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2007年3月

2007年3月26日 (月)

身代わりの計画に感謝する(イザヤ53章)

Flower070325 昨日の礼拝では、イザヤ書53章を開きました。この箇所は、「苦難のしもべ」について預言している有名な箇所です。苦難を受けると予告された「主のしもべ」とは、もちろん、イエス・キリストのことですね。

イエス・キリストは、私たちの精神的苦痛を担って下さいました。まったく罪がないのに捕えられ、有罪宣告を受け、鞭打たれ、人々から罵られ、さげすまれるというのは、たいへんな心の痛みをともなったでしょう。しかも、ほんの数日前には、エルサレム中の人々は、新しい王が来られたと言って、盛大に歓迎したのです。人の心は、変わりやすいものです。

私たちも、豹変する人の態度により、精神的に大きなダメージを受けることがあります。しかし、イエス様は、そんな私たちのすべての精神的苦痛をも、代わりに背負って下さるのです。

キリストは、私たちの肉体的苦痛をも担って下さいました。創造主なる神様が定められた「神の刑法」からすると、人が神から離れてしまうことは、死刑に相当する重大な過失であり、「罪」でした。アダムとエバ以来、私たちは、死すべき重罪を背負って、この世に生まれ出てくるのです。

しかし、キリストは、私たちの罪の身代わりとなって、十字架について下さいました。病や痛み、そして死にともなう肉体的苦痛も、すべてイエス様が代わりに背負って下さったのです。この身代わりの救い主を信じる人は、神様の恩赦を受け、無罪となり、永遠のいのちが与えられると聖書に約束されています。

驚くべきことに、神様は、天地創造のはるかに前、永遠の昔から、この「十字架による身代わり」を計画されていました。私たちを造られる前から、イエス・キリストによる救いが計画されていたのです。そして、救い主イエスを信じ、神の子とされた私たちのため、さらに今後も救われるべき多くの人々のため、キリストは天上において、今なお、とりなしの祈りを続けておられます。

神様が、永遠の愛をもって定められていた「身代わりの計画」に、感謝します。

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5、新改訳第3版)

P.S. 都合により、明日以降、今週の更新は「春休み」とします。また来週、お会いしましょう。この一週間の皆様の歩みの上に、神様の祝福が豊かにありますように。

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2007年3月23日 (金)

ジョイントアカウント

アメリカに行って、すぐしたことの一つは、銀行口座の開設でした。近くに「Sanwa Bank」があったので、そこに口座をつくることにします。私が18歳で上京し、初めて作った口座も確か、すぐ近くの商店街にあった「三和銀行」でした。

上京した時は、振込手数料のことなど何も頭になかったため、親からは、どうしてもっとメジャーな(つまり、札幌にいくつか支店がある)銀行にしなかったのかと、言われたことを覚えています。今は、「三和銀行」は「三菱東京UFJ銀行」になったようなので、これなら札幌にも、間違いなくあるでしょうね(笑)。

Sanwa Bankの口座は、「ジョイントアカウント(joint account)」にしました。これは、夫婦連名名義の口座で、日本ではあまり耳にしませんが、アメリカでは一般的に使われています。この口座のメリットは、チェック(小切手)を切る時、夫の署名でも妻の署名でも、どちらでも支払いが可能だということです。スーパー等、ほとんどのお店でチェックを受け付けますので、現金を持ち歩かなくても良く、たいへん便利です。

教会への献金も、チェックでする人が多かったです。日本とは違って、献金は非課税になるため、「確定申告」の前に、一年間の(チェックで献げた)献金総額がいくらだったか、教会から証明が送られてきます。最初にその手紙を受け取った時は、ちょっとギョッとするとともに、米国の教会では、こんなことまでしているのかと感心しました。

アメリカでは、ジョイントアカウントを作ることが、夫婦になった証しだと聞いたことがあります。私たちは、結婚して5年の後に、やっと夫婦の証しができたのです(笑)。家族一緒に渡米する機会を与えて下さった神様に、感謝します。

「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」(伝道者の書4:9、新改訳第3版)

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2007年3月22日 (木)

リトリート

クレジットカードは、ホテルの予約にも必要なことがありました。聖書大学では年二回、「リトリート」と呼ばれる一泊二日の聖会があり、92年は9月に、山の上のキャンプ場で開催されました。

「リトリート(retreat)」は、「退却」とか、「避難」とかいう意味ですが、クリスチャンの世界では、「日常生活の雑事から逃れ、静かな場所で、神様とともに過ごす安息の時」というような意味で使われます。団体の行事の場合は、「聖会」と呼ばれる特別な礼拝が、たいていプログラムの中心となります。

その時のリトリート会場は、私の属する教団が所有するキャンプ場で、フリーウェイを飛ばして数時間はかかるようでした。宿泊のことを聞くと、家族で泊まれる場所はないようだったので、思い切って、近くのホテルを予約することにしました。

ホテルのリストが掲載されているガイドブックを購入し、会場付近で条件の良さそうなところに電話すると、予約には、クレジットカード番号が必要とのこと。キャンセルされた場合を考慮してだったのでしょうか。この時も、クレジットカードが役立ちました。

配布された簡単な地図をたよりに、何時間も車で走り、ホテル(コテージ)にチェックインした後、キャンプ場を探すのですが、いくら走っても見つかりません。後から分かったのですが、案内板が木で隠れて、見えなかったのです。やっとなんとか探し当てた時は、もうとっぷりと日が暮れていました。

標高1800メートルのキャンプ場は、夜になると気温が下がりました。しかし、陽気な学生たちは、キャンプファイヤーの前で、「I'm freezing.(凍りそうだ)」と言いながら、デザートに出された山盛りのアイスクリームを食べています。長女は少し楽しそうでしたですが、一回り年上の家族持ちの「オジサン」は、若者たちのノリには、ちょっとついていけませんでしたね(笑)。

私たちは時に、リトリートが必要です。それは、神様と静かにお話しをし、精神的にも肉体的にもリフレッシュされ、次の行動を開始するため、充電する時なのです。神様ご自身が、そのようなリトリートのための「避難所」(refuge)となっていて下さいます。

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(詩篇62:8、新改訳第3版)

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2007年3月21日 (水)

クレジットカード

ラップトップを買った時、「NIFTY-Serve(ニフティサーブ)」の会員にもなりました。この「ココログ」を運営するプロバイダー「@nifty」の前身です。日商岩井と富士通の合弁企業だということが、会社名「エヌ・アイ・エフ」の由来と理解していましたが、公式見解ではないようですね。インターネットとWindows95登場前の「パソコン通信」は、画像のない、文字情報だけの会員制ネットワークでした。

今のSNSの「コミュニティ」に相当する「フォーラム」という集まりもありましたが、私は「電子メール」以外、あまり利用しませんでした。アメリカには、CompuServeという大きなネットワークがあり、留学中はこちらを利用できたので、たいへん便利でした。

ニフティサーブの会員になるには、料金の支払いのため、クレジットカードが必要でした。しかし私は、その時、クレジットカードを持っていません。当時、日本で生活する上では、ほとんど必要を感じなかったからです。カードに対しては、あまり良いイメージがなかったので、あまり気乗りがしませんでしたが、これを機会に、初めてカードを作ることにしました。

渡米した際、これが意外なところで役に立ちます。ある日、フリーウェイの上で、車のタイヤがパンクしました。すぐ路肩に停車し、スペヤタイヤに交換しましたが、スペヤ専用のタイヤだったので、そのまま目的地に行くわけにいかず、高速を降りて、ガソリンスタンドでタイヤ交換をしてもらいました。

ところが、現金の持ち合わせがありません。チェック(小切手)は、使えませんでした。この時ばかりは、クレジットカードを持っていて良かったと思いました。何がどこで役に立つのか、分からないものです。すべての必要をご存知である神様が、いつも守っていて下さることを感謝します。

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇121:7-8、新改訳第3版)

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2007年3月20日 (火)

ラップトップ

92年に留学した時、アメリカに持っていったラップトップ・パソコンは、IBMの「PS/55 note」でした。国立科学博物館の「産業技術の歴史」サイトによれば、これは「初のノートブックPC」だったそうです。(http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?18=&key=102090041079&APage=460

私は、そんなことは何も知りませんでしたが、パソコンに詳しい知り合いの牧師から、秋葉原で安く売っているという話を聞き、買いに行きました。留学すれば、レポート作成に必要だろうと思ったからです。秋葉原の小さな店で、一式15万円で購入しました。プリンターも必要だったので、Canonの「BJ-10v」という小さなA4バブルジェットプリンタを購入しました。

パソコンに詳しい牧師は、たいへん親切な方で、初期設定もしてくれました。日本語ワープロ「VJE-Pen」に英文ワープロ「Word Perfect」、名簿管理用の「The CARD 3+」、ファックス用に「STARFAX」、日本語Windows3.0、そしてパソコン通信用のプログラムもセットしてくれました。40MBのハードディスクの中に、よく入りましたね。

壊れないように、ラップトップとプリンター、そしてケーブルと付属品すべてが入る、大きくて頑丈なキャリングバッグを買い、渡米の際、手荷物として持って行きました。この他に、ハードケース入りのギターと巨大なスーツケースが2個(帰国時は、さらにベビーカーとベビーシートも)ありましたから、ずいぶんな荷物でした。しかし、このパソコンは、たいへん重宝しました。

留学中は、ほぼ毎日パソコンに向かい、レポート書きをしました。「塾」の方からお願いされた「塾報」用の原稿は、パソコン通信経由で日本に送りました。渡米前に年賀状やクリスマスカード用の住所録をすべて入力しておきましたので、郵便物の住所はすべて、ラベルにプリントするだけでした。

帰国後は、依頼された本の翻訳にも、このラップトップが活躍しました。2、3年前、子どものおもちゃにしようと保管場所から出してきたら、もう全く動かなくなってしまいました。パソコンも、与えられた使命を全うしたのでしょうかね(笑)。神様が、パソコンの必要をすべて満たして下さったことを感謝します。

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19、新改訳第3版)

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2007年3月19日 (月)

目を覚まし行動を開始する(イザヤ52章)

Flower070318 一日の始まりは、いつからでしょうか。午前0時からでしょうか。多くの人が目覚める「朝」からでしょうか。聖書的な時間感覚では、実は、一日は夕刻(日没)から始まるのです。

創造主なる神様がすべてを造られた時、「夕があり、朝があった」という表現が、何度も繰り返されています。今も多くのユダヤ人によって守られている安息日も、金曜の日没から土曜の日没までの24時間のことを指します。一日は、働いた後に休むのではなく、十分に休養をとった後、働き始めるのです。

私たちが休んでいる時、神様は「夜なべをして」、まどろむことなく働いておられます。私たちの周りの環境を守り、いのちを支えていて下さいます。私たちが起きて働き始める時まで、必要な準備を前もって終えて下さるのです。そして、朝が来たら、耳元で優しくささやいて、「もう時間だから、目を覚まして、行動を開始しなさい」と、私たちを揺り動かして下さいます。

バビロニアで70年を過ごしたイスラエルの民には、もう起きるべき時が来ていました。異邦の地で眠っている時は、終わったのです。立ち上がり、神様から注がれる新しい力を帯び、約束の地に向かって、再び前進する時が来ました。過去には、国が滅ぼされ、苦しみや屈辱、そして心の傷がありました。しかし、神様は、すべての傷をいやし、回復をもたらし、救いの知らせを全世界に伝えるという使命を、神の国の民に与えて下さっています。

「目を覚まし、行動を開始しなさい。」神様は今、21世紀の日本に生きる私たちにも、同じように呼びかけておられます。日本は長い間、霊的に眠っていました。しかし、もう真実の光が差し、目覚めるべき時刻となっています。創造主なる神様が、私たちに与えて下さっている大切な使命を知り、立ち上がって前進する時が、すでに来ているのです。

「エルサレム」は、私たちの象徴です。神様は、その町をあがない(買い戻し)、救い、慰めて下さいました。世界中の人々が、その神様の素晴らしいみわざの証人とされています。私たちも真実に目覚め、神様の救いを知り、その良い知らせを伝えるため、主が遣わされる所どこにでも喜んで向かって行きたいですね。

「エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖(あがな)われたから。…地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。 」(イザヤ52:9-10、新改訳第3版)

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2007年3月16日 (金)

大学でのサバイバル

私の方も、留学先の聖書大学では、サバイバルでした。アメリカの大学は、日本の多くの学校と異なり、入学が比較的やさしいのに対し、卒業は簡単ではありません。入学志望者を多くとるかわり、クラスでは容赦なく、どんどん落としていく仕組みです。学生も、自分で学費を稼ぎながら通学するケースが多く、お金がなくなったら次の学期は休学したりします。若い人は、特に「4年間」(あるいは短大資格や学士入学の「2年間」)に、こだわっていない雰囲気でした。

しかし、家族をかかえつつ、法律上、バイトもできない留学生の私は、そんな悠長なことは言っていられません。全クラスを、決して落とさない覚悟で臨みました。成績評価は、基準がはっきりと決まっていて、出席と発言、定期テスト、読書課題、そしてレポートに基づいて評価され、さらに毎回、小テストがあるクラスもありました。

苦労したのは、講義の聴き取りと読書課題、そしてもちろんレポートです。よく聴き取れるよう、必ずいつも早めに行って、一番前の席に陣取り、先生の一言一句に神経を集中させました。おかげで、教授陣の印象は良かったようですが、授業が終わると毎日ヘトヘトになりました。

読書課題は、特に最初の頃、分量の多さに圧倒されました。日本では、速読を心掛けていましたが、それでも学期ごとに、英語の学術書を何冊も読まなければならないとなると、心理的なプレッシャーが、かなりありました。家で読むのはもちろん、妻や娘をショッピングに連れて行った時も、店や車の中で本を読み続けたりしました。

レポートは、聖書大学では1クラスあたり10ページ程度、後の神学大学院では20ページ程度のものを書いたように思います。日本語で書いて翻訳したりすると、かえって手間なので、最初から英語ですべて書きました。書斎(後に長女のベッドルーム兼用)となった部屋の机の上に、日本から持っていったIBMのラップトップを置き、辞書や参考文献と格闘しながら、カタツムリの歩みのように一文一文、書き進めていきました。

プレッシャーを強く感じる時、夜、一人でよく外に出て、星空を見上げつつ祈りました。アパートの前は、教会の広い駐車場で、街灯も明るく輝いていました。危険な地域ではなく、夜になれば、まず人通りもなかったので、神様と「二人きり」になるには、都合の良い場所です。私は、車止めに腰を下ろし、静かに、主とお話ししました。神様が、いつも私を励まして下さり、「サバイバル」の中、助け続けて下さったことを感謝します。

「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」(詩篇22:24、新改訳第3版)

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2007年3月15日 (木)

サバイバル・イングリッシュ

留学した時、4歳だった長女は、教会の敷地内にあったプリスクール(保育園)に行くことになりました。一人で時間をもてあましていたことと、英語習得のためです。親はもちろん、日本の学校でしっかりと英語を勉強し、単語と文法、そして慣用表現を頭に叩き込んでからアメリカに来ました。しかし、娘は、基礎知識ほとんどゼロの状態で、いきなり英語の環境に飛び込んだのです。

留学前、ある年配の女性が、私たち夫婦にこう言いました。「あなたたちはいいけれど、子どもがちょっと、かわいそうね。」小さな子は、外国語習得が早いから大丈夫だろうと、タカをくくっていました。すると、ある晩、長女が風邪で高熱を出して寝ている時、寝言を言います。「コトバがわからないの…。」起きている時には、そんなことは一言も言いませんでした。胸が痛みました。

意味不明の「音」をしばらく喋った後、長女が初めて口にした、英語の「文」は、「Don't touch me(私にさわらないで)!」でした。食事をしている時、突然、そう言ったので、妻は驚いたようです。プリスクールでは、アジア系の黒いストレートヘアの女の子は、珍しかったのかもしれません。小さな子どもたちは、さわるにも、遠慮などないですからね。これこそ、サバイバル・イングリッシュ(「生き残りの英語」?)だと思いました。

長女は、その後、教会付属の幼稚園と小学校1年生を修了し、日本に帰ることになります。帰国の直前には、私たちとの会話もほとんど英語になり、親の発音を直すまでになりました。帰国後は、英語を忘れないよう妻がいろいろと気を遣った結果、力を維持することができ、中学や高校では、地域のスピーチコンテストにも出場させてもらいました。海外からお客さんが来た時も、英語で会話し、簡単な通訳もこなしています。

先日受験した一つの大学に、今朝、合格が決まりました。神様の恵みに感謝します。英語力をさらに伸ばしていきたいというのが、本人の希望のようです。主なる神様が計画して下さっている最善の道を歩み続け、その愛によって成長し、神様の豊かな祝福を自ら体験して、周りの人にもその恵みを分かち合っていくような生き方をしていってほしいと、願っています。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5、新改訳第3版)

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2007年3月14日 (水)

ロスのアパートに落ち着くと、まもなく、子猫がやって来ました。ある日、私たちのアパートのドアの前に現れたのは、片手にも乗りそうな小さな猫で、しきりに中に入りたがっています。長女は、飼いたがりましたが、猫を飼うのもタダではありません。教会のアパートで飼っていいのかも、分かりませんでした。

周りの人に聞くと、声を合わせて、「飼ったらいいじゃないか」と言います。よく考えれば、周りは、犬や猫を飼っている人ばかりでした。ただ、できるだけ留学中は余分な出費を抑えたかったので、一晩、玄関ドアの外において、神様のみこころを祈り求め、次の日の朝までそこにいたら飼うことにしました。

翌朝、玄関のドアを開けると、驚いたことに、子猫がすかさず中に入って来ます。そこで、長女の希望通り、うちで飼うことにしました。後で聞くと、隣に引っ越して来た猫好きの若い女性スタッフが、外にいる子猫をかわいそうに思い、その晩は、自分のベッドで一緒に寝たという話でした(笑)。

猫の名前は、「Kiki」にしました。茶と白と黒の混じった、美人ならぬ「美猫」でした。最初は、ミルクを飲ませていましたが、そのうちキャットフードを食べさせるようになりました。プラスチック製の「トイレ」と、その中に入れる砂も買ってきました。必要なワクチンの注射にも、何回か連れて行きました。いやがるのを押さえつつ、ノミとりシャンプーで全身を洗ったこともあります(笑)。

アメリカ流(ロス流?)に、動物病院で2回、手術も受けさせました。1回目は、前足の爪を抜く手術です。これは、猫を家の中だけで飼う場合、壁や家具に傷をつけないためのものです。そして、少し後になってから、避妊手術もしました。この時は、あまりにショックが大きくて人間不信に陥ったのか、家に帰ってきてからしばらく、私たちに近寄って来ませんでした。

猫は、犬と違って実にマイペースで、見ていて羨ましいくらいでした。養育するため、確かに費用はかかりましたが、子どもが喜んだだけでなく、私自身も、「いやされた」ような気がします。宿題に追いまくられ、プレッシャーに押しつぶされそうになる時、のんびりと昼寝をしているKikiを見ると、何だかホッとしました。

帰国する時には、ほしいと言ってくれた教会員の人に、ゆずって来ました。うちでペットを飼ったのは、その時だけです。神様が、留学中の慰めのために、特別に遣わして下さった猫かもしれませんね。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(IIコリント1:4、新改訳第3版)

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2007年3月12日 (月)

救い主に心を留める(イザヤ51章)

Flower070311 自分は一体、何者なのか。どこから来て、どこに向かっているのか。多くの人は、その答えを持っていません。自分の本来の出処を知らず、あるいは認めることができず、人生の終着点である「帰るべき故郷」をも見失っているのです。

「人はみな、創造主なる神様により、すばらしい目的をもって造られた」と聖書は告げています。まったく無の中から、意味もなく生まれ、単細胞生物から偶然によって進化してきたわけではありません。科学がどんなに進歩しても、無から有を生み出すことはできません。何十億年かけようが、無は無のままです。偶然が度重なって、無秩序の中から、高度な秩序をもった生物が生まれることもありません。自然のままでは、秩序は失われていくのです。これは、熱力学の第二法則、通称「エントロピーの法則」と呼ばれます。

まったく何もない状態から、宇宙が誕生し、地球が生まれ、動植物が生息し、人類が登場したのは、奇跡としか言いようがありません。しかも、そこに高度な秩序が存在し、知性と愛情をもつ生命体が生きているのは、やはり知的で愛のある設計者が綿密に計画を立て、組み立てたとしか考えられないのです。すべてにしっかりとした計画を立て、詳細な設計を施し、奇跡を起こされたこの「知的で愛に満ちた設計者」こそが、創造主なる神様であると、聖書は教えています。

罪を犯して楽園を追放されたアダムとエバの子孫に対し、神様は、「新しいエデン」である永遠の神の国(天国)を用意しておられます。救い主イエス・キリストを信じる人は、すべて神の国の民とされ、帰るべき「天の故郷」に向かうことができるのです。

昨日の礼拝で開いたイザヤ51章は、救い主である神様にいつも心を留めていなさいと、呼びかけています。このお方こそが、私たちが本来、何者であり、どこから来てどこに向かっているか、教えて下さるからです。私たちを創造し、無意味で無目的な生き方から救って下さった神様に、感謝します。

「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。…わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。…島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。」(イザヤ51:4-5、新改訳第3版)

(明日13日は、都合により更新をお休みします。皆様の上に、神様の祝福がありますように。)

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2007年3月 9日 (金)

ロン&ヘレン

フローレンス・アベニュー教会は、優秀なスタッフにも恵まれていました。総務、会計、音楽、カウンセリング、チャイルドケア&教会学校(乳児~成人)、レディース、シニア、シングル、高校生、中学生、付属小学校、聖書講座の各分野において、フルタイムのスタッフがいました。皆さん、とても気さくで親切でしたが、その中で一番お世話になったのは、ロンとヘレンの夫婦です。

ロン・メイ牧師は、以前、オハイオ州で主任牧師をしていましたが、教会内で聖書講座を創設するため、前年からフローレンス・アベニューに来ていました。東部では、肉のセールスをしながら教会を開拓し、聖書大学でも教えていたそうです。奥様のヘレンも、家計を支えるため、店員をしていたとのこと。私たちがお会いした頃は、50代後半だったのではないでしょうか。ロンは、多弁で愉快なヤンキーという雰囲気で、ヘレンは、無口で優しい、引っ込み思案の女性でした。

私たちが教会のアパートに入った当初は、すぐ隣がロンとヘレンでした。彼らは、3人の子どもや孫たちから遠く離れていたせいか、4歳になっていた私たちの長女をたいへん可愛がってくれました。長女にとっては、アメリカのおじいちゃん、おばあちゃんのようで、彼らが隣の棟に引っ越した後も、毎日のように家に遊びに行き、近くのお店に行っては、何か買ってもらっていました。

ロンは、博士号こそ持っていませんでしたが、偉大な聖書学者のようで、私が質問をすると、明確な答えが必ず返ってきました。留学中に私が書いたレポートのほとんどすべては、提出前にロンが目を通し、文法的な間違いを指摘し、英語らしい言い回しを教えてくれました。ロンのオフィスは、聖書や神学関係の本が揃ったちょっとした図書室のようで、参考文献も気軽に貸してくれました。私にとっては、いつもそばにいる家庭教師のようであり、またアメリカ人の父のようでもありました。

ある時、ロンのお父さんのことを聞くと、子どもの頃、沖縄戦で亡くなったと言います。私は日本人として、たいへん申し訳ないような気持ちがしましたが、そう伝えると、「そんなこと、気にすることはない」と言って、笑っていました。

車がない時には、あちこち連れて行ってもらったり、和食のレストランでご馳走になったりもしました。私たちが帰国した翌年、東部に帰ったということですから、あたかも、私たち家族のお世話係として、神様がロサンゼルスに送ってくれたかのようです。神様の、十分な心遣いに感謝します。

「まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰めてくださいます。」(詩篇86:17、新改訳第3版)

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2007年3月 8日 (木)

ポール&マリリー

「教会全体の雰囲気は、主任牧師夫婦の品格と相互の関係により、大きな影響を受ける」というのは、私の持論です。だからこそ、牧師(「監督」)になる人の条件について、「家庭をよく治める」という項目が、聖書に記されているのでしょう。私自身、心していかなければなりません(苦笑)。米国で滞在したフローレンス・アベニュー教会の主任牧師夫妻は、私たちにとって、素晴らしいロールモデル(模範)でした。

ポール・リッサー牧師は、南部の牧師家庭に育ちました。お父さんは、牧師になる前は、ビジネスマンでした。姉妹の一人が結核で、死の床についていた時、医者は、「もう医学的には、治癒の見込みはない。カリフォルニアにいやしを行う有名な伝道者がいるから、そこに行ってみてはどうか」と勧めたそうです。その人の名は、エイミー・センプル・マクファーソン。フォースクエア教団の創始者でした。彼女の集会では、何万人もの群集がその場で奇跡を目撃し、最盛期には救急車がそこに病人をおいて帰っていったそうです。

ポールの「おばさん」は、カリフォルニアで奇跡的に結核がいやされ、その後、長寿を全うしました。高齢になっても、検査をすると、肺だけはティーンエイジャーのようだと医者が言ったそうです。ポールのお父さんは、それをきっかけにフォースクエアの牧師になります。南部の人口3,000人の小さな町にある、1,000人の教会でした。

ポールは、最初、牧師にはなりたくなかったようです。聖書学校で出会ったマリリーと結婚し、テキサスの教会に赴任しましたが、礼拝の翌日、毎週月曜日には辞表を書いていました。しかし、そんなポールの可能性を信じ、励まし続けたのが、マリリーでした。辞表は結局、提出されなかったようです。男の子3人に恵まれたポールとマリリーは、その後、カリフォルニアに転任し、そこで教会は大きく成長します。マリリーの「見立て」は、まさに正しかったのです。

私たちがポールとマリリーに出会った時、彼らはおそらく50代後半で、もうお孫さんもいました。いつもフォーマルにドレスアップしたお二人でしたが、ジョン・ウェインのような西部劇に出てくるカウボーイと、西部開拓時代を生き抜く逞しさを心に秘めた、美しい女性のような印象がありました。私たちにいろいろと気を遣って下さり、本当に良くしていただきました。そして、何より、大きな励ましを受けたように思います。それは、きっと自分たち自身が、多くの励ましを通して、そこまで歩み続けてきたからではないでしょうか。

私たちの帰国後、ポールは、米国教団の代表に選出されます。エイミーから数えて、4代目でした。そして、5代目の方に代表を引き継いだ今なお、世界中に講師として招聘され、励ましのメッセージを語っています。私たちの模範となる、素晴らしい牧師夫妻との出会いを用意して下さった神様に、感謝します。

「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」(Iテサロニケ5:11、新改訳第3版)

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2007年3月 7日 (水)

フローレンス・アベニュー

カナダ国境からメキシコ国境まで、ワシントン、オレゴン、カリフォルニアの各州を北から南に延びる高速道路、それが「I-5(インターステート・ファイブ)」と呼ばれるフリーウェイです。シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴの各都市は、このフリーウェイで結ばれています。

この「I-5]と「I-605」というフリーウェイが交差する地点には、「フローレンス・アベニュー」という幹線道路が走っています。直訳すれば、「フィレンツェ街」です。以前、イタリア系移民がその道沿いにいたのかどうかは知りませんが、私たちが住んだフリーウェイの分岐近くの場所は、イタリア系より、ヒスパニック系の人たちが目立つ地域でした。当時、近隣の人口は70万人ほどで、その半数近くがヒスパニック系、その他アングロ系4割、アジア系1割、アフリカ系3%という人口構成です。

「フローレンス・アベニュー」に面していた教会には、この人口構成を反映するかのように、さまざまなバックグラウンドの人が集まっていました。礼拝は、日曜朝2回と夜1回の計3回で、朝の二つの礼拝の合間に、年齢層別の教会学校が無数にありました。大人向けの教会学校もたくさんあり、各集会は30人前後の規模です。これは、日本だと一つの教会の大きさですが、担当教師は、多くの場合、普通の教会員が分担して行っていました。水曜夜にも、年齢層別の集会が多数ありました。

人数が増えると、「家族的な雰囲気」が失われる場合が多いようです。しかし、「フローレンス・アベニュー」の教会は、1,500人を超えても、赤ん坊から車椅子のお年寄りまで、温かな帰属意識をもった、一つの「ファミリー」のようでした。これは、もちろん神様の愛によるものですが、親の信仰を受け継いだ子どもや孫、そして曾孫たちが、礼拝にともに集っていたこともあったのでしょう。

神のことばを、愛をもって次の世代に引き継いでいく時、「神の家族」である教会は、家族的な雰囲気を保ちつつ、成長していくことができるのでしょうね。

「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。」(申命記6:6-7、新改訳第3版)

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2007年3月 6日 (火)

アパート

92年夏、国外に流浪した(笑)私たち家族が、カリフォルニアで住むことになったアパートは、私が親元を離れてから住んだアパートの中で、最も広い場所でした。大学に入って最初に住んだのは、杉並区永福町で四畳半一部屋、次は池袋の六畳一間で、その後、茅ヶ崎、代々木上原、函館と一間暮らしが続きました。

所沢に移り、結婚する時に、四畳半と六畳の2Kのアパートに住むことになります。駅やスーパーから近い、便利な場所でしたが、築16年くらいでシャワーはなく、お風呂はガス点火式のため、冬でも換気口を開けておくように言われました。おかげで一酸化炭素中毒にはなりませんでしたが、風呂場の気温は、真冬で摂氏2度くらいまで下がりました。

留学した聖書大学には、学生寮があったのですが、当時はまだ家族向けの寮がありません。学校で住む場所を斡旋してもらおうかと考えていたところ、ある牧師から、自分の教会のスタッフ用アパートに無料で住まわせて下さるというお話がありました。

この教会は、私たちの教団が生まれた1920年代初頭に、聖書大学の学生たちによって開拓されたもので、1972年にポール・リッサー牧師が引き継いだ時、300人くらいのメンバーだったようです。その後、教会は順調に成長し、私が留学した頃には、教会員は1,500人を超えていました。1,200人収容の新しい音楽ホールのような教会堂に、小学校を併設し、数百台とめられそうな広大な駐車場には、レストランやファストフード店、美容室、コインランドリー、クリーニング屋、そしてテナントで一時、酒屋(後にドーナツ屋)までありました。

教会オフィスの建物は2階建てで、一階が事務所スペース、二階がスタッフのアパートとなっており、そこには7世帯くらい入っていました。私たちの住んだ場所は、ベッドルームが2つにリビングルームとダイニングキッチンがありました。リビングとダイニングキッチンは、合わせて20畳くらい、ベッドルームは8~10畳くらいあったでしょうか。もちろん、バスルームにはシャワーもついています。

この広いアパートに、無料で住まわせていただいたことは、私たちにとって大きな恵みでした。「広い場所」は、神様の救い(そしておそらく「天国」)を象徴しています。神様が、私たちのため、十分に広い住まいを備えて下さっていたことに感謝します。

「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。」(詩篇118:5、新改訳第3版)

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2007年3月 5日 (月)

主に信頼し、拠り頼む(イザヤ50章)

Flower070304 最近、年をとったと感じるのは、子どもたちの芸能情報についていけない時です。タレントさんを見ても、名前が覚えられず、誰が誰なのやら、ほとんど区別がつかないこともあります(笑)。土曜夜にテレビを見ていたら、若いイケメン男性が、ある料理番組にゲストで出演していました。この方は、「EXILE」というヴォーカル&ダンス・ユニットに属するとのこと。「『EXILE』って、知ってる?」と子どもたちに聞くと、彼らは当然、知っていました。

私の注意を惹いたのは、番組で紹介していた美味しそうなパスタだけでなく、ゲストの「EXILE」というユニット名でした。「Exile」というのは、「バビロン捕囚」という意味があります。紀元前6世紀に、イスラエル(ユダ王国)が滅ぼされ、国民の多くがバビロニアに連れて行かれたという出来事のことです。その他に、どういう意味があるのだろうと辞書を引くと、「国外追放、国外(異境)生活、亡命、流浪、流刑」、あるいは「追放者、亡命者、流罪人」と書いてありました。

ヴォーカル&ダンス・ユニットの方が、どのような思いでこの名前を選んだのかは、知りません。ただ、紀元前6世紀のイスラエルの人々は、確かに国外に追放され、国外生活を余儀なくされ、流刑に処せられたような感覚があったようです。国は滅び、帰ることのできる故郷も、もうありませんでした。そのような人々に対し、神様は、あなたたちを見捨てたわけでは決してないと、励ましのことばを送られています。

創造主なる神様は、絶望的な状況から救って下さり、どのように生きるべきかを教えて下さり、いつもともにいて私たちを助けて下さいます。暗闇の中にいるように感じている人、将来に希望を見出せない人に対し、神様は、わたしに信頼しなさいと呼びかけておられるのです。若くても年老いていても、子どもであっても大人であっても、どんな中に置かれていようとも、神様の愛は、変わることがありません。このお方に、いつも信頼して歩んで行きたいですね。

「暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」(イザヤ50:10、新改訳第3版)

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2007年3月 2日 (金)

児童会

今週、小5の次女が児童会の次期副会長に当選しました。長女は小6の頃、児童会長をし、長男は小4で児童会書記をしています。姉と兄からは、妹が副会長になれば、三役揃い踏み(笑)だと、ずいぶん前からプレッシャーがかかっていました。しかし、次女は一向に関心がない様子だったため、クラスで推薦されて選挙に出ると聞いた時には、少々意外でした。

テレビ演説と立会演説会の後、投票が行われ、他の男子候補2名を接戦の末、退けたようです。最近は、児童会執行部への「女性進出」は目覚しく、新6年生の三役は、すべて女の子です。そう言えば、昨日、長女の高校の卒業式で、ピアノ伴奏をした前生徒会長も、みごとな挨拶をこなした卒業生代表も、両方とも女子でした。将来、子どもを産もうが産むまいが、立派なリーダーとしてさらに成長し、活躍していってほしいですね。

リーダーシップというのは、人々に対する影響力のことで、それは「ゆめ」、「つとめ」、「きずな」という3つの要素から成り立っています。「ゆめ」とは、あるグループが進むべき方向、ビジョンのこと。「つとめ」とは、その方向に進むために、グループが果たすべき使命や働き。「きずな」とは、人間関係のことです。学校は、勉強だけでなく、リーダーシップの訓練が行われる場でもあります。最近は、社会のひずみが、子どもたちの世界に反映されてきていることを感じます。そんな難しい状況を乗り越える力を、身に着けてもらいたいものです。

私と妻も、かつて児童会執行部に名を連ねたことがあります。私は、3回落選して、4回目にやっと当選しました(笑)。神様は、すべての状況を用いて、私たちを訓練されます。それは、私たち一人ひとりを、大切な子どもとして育てていて下さるからです。児童会という「訓練プログラム」に、子どもたちが加えられていることを感謝します。

「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命記8:5、新改訳第3版)

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2007年3月 1日 (木)

卒業式

今日は、長女の卒業式でした。1年前からドレスを着ると言い、夏頃、衣装屋さんに予約を入れ、今朝は、早くから美容室に出かけました。美容室に迎えに行った妻は、アテンダー(介添え人)のようにドレスのすそを持ち、ワゴン車で学校まで送りました。私は運転手で、夫婦揃って娘の付き人のようです(笑)。

娘とその近しい友人だけ派手なのかと思いきや、そうではありません。卒業式は、まるで成人式か、コスプレの会場のようです(苦笑)。女の子は、ドレスと着物が半々で、たった一人だけスーツでした。男子は、大半がダークスーツで、袴の子たちも、少しいました。今日一日で、函館周辺の衣装屋さんと美容室は、ずいぶん潤ったのではないでしょうか。

一人ひとりに卒業証書が手渡され、校長と来賓、卒業生代表の話の後、卒業生による合唱がありました。コブクロの「YELL~エール~」という曲です。「今 君は 門出に立っているんだ 遥かなる道をゆくんだ 誇り高き勇者のよう・・・」と歌いましたが、240人いるにしては静かな歌声でした。受験で練習不足だったのでしょうが、声量だけで判断すれば、勇者のようではありませんでしたね(笑)。

高校の卒業式は、大人の世界に進んでいくための一つの通過儀礼(区切りの儀式)のようです。大人になるということは、自分で進むべき道を選択し、自分でその責任を負っていくということでしょう。親のできることも、だんだん限られていくように思います。

卒業生の一人ひとりが、これからどのような道を歩んでいくのか、詳しくは知りません。時には、間違った選択をしてしまったり、痛い思いをするようなこともあるでしょう。しかし、そのような経験を通しても、どの道が正しい方向で、何が本当に良い物なのか、見分ける力(知恵)を養っていけるよう、エールを送りたいと思います。若い人たちに負けないよう、親の世代も、さらに成熟を目指していきたいですね。

私たち一人ひとりといつもともにいて、守り育てて下さる神様に、感謝します。

「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(ヘブル5:13-6:1、新改訳第3版)

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