さらに上を目指した」からではありませんでした。神様に与えられている使命を果たしていく上で、より十分な知的訓練の必要を覚えたからです。神様を全身全霊をもって愛し、人々に仕えていくためには、知性をも総動員することが不可欠なのです。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30、新改訳第3版)
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