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2007年5月 7日 (月)

主の栄光をあらわす(イザヤ61章)

Flower070506 「人生の目的は何ですか?」

先月、ある人から、突然、質問されました。日本人は、だんだん年を取ってくると、こういう質問は「青臭い」と言って、しなくなる傾向があります。だからと言って、この問いに対する答えをはっきり持って生きている人ばかりかと言うと、必ずしもそうとは思えません。いつかは分かるだろうと、結論を先延ばしにして、そのままになってしまう人が多いかもしれませんね。私にとっては、久しぶりに聞く質問でした。

質問した人は、米国人の牧師であり、彼はもちろん、明確な答えを持っていました。ただ、議論を前に進めるための、補助的な質問だったのです。私は、ちょっと考えて、こう答えました。

「神様の栄光をあらわすこと。」

彼も、私に同意してくれました。聖書には、すべては創造主なる神様の栄光のために造られ、神を信じる人は、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(Iコリント10:31)と記されています。

では、「栄光をあらわす」とは、具体的にはどういうことなのでしょう。神様は、私たちに救いの喜びを与えて下さり、主イエスを信じる私たちを、本来あるべき姿へと少しずつ回復させて下さり、そして愛をもって仕え合う私たちを、豊かに祝福して下さいます。世界中に蒔かれた種が芽ばえるように、神様による喜び、回復、祝福が人々の前に明らかにされていくこと、それが、「栄光をあらわす」ことなのです。

神様の栄光をあらわす人々は、豊かに生い茂り、大きく成長した「樫の木」に例えられています。樫の木は、櫂にも使われた堅い丈夫な木のようです。私たちも、自らの堅実な生き方を通して、神様からいただいた喜び、回復、祝福を人々に語り告げられるような、立派な木になっていきたいですね。

「彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(イザヤ61:3、新改訳第3版)

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