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2007年4月16日 (月)

主の水を求める(イザヤ55章)

Img_00312 小学校の頃、よく野球をして遊んだグラウンドのすぐ向かい側に、小さなオフィスがありました。それはどんな会社だったのか、今となってはまったく分かりませんが、そこにいた人たちは皆、とても親切でした。玄関を入ってすぐの場所に、当時としてはまだ珍しかったウォータークーラーが置いてあり、小学生の私たちに、その水を飲ませてくれたのです。

暑い中、運動してたっぷり汗をかき、のどが渇いた私は、その冷たい水を飲むと生き返るような心地がしました。外の水道で手や汚れた靴底を洗うように言われたようにも記憶していますが、それにしても、汗だくで泥まみれの悪ガキたちを、建物の中によく歓迎してくれたものです。よほど心の広い方たちだったのでしょう。

人は、水なしに生きていけません。聖書の中でも、「水が豊かにある状態」は神様の祝福を象徴し、反対に、「砂漠の地」や「渇いた荒野」は、神様から離れることによってもたらされる「さばき」や特別な訓練を象徴しています。

イスラエルの民は、神様に従わなかった結果、「捕囚」という荒野の中にいました。その「渇いた」民に対して、神様は、救いと回復を約束して下さったのです。そして、その救いは、ただイスラエルの人々だけでなく、世界中の民族にもたらされると語られています。

渇いた者は、誰でも求めさえすれば、神様が与えて下さる「いのちの水」を手にすることができます。「水」は、聖霊なる神様の象徴でもあります。聖霊は、私たちのスピリチュアル(霊的)な目を開き、神の真理を教えて下さり、罪から救われ、「永遠のいのち」が与えられた人の心の奥底に内住して下さいます。そして、私たちの心を満たし、神様の恵みの豊かな流れの中に「浸して」下さるのです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と、主は言われます。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」とも呼びかけられています。私たちが、どんなに汗まみれ、泥だらけで汚れていても、愛に満ちた神様は、「水」を求める私たちを喜んで受け入れて下さいます。ダビデの子孫として生まれ、私たちに救いの契約をもたらされた、主イエスの素晴らしい恵みに感謝します。

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。…耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(イザヤ55:1&3、新改訳第3版)

(写真は、昨年暮れに教会員の方が作って下さったステンドグラス。フォースクエア教団のロゴで、イエス・キリストが救い主、いやし主、聖霊のバプテスマの授け主、来たるべき王であることを表している。左下のハトは、聖霊の象徴。ちなみに撮影は、12月にまだ七飯にいた長女)

P.S. またまた都合により(最近、多い?)、明日以降、今週の更新をお休みします。また来週、お会いしましょう。

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