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2007年5月

2007年5月31日 (木)

ラマーズ法

第一子誕生の時は、所沢に住んでいて、妻は函館の実家に帰って出産しました。最初から帰郷するつもりであり、しかも予定日より3週間も前、私が知らないうちに、帝王切開で生まれたので、立会いも何もありませんでした。

ところがアメリカでは、父親がいる場合、立ち会うのが普通だと聞きます。しかも、妻は、病院から指導を受け、ラマーズ法で産みたいので、夫婦一緒にクラスに出なければならないと言い出しました。

私は勉強に追いまくられ、スケジュール的に目一杯だったので、難色を示すと、妻は悲しげな顔をします。日本に帰って産むという選択肢も事実上、無理な話であり、異国でお産をする不安感もあったかもしれません。そこで、意を決して、クラスに出ることにしました。

初めてのクラスが開かれる土曜日、朝早くに長女を友人の家に預け、近くの病院に行きました。30代前半くらいで自分も出産経験がある、日系女性の看護師の方が講師です。集まったのは、10人ほどのお腹の大きな妊婦たちと、その夫や家族、友人たちのようでした。立会人は「コーチ」と呼ばれ、必ずしも夫でなくても良いそうです。

ラマーズ法は、1)お産に対する正しい知識、2)産むことに対する前向きな意志、3)呼吸法による痛みの軽減、4)立会いによるリラックスの4つにより、出産の苦痛や不安をできるだけ軽くしようというものだそうです。最初に渡された「読書課題」の分厚い資料は、妊娠・出産用語ばかりで何を書いているのかさっぱり分からず、読むのにたいへん苦労しました(笑)。

5、6回のクラスで、まったくの「素人」を妊婦の「コーチ」として育成し、あたかも医療スタッフの一人であるかのような扱いをするのは、さすがにアメリカ社会です。どこに行っても、「専門家に任せて素人は引っ込んでいろ」という態度が見え隠れする、どこかの国の文化とはまったく違った、自由と自発性に満ちた国の底力を感じました。

私たちも、人を育てる時、専門家か素人かにやたらとこだわらず、神様が与えて下さる自由と自発性を尊重していきたいですね。「キリストのからだ」と呼ばれる教会は、人格的に成長するコミュニティです。神様が、一人ひとりの個性と主体性を尊重しつつ、育てて下さることを感謝します。

「キリストによって、からだ(教会)全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16、新改訳第3版)

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2007年5月30日 (水)

イッツ・ア・ボーイ!

米国留学中、妻が第二子を身ごもったことが分かりました。私は、結婚当初から、子どもは3人くらいほしいと思っていましたが、妻は自分自身が一人っ子で、子どもは一人でいいと言っていました。アメリカの教会で、3人以上子どもがいる多くの楽しげな家族と接するうち、妻の心が変えられたようです。

留学して最初の1年間は、海外旅行者用の保険しか入っておらず、出産はカバーされていなかったようです。友人が、妊娠しているかどうかを無料で調べてくれる施設に、妻を連れて行ってくれました。「Pro-Life(プロ・ライフ=中絶反対派)」と「Pro-Choice(プロ・チョイス=中絶賛成派)」の二つの施設があり、プロ・チョイス側に行くと、何をされるか分からないという話で、プロ・ライフの施設に行ったそうです(笑)。

妊娠が分かった後、その友人の家に行き、プールとガレージのあるバックヤード(裏庭)で、乾杯したそうです。5月の暑い日で、真っ青な南カリフォルニアの空の下、そよ風が心地よかったとのこと。グラスに注がれたのは、ビールでも、ワインでも、シャンパンでもなく、「クールエイド」という、粉末を水に溶かしてつくるジュースだったそうです(笑)。

米国で出産するということが、どういう意味があるのか、私はよく知りませんでした。ですから、教会の牧師の一人から、「計画したのか」と聞かれても、ピンときません。よく聞くと、アメリカ生まれの場合は、自動的に米国籍が得られるという話です。成人後に、どちらの国籍にするか、選択するのだそうです。

5歳くらいになっていた長女は、弟がほしいと言いましたが、1回150ドルも払って、超音波で調べると、女の子だそうです。長女は、ちょっとがっかりしました。私が神学大学院に行くようになり、ちゃんとした保険に入ると、病院が変わりました。もう一度、超音波で調べたところ、今度は、「It's a boy!(男の子です)」と言われます。「グッドニュース」に、長女は、大喜びでした。

男の子でも女の子でも、私と妻にとっては、第二子が与えられて嬉しかったです。いのちを与えて下さった神様に、感謝します。

「全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。」(創世記28:3、新改訳第3版)

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2007年5月29日 (火)

自殺

現職の閣僚が自殺しました。今日はどの新聞も、朝刊一面トップのようです。国会議員、とりわけ大臣の先生方は、国を代表する指導者であり、国民に模範を示すことが期待されています。それだけ注目度も高く、疑惑があれば、厳しい追及もありうるわけですね。精神的に追い詰められていたのかもしれませんが、今回、このような結果になったことは、たいへん残念です。

人間、誰しも、自分の意志によって生まれて来るのではありません。創造主なる神様が、いのちを与えて下さるのです。一人ひとりに授けられたいのちを、神様は、熱い思いをもって、いつくしんでいて下さいます。親が赤ん坊のわが子を抱いた時、いとおしく感じるのと同様、いやずっとそれ以上に、神様は、私たちのことを愛して下さっています。私たちが、どんな極悪非道の罪人であったとしてもです。

自殺した方が、どんな政治信条を持ち、これまでどのような歩みをしてきたのか知りません。政治的な判断や道徳的な感覚については、ひょっとしたら、ずいぶん私と考えが違っていたかもしれません。しかし、それでもなお、授けられたいのちを自ら絶ってしまうことは、してほしくなかったですね。神様も、貴重ないのちの一つが失われたことを、たいへん悲しまれているのではないでしょうか。私自身、何度も自殺を考えたことがあったので、一層そう感じます。

政治家や社会の各方面で活躍されるリーダーの方々は、大きな責任を担っています。人々に、たくさんの影響を与えます。他の人たちが自らのいのちを大切に生きるお手伝いをするためにも、まず自分自身のいのちを大切にしてほしいと願います。

クリスチャンは、「高い地位にある人たち」のため、祈り続けていかなければなりませんね。

「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(Iテモテ2:1-3、新改訳第3版)

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2007年5月28日 (月)

主にあって楽しみ喜ぶ(ヨエル2章)

昨日は、ペンテコステでした。クリスチャン以外の日本人にとって、この「ペンテコステの祭り」ほど、分かりにくい教会行事はないのではないでしょうか。私も、クリスチャンになりたての頃、「ペンテコステ」という言葉が(日本語の)聖書のどこに出てくるのか、探したことがあります。その結果、分かったのは、結局どこにも出ていないということでした(笑)。

旧約聖書には、3つの大きな祭りが記されています。過越(すぎこし)の祭り、七週の祭り、仮庵(かりいお)の祭りです。3つとも、エジプトでの奴隷生活から、神様が解放して下さったことを感謝するお祭りです。

「過越の祭り」(Passover)では、いけにえの小羊が神様にささげられます。人々の罪の身代わりとしてささげられる小羊の血により、神様のさばきが「過ぎ越され」、民に救いがありました。イエス・キリストもこの祭りの時、「神の小羊」として、十字架につかれたのです。3日後の復活をお祝いするイースター(復活祭)は、毎春、世界中のキリスト教会でお祝いされていますね。

「七週の祭り」(Feast of Weeks)は、その「過越」から50日経った初夏のお祭りです。この「七週の祭り」は、小麦の収穫が始まる時期のため、「初穂の刈り入れの祭り」とも呼ばれます。新約聖書では、「50日の祭り」という意味で、「五旬節」(または「五旬祭」)と訳されています。この「五旬節」の原語(ギリシア語)が、「ペンテコステ」(英語では"Pentecost")になります。

「仮庵の祭り」(Feast of Tabernacles)は、秋の収穫祭です。収穫を感謝するとともに、かつて荒野で味わった苦難を忘れないようにと、「仮庵」(仮設の小屋)を作って、そこで食事をします。アメリカでは感謝祭(Thanksgiving Day)をお祝いしますが、日本の教会では、秋にする行事は特に決まっていませんね。

イエス・キリストは復活後、40日間、弟子たちとともに過ごし、天に昇られました。その一週間後、ペンテコステの日に、ともに祈っていた弟子たちに聖霊が注がれ、初めて「教会」が誕生します。聖霊に満たされた人々は、他国のことばで話し出し、祭りに集まっていた世界中から来た人々が、ペテロのメッセージを聞いて信仰を持ちました。「その日、三千人ほどが弟子に加えられた」と記されています。

ですから、ペンテコステは、全キリスト教会の誕生日にあたります。雨や穀物、ぶどう酒、油は、神様の祝福を象徴していますが、そのうち雨(水)とぶどう酒、油は、信じる人々に注がれ、人々を喜びで満たす聖霊をも象徴しています。神様の偉大な恵みに感謝します。

「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。」(ヨエル2:23-24、新改訳第3版)

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2007年5月25日 (金)

中学の恩師

今晩は、東京で、札幌の中学校の同期会が開かれるようです。20人くらい参加しそうだと聞きましたが、残念ながら私は、出席することができません。どうも、昨日のブログの「楽しげなクラス」の人たちが、中心になっているようです。30年経った今でも、楽しそうですね。

私にとって中学3年間は、「激動」の期間でした。父の転勤で、住み慣れた札幌を離れ、千葉県の中学校に入学。1年と1学期をそこで過ごし、2年の2学期から、また札幌に戻ります。3年間を通して、4人の担任が受け持つ、4つのクラスに所属しました。

中1のクラスは、荒れていました。全体がバラバラで、まとまりがなく、大学を出て間もない女性の担任は、反抗期に入った子どもたちに手を焼いていました。確か、英語が専門でしたね。私は、生徒会書記に選ばれたことを口実に、クラスのことはノータッチで、「まとめ役になってほしい」と言う先生の要望には、まったく応えようとしませんでした。すべてが新しい環境で、小学校からの友人が一人もいない、という理由もありました。

中2の1学期のクラスは、美術を教えるベテランの男性教師が担任でした。この先生は、後から聞くと、良い先生だったらしいですが、私がいた3ヶ月間は、まだその本領を発揮されていないようでした。私は、「冤罪」でビンタされたことがあり、あまりいい思い出がありません(苦笑)。

中2の2学期から、転校生として札幌に戻りました。千葉にいた1年余り、荒れた中学校でもまれたせいか、私自身がすっかり変わっていました。誰に対しても身構えるようになり、他の人から見ると、雰囲気が恐かったそうです。担任は、数学が専門の男の先生でしたが、まとまりも、やる気もないクラスで、私以外に(笑)、「問題児」と言われた生徒もいました。千葉の中学から比べると、たいへん平和な学校で、「問題児」も、私にとっては心根の優しいクラスメートでしたが…。

中3になる時、クラスは持ち上がりだったのですが、担任だけが変わりました。新たな担任のT先生は、恐るべきスーパーウーマンで、クラス全体がメンバーチェンジしたかのように「変容」しました。何人かのリーダーを育て、彼らを中心に全体が一つとなり、目標にチャレンジするクラスに生まれ変わったのです。「問題のクラス」を、短期間で「優良クラス」に変身させてしまう手腕を持つスーパー教師は、このT先生しか見たことがありません。

国語が専門で、「本を読みなさい」と、よく言われました。ノートの作り方、文章読解の方法なども、しっかりと叩き込まれました。ケンカを仲裁し、リーダーの一人であった私のやり方にも、時々チェックが入りました。「問題児」を含め、クラス全員が現役高校入学を果たした時は、たいへん嬉しそうでした。いま思えば、T先生との出会いは、神様が用意して下さった特別な「邂逅」だったようです。

昨年、札幌で同期会があった時は、小樽から一人で車を運転して来られました。まだまだお元気で、パワフルですね。私は、教員免許を取っても、教師にはなりませんでした。もし教師になったとしても、T先生のレベルには、決して到達しなかったかもしれませんね。

「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」(マタイ10:24-25、新改訳第3版)

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2007年5月24日 (木)

赤坂見附

昨日は、赤坂見附にも行きました。この駅も、久しぶりでしたね。大学4年の頃、英語の教員免許をとるため、文学部のあるキャンパスから教養学部のキャンパスまで、毎週、通いました。最後に「英作文」の単位だけ残ってしまい、それは教養学部のクラスでしか、取れなかったからです。その時、乗り換えに使ったのが、赤坂見附でした。

イギリス人の先生が教えている英文学のクラスを、「英作文」の単位として認めてくれるということでしたが、私はほとんどイギリス文学に不案内で、レポートも何を書いて良いか分かりません。そこで当時、凝っていた宮本武蔵について(もちろん英語で)書きました(笑)。成績はみごとに「C(可)」。専門に行ってから、唯一の「C」で、たいへん印象に残っています。今、思えば、せめて「シャーロック・ホームズ」にしておけば良かったですね(笑)。

乗り換えに使っただけですから、赤坂見附の駅で降りたことはなかったと思います。昔から、変わった名前だと思っていましたが、「見附」というのは、江戸城の城門のことのようですね。36箇所あったうちの一つが、「赤坂見附」だったそうです。「赤坂」とは、もともと「あかね坂」だったようで、現在、迎賓館のある高台が、赤土でアカネが多く採れる土地だったとのことです。

昨日は、その赤坂見附で下車し、中学校時代の「プチ同期会」がありました。と言っても、最終便に乗るまでの1時間余り、カフェで3人の方とお話ししただけでしたが。そのお三方は、中学の頃から仲良しトリオだったようで、今も親しい関係が続いているというのは、驚きですね。私とはクラスが別でしたが、外から見ていて楽しげなクラスで、中3の当時は、ちょっと羨ましく感じていました。まさか30年ほど後に、東京で、互いに子どもの話をするとは思いませんでしたね(笑)。

何でも分かち合い、心の支えとなってくれる友人がいる人は、幸いですね。イエス・キリストを信じる人は、イエス様が友人となって下さいます。神様が私たちを慰め、励まして下さることを感謝します。

「香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。」(箴言27:9、新改訳第3版)

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2007年5月23日 (水)

新橋

C11_070523 久しぶりに、東京・新橋駅前の機関車「C11」の前に行ってきました。出張で空き時間ができたためです。報道番組で東京のビジネスマン(特に一杯ひっかけたオジサンたち)にインタビューする時は、新橋駅前が多いですね。昼間行っても、もちろんスーツ姿の人が多い町です。私も、会社勤めを続けていれば、今もその中の一人だったかもしれません。

機関車は昔から好きで、小学校の時は、親戚の叔父さんにお願いして、小樽築港の機関区に写真を撮りに連れて行ってもらったことがあります。私が一番好きだったのは、有名なD51(デゴイチ)ではなく、「シロクニ」と呼ばれたC62でした。小6(?)の頃は、部屋に写真ポスターを飾っていたように思います。

新橋駅前に飾ってあるのは、C11です。蒸気機関車がある場所は、「SL広場」と呼ばれているようですね。夏の間は、函館-大沼間を、同じC11が走っています。七飯駅のあたりを通るのは午前10時半ころで、私の家からも時折、汽笛が聞こえます。

「追い付き型近代化」を目指した明治政府は、1869(明治2)年、鉄道建設を決定し、1872(明治5)年、新橋・横浜間に初めて蒸気機関車が走りました。その後、全国に広げる鉄道網のほんの一部とは言え、3年間で建設したのですから、まさに国家の威信をかけた大事業だったのでしょう。それにしても、明治期の「高度成長」の速さは、恐るべきものがあります。

「汽笛一声新橋を…」で始まる鉄道唱歌は、もう若い世代の人たちには、ほとんど知られていないかもしれません。しかし、この歌の替え歌は、日本のクリスチャンの間ではたいへん有名で、おそらくかなりのロングヒット曲となっています。今でも、教会学校で教えているのではないでしょうか。

「創・出・レビ・民・申命記…」と歌われるこの曲は、歌詞を全部覚えると、聖書66巻の巻名とその順番が分かるようになっています。私も、クリスチャンになって最初の頃、覚えました。分厚い聖書のどこに何書があるのか、すぐに見つける上では、いちいち目次を開く必要がないため、たいへん便利です。

鉄道唱歌を最初に作った人は、まさか聖書巻名の替え歌ができるとは、思っていなかったでしょう(笑)。明治期に恐るべきスピードで「西洋近代文明」を身に付けたように、いつか日本の多くの人々が、神様のみことばを驚くべき速さでマスターする時が、来てくれると良いですね。

「みことばに心を留める者は幸いを見つける。 主に拠り頼む者は幸いである。」(箴言16:20、新改訳第3版)

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2007年5月22日 (火)

恥ずかしながら…

先日、中学校の同級生から突然、メールがありました。私が牧師をしていることを友人から聞き、たいへん驚いているとのこと。まあ、聖人君子とはほど遠い、昔の私を知っている人は、驚いて当然でしょうね(笑)。「聖人君子とはほど遠い」という点では、今もたいして変わりがないかもしれませんが(苦笑)。

使徒パウロという人は、紀元1世紀の当時、ユダヤ人として最高の教育を受けた人でした。彼は、その教えに忠実に従って、クリスチャンたちを迫害します。ところが、ある時、不思議な形で主イエスと出会い、彼自身がクリスチャンとなり、今度は逆に迫害される側の人間となりました。そして彼は、神様の導きにより、ヨーロッパに初めて「神の国」の信仰を伝えていったのです。

「あのサウロ(パウロの旧称)がクリスチャンになり、各地に新たな教会を開拓している」というニュースは、かつてのサウロを知る人たちにとっては、大きな驚きだったでしょうね。パウロ自身、自分は信仰を持つ前、知らずに罪を犯していた「罪人のかしら」だと語っています。

私も、かつての自分を振り返ると、「恥ずかしながら、牧師をしています」という感じですね(苦笑)。神様が、どんな人をも救って下さることを感謝します。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(Iテモテ1:15-16、新改訳第3版)

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2007年5月21日 (月)

主の恵みを求めて祈る(イザヤ63-64章)

Flower070520 「天にまします我らの父よ…」で始まる「主の祈り」は、クリスチャン以外の人々にも、広く知られているようです。先日は、映画の中でアメリカ人警察官が祈った場面をご紹介しましたが、日本のテレビドラマでも、以前、「主の祈り」のシーンを見たことがあります。北海道・富良野を舞台にした、倉本總脚本の「北の国から」です。

確かある夜、クマに襲われそうだと勘違いした純と蛍が、ふとんにもぐって、必死に「主の祈り」を唱えます。彼らは、どこであの祈りを覚えたのだろうと、不思議に思いました。「神様、助けて!」というストレートな祈りでなく、あたかも日曜学校で教えられたそのままのように、「み名があがめられますように。み国が来ますように…」と祈っていたのは、いかにもけなげで、可愛らしかったですね。

聖書には、「主の祈り」以外に、たくさんの祈りが出てきます。アブラハム、モーセ、サムエル、ダビデ、ソロモン、エリヤといった旧約聖書のヒーローたち、そして主イエスやペテロ、パウロといった新約聖書のリーダーたちは、後世の模範となるような祈りをのこしています。詩篇は、祈りと賛美を集めたもので、祈りの教科書とも呼ばれます。私たちは、これら多くの祈りをモデルとして、最初に祈った人々や他にも同じ祈りをした人たちと心と思いを一つにし、神様の前に祈ることができます。

祈りは、神様との対話です。特別な時間、特別な場所を設けることができれば感謝ですが、そうでなくても、いつでもどこでも、何をしていても、私たちは、神様とお話しすることができます。神様は、主イエスを信じる私たちといつもともにいて下さり、私たちとお話しすることを喜んでいて下さるのです。

恵みを求める私たちの祈りに、しっかりと応えて下さる神様に、いつも感謝していきたいですね。

「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」(イザヤ63:7、新改訳第3版)

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2007年5月18日 (金)

串だんごと生タマゴ

3年くらい海外に住むと、妙なものが無性に食べたくなるもので、私の場合、それは串だんごと生タマゴでした。所沢に住んでいる時、駅から帰宅する途中の商店街に、美味しいお団子屋さんがありました。まだお店が開いている時間に帰った時は、よくお餅や串だんごを買って帰りました。

ロス周辺では、お餅は発見したのですが、串だんごが見つかりませんでした。3年間、団子の断食です(笑)。帰国後、1回くらいは所沢駅近くのお店に行くことができました。あのお店の味は、格別でしたね。その商店街は、最近ずいぶん様子が変わりましたので、今も同じ場所で営業しているかどうかは、ちょっと分かりませんが…。

生タマゴも、なかなか食べられませんでした。日系二世の教会員の方から、「タマゴは生で食べない方がいいよ」と言われたからです。どうも保存方法が違ったようです。ある時、妻は、近くのスーパーで買ってきた卵で、目玉焼きを作ろうとしました。すると、殻を割った瞬間に腐った臭いが広がり、何と、卵の中身は緑色だったそうです!日本のスーパーでは、ちょっと考えられませんね。(ちなみにその後、当のスーパーはつぶれたそうです。)

ディズニー・アニメ「美女と野獣」のガストンや映画「ロッキー」の主人公が、生タマゴをいかにも見せ付けるようにして食べるのは、要するに、普通の人はそのように食べないことの裏返しなのでしょう。

生タマゴ抜きの生活を続けていたある日、ロスのダウンタウンにあった日本人向けスーパーで、「生で食べられます」と張り紙のある卵を見つけます。私と妻は、喜んでそれを買って帰り、舌鼓を打ちました。その日の夜は、ご飯と味噌汁、そして納豆も一緒だったかもしれません。これぞ典型的な日本食ですね。

モーセに率いられてエジプトから脱出し、荒野を40年間歩いたイスラエルの民は、エジプトで慣れ親しんだ食物を食べるわけにはいきませんでした。私たちも、神様から与えられる「日ごとの糧」が何であろうと、決して文句を言わず、感謝していただきたいですね。

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(申命記8:2-3、新改訳第3版)

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2007年5月17日 (木)

イカとタコ

イカとタコは、多くのアメリカ人にとって、不気味な存在のようです。妻が大学生の頃、留学先のテネシー州に、実家からイカの姿そのままの珍味が送られてきました。ルームメイトの実家に持って行ったところ、みな気味悪がり、最後まで口にしない人もいたそうです。

2年前、米国ワシントン州から、私たちの教会に高校生のチームが来た時、最後の晩にイタリア料理店に行きました。妻は、ここで土産話づくりのサービス心からか、取分け用にイカスミスパゲッテイを注文します(笑)。男性陣は、口の中を真っ黒にしながら食べていましたが、女性たちは、さすがに食べませんでしたね。一人だけ食べようとした女の子は、最初の一口でもどしそうになり、水をがぶ飲みしていました(笑)。

チームの男の子は、イカを見ると、「スクイーティ(Squidy)!」と叫びました。そう、映画「マトリックス(The Matrix)」のシリーズに出てきた、イカ(squid)のようなロボット(?)のことです。人間たちが巨大で強力な「イカ」に追い詰められ、殺されそうになるというのは、昔からハリウッド映画によくあるストーリーですね。それだけ不気味さが感じられるのでしょう。

タコも、「不気味さ」では負けていません(笑)。滞米中は、妻はよくテレビで「スタートレック(Star Trek: The Next Generation)」を見ていましたが、そこに出てくるクリンゴン星人は、タコの足を食べていました。タコを食べるのは、やはり「異星人」のように感じられるのでしょうか(苦笑)。そう言えば留学中、なぜか無性に「たこ焼き」が食べたくなっても、当時は残念ながら、どこにも見つけられませんでした。

「パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)」に出てきたデイヴィ・ジョーンズも、「スパイダーマン2(Spider-Man 2)」に出てきたドック・オックも、タコのイメージでした。人間を襲う、うす気味悪い存在というイメージがあるのでしょうね。

サンディエゴにある「シーワールド(SeaWorld)」の水族館で、タコがガラスの壁面に吸盤で張り付いているのを見た私は、妻と顔を合わせ、思わず「美味しそう」と口走りました(笑)。もう帰国間際でしたから、新鮮なタコに飢えていたのでしょう。

ちなみに先日、済州島に行った時は、観光客相手に海女の人たちが、活きたタコの足を一本ずつ切り分け、その場でお酒と一緒に販売していました。私は、食べてみたかったのですが、前の旅行でお腹をこわしたため、「マシケッタ(美味しそう)」と声を掛けつつも、食べるのを控えました。韓国の人は、タコは大丈夫のようですね。

聖書に出てくる「海の巨獣」レビヤタン(Leviathan=リヴァイアサン)は、サタン(悪魔)の象徴とも考えられています。救い主なる神様が、この「巨獣」を打ち砕いて下さり、神の民の「餌食」として下さったことを感謝します。

「確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行われる方です。あなたは、御力をもって海を分け、海の巨獣の頭を砕かれました。あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。」(詩篇74:12-14、新改訳第3版)

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2007年5月16日 (水)

シーフード

北海道のシーフードというと、カニを思い浮かべる人が多いかもしれません。何年か前に、あるサモア人の牧師が、札幌に行った時、カニをご馳走になって、たいへん美味しかったと言っていたことがあります。もちろん、美味しい店はたくさんあるのでしょうが、安くはないので、家庭の食卓に頻繁に上がるものではありません。「でも高いよね」と、思わず私が言うと、その牧師は苦笑していました。

庶民の味として、よく食卓に上がる北海道の海産物は、鮭とホッケでしょうか。鮭は、そのまま焼いたり、ムニエルやフライにしたり、醤油や味噌につけたり、鍋物にします。ホッケは、フライや煮付けにし、干物は焼いて食べます。

函館周辺は、イカが美味しいです。刺身はもちろん、一夜干しや醤油漬けを焼いたり、煮付けたりして食べます。イカ飯というのもありますね。イカの体の中に、もち米をつめて、煮たものです。ホタテの稚貝というのも、安く売っています。小さくて間引かれたものだそうで、味噌汁にすると最高です。活ホタテは、刺身が美味しいですね。

首都圏に住んだ時は、北海道の新鮮な海産物が手に入りにくくなりました。カリフォルニアに行った時は、もうほとんど食べられなかったですね。月に一度、フリーウェイを30分走って、日本人向けのスーパーに買出しに行きましたが、そこに売っていて、口に合いそうな魚介類は、マグロとサーモンの刺身くらいでした。いつ獲れたか不明のイカの刺身には、なぜか塩味がついていて、函館出身の妻にとっては、許しがたい味だったようです(笑)。

新約聖書には、魚に関係した話がよく出てきます。使徒ペテロやヤコブ、ヨハネも漁師でした。4つの福音書すべてに記されている「5000人の給食」と呼ばれる奇蹟のエピソードでも、群集が一緒に食べるのは、その場に居合わせた少年が持っていたパンと魚です。庶民にとって、ごく身近な食べ物だったのでしょうね。

「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。」(マタイ14:19-21、新改訳第3版)

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2007年5月15日 (火)

タラ

先週土曜日、ご近所から、タラを2匹いただきました。そちらの奥様は、趣味が海釣りのようで、今、釣って帰ってきたばかりだというのです。いただいたのは、一番小さいという話でしたが、2匹とも体長50センチくらいあったでしょうか。海から直接、わが家まで泳いできたかのような、そのままの雄姿です。

妻は最近、手首の調子が良くないので、私が包丁を入れることにしました。私も、魚をさばくなど初めてなので、妻の指示に従い、まず頭を切り落とそうとします。出刃包丁はないので、普通の家庭用包丁で切ろうとするのですが、タラの表面がぬるぬるとすべり、なかなかうまく切れません。包丁も、切れが悪かったようですが、タラも最後の粘りを見せたのでしょうか(笑)。

「頭」と格闘している最中、うっかり口の中に指を入れ、小指を「噛まれて」しまいました。土曜夜と日曜朝の礼拝で、ギターを弾かなければならなかったので、作業が終わった後、しっかりと消毒し、止血しておきました。これも、タラの「粘り」だったかな(笑)。何年か前に、生きているホタテを初めていただいた時も、殻から身を取り出す際に、うっかり爪を傷めたことがあります。下手くそでも、一応ギター奏者なので、気をつけなければなりませんね。

頭は、妻がすぐ煮物にして、土曜夜と日曜昼にいただきました。日曜夜は、タラのクリームシチューです。たらこスパゲッティもついたので、「親子ディナー」でした。残った身は、味噌漬けにしたり、冷凍したようです。そう言えば、京都に行った長女も最近、味噌仕立ての「タラ汁」を作ったと言っていました。近頃、タラとご縁があるようですね。

私も東京で一人暮らしを始めた頃、タラのムニエルを作ったことがあります。「ムニエル」が何なのかもよく知りませんでしたが、料理の本に出ていたので、その通り作ってみました。その時のタラも、美味しかったですが、釣ってきたばかりのタラには、もちろんかないませんね。

聖霊なる神様は、いのちの水の川に例えられています。神様は、私たちにいのちを与え、成長する環境を整え、養い育てて下さいます。その水にたくさん群がる魚たちは、祝福の象徴なのでしょう。いただいたタラを通しても、私たちを祝福して下さった神様に感謝します。

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:9、新改訳第3版)

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2007年5月14日 (月)

未来のために祈り続ける(イザヤ62章)

先日、ニコラス・ケイジ主演、オリバー・ストーン監督の映画「ワールド・トレード・センター」を見ました。映画館ではなく、DVDを借りて来てです。あの2001年9月11日の夜、私と妻は、ニュースステーションの生中継を見ていました。その時は、何が起きているのか、まったく分かりませんでした。現場にいた人たちも、わけが分からないうちに、大惨事に巻き込まれてしまったようです。

映画「ワールド・トレード・センター」は、3000人が亡くなったあの悲劇の中、生き残った20人のうちの2人に焦点を当てた、実話に基づくストーリーだそうです。生存者救出に向かった港湾警察署の警察官たちは、ビルの崩落に巻き込まれ、瓦礫の下に閉じ込められてしまいます。ニュースを見ていた元・海兵隊員は、所属教会の牧師に、「神様が自分を導かれている」と語り、現場に急行します。

同じ場所に生き埋めになった警察官3人のうち、1人は希望を失い、自殺してしまいます。残った2人のうち1人は、幻の中でイエス・キリストと出会い、もう1人は、キリストが弟子たちに教えた「主の祈り」を唱えました。この祈りをしたベテラン巡査部長ジョンを演じたのが、ニコラス・ケイジです。絶望的な状況にあった2人は、「神様に導かれた」海兵隊員に発見され、奇跡的に救出されます。18人目と19人目の生還者でした。

助け出された2人は、家族との再会を思い、生きて帰る希望を捨てませんでした。そして、2人を発見した海兵隊員も、夜に入って捜索が打ち切られる中、生存者を探し続けました。「決してあきらめない」というのが、両者に共通していた姿勢だったように思います。

神様は、私たちに素晴らしい未来を約束して下さっています。信じる私たちを、「見張り人」と呼び、輝かしい未来のため、いつも祈り続けなさいと言われているのです。聖書の中の「エルサレム」は、来たるべき「神の国」を象徴しています。どんな状況の中にあっても、希望を失わず、あきらめず、「主の祈り」にある通り、「御国が来ますように」と祈り続けていきたいですね。

「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」(イザヤ62:6、新改訳第3版)

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2007年5月11日 (金)

親と教師の協力関係

長女の幼稚園は、小学校と同じく、午前8時30分から午後3時まででした。ただ、幼稚園生の場合は、「お昼寝」の時間がありました。それにしても、幼稚園としては長い「就学時間」ですね。帰ってきてからも、たくさん宿題がありました。

最初は、「フォニックス(Phonics)」という、つづり字と発音のお勉強です。これは、日本でも最近、英語学習の上で注目されているようです。保護者も宿題を一緒にして下さいということで、「フォニックス」は、私と妻にとっても勉強になりました。教会学校のように、毎週、聖書の一節の暗記(暗唱聖句)もありましたね。

中休みの時間には、おやつも食べて良いということで、毎日、お菓子とお弁当を持っていきました。ごはんと卵焼き、唐揚げ、そしてウサギさんの形に切ったリンゴを、キティちゃんのお弁当箱に入れて持っていったところ、先生が感激して、「これこそ日本のお弁当だ」と、子どもたちに紹介したそうです。

おにぎりを持っていった時は、周りの子どもたちが、「スッシー(sushi)!」と叫んでいたとのこと(笑)。中身のタラコを見た子に「それは何だ」と聞かれ、「魚の卵(fish egg)」と答えると、今度は「ヤック(yuk=キモイ)!」という反応だったそうです(笑)。これこそ草の根日米文化交流ですね。

ちなみに、アメリカ人のお弁当は、手作りのサンドイッチがあれば手が込んでいる方でした。一番簡単なのは、スーパーで売っている「ランチャブル(Lunchables)」という、クラッカーでハムとチーズをサンドイッチするセットです。これにリンゴまるごと1個とか、バナナ1本だけというのが、いかにもアメリカ風のお手軽ランチセットでした。

保護者と教師の「垣根」が低く、親はいつでも、授業の参観ができました。先生のアシスタントをするボランティアも募集していました。遠足などの行事にも、親はついていくことができます。誕生日の子がいると、親は、クラスメート全員に、おやつの差し入れをしました。「バースデー・スパンキング(birthday spanking)」が、メイン・イベントです。これは、年の数だけお尻を叩かれるというもの。もちろんジョークで、軽く叩いたようですが(笑)。

聖書では、子どもの教育の責任は、親にあると教えています。教会付属「クリスチャン・スクール&キンダーガーテン」の先生たちは、それをよく理解していて、保護者との良好な協力関係を築こうとしておられたようです。

「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。」(申命記32:46、新改訳第3版)

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2007年5月10日 (木)

3つの誓い

長女が2年間通った幼稚園と小学校では、日本人が考えるような「入学式」がありませんでした。青空の下で行われた最初の「朝礼」で、ビデオを撮っている親はいましたが、歌を歌うこともなく、校長先生の言葉もほんの一言で、子どもたちはすぐに教室に入ります。長々と続く「式」を予想していた私は、拍子抜けしました。

最初の「朝礼」にあったどうか、記憶していませんが、普段行われる全校の「朝礼」では、子どもたちが、3つの誓いの言葉を唱和しました。どの順番だったか分かりませんが、「アメリカ国旗への誓い」、「クリスチャン旗への誓い」、そして「聖書への誓い」です。

「アメリカ国旗への誓い」は、よく耳にしますね。「私は、アメリカ合衆国の旗と、それが表す共和国――すべてに自由と正義をもたらす、不可分の、神の下の一つの国への忠誠を誓います」(私訳)というセリフです。

「クリスチャン旗への誓い」は、こういう文言でした。「私は、クリスチャンの旗と、それが表す神の国の救い主――十字架につかれ、よみがえり、再び来られ、信じる者すべてにいのちと自由を与えられる、唯一の救い主への忠誠を誓います。」(私訳)

「聖書への誓い」は、こうです。「私は、神の聖いみことばである聖書に忠誠を誓います。私は、それを私の足のともしびとし、私の道の光とし、神様に罪を犯さないよう、私の心のうちにそのみことばを隠し持ちます。」(私訳)

可愛らしく唱和していた幼稚園児や小学校低学年の子たちが、これらの誓いの意味を、どれだけ理解していたかは不明です。そこにいた多くの子どもたちは、もう成人になっていると思いますが、大人になっても、神様のみことばに従い、真のいのちと自由を自分のものにしていってほしいですね。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105、新改訳第3版)

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2007年5月 9日 (水)

教会付属幼稚園&小学校

長女が入園した幼稚園は、教会の敷地内にある付属幼稚園でした。渡米1年後、93年9月のことです。当時は、幼稚園年長クラスと小学校が併設されていました。(今は、中学校もあるようです。)私たちが住んでいたアパートのすぐ裏手が学校で、家の玄関を出て階段を下りると、すぐ横に学校の門がありました。通園・通学時間0分です。

もちろん、聖書に基づいた教育を行う私立校で、制服があり、それなりの学費も決まっていました。支払うつもりで入園させたところ、感謝なことに学校側のご厚意で、学費は無料にして下さいました。最近、話題の「特待生」です。留学期間中、私は無職でしたから、たいへん助かりました。

入学前に、契約を交わします。「体罰」に関する内容でした。担任からの注意が5回になった子は、校長室に連れて行かれます。1回目は、校長先生が口頭で注意するだけですが、次に連れて来られた時は、専用の棒でお尻を1回、叩かれるということでした。校長と子どもが1対1ではなく、必ず、他のスタッフ立会いの下です。

言うことを聞かない子というのは、世界中どこに行ってもいるのでしょうが、この「体罰契約」には驚きました。親と教師の合意の下、はっきりと決まった形の体罰が行われる、というのは、実に合理的な方法ですね。たいていの子は、恐れをなして(笑)、叩かれるまで行かなかったようです。

愛をもって子育てをする、というのは、ただ甘やかすということではありません。正しい生き方を自分で選択していくことができるよう、教え導くということですね。先生やスタッフの方々は、そのような意味で、たいへん愛に満ちた人たちのようでした。

「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13:24、新改訳第3版)

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2007年5月 8日 (火)

1年生を迎える会

今朝は、妻と2人で、小学校の「1年生を迎える会」に行ってきました。わが家に小1の子がいるわけではなく、小6の次女が、迎える側で挨拶をし、ピアノ伴奏をする役にあたっていたからです。

桜がきれいに咲いているグラウンドを遠目に眺めながら、校舎に入ると、ちょうど1年生が体育館に入場するところでした。次女は、児童会副会長として、前の方に座っています。妻は娘に、見に行くことを告げていましたが、私は急に行くことに決めたので、何も知らせていません。変に緊張しないようにと、人陰に隠れつつ、見ていました。(バレたかな? 笑)

学年ごとに歌ったり、踊ったり、6月の運動会の紹介をしてみたり、工夫を凝らした内容でした。今回、見に行って、このイベントがなぜ4月ではなく、5月に行われるのかが、よく分かりました。新しい学年になってから、練習期間が必要なのですね。

次女は、挨拶も無事にこなし、6年生の発表の「サザエさん」の器楽演奏や、全校の合唱曲の伴奏も、特に大きなミスはなかったようです。聴いている親の方が、ちょっと緊張していたかもしれません(笑)。1年間、全校集会で歌われ続けたその合唱曲は、いつも家では伴奏しか聞くことがありませんでした。全校で歌っても、やはりピアノの音を中心に聴いていましたね(笑)。

前回、「1年生を迎える会」を見に行ったのは、長男が新入生の時で、長女が児童会会長として挨拶したように思います。次女が小学校で弾くピアノ伴奏も、今回が最後のようです。この1年間の小学校のイベントは、わが家にとって一つひとつが、「最後」になります。うれしいような、ちょっと寂しいような、ですね。

神の国が、私たちの思いをはるかに超えて広がっていくのと同じように、子どもたちも神様に守られ、いつの間にか成長していることに感謝します。

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」(マルコ4:26-27、新改訳第3版)

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2007年5月 7日 (月)

主の栄光をあらわす(イザヤ61章)

Flower070506 「人生の目的は何ですか?」

先月、ある人から、突然、質問されました。日本人は、だんだん年を取ってくると、こういう質問は「青臭い」と言って、しなくなる傾向があります。だからと言って、この問いに対する答えをはっきり持って生きている人ばかりかと言うと、必ずしもそうとは思えません。いつかは分かるだろうと、結論を先延ばしにして、そのままになってしまう人が多いかもしれませんね。私にとっては、久しぶりに聞く質問でした。

質問した人は、米国人の牧師であり、彼はもちろん、明確な答えを持っていました。ただ、議論を前に進めるための、補助的な質問だったのです。私は、ちょっと考えて、こう答えました。

「神様の栄光をあらわすこと。」

彼も、私に同意してくれました。聖書には、すべては創造主なる神様の栄光のために造られ、神を信じる人は、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(Iコリント10:31)と記されています。

では、「栄光をあらわす」とは、具体的にはどういうことなのでしょう。神様は、私たちに救いの喜びを与えて下さり、主イエスを信じる私たちを、本来あるべき姿へと少しずつ回復させて下さり、そして愛をもって仕え合う私たちを、豊かに祝福して下さいます。世界中に蒔かれた種が芽ばえるように、神様による喜び、回復、祝福が人々の前に明らかにされていくこと、それが、「栄光をあらわす」ことなのです。

神様の栄光をあらわす人々は、豊かに生い茂り、大きく成長した「樫の木」に例えられています。樫の木は、櫂にも使われた堅い丈夫な木のようです。私たちも、自らの堅実な生き方を通して、神様からいただいた喜び、回復、祝福を人々に語り告げられるような、立派な木になっていきたいですね。

「彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(イザヤ61:3、新改訳第3版)

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2007年5月 4日 (金)

お花見

Img_09131 Img_09192 昨日は、家族でお花見ツアーに行って来ました。函館に住む妻の両親をピックアップし、まずトラピスチヌ修道院を見学、その隣にできた「市民の森」でお弁当を食べます。トラピスチヌ修道院は、長男と次女は初めてだったようです。修道院の辺りは、少し高台になっていて気温が低いのか、桜はまだでしたね。

お昼ごはんの後、空港付近にある牛乳工場を訪問しました。最近、ソフトクリーム屋さんができたとのことで、行ってみると、観光バスまで乗り付けるたいへんな賑わいです。すぐ近くで乳牛を育てている知り合いの農家が、無人の販売所に野菜を出していたので、ニンジンとジャガイモを買い、妻はお手紙まで書いて置いてきました。(夜、この農家の方から、「家にも寄ってくれれば良かったのに」と電話がかかってきました。)

それから湯の川にある老舗のお団子屋さんで、串団子を買い、五稜郭に桜を見に行きます。五稜郭公園付近は、函館ではたいへん珍しく、渋滞していました。九分咲きくらいだったでしょうか。みごとに咲いた桜の下、大勢の人がお花見をしていました。駐車場近辺は、車が少しも動く気配がなかったので、私たちは、少しずつ進む車の列の中から、桜を見つつ、「花見団子」をいただきました。

その後、「桜ヶ丘通り」の桜を見に行きました。800メートルほどの直線道路に、100本の桜が植えてあるそうです。普段は閑静な住宅街なのですが、ここも昨日は渋滞していました。札幌から来た観光バスからも、お客さんが降りて、ぞろぞろと歩いていました。こちらは、満開のようでしたね。穴場だと思っていたのですが、観光の人気スポットのようです。

義父母も子どもたちも、年中行事を終え、満足してくれたようで良かったです。神様が、今年も、素晴らしい桜の花を見せて下さったことを感謝します。運転しながら食べたお団子も、美味しかったですね。

「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイ6:29、新改訳第3版)

(写真は、五稜郭公園と桜ヶ丘通り)

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2007年5月 3日 (木)

遺品

GW後半に行われた葬儀は、市内の葬祭場を借り、執り行われました。札幌の教会の牧師が司式をし、教会員の方々が奉仕をして下さいました。私は、それまで多くの葬儀をお手伝いしてきましたが、遺族(しかも名ばかりの「施主」)として出席したのは、初めてです。連休中にも関わらず、皆さん、快くご協力して下さり、たいへん立派な葬儀となりました。

葬儀がすべて終わった後、ふと見ると、実家に紺色の「Baby-G」を発見します。確か、長女が5年生くらいの時だったでしょうか。父は、孫娘の腕時計が壊れているのを知り、突然、新品の時計を送ってきます。CASIOの白いBaby-Gでした。どうやらこの時、自分もお揃いを買ったらしく、色違いの腕時計が実家にあったのです。

私が高校の時に買ってもらったデジタル腕時計も、確かCASIOでした。デジタル・ウォッチが出始めの頃で、分厚く重かった記憶があります。Baby-Gも、ちょっと雰囲気が似ていました。そこで、これを形見にもらってきました。

大学生になった長女は、さすがにもうBaby-Gは使っていないようですが、私は、6年経った今でも使用しています。キャンプの時はタフであり、海外出張の際は、モードを切り替えるだけで時差調整ができるので、たいへん便利です。

私が使っているのを見て、同じようなデジタル・ウォッチがほしくなったのか、今、中2の長男はG-Shock、小6の次女はBaby-Gを使っています。名探偵コナンの時計と違い、懐中電灯代わりになったり、麻酔銃で「毛利のオッチャン」を眠らせたりは、できませんけどね(笑)。

しかし、考えてみると、父の第一の遺品は、他ならぬ私自身と弟、そして孫たちなのでしょう。「遺品」は、大切にしていかなければなりませんね。

「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(ヨハネ15:17、新改訳第3版)

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2007年5月 2日 (水)

送別の祈り

父が肝臓がんで、もう手術ができない状態だということは、少し前から知らされていました。子どもたちが春休みの3月、「おじいちゃん」がまた入院したと聞いたので、家族でお見舞いに行くことにします。定山渓のホテルに泊まり、翌日、病院に行くと案外、元気なようすでした。

父自身はただ、自分の死期が迫っていると感じていたのか、入院中に「自分史」を書き上げていました。ラップトップを購入し、ベッドの上で、キーボードを打ち続けたようです。こっそりと病院を抜け出して、近くの書店に辞書を買いに行った日もあったとのこと。後から母が、「あれでいのちを縮めたよね」と苦笑していました。

3月のお見舞い時には、その「自分史」が刷り上っていて、父は満足そうでした。自分の足で歩き回り、洗濯もし、アイスクリームもカステラも自由に食べています。母は、医師から「5月までもたない」と言われていたようですが、そんな言葉がまったく信じられないほど、元気に見えました。

私は、4月の教会総会の後、5月末には教団の総会が予定されていました。教団の「書記局長」になって初めての総会であり、資料準備に大わらわでした。父は、4月に入ってから急に容態が悪化したようでしたが、3月の元気なようすが目に焼きついている私には、母から電話で病状を伝えられても、あまり実感がわきません。ですから、弟から電話があった時も、半信半疑でした。

仕事の区切りを付け、2001年5月2日の朝、高速バスで札幌に向かいます。父は、もう意識がなく、血色も悪く、1ヶ月ほど前とは、まるで違っていました。少し状態が落ち着いていたので、家族を連れてくることにします。夕方のバスでとんぼ返りし、翌朝6時半頃、車で七飯を出発しました。すると7時過ぎ、八雲のあたりだったでしょうか、携帯に弟から電話が入ります。私が帰った後、前夜遅く、父は天に召されたとの知らせでした。

クリスチャンのお見舞いに行く時は、最後に必ず一言、祈ります。父の場合も、そうでした。祈っている時、感じたのは、もう別れの時が「カウントダウン」され、間近に迫っていることでした。しかし、父は救い主イエスを信じ、「天国のいのち」がすでに与えられていたので、私は平安のうちに、神様にすべてをゆだねる祈りをすることができました。思えばあれが、主のみもとに送り出す「送別の祈り」だったのでしょう。父も少し、祈りに反応したかのように見えました。

神様が、イエス・キリストを信じるすべての人を、天国に招き入れて下さっていることを感謝します。

「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23:43、新改訳第3版)

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2007年5月 1日 (火)

名探偵コナン

昨日は、家族で映画「名探偵コナン」を見てきました。名探偵コナンというのは、ご存知の方も多いと思いますが、1994年から週刊少年サンデーに連載されている推理マンガで、テレビアニメは1996年1月から放映されています。私たちがアメリカから帰国したのが1995年で、テレビ番組開始時には、長女が小1、長男は2歳直前、次女はまだお腹の中でした。時の経つのは早いものです。

天才的な高校生探偵・工藤新一が、悪者に飲まされた薬によって子どもになってしまい、小学1年生の「江戸川コナン」として正体を隠しつつ、さまざまな難事件を次々に解決していくというストーリーですね。「推理モノ」、「天才」、「子ども」、そして「ラブコメディー」という設定がウケたのか、週刊誌もテレビも10年以上たった今でも継続中という、驚くべき作品です。

以前は、テレビを見るたびに、こんなに毎週、殺人事件が起こるはずがないじゃないか、と言っていました。ところが、残念なことに、今は毎週どころか、毎日のように人殺しのニュースが報道されます。検挙率も落ちているとのこと。現実の世界にも、コナン君に登場してほしいですね。

映画館に劇場版を見に行くようになったのは、2001年からです。この年の映画のタイトルは、「天国へのカウントダウン」でした。GW前半に映画を見た直後、弟から電話が入り、父の容態がよくないので、すぐに札幌に来てくれという連絡がありました。見舞いに行った5月2日の夜、父は肝臓がんで天に召されます。70歳でした。祖父に可愛がられた長女は、中1になっていて、葬儀ではフルートを吹きました。聖歌168番「いざひとよ」という、キリストの復活を歌う曲でした。

それから毎年、GWには、コナンの映画を見続けています。だんだんスケジュール調整も難しくなり、昨日は、長男の部活の都合で、早めの夕食を済ませた後、午後6時頃、映画館に行きました。午前中はずいぶん混み合っていたようですが、夜の上映時間は、空いていましたね。今年のタイトルは、「紺碧の棺(ジョリー・ロジャー)」で、亜熱帯の島を舞台にした「アドベンチャーロマン」です。私も、出張ではなく休暇で、南の島に行ってみたくなりました。宝探しもいいかも(笑)。

コナンの決まり文句は、「真実はいつもひとつ」です。私たちは、いつも真実を行う者として、生きて行きたいですね。

「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行う者は主に喜ばれる。」(箴言12:22、新改訳第3版)

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