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2007年6月

2007年6月29日 (金)

モデル(模範)

日本で結婚する人が減り、結婚しても離婚する人が多く、出生率が低下し、子どもが生まれても育児放棄や虐待が増えていることの背景には、さまざまな要因がからみ合っているように思えます。一つの原因として、これまで育てられてきた人々が、よい夫婦関係、親子関係のモデル(模範)を見てこなかったことがあるのではないかと、私は推測しています。

結婚詐欺か何かでない限り、誰も、離婚を願って結婚する人はいないと思います。私は結婚する前、どうしたら末永く、円満な関係を続けていくことができるか考えました。たとえいつか考え方や「性格の不一致」(?)で衝突したとしても、その時、どうしたら仲直りすることができるのか。私の出した結論は、夫婦がともに拠って立つことのできる、共通の土台が必要だということで、私の場合、それは創造主なる神の教えである聖書のことばでした。

「互いに愛し合いなさい」、「仕え合いなさい」、「受け入れなさい」、「赦しなさい」、「愛をもって真理を語りなさい」という言葉は、私たちの結婚生活を導く原則となりました。イエス・キリストが、愛する私たちのために仕え、自らの命を捨てて下さった姿は、もちろん私たち夫婦にとり、共通のモデルとなっています。

他のクリスチャン・カップルたちの夫婦関係も、参考にさせていただきました。視覚的なイメージとして、強烈な印象が残っているのは、留学先の聖書大学で教えていたチャック&バーバラという年配の夫婦です。このお二人は、普段から仲の良い様子だったのですが、ある日、教室からチャペルに向かう途中、手をつないでゆっくり歩いて行くのを目にしました。

20歳前後の若いアメリカ人学生たちも、二人の様子を見て、心温まるものを感じたらしく、にこやかに微笑んでいます。この夫婦は、もうお孫さんのいる年代だったと思いますが、子どもたちにも、孫たちにも、きっと仲むつまじい夫婦のモデルとなっていたのではないでしょうか。

愛に満ちた夫婦関係、親子関係の良いモデルを見て、自分たちも同じような家庭を築いていきたいと感じる若い世代の人たちが、増えていってほしいですね。私たち夫婦も、もう若いとは言えなくなってきていますが(笑)、神様が示して下さった愛の模範にならい続けていきたいと願っています。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:15、新改訳第3版)

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2007年6月28日 (木)

「愛してる」事件

先週の教団大会で、講師の話を聞いたアメリカ人牧師の一人が、前に出てきて短く感想を述べました。その牧師は、日本人の奥様に毎日、「アイシテル」と言うそうです。出張の時は、電話で伝えるとのこと。自分がいつ死んでも、奥様は、自分に愛されていたことを知っていてほしいからだと語っていました。

この牧師の話を聞き、感銘を受けたらしいある日本人牧師は、その晩、自宅に電話をかけて、奥様に「愛してる」と言ったそうです。その話を伝え聞いた人が翌日、大会会場のマイクを通して、牧師名を含め、すべてバラしてしまったため、「『愛してる』事件」は、参加者全員の知れわたるところとなりました(笑)。

集会後、ある女性の方から、「奥様に愛してるって電話しましたか」と聞かれました。私は、「いつも言っていますから」と笑って答えます。するとその方は、「うちの主人は、なかなか言ってくれないのよね」とボヤいていました。ご主人は、すぐ横で、笑っています。もう何人か、お孫さんもいる年代のお二人です。

大会後、自宅に帰ると、土曜日に京都の長女から電話が入りました。私の留守中でしたが、長女は妻に、「お父さん、お母さんに『愛してる』って言った?」と聞いたそうです(笑)。関西から大会に来ていた牧師が、「『愛してる』事件」のことを長女に伝えたとのこと。私は帰宅後、すぐに言っていたため、「セーフ」でした。最近は、どこからチェックが入るか分かりません(苦笑)。

昨年の「いい夫婦の日」(11月22日)の前に行われたアンケート調査によると、妻が夫に言われて嬉しかった言葉は、1位が「ありがとう」、2位が「美味しい」、3位が「愛してる」だそうです。(http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/release/2006/pdf/20061121.pdf

これは年代別の区分が出ていないので、年齢による違いが分かりませんが、「愛してる」と言われたい奥様が多いことは確かなようです。妻がそう望んでいるなら、夫は、言葉を通しても、愛を伝える努力をしていかなければなりませんね。

ちなみに夫が妻に言われて嬉しかった言葉は、1位「ありがとう」、2位「ご苦労様・お疲れ様」、3位「頼りになる・さすが」だそうです。聖書は、「夫は妻を愛し、妻は夫を敬いなさい」と教えていますが、アンケートでも、ほぼその通りの結果が出ているようですね。

離婚や家庭崩壊の話が増えているようです。いつも互いに「愛してる」と言い合えるような「ラブラブ」な夫婦が増え、子どもたちがその愛の中で、健全に成長していってほしいと願っています。

「…あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」(エペソ5:33、新改訳第3版)

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2007年6月27日 (水)

夫婦関係

「教会は、牧師夫妻の品性と夫婦関係が反映されたものになる」というのが、以前から私が思い続けてきた「仮説」です。もちろん、聖書のみことばの中に根拠を求めることができますが、これまで私が出会ってきた牧師夫妻たちとその教会を見て、感じ取ってきた経験則でもあります。今年の教団大会講師のお話は、まさにその「仮説」の正しさを裏書きするものでした。

今回の講師は、クリフ&メアリーという50代のアメリカ人牧師夫妻で、結婚生活35年だそうです。お子さんは4人、お孫さんは2人とのこと。ご主人は牧師や宣教師を経て、米国教団の副総理もされ、奥様はソーシャル・ワーカーやクリスチャン雑誌編集長を経験し、8冊の著作を出版されています。「夫婦関係」を語るのにふさわしい、愛に満ちた素敵なカップルでした。

クリフ牧師は、最初に新約聖書エペソ5章を引用し、夫婦関係は、キリストと教会との関係に同じだと語りました。「キリストと教会は、どのような関係にあるのですか」と聞かれたら、「私の夫婦生活を見て下さい」と答えるようなものだと言うのです。これは、たいへんな責任ですね(苦笑)。

クリフ&メアリー夫妻は、メッセージを通して、夫婦関係に見られる5つの「季節」(seasons)について語りました。結婚した二人が段階的に迎える「移植の季節」、「土台作りの季節」、「調整の季節」、「成熟の季節」、そして「収穫の季節」です。「収穫」に至るまでは、「季節」ごとに男性と女性の感覚のズレがあり、互いを理解し、愛をもって受け入れ合うことが大切だというお話でした。

私と妻は、今年、結婚20年になります。「季節」の区分で言うと、もう「成熟の季節」に入ったようです(冷汗)。品性と夫婦関係を、さらに麗しいものにしていただくよう、神様に祈り続けていかなければなりませんね。

「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:31-32、新改訳第3版)

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2007年6月26日 (火)

教団大会

先週は、東京・昭島で教団大会が開催されました。教団大会というのは、年一回、日本全国で働き(ministry)をしている牧師や教会リーダーたちが集まる会合のことです。3泊4日の大会期間中、総会、聖会、更新セミナー、そして分科会等の時間が設けられていました。

総会(business session)というのは、宗教法人としての議案審議が行われる会議です。前年度の活動報告と決算報告、新年度の計画案と予算案、そして内規改正案などの議案について総会議員による審議がなされ、賛成多数による承認を得た後、正式に新年度がスタートすることになります。これは、どんな組織でも似通っていますね。

聖会(worship session)とは、礼拝の時間です。通常、祈りと賛美、「メッセージ」と呼ばれる聖書のお話、そして献金がその内容に含まれています。更新セミナーは、牧師資格更新のための講習で、どちらかと言うと「お話」が中心になります。今年の聖会および更新セミナーのテーマは、「キリストにある家族」で、特に牧師やリーダーたちの夫婦関係にポイントが置かれていました。

分科会(workshop)は、5つありました。私は、「牧師の霊的成長(spiritual growth of pastors)」と題する分科会に、パネリストの一人として参加しました。牧師になった経緯から、神様がどのように私を育てて来られたのか、そして今後、どんなことを目標にしていきたいか、お話しさせていただきました。

年一度の大会は、普段、離れ離れに暮らしている家族が、再会(reunion)する時のようです。北は北海道、南は沖縄から、赤ん坊からお年寄りまで、日本人、アメリカ人、ブラジル人、フィリピン人、韓国人の人たちが、同じ神の家族として、ともに過ごす時間が与えられていることを感謝します。家族の変わらぬ笑顔を見ると、また一年間、全国各地で頑張っている「ファミリー」のため、奉仕させていただこうという気持ちになりますね。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25、新改訳第3版)

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2007年6月25日 (月)

主に喜ばれる生き方をする(ローマ2章)

Flower070624 先週の父の日、家族からプレゼントをもらいました。ここ何年かは、教団大会の講師の通訳をしていたため、毎年、アロハのような新しい服が父の日のプレゼントでした。しかし、今年は、「お役御免」(クビ? 笑)となったため、普段着用にトムとジェリーの格安Tシャツを購入し、もうそれで良いと伝えておきました。

それでも家族は、今年も何か用意してくれたようで、夕食の時に箱が手渡されます。何だろうと開けてみると、大会に着ていくための下着でした(笑)。一緒に手渡されたカードには、ちょっと泣かされそうな言葉が記されていました。

京都の長女からも、プレゼントが届きました。こちらも心のこもったカードと輸入品のプレッツェル、そしてCDが入っています。CDは、映画「スターウォーズ」収録の13曲を、ウクレレやリコーダーの協奏曲として演奏した作品。思えば長女は、この中の「ダース・ベイダーのテーマ」を、私から電話がかかってきた時の着信音にしていました(苦笑)。子どもたちからのプレゼントで、「フォースの暗黒面」の誘惑から救い出されるかな? (爆)

「天のお父さん」に対しては、私たちは、どんなプレゼントを用意したら良いでしょうか。神様は、何を喜んで下さるのでしょうか。

もちろん神様は、私たちの存在自体を喜んでいて下さいます。私たち一人ひとりは、神様によって大切に造られた存在であり、神様が愛して下さっているからです。子どもの存在を親が大切に思い、愛しているのと同じです。

そして神様は、愛する私たちが何を考え、どんな生き方をしているのかにも関心を持っておられます。創造主なる神様を愛し、周りの人々を愛する生き方をする私たちを、神様は喜んで下さいます。反対に、神から離れ、周りの人々、そして自分自身をも苦しめるような生き方をする人に対しては、神様は心を痛めておられます。ローマ2章では、人をさばかないこと、善を行うこと、正直に生きることの、3つが重要だと教えられています。

創造主なる神様に、喜んでもらえるような生き方をすること。それは、私たちを愛し、いつもともにいて、支えて下さっている天のお父さんに対して、私たちが贈ることのできる、ささやかなプレゼントです。「いつもお世話になっている」神様に、喜んでいただけるプレゼントを差し上げていきたいですね。神様も、私たちのプレゼントの「お返し」を用意しておられるようです。

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。…神にはえこひいきなどはないからです。」(ローマ2:6&2:11、新改訳第3版)

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2007年6月18日 (月)

良い知らせに感謝する(ローマ1章)

Flower070617 昨日の礼拝から、新約聖書の「ローマ人への手紙」を読み始めました。「ローマ人への手紙」(別称「ロマ書」)は、「神の国の福音」を初めてヨーロッパに伝えた使徒パウロが、紀元56~57年頃、ローマに住むクリスチャンたちに宛てて書いた手紙です。彼は、まだローマに行ったことがありませんでしたが、いつか訪問したいと願いつつ、この手紙をしたためました。

神学的に重要なテーマを論理的、体系的に述べているため、多くの学者たちが、この手紙を詳細に研究してきました。16世紀、宗教改革の中心人物となったルターが、「信仰によってのみ義とされる」という神学的理解に至ったのは、この手紙を通してです。その200年後、ルターが「ロマ書」につけた前文を読んでいたジョン・ウェスレーは、「不思議と心が温かくなる」回心体験をし、それが後のメソジスト運動につながったそうです。20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与えた神学者の一人、カール・バルトも、その代表作は「ロマ書講解」でした。

しかし、もともとは、一般のクリスチャンたちに対して書かれた「手紙」です。ですから私たちも、ここでは普通の手紙と同じように読んでいきたいと思います。

パウロがこの手紙を通して特に伝えたかったのは、「福音」、つまり良い知らせです。それは先ず第一に、旧約聖書を通して預言されていた救い主が、約束通りに来られ、十字架の後によみがえらたということ。第二に、その知らせが全世界に宣べ伝えられることが、神様のみこころだということ。第三に、それを信じる人は誰でも、神様がその罪を赦して下さり、正しい者と宣言して下さる(「義とされる」)ということです。

最近、メディアが報じるのは、「悪い知らせ」ばかりのようです。神様が伝えて下さった「良い知らせ」を、日々の生活の中、いつも感謝して生きていきたいですね。

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16-17、新改訳第3版)

P.S. 都合により、今週の更新は本日のみとし、明日からお休みします。また来週、お会いしましょう。

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2007年6月15日 (金)

のだめちゃん

先日、テレビアニメ「のだめカンタービレ」を見ました(牧師っぽくない? 笑)。次女の友だちが、録画したDVDを貸してくれたそうで、第1話から6話まで入っていました。

すでにご存知の方が多いと思いますが、原作は、2001年から雑誌に連載されているクラシック音楽をテーマとしたマンガだそうです。「のだめ」とは、主人公の「野田恵」のこと。天才的で可愛らしいが、オオボケなピアノ科の音楽大生ですね。「カンタービレ」とは、楽譜に記される演奏記号で、「歌うように」という意味のようです。

昨年、テレビドラマ化された時は、上野樹里さんが主演し、相手役のエリート音大生「千秋真一」が玉木宏さん、指導する怪しげな指揮者「シュトレーゼマン」が竹中直人さん、その他、そうそうたる配役のようでした。妻は毎週、楽しんで見ていましたが、私は、ちょっとマンガチックな実写映像についていけませんでした。

平均視聴率18.8%、瞬間最大視聴率24%だそうですから、ドラマとしては、素晴らしくヒットしたようです。1月に来た韓国YWAMチームの一人も、見ていました。高校の同期会のメーリングリストでも話題に上っていて、発売されていた単行本を一度に全部購入したという、「豪傑」の方もいらっしゃいました。「大人買い」って言っていましたね、確か(笑)。

今回、最初の2話をアニメ版で拝見しましたが、たいへん楽しく見ることができました。やはり、原作がマンガだからでしょうか。アニメで見ると、「ありえなさ」が、私の許容範囲内に収まるような感じです(笑)。「のだめちゃーん、合コンしましょ」というシュトレーゼマンのセリフも、以前はよく見ていなかったため、なぜそんなことを言うのか分かりませんでしたが、今回、やっと背景が理解できました(苦笑)。

テレビドラマ以降、クラシック音楽がちょっとブームになったようですね。このドラマのために結成された「のだめオーケストラ」のCDを妻が買ってきて、時々、長男や次女と一緒に聴いています。私は普段、あまりクラシックを聴かないのですが、BGMにかけていると、これもちょっと「いやされる」ところがありますね。

神様が、鳥のさえずりだけでなく、オケの演奏をも用いて、疲れをいやして下さることを感謝します。

「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26、新改訳第3版)

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2007年6月14日 (木)

ストレス

あるアンケートによると、人生のストレスの20%は、パソコンに起因しているそうです。

(詳しくは、こちら→) http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0706/13/news055.html

一方、インターネットがなくなったら、「生きていけないほど困る人」が10%、それほどではなくても「日常生活にかなり支障をきたす人」が62%で、合わせると7割以上の人が、ネット社会のストレスと日々、戦っていることになりますね。

かく言う私も、朝から晩までPCに向かっている日が多いです。長女が最近、大学の友人に、父親が牧師だと告げると、毎日、何をしているのか聞かれたそうです。夜明けとともに起きて祈り、聖書を読み、訪れる人々の相談にのり、病院を訪問し、くだらないTV番組など一切見ず、日暮れとともに静かに休む清貧の生活が、ひょっとしたら期待される牧師のイメージなのでしょうか(笑)。長女の答えは、「一日中、パソコンに向かってる」だったそうです(爆)。

私は、子どもの頃から機械、特に電気製品が好きで、パソコンもその延長線上のような気がします。それでも、もちろん、やりすぎるとストレスがたまりますね。何年か前、教団の「規約委員」の一人に選ばれ、内規原案を新たに作成した頃は、体に変調をきたしました。当時のPCは、「孫たちが遊べるように」と亡き父が送ってきた、今に比べると処理速度が遅い機械で、ダイヤルアップ接続だったことも、ストレスの原因だったかもしれません。

その後、ある研修会に参加して、レポートをまとめた時は、教会で購入した新たなPCで、かつブロードバンドになりましたが、それでもお腹の調子が悪くなりました。病院に行くと、ただ「ストレスでしょう」と言われるだけで、もらった薬を飲んでもまったく効きません。もしかしたら重大な病気かと心配していると、研修会が終わった途端、うそのように全快しました(苦笑)。

今も、あまり根をつめ過ぎると、目を疲れさせ、肩が張り、頭が痛くなります。年とともに、目も弱りつつありますので(笑)、体調管理に気をつけなければなりませんね。

少しだけストレス解消になるのは、開け放った窓から聞こえる鳥のさえずりです。この季節は、カッコーやウグイスの声が聞こえます。今日は暑くなったせいか、もっぱらスズメとカラスのようですが…(笑)。ちょっと外に出てみると、小川の水音を聞くこともできます。神様が、ほっとする環境を備えて下さっていることに感謝します。

「主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、野のすべての獣に飲ませられます。…そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。」(詩篇104:10-12、新改訳第3版)

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2007年6月13日 (水)

ライフライン

昨晩は、「ライフラインのつどい」に出席しました。「ライフライン」というのは、土日の朝早くにTV放映されているクリスチャン番組なのですが、年に一回、全国各地でコンサートツアーを開催しているようです。道南では毎年6月で、今年はお隣の森町にある教会が、その会場でした。

今回の音楽ゲストは、Migiwaさんというシンガーソングライターの方です。1981年、神奈川県生まれですが、中学の頃、不登校になり、その後、ひきこもりになったそうです。自分など生きている価値がないと落ち込んでいるどん底の中、すべての人を愛し、尊んで下さっている神様と出会って、生き方が変えられました。

本場のゴスペルに感動し、2001年からゴスペルシンガーとして活動を開始したそうです。2002年にリリースした初のCD「My Only Reason」は、昨夜も歌ってくれましたが、苦しみの中で見出した「生きる唯一の意味」を訴えかけるように表現し、心に迫るものがありました。

昨年、発売されたアルバム「蟻と宇宙」では、ミュージックアドバイザーとしてゴダイゴのタケカワユキヒデ氏の協力を得たそうです。ゴダイゴのヒット曲、「ビューティフルネーム」もカバーして収録してあるとのことで、昨日も英語でしっとりと歌ってくれました。同じアルバムに入っている「きみがだいすきさ」という曲も、心の琴線にふれる素敵な曲でしたね。

ライフラインとは、もちろん命綱のこと。それは、神様の愛を伝え、死に至る道から救い、生きる希望を与えて下さるイエス・キリストのことを意味しています。Migiwaさんも、救い主を信じ、まったく新しい人生を歩むことができて、良かったですね。若い人を見ると、何だか最近は、すっかり父親気分です(笑)。

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(Iヨハネ4:16、新改訳第3版)

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2007年6月12日 (火)

地域デビュー

妻が先日、朝日新聞に、「オトコの老い支度」という特集記事を見つけました。私は全然、読んでいなかったのですが、妻はしっかりと記事を切り抜き、「ブログ書きの秘書のようだ」と笑いながら、私に渡します。もう人生も後半戦なので、「支度」をしっかりしておけ、ということでしょうか(笑)。

その中に、「地域デビュー」という言葉がありました。以前、所沢に住んでいる時、妻と長女は、華々しく(?)「公園デビュー」を果たしました。アパートのすぐ隣にあった小さな公園には、赤ちゃんと若いお母さんたちが集まり、育児ママのささやかなコミュニティを形成していました。今度、地域社会に次々とデビューするのは、退職後の男性たちだそうです。

記事の中で紹介されている宇都宮大学の廣瀬隆人教授によると、「プライドを持って仕事中心に生きてきた男性が、急に『ただのオヤジ』にはなれない」そうです。近所づきあいの注意点は、①指導者ではなく友達目線、②人の話は遮らずに聞く、③相手避けずに、時間をかけて、とのこと。「私が海外に行ってた時は…」という「自慢話型」は嫌われる、ということですから、私も気をつけなければなりませんね(笑)。

青山学院大学名誉教授の小原信氏は、「女・子ども・コミュニティ」(PHP、1976)という著書で、新興住宅地における近所づきあいの問題を取り上げています。男性は仕事に出かけ、コミュニティから逃避し、地域には女性と子ども、そして老人たちが取り残されるという構図は、すでに30年前に指摘されていました。かつて「三ちゃん農業」という言葉がありましたが、農業だけの話ではありません。おそらく日本の多くの地域が、「三ちゃんコミュニティ」なのです。

地域共同体の崩壊は、孤独な群集を生み出します。最近は、ネット上にコミュニティがたくさん出来たりしていますが、同時に、攻撃性を持った匿名の「荒らし」も多いようですね。いなごのように群がるので、「ネットイナゴ」とも呼ばれているそうです。いなごが「地域」を食い尽くすというのは、旧約時代の預言者ヨエルの言葉のようですね。

愛に満ちたコミュニティが回復し、孤独がいやされ、住民が互いに受け入れ合い、支えあう地域社会となっていくには、日本中の教会が、地域のために祈り続けていかなければならないのでしょう。キリスト教会も友達目線で、「地域デビュー」しなければなりませんね。

「『しかし、今、──主の御告げ──心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。』…あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。」(ヨエル2:12-13、新改訳第3版)

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2007年6月11日 (月)

主の栄光を告げ知らせる(イザヤ66章)

日曜日ごとに、しばらく旧約のイザヤ書を開いてきましたが、昨日が最後の66章となりました。昨日のキーワードは、「栄光」です。手元の国語辞典を見ると、栄光とは、「困難を突破して、余人のなし得ないことをなし遂げた時の輝かしい状態」と説明されています。オリンピックで金メダルをとるようなイメージですね。

旧約聖書に記される「栄光」とは、多くの場合、人の状態のことではなく、神様がご自身の「姿」を現された状態のことを言います。モーセとともにエジプトから脱出したイスラエルの民は、彼らを導く雲の中に、主の栄光を見ました。幕屋や神殿で人々が神様を礼拝した時、神の栄光の雲がその場を満たしました。預言者たちは、幻の中で、主の栄光の目撃者となりました。

新約聖書では、イエス・キリストの姿や性質、その働きが現された状態のことを言い表しています。ご降誕を天使に告げられた羊飼いたちは、主の栄光に照らされました。人々を優しくつつむ愛や数々の奇蹟を通して、弟子たちは、主イエスの栄光の姿をまのあたりにしました。そしてクライマックスは、十字架と復活。すべての人の罪の身代わりとなって死んだ後、よみがえられた姿は、まさに「困難を乗り越え、誰にもできないことを成し遂げた輝かしい状態」です。

この世が終わる時、キリストは、栄光を帯びてもう一度来られると約束して下さっています。「新しい世」である天国が完成し、救い主への信仰により滅びをのがれた神の子どもたちが、主の栄光の素晴らしさを永遠に喜び楽しむためです。その「栄光の時」が来るまで、主イエスの十字架と復活の「栄光」を世界中に告げ知らせ、一人でも多くの天の仲間たちと、一緒に「新しい世」を迎えたいですね。

「…わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。…彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」(イザヤ66:18-19、新改訳第3版)

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2007年6月 8日 (金)

ドラッグストア

日本でも最近、たくさん増えてきたドラッグストアですが、留学した15年前には、私はあまり馴染みがありませんでした。調剤薬局というのも、日本では、病院のすぐ隣にただ場所と看板を変えましたという感じで、寄り添うように建っていることが多いですね。アメリカの病院で、診察後に処方箋をもらった時は、隣に薬局もなく、どこに行ったらよいか、まったく分かりませんでした。

人に聞くと、「Sav-On Drugs(セイヴォン・ドラッグス)」に行けと言います。そこはドラッグストアでしたが、生鮮食料品以外は何でも置いている、大きなスーパーマーケットのようでした。お店の奥に大きなカウンターがあり、そこで処方箋を扱っています。いくら大きいとは言え、病院から車でしばらく走ったこの店に、指定された薬があるのだろうかと疑いながら処方箋を出すと、数分後、間違いなくその薬が出てきました。このお店は、早朝から深夜まで営業しており、たいへん便利でした。

ある資料によると、欧米で医薬分業が始まったのは、1240年、神聖ローマ帝国の時代だそうです。事実上、1974年から分業が始まった日本とは、歴史の長さが違いますね(笑)。

すっかりアメリカ生活に慣れた後、日本に帰ってきて、何も考えずに、病院の隣ではない調剤薬局に、処方箋を持っていったことがあります。この時は、薬が取り寄せになったようで、ずいぶん待たされました。薬局の方も、別なお店に行って下さいとは、言えなかったのでしょう(笑)。

私が七飯に住んで12年になりますが、こののどかな地域でも、医薬品販売の業界はたいへんなようです。この12年間で、知り合いの薬屋さんが店を閉め、昔からある老舗のお店が近くに出店したと思うと倒産し、今は、北海道各地にネットワークを持つ二つのチェーン店が、近辺で熾烈な戦いを繰り広げています。そのうち、小さな調剤薬局も、この流れに巻き込まれるのかもしれませんね。

「サービス」という意識がないように思える別な「ギョーカイ」でも、これぐらいの努力をして、「お客様に仕える」サービスを競ってほしいですね(苦笑)。

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11、新改訳第3版)

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2007年6月 7日 (木)

病院

ケガと同じく、病気も子どもにはつきものですね。日本でもアメリカでも、病院に行きましたが、所変わればなんとやらで、日米の大きな違いに驚かされたものです。

まずアメリカでは、きちんとした健康保険は民間企業が提供しており、保険によって行ける病院が違います。保険会社からもらった分厚い名簿で、近くのホームドクター(家庭医)をまず選びます。プライマリ・ケア(primary care)という考え方に基づき、どんな病気であっても、最初はホームドクターに診てもらい、その後、専門医を紹介してもらうのです。

制度だけでなく、同じ症状への対処の仕方も、ずいぶん異なりました。ラマーズ法のクラスに出ていた時、妻の足にむくみが来ました。看護師にそれを告げると、塩分を制限し、水を多く飲みなさいと指示されます。「日本では、水を飲むなと言われた」と妻が言うと、「足に水分がたまっているということは、胎児にはあまり行っていないということ。赤ちゃんに水をあげないでどうするのか。日本では、なぜそんなことを言うのか」と、逆に問われたそうです。

長女が風邪をひいて、病院につれて行った時、寒がっていたので、厚手のカーディガンを着せていきました。それを見た医師は、「熱がある時に、こんなものを着せたらダメだ」と、妻を叱ったそうです。熱がある時は、頭だけでなく、体全体を冷やすもの、というのが、米国での一般的な考え方だったようです。熱のある子には、冷たいシャワーを浴びせたら良いという話も聞きました。

水ぼうそう(chicken pox)にかかった長女を診てもらおうと、ある日、妻は病院に電話をかけます。ところが、娘が水ぼうそうだと言うと、予約受付の担当者は、「病院には来るな」と言います。他の人にうつるから、という理由です(笑)。薬もないそうで、来ても無駄だと言うのです。

「では、どうしたら良いのか」と妻がねばると、ドラッグストアで売っているオートミール入りの入浴剤を入れたお風呂に入れ、「カーマイン・ローション」を塗り、あとはただ大人しくしていなさい、ということでした。「カーマイン・ローション」は、日本では、日焼け後のほてりを取る化粧水だそうです(笑)。

結局、妻と私がたどりついた結論は、子どもに責任を負っているのは親なのだから、時代とともに変わる学説や周囲の意見に振り回されるのではなく、親の確信に基づいて看病し、育てていこうということでした。やはり、熱のある子には、冷たいシャワーは一度も浴びせませんでしたね(笑)。

「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ14:5、新改訳第3版)

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2007年6月 6日 (水)

ケガ

次女は、運動会の休み時間に、転んで足をひねったようです。その他にも、2箇所、すり傷がありました。応急処置はしておきましたが、翌日、まだ腫れていて痛いようなので、近くの整形外科に連れて行きました。レントゲンを撮ったところ、骨には異常がないそうです。

子どもにケガはつきもので、私自身、ずいぶんケガしてきましたが、うちの子も何度も病院のお世話になりました。次女は、まだ1歳にならない頃、親がうっかりテーブルに置き忘れたガラスのコップを割り、薬指を切ってしまいます。深く切れていたので、時間外だったのですが、近くの外科に電話して診てもらいました。

長女は、小学生の頃、日曜の礼拝が終わり、教会の敷地で遊んでいる時、ひざに切り傷をつくりました。当時、教会員だったお医者さんにちょっと診てもらうと、傷が深いようで、病院できちんと処置した方が良いという話です。その日、救急当番だった函館市内の大きな病院まで連れて行きました。

一番、回数が多いのは、やはり男の子です。長男は、頭を3回ほど切り、それぞれ違う病院に連れて行かれました。最初は、冬にそりで遊んでいて、金網にぶつかり、何針か縫いました。2回目は、学校で友だちに突き飛ばされ、給食用に使っている金属製ワゴンに頭をぶつけ、この時も縫ったと思います。ただ遊んでいただけで、友だちに悪気はなかったようです。

3回目は、小4の頃ですね。私が教会堂にいる時、知らない方から電話がかかってきました。「お宅のお子さんが、頭から血を出して、今、救急車で運ばれました」と言うのです。確かに、教会の前を、救急車が通過していきました。私は、あわてて119番に電話をし、救急車の行き先を教えてもらい、病院に急行しました。

病院では、レントゲンの後、傷口をホッチキスの針でふさぎました。見るからに痛そうでしたね。話を聞くと、公園のブランコで格好よく着地した後、戻ってきたブランコの椅子が後頭部を直撃したとのこと(笑)。血が止まらなくなり、両親ともすぐ連絡がつかなかったため、公園の前に住む方が、親切に救急車を呼んで下さったそうです。

神様が、どんな傷であっても、いやして下さるお方であることを感謝します。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし 彼らの傷を包む。」(詩篇147:3、新改訳第3版)

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2007年6月 5日 (火)

運動会

日曜日は、次女の小学校の運動会でした。弁当作りのため、妻が朝5時に起きると、私も珍しく5時に目が覚めます。PCを立ち上げ、メールボックスを開くと、土曜の夜遅くに、翻訳依頼の急ぎの原稿が送られて来ていました。運動会後は、疲れ果てていそうだったので、日本語原稿をすぐ英語に訳して、送信してしまいます。日曜早朝から仕事をするのも、珍しいことです(笑)。

6時に花火が上がり、6時半頃、場所取りに出かけます。家に戻って朝食を食べると、義父母が函館市内から到着しました。弁当の準備が整った8時過ぎ、足の弱った義父たちを車に乗せ、小学校まで送ります。駐車場は一杯なので、また家に戻り、今度は徒歩でグラウンドに向かい、開会式と赤組・白組の応援合戦を見ました。

午前中の次女の競技は、見られそうになかったので、私はそこで家に帰り、礼拝に行きました。礼拝終了後、急いで小学校に行くと、なんとか昼食に間に合います。チラシ寿司、イカ飯、唐揚げ、エビフライ、エビチリ、昆布巻き、卵焼きなどがきれいに並んだ、豪華なお弁当でした。

聞くと次女は、午前中の「運命走」で、1位になったとのこと。実際に見られなかったのは、残念でしたね。後で、妻が撮影したビデオを見ました。午後の6年生の競技は、「スタンツ(組み体操)」と「騎馬戦」です。こちらはしっかりと応援し、私自身がビデオカメラに撮影しました。

開会式は、児童会会長の挨拶があったのですが、閉会式で挨拶するのは、児童会副会長です。次女が最後に立派な挨拶をした(親バカ? 笑)のを、デジカメとビデオに収め、無事に運動会は終了しました。長女の時から数えると、今回が12回目の運動会だったそうです。これ以外にも、幼稚園の運動会が4回ありました。保護者として参加する運動会は、すっかりベテランになりましたね(笑)。

12回の運動会では、実にさまざまなことがありました。就学前の長男がグラウンドに乱入したり、突然の大雨があったり、徹夜明けや急な来客があったり、教会の子どもが骨を折ったり、ハプニングには事欠きません。今年は長女は京都に行き、長男は部活でいませんでした。次女は、休み時間中に転んで軽いケガをしましたが、今回の運動会が、一番のんびりできたような気がします。

神様が、12回の運動会すべてを守って下さり、楽しいひと時を過ごさせて下さったことを感謝します。

「主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。」(詩篇57:9-10、新改訳第3版)

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2007年6月 4日 (月)

神の祝福の民となる(イザヤ65章)

Flower070603 「God bless you!」という表現は、カタカナでそのまま表記すれば「ゴッド・ブレス・ユー」でしょうが、実際の音は、「ガッブレッシュ」に聞こえます。映画の字幕などでは、「神のご加護があるように」とよく訳されますが、日本人クリスチャンの世界では、「加護」という言葉は使いません。「神のご加護」という字句を見るたびに、何となく違和感を感じますね。

「bless」という英単語は、日本語の聖書では、「祝福する」と訳されています。それは、「神様が、その愛に基づいて、人々に良いものを与えられる」という意味になります。ですから、「(May) God bless you!」は、神様が良いことをもたらして下さいますように、という祈りであり、ただ「加護(助け守ること)」だけを祈るものではありません。映画の字幕も、「神の祝福がありますように」にしてほしいですね(笑)。

聖書の中で「祝福」は、数量的に増えること、力が与えられること、必要な物が備えられること、生きる使命や任務が与えられること、きよめられること、他の人に恵みを分け与えられること、などがその具体例になるそうです。それがただの「努力の結果」や「幸運」、「人徳」などと違うのは、「送り主」である神様が、「受益者」である人間に恩恵として施されるということでしょうか。

送り主がはっきりしている場合、普通、送り主に感謝を表しますね。そうでないと、礼を失することになります。いつもいつも祝福して下さる神様に謝意を表す行為が、感謝の祈りであり、賛美であり、礼拝です。「礼拝」はまた、特定の時間帯だけになされる行事ではなく、日々の生活の中で、神様のことばに従う生き方をすることをも意味しています。特定の時間以外に、受けた恩恵をまったく忘れていたら、「恩知らずの人生」か「裏表のある生き方」になってしまいますね。

神様は信じる私たちに、救いを与えて下さり、喜びを与えて下さり、永遠のいのちをも与えて下さっています。「新しい天と新しい地」、あるいは神の都「エルサレム」と表現される「天国」に招き入れられた、「祝福の民」とされていることを感謝します。

「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」(イザヤ65:17-19、新改訳第3版)

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2007年6月 1日 (金)

へその緒

母親のお腹の中が、よっぽど居心地が良かったのか、長男はなかなか出てきませんでした。予定日の数日前に、「おしるし(bloody show)」があったので、もうそろそろかと思いきや、予定日を過ぎても、陣痛(contractions)がちょっとあっても、赤ん坊はお腹の中でのんびりしています(笑)。

予定日の3日後、定期検診に行くと、ドクターが、「今日、生まれさせましょう」と言いました。私は、「そんなのアリか?」とあっけにとられつつ、妻を連れて、そのまま車で病院に向かいます。アメリカでは、担当医のオフィスと分娩をする病院は、別な場所にあるのです。

昼ごろ、陣痛室(labor room)に入り、胎児の頭にモニターをつけ、破水させ、陣痛促進剤をうちました。羊水を抜いて大丈夫なのかと思っていたところ、4時半ころ、胎児の心拍数が突然、半分くらい(70)に落ちます。緊急事態に気づいた看護師は、すぐさまスタッフを集め、医師に連絡し、帝王切開の準備が始まりました。

また帝王切開かと、妻はがっかりし、胎児のために祈りました。点滴で羊水にかわるものを補給すると、心拍数は元通りに回復します。回復後に到着した医師の診断では、へその緒(umbilical cord)が首を締めたのだろう、という話でした。

もうそろそろ生まれそうだということで、陣痛促進剤をやめ、そのまま普通分娩でいくことにしました。陣痛が来るたびに、「コーチ」は、妊婦の目の前で指を立てながら数を数え、適切な呼吸をするよう励まします。分娩室(delivery room)では、病院のサービスで、生まれるまでの様子をビデオに録画して下さいました。

誕生は、6時半ころです。医師は、私にハサミを手渡し、「へその緒を切れ」と言います。(後で聞くと、日本では「医療行為」にあたり、「素人」は切れないそうです。)母との「ライフライン」を父が断ち切るのかと、何だか複雑な思いを抱えつつ(笑)、ハサミで切ると、「ジョキン」と肉を切るような、何ともいえない感覚でした。

生命の誕生は、創造主なる神様の不思議な「神秘」です。神様が私たち一人ひとりを、素晴らしい「傑作」として、造って下さっていることに感謝します。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10、新改訳第3版)

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