品格
「日本と世界の進みつつある方向」などという、大きく漠然としたテーマを掲げ、誰の指導も受けず、思いつつまま手当たり次第に本を読み、全く白紙の状態にあった自らの進路を定める、というのは、かなりしんどい作業でした。遅々として進まないそのプロセスは困難を極め、行く先の見えない状況の中、絶望的な気分にもなりました。そんな私の状態が、無気力(アパシー)に見えたのでしょう。他の塾生たちは、私のことを「アパっている」と形容していました。
もちろん、励ましてくれる人たちもいました。保安(守衛)のYさんも、そのうちの一人です。当時、60歳代だったYさんは、戦時中、陸軍の兵士で満州やフィリピンに行き、レイテ島で終戦を迎えたそうです。軍隊生活で上官を見つつ、指導者を見る目が養われたのかどうか、塾生一人ひとりに対する評価は的確なもので、たいへん参考になりました。「この人はダメ」とか「あの人はいいよ」とか、かなりはっきりと意見を言う人でした。塾生たちのことを詳しく知っていたため、「影の塾長」とも呼ばれていたようです。
大学の頃、辞書を片手に原書の出だしだけ読んだ、デカルトの「方法序説」に、こういう言葉がありました。「良識(bon sens)は、この世のものでもっとも公平に分配されている。」Yさんの良識の前では、塾生たちの間でよく話題にのぼったマキャヴェッリもマックス・ウェーバーも、哲学者のハンナ・アーレントも経済学者のハイエクも、まったく関係ありませんでした。いま考えると、Yさんの判断基準は、おそらく「人間性」であり、最近はやりの言葉で言うと、指導者としての「品格」だったのではないかと思います。
手元の国語辞典に、「品格」とは、「節操の堅さ、見識の高さや、態度のりっぱさ、姿の美しさなどから総合的に判断される、すぐれた人間性」とあります。政治家に最も問われるのは結果責任である、というウェーバーの主張も分からないではないですが、だからと言って、品格に大きな問題を抱えた人物が指導者の椅子に座り続けると、その悪影響が多方面に及んでいくと考えられます。道徳の退廃は、長期的に見れば、国や組織を滅ぼすものであり、上に立つ者は、つねに率先垂範を心がけていかねばなりません。
保安のYさんの言葉からは、期待と励ましが感じられました。それは、ただ結果を残すのではなく、品格あるリーダーになっていってほしいという期待だったのでしょう。イエス・キリストが自ら示して下さった、完璧な品格の模範にならう者となっていきたいですね。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6-8、新改訳第3版)
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