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2007年7月

2007年7月31日 (火)

ラジオ体操

先週土曜日の早朝、ラジオ体操に行って来ました。NHKラジオの公開生放送が、なんと七飯町にやって来たのです。町制50周年記念事業の一環だそうです。ラジオ体操の公開放送に立ち会うなど、一生に一度あるかどうか分からないと、家族4人で参加することにしました(笑)。

前日から、小学校のグラウンドにグランドピアノが運び込まれ、「夏期巡回ラジオ体操」という大きな横断幕が掲げられていたようです。晴れてくれれば良いがと思っていましたが、天気予報は最初、午後から一時雨、その後、午前中雨という予報に変わり、なんだかちょっと怪しげだなぁと思っていました。

朝4時頃、目が覚めた時、雨の音が聞こえ、雷まで鳴っていました。後から聞くと、もうその頃には、「大雨警報」が発令されていたとのこと。会場は、小学校体育館に変更されました。

雷が鳴り響くどしゃ降りの雨となり、ちょっとひるみましたが、せっかくの機会なので、車で体育館近くまで乗りつけることにしました。大雨にもかかわらず、おそらく数百人ほどの参加者が集まり、少し遅れて来た人たちは、体育館に入りきれませんでした。

話を聞くまで、まったく知りませんでしたが、ラジオ体操というのは、1928年(昭和3年)に逓信省(現在の日本郵政公社)簡易保険局が制定し、昭和天皇の御大典(即位式)記念事業の一環として、放送を開始したとのこと。来年で80年になりますから、長い歴史ですね。

私が小学校の頃は、学校でもラジオ体操を覚え、夏休みには必ず、公園にハンコをもらいに通いました。今の小学生は、あまりラジオ体操はしないようですが、土曜日には子どもたちもたくさん集まっていました。「昔の子どもたち」も、負けず劣らず、大勢いましたが(笑)。

一度も言いよどんだり、かんだりせず、みごとな語りで生放送をリードされた指導者の方は、今日だけではなく、ぜひ毎日、しっかりと体操して下さいと勧められていました。確かに、運動不足になりがちな私のような者にとって、体を動かすことは大切です。

しかし、同時に、「心の鍛錬」にも力を尽くしていきたいですね。神様に喜んでいただけるような「敬虔な生き方」を、いつも求めていきたいものです。

「…敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(Iテモテ4:7-8、新改訳第3版)

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2007年7月30日 (月)

神のために実を結ぶ(ローマ7章)

Flower070729 うちの教会の駐車場には、リンゴの木が植えられています。会堂を建てる時に植えた人がいたようですが、ここ10年余り、何のお世話もしていません。土地は表土が削られていて、樹木が育つには適さない場所なのですが、3本ほどの細い木が何とか生き残り、毎年、秋になるとささやかながら実を結びます。

ここ数年は、3本のうち、2本しか実ができなかったのですが、今年はなぜか、もう1本にも小さな実がいくつかついています。もうリンゴができないのなら、そのうち木を切ってしまおうかと思っていました。切り倒さなくて、良かったですね(笑)。

自分で植えたわけでなく、普段、まったくお世話もしていないのに、実が実ると、何だか嬉しい気持ちになります。全然、手を入れないので、食用にはならず、もっぱら観賞用です。それでも春先に花を咲かせた頃から、今年は、どれだけ実が実るだろうかと、「実りの秋」を楽しみにしています。

私たち一人ひとりを創造し、育てて下さっている神様は、私たちが成長し、実を結ぶことを楽しみにしていて下さいます。私たちは、ただ外面的に、神様が定めた生き方のルール(「律法」)を守ることにより、成長するのではありません。それはエデンの園以来、不可能だということが分かっています。

十字架で死に、よみがえられたイエス・キリストを信じる人は、心の中から少しずつ変えられ、新しい生き方ができるようになると約束されています。自分の力でルールを守ることにより、正しく生きようとする古い人生は、キリストの十字架とともに、葬り去られました。復活の主の力により、新しい、豊かな実を結ぶ人生が与えられていることを感謝します。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(ローマ7:4、新改訳第3版)

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2007年7月27日 (金)

西欧文明の源流

西欧文明には、二つの源流があると言われます。ギリシア・ローマ文明とキリスト教です。ヘレニズムとヘブライズムという言い方がされる場合もあります。ヘレニズム(Hellenism)とは、ギリシア人(Hellenes)に由来する言葉、ヘブライズム(Hebraism)とは、ヘブライ人(Hebrews)、つまりユダヤ人に由来する言葉です。

二つの流れは、まったく違う方向性を持っていました。ギリシア・ローマ文化は、日本と同じ多神教で、世界の至るところに神々や英雄たちが存在し、人々は彼らを崇拝し、その神託(お告げ)を信じていました。神々は、きわめて人間に近い姿で、恋愛もし、ミスも犯したようです。労働は奴隷にまかせ、指導者たちは体を鍛え、哲学論議に花を咲かせました。

これに対して、ユダヤ-キリスト教文化はもちろん一神教で、創造主なる神は、被造物の世界を超越した無限の存在です。礼拝する者たちは、預言者たちによって語られる神のことばに耳を傾けました。神は、永遠の愛で人々を愛し、決して間違いは犯さない完全な存在です。労働は神の与えた務めであり、指導者は聖書を学び、神に従って国を治めることが期待されました。

紀元1世紀以降、多神教のローマ帝国において、迫害と殉教を乗り越えながら、唯一の神を伝える「宣教」の働きが拡大していきます。そしてとうとう、4世紀にはキリスト教が公認され、さらに帝国の国教とされるに至ります。これ以降、キリスト教信仰とギリシア思想とを統合させようという動きが強まり、中世のスコラ哲学へとつながっていきます。教会も、政治との関わりを深めていきました。

このキリスト教世界(Christendom)に大きな変化が訪れるのは、14世紀から16世紀に起きたルネサンスと宗教改革です。この二つは、中世の「暗黒時代」に縛られていた人々を解放した動きとして、同じように扱われることが多いですが、実は、まったく異なった方向を向いていました。

ルネサンス(Renaissance)とは、フランス語で「再生」という意味で、ギリシア・ローマ文化を復興させることでした。それは多神教が土台であり、人間中心主義的な色彩がありました。これに対して宗教改革は、ギリシア・ローマではなく、聖書に戻ろうという動きです。唯一の神以外の絶対的な権威を認めないという姿勢で、神中心主義と言えます。

ルネサンスの流れは、さらに18世紀の啓蒙主義(Enlightenment)へとつながります。それは、人間の理性をすべての中心に置き、理性の光で世界を照らし、理解していこうという考え方です。啓蒙主義により、キリスト教を母体として生まれた「科学」は、信仰から切り離され、「世俗化」することになりました。

明治維新以降、「和魂洋才」として、日本で積極的に吸収された「西欧文明」は、まず世俗化した科学であり、大戦後は啓蒙主義的な思想が主流となっているように思えます。しかし、啓蒙思想も世俗の科学も、倫理を語るには無力のようです。何が、人として守るべき道なのか、人間理性だけでは、一致した結論を出すことができないのでしょう。

聖書は、すべての知恵は、無限の知恵に溢れる創造主なる神様を信じ、礼拝する(「恐れる」)ことから始まると教えています。神様によって、知恵ある者とされ、人として守るべき道を教えられていきたいですね。

夏休みに入ってから、「自由研究」で検索した人のアクセスが増えているようですが、これは、自由研究のテーマになるかな?(笑)

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10、新改訳第3版)

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2007年7月26日 (木)

大和魂

日本人は、誇り高き民族で、他の国への従属的な立場を好まない傾向があります。「サムライ」の国としての矜持なのでしょうか。しかし、文明史的に考えると、日本は、古くから中国文明の周辺国であり、明治以降は、西欧近代文明の周辺国と言えます。「日本文明」という見方を主張する人たちもいるようですが、世界史に与えた影響力の大きさから見れば、少し無理があるように感じます。

外来の文明を吸収する際、意識されるようになったのが、「大和魂(やまとだましい)」でした。最初は、中国から流入してきた知識や文化を日本風にアレンジすることを意味したようで、「和魂漢才」と言われます。その後、近代化を急いだ明治期には、「和魂洋才」という言葉が出来ました。すべて西洋化するのではなく、「日本の心」を失わず、外来文化はあくまでも「和風」に摂取するという意味ですね。

西アジアで生まれた「キリスト教」が、欧米経由で日本に入ってきた時、それは「外来宗教」として位置づけられ、「和魂」と対立する「洋才」として理解されました。近代国民国家が、1648年のウェストファリア条約以降、キリスト教諸派を国家の倫理的基盤としているなら、日本は神道を基盤とすべきだというのが、明治新政府の選択だったのです。

しかし、もし「大和魂」が「外来文化を日本風に摂取する心」だとしたら、外来宗教を拒否する心は、大和魂とは言えないのではないでしょうか。実際、仏教も外来宗教であり、それを日本風にアレンジしてきた歴史があります。「聖書の教え」も、ソトから来たものだからと言って受け入れないのではなく、日本風に積極的に吸収していこうという考え方が、本来の「和魂」だと私には思えます。

倫理観が崩壊しつつある今、「攘夷」的な排外主義や超国家主義という「いつか来た道」に戻るのではなく、真の「大和魂」に基づいて、個人や社会の倫理的基盤について再考する時が来ているのではないでしょうか。

「大和魂」は、「和魂(にぎたま、にぎみたま)」とつながるとも言われるようです。「にぎたま」とは、神道で、「雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面」のことだそうです。私たちは、真の平和を築いて下さる創造主なる神様の教えを、「和の心」を大切にしながら、しっかりと吸収していきたいですね。

「あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。」(詩篇119:165、新改訳第3版)

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2007年7月25日 (水)

倫理観

バブル経済の頃、サラリーマンだった私は、あるレポートをまとめるため、国家と企業、そして個人の関わり方について考えていました。

明治維新以降の日本社会は、富国強兵、殖産興業、「欧米列強に追いつき追い越せ」という国家的大目標の下、企業も個人もある意味、一つの方向を向いていたように思えました。個人と会社(ミウチ、ナカマ)、国(セケン)は、同心円でくくることができ、「ソトの世界」(国際社会)における弱肉強食の生存競争に、一丸となって戦っていく、というイメージです。

戦後の日本も、しばらくの間は、似たような方向性をもっていました。平和主義を掲げ、「強兵」のスローガンはなくなりましたが、国の掲げた経済復興の大目標に向かい、企業も個人も、「モーレツ」に努力しました。「ソトの世界」は、米国との同盟関係と国際連合への加盟により、より平和的な「広いセケン」として認識され、そこで「名誉ある地位を占めたい」というのが、新しい憲法の指し示す目標となりました。

ところが、「経済大国」と自認し、「先進国首脳会議」の常連となった頃から、「同心円」は、はっきりしなくなります。企業は国を飛び出し、個人も一つの企業と「添い遂げる」意識が薄くなりました。こうなると国家、企業、個人の関係は、互いに一部のみが重なる3つの円のように理解できるでしょう。

個人、企業、国家が同心円状であれば、個人は会社のため、会社は国のために存在すると言えます。「一所懸命」に自らの分を果たせば、それがひいては「ミウチ」や「ナカマ」のため、そして「クニ」のためになりました。自分の仕事が人様の役に立ち、ひいては「セケン」のためになるという意識は、強い職業倫理を生み出したでしょう。

しかし、個人と企業、国家が別々の方向性を持つようになると、それぞれが別個の存在目的や倫理観を問われることになります。国家や企業が、個人の存在目的や倫理観の土台とならないとすると、個々の日本人にとっては、何がその土台となるのでしょう。

かの天才的な社会学者マックス・ヴェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、プロテスタント・クリスチャンたちの禁欲的職業倫理が、資本主義の発展に寄与したと分析しました。しかし、経済発展をした後、その倫理を失った人々が、「精神のない専門人、心情のない享楽人」となり、「かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ」とも予測しています。

日本では、プロテスタンティズムが経済発展をもたらしたわけではありません。ただ、ヴェーバーの指摘と重なるのは、バブル経済で人々が未曾有の繁栄を謳歌して以降、倫理観の崩壊が随所に見られることです。倫理の欠如が、さまざまな社会的問題の背景となっているようにも感じます。

「倫理」とは、「人として守るべき道」と辞書にあります。私たちは今、何が人として守るべき道なのか、よく考えていかなければなりません。創造主なる神様が示される道は、幸いにつながる道だと聖書には記されています。

「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。」(箴言8:32、新改訳第3版)

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2007年7月24日 (火)

スチュワードシップ

最近は、カタカナ言葉を使うと、「欧米か!」とつっこまれそうですが、今日のタイトルは、日本語の中でも少しずつ用いられ始めている言葉のようなので、カタカナにしてみました。「スチュワードシップ(stewardship)」とは、預けられたものを責任をもって管理することで、「受託(者)責任」と訳されるようです。「管理(者)責任」と言っても良いでしょう。

「スチュワード」とは、財産管理人、執事、支配人、給仕長などとも訳されるようですが、以前は男性の客室乗務員(キャビン・アテンダント)のことも指していました。女性の場合は、ご存知、「スチュワーデス」です。語源から言えば、「stig(豚小屋)」と「weard(番人)」の合成語で、もともとは「豚小屋の番人」という意味だったそうです。飛行機に乗る人は、みんな豚だったのでしょうか(紅色の飛行艇? 笑)。

聖書の中には、有名な「タラント(タラントン)のたとえ」という話があります。ある人が、財産を3人のしもべたちに預け、旅に出ます。それぞれの能力に応じ、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを預けました。1タラントは、労働者の20年分ほどの賃金に相当したようですから、預けられたのは結構、大きな金額になりますね。

5タラントと2タラントを預けられた人たちは、商売をして、それぞれの金額を倍増させました。ところが、1タラント預けられた人は、土の中に、それをただ隠しておきました。今なら、「タンス預金」でしょうか。とにかく、何もしなかったのです。

お金を預けた主人が旅から帰ってきた時、5タラントと2タラントの人たちは、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とほめられましたが、1タラントの人は、預けられたお金を生かさなかったことを怒られました。まだ銀行に預けていた方が、利息がついたのに、と言われたのです。(今の日本の銀行よりも、当時の中東の銀行は、利率が良かったのでしょうか? 笑)

この例え話が、イエス・キリストの口から語られたというのは、意外に感じられるかもしれません。「お金儲けをすること」が肯定的に語られているからです。ただ、ここで重要なのは、彼らが「お金儲け」をした動機は、「受託者」あるいは「管理者」としての責任を果たそうとしたからです。

「主人」とは創造主なる神様のこと、「しもべ」とは被造物である人間のこと。そして預けられた「タラント」は、私たちが地上に生きる人生を通し、神様から管理を委ねられているすべてのものを意味しています。ちなみに、この「タラント」は、英語の「talent(才能、素質、またはそれらを持つ人、タレント)」の語源となっています。

大切なのは、すべては一時的に預けられているという意識です。預けられているものが多いか少ないかは、問題ではありません。5タラントの人も、2タラントの人も、同じようにほめられています。問題は、神様から預けられているものを、自分の好き勝手にしてしまうことです。自分の所有物のように扱ったり、あるいは役に立てようとしないことは、神様の喜ばれることではありません。

「お金儲け」や「徹底した利益追求」は、その背後にある動機が何か、ということが重要です。人はうわべを見ますが、神様は心を見られています。神様に喜ばれる「新しい生き方」をしていきたいですね。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21、新改訳第3版)

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2007年7月23日 (月)

新しい歩みをする(ローマ6章)

Flower070722 マジメな牧師なら、土曜の夜は翌日の礼拝のために早く休むか、あるいは徹夜でメッセージ準備をしているかもしれません。しかし、あまりマジメでない(?)私は、土曜深夜、NHKで放映中の韓国ドラマ「春のワルツ」を見ています。

あの「冬のソナタ」と同じ監督による作品で、「四季シリーズ」の最終章だそうです。春だからこそ、「希望」を描きたかったとのこと。「冬ソナ」では、純白の雪景色が印象的でしたが、春をテーマにしたこのドラマでは、実にカラフルな風景と衣装が、視る者の目を楽しませてくれます。

オジサン真っ盛りの私は、若い4人をめぐるラブストーリーにふれ、自らの青春時代と比べ合わせながら、「若いっていうのは、切ないものだなぁ」と、感傷にふけっています(笑)。バックに流れる音楽にも、切なさが感じられますね。

主人公の青年は、もともと「スホ」という名前で貧しい環境に育ちましたが、ある時、「チェハ」という男の子を亡くしたばかりのお金持ち夫婦と出会い、チェハに成り代わって育てられるようです。天才的なピアニストとして成功した後、小さい頃、妹のように可愛がっていた幼なじみの女の子(ウニョン)と、運命的な再会を果たします。

「愛と赦しによる心の傷のいやし」という主題があるそうで、それは聖書とつながる部分があるかもしれません。(私の場合、過去を振り返ると、「赦し」が本当にたくさん必要だと感じます。)

スホは、チェハになった時、自らの生き方を一変させたのでしょう。ピアノを一生懸命練習し、言葉遣いや礼儀作法も覚え、新しい家の一員として、新しい生き方をするようになりました。私たちも、イエス・キリストを信じ、神の子とされ、神の家族に迎え入れられると、新しい歩みをするようになります。

それは、キリストとともに生き、正しい目的のために自らをささげ、少しずつ、神様によって聖められていく人生です。古い生き方は、バプテスマ(洗礼)により、葬り去られました。新しい生き方をする者として、新しいいのちが与えられていることを感謝します。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4、新改訳第3版)

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2007年7月20日 (金)

神と富

会社勤めをしていた頃、株の購入を勧められたことがあります。その会社は、一部上場する時、株価が上昇してずいぶん儲けた人たちがいたらしく、「君もやってみたら?」というお誘いでした。時は、バブルの真っ只中。個人的に多額の借金までして土地をころがす、若い投資家たちの話まで耳にしました。

トラックの仕事から転職した私は、日給月給の現金を手渡しでもらっていた生活から、銀行振込の明細をもらうようになったばかりでした。やっと日々の生活に少し余裕が出てきたくらいで、もちろん株を買う資金などなく、借金をする気もありません。経済学の専門家でも何もなかったのですが、私は少々、あまのじゃくな性格からか、実はその頃、株価や不動産価格はいつか下がると思っていました。

何の根拠もあったわけではありません。ただ、ミクロ経済学が言うように、価格が需要と供給のバランスから成り立っているのなら、異常なまでに価格が高騰し続け、決して下がらないということはないだろうと予想しただけです。

素人ながら、株は何のために存在するのだろうか、とも考えていました。企業がその業務を通して、人々の必要(ニーズ)や求め(ウォンツ)に応えていこうとする時、その活動を支援するための資金援助の一つが、株式購入という方法なのではないか、と思いました。とすれば、ただ金儲けだけを考えて株を売買することは、本来、間違っているのではないか、と感じました。

個人や企業がひたすら利益を追求すれば、「見えざる手」の働きにより、社会全体の益となるというアダム・スミスの「国富論」も、どこか楽観的すぎるのではないか、と疑問がありました。もし、利益追求が無条件に善しとされるなら、「お金儲けは悪いことですか?」と問いかけるヒルズ族の投資家に、何と回答すれば良いのでしょう。「徹底した利益至上主義に慄然とする」とコメントしたところで、では法律の範囲内での投資行動はどうなのか、という問題は残ります。

聖書は、お金が儲かること自体が悪いとは語っていません。神様の祝福には、経済的な繁栄が含まれています。大切なことは、何を目的として生きるかです。富を第一に求めるのではなく、必要な富を必要なだけ与えて下さる神様を第一としなさい、というのが、イエス・キリストが伝えたメッセージでした。

お金は、天国に持っていけません。お金で、天国に行くこともできません。神と富のどちらを第一とするのか、よく考えて生きたいですね。

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24、新改訳第3版)

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2007年7月19日 (木)

平安

阪神・淡路大震災のちょうど1年前、1994年1月17日に、ロスで地震がありました。早朝4時30分に大きな揺れがあり、私と妻はすぐに目を覚ましました。私は、リビングに置いてある棚が倒れるのではないかと思い、ベッドルームを出て、押さえに行きました。

マグニチュード6.7で、米国史上、最も経済的損害の大きい地震だったそうですが、私の住んでいた辺りは震源地から離れていたため、それほど被害はありませんでした。妻が、臨月の大きなお腹をハンドルにつかえそうになりながら、車を運転してスーパーに買い物に行くと、商品が散乱した棚を店員が片付けていたそうです。

報道では被害が大きい場所が映し出されるため、日本にいた両親は、たいへん心配したようです。電話がつながらないため、すぐに連絡はできませんでした。翌日、妻がやっと自分の母に電話連絡を入れると、「死んだかと思った」と涙声だったとのこと。ただ、5歳の孫に限っては、すばしこいので逃げたのではないかと希望をもっていたそうです(笑)。

長女は地震の時、逃げるどころかまったく目を覚まさず、すやすやと平安のうちに寝ていました。長男は、この地震に驚いたのか、予定日が過ぎても、お腹の中からなかなか出てきませんでした。子どもたちの反応も、それぞれですね。

その日は、マーティン・ルーサー・キングJr.牧師の誕生をお祝いする祝日で、学校は休みでした。崩壊したフリーウェイ10号は、普段、通学には使っていませんでしたが、何かの用事で走ることもありました。走っていた時に地震に遭遇したら、どうなっていたか分かりません。

今回の地震の被災者の方々も、かつてのうちの長女のように、夜は十分に休めると良いですね。神様の平安がありますように。

「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8、新改訳第3版)

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2007年7月18日 (水)

天の助け

阪神・淡路大震災が起きた時、私はカリフォルニアにいました。ニュースで流れる映像を見て、その被害の大きさに、ただただ驚いたことを覚えています。

当時、私の友人は、神戸で牧師をしていました。それは、彼が日雇労働の人と一緒に港に仕事を探しにいくため、牧師館を出ようとしていた時でした。突然、ドーン、グラグラときて、電気が消え、真っ暗になったそうです。

暗闇の中、3人の小さな子どもたちを連れ、奥様とともにすぐ近くの公園に避難したようです。公園には、続々と人が集まって来ます。幸い、教会堂は建物が残っていたため、駆けつけた教会員の人の発案で、避難所として利用してもらうことになり、100名くらいの人がそこに避難したそうです。

その後、ある宣教師とのつながりにより、米軍横田基地の兵士や家族から送られた救援物資を教会に置くことになりました。教会は、物資を配布し、炊き出しをするための拠点として用いられたようです。

牧師の子の一人は、お母さんに何度も聞いたそうです。「神様が怒ったのかなあ、お母さん。神様が怒ったのかなあ。でも神様が助けてくれたんだよね、お母さん。神様が助けてくれたんだよね。神様が教会なおしてくれるよね。」お母さんが、適当にあしらえばあしらうほど、大きい声で、みんなの前で聞いたそうです。

お母さんは、揺れの瞬間に、「あ、自分は造られたものなんだ」と思い、神様を感じたそうです。しかし、教会に避難してきた人たちの面前で、子どもにそれをはっきり伝えることはできませんでした。ただ、みんなの前で聞かないでほしい、というのが、正直な気持ちだったそうです。

また地震が起きました。「新潟-神戸ひずみ集中帯」と呼ばれる地域で、阪神大震災ともつながりのある場所だそうです。昨日の朝日新聞・天声人語は、次のように記しています。「主人のように振る舞う人類も、実はこの惑星に間借りし、一瞬の文明を築いているにすぎない。とりわけ、天災列島の上で栄える国には、弱者としての自覚と備えがいる。」

私たちは時に、どうして起きたのか理解できないような出来事に遭遇します。神様は、なぜこんなことが起きることを許されたのだろうか、と思います。神様に向かって文句を言い、叫びたくなることもあります。しかし、そんな私たちを決して見捨てず、ともにいて悲しみや苦しみを共有して下さり、必要な助けを与えて下さるのも、神様です。

どんな中にあっても、私たちを愛しておられる創造主なる神様を見上げ、その助けに希望を持ち続けていきたいですね。新潟や長野の被災者の方々の上に、神様の助けと慰めがありますように。

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2、新改訳第3版)

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2007年7月17日 (火)

和の国

何年か前、確か、「日本国憲法」という本がベストセラーになりました。占領軍の押し付けだとか、日本語として分かりづらいとか、非現実的な理想主義だとか、いろいろ言う人はいますが、国民として、折にふれ、読み返すことが必要ですね。私は、昨日前文を再読して、たいへん立派で気品のある文章だと感じました。

「平和」という言葉は、現憲法を制定した終戦直後のみならず、今でも多くの日本人の心に強く響くのではないでしょうか。日本人は「平和ボケ」したという批判の声もありますが、日本文化を理解する上で欠かせないキーワードの一つは、「和」だと思います。

「日本」という国名は、もともと「倭(ヤマト)」だったようですが、日本人のことは、「和人」と書かれますね。聖徳太子による憲法十七条の冒頭、「和をもって貴しとなす」は、論語からの引用だそうですが、その精神は、日本文化の中に深く浸透しているようです。

東京大学名誉教授の京極純一氏は、「日本の政治」と題する著書の中で、「和の秩序」についてふれています。1924年生まれの同氏は、ある紹介文によると、「学徒動員中に入信した筋金入りのクリスチャン」だそうです。京極氏の分析によれば、集団内で「和」を保つ政治的な方法は、「長老型リーダーの人柄」と「根回しによるコンセンサス」とのこと。集団の成員は「空気」を読み、全員一致による「和」の維持に務めなければなりません。

全体が心から一致しており、それが集団外の世界との良好な関係につながっていれば良いですが、現実は、なかなかそうはいきません。第二次大戦の時は、国外には戦火を広げ、国内にあっては、「空気」に反対する少数者を「非国民」として弾圧しました。クリスチャンとなった京極氏は、それを身をもって体験したに違いありません。

本当に大切な「和」は、創造主なる神様との「和」であると、聖書は教えています。神様は、愛に満ちた「人柄」を持つ、世界で一番の「長老」です。そしてもちろん、世界中に、愛の「和(=輪)」を広げていきたいと願っておられます。私たちは、神様のみこころの「空気」を読み、真の「和の国」を築いていきたいですね。

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」(ヨブ22:21、新改訳第3版)

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2007年7月16日 (月)

神との平和を喜ぶ(ローマ5章)

Flower070714 最近、子どもから、「日本国憲法の三大原則は何か」と質問されました。「国民主権」と「基本的人権の尊重」の二つは、すぐ思いついたのですが、三つ目が何だったか、なかなか出てきません。ローマ人への手紙5章を開いて、やっと思い出しました。「平和主義」ですね。これは、忘れてはなりません。

憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する…」とあります。ここに記される、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、何なのでしょうか。

私は憲法の専門家でも何もありませんので、憲法学ではどのように理解しているのか、分かりません。私の専門は、聖書のテキスト(本文)を読み、解釈し、聞き手の日々の生き方、考え方の指針となるようにお話しすることです。「聖書解釈学」の原則から言うと、言葉の意味を理解する上で重要なポイントは、文脈になります。

「文脈から解釈する」原則に従えば、おそらく、「…崇高な理想」は、「平和」あるいは「恒久平和」のことを言っているのでしょう。その直後の文中の、「専制と隷従,圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」という言葉を考慮に入れると、「理想」には、「自由と民主主義」も含まれているのかもしれません。「自由」は、もちろん「基本的人権」の一つであり、「民主主義」は、「国民主権」につながっています。

では、これらの理想を日本人は「深く自覚」し、「国家の名誉にかけ、全力をあげて」達成しようとしているのでしょうか。昨今、見聞きする社会の状況を考えると、少々疑問な点が多いですね。

「私たちが互いに平和を保つには、まず神との間に平和な関係を築かなければならない」というのが、聖書の教える大原則です。イエス・キリストは、自ら命を投げ打って、私たちと神様との間の「平和の代償」を払って下さいました。その尊い愛を「深く自覚」し、その恵みを喜び、神の国の「名誉にかけ、全力をあげて」、平和を築く者となっていきたいですね。

「もし敵であった私たちが、御子(イエス)の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:10-11、新改訳第3版)

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2007年7月13日 (金)

家(イエ)

先日は、東京・立川でプチ同期会がありました。参加者は4人と少人数でしたが、少ない人数の方が、話の密度は濃くなり、「交わりが深まる」(教会用語?)ものです。駅ビルの中華料理店で2時間、たっぷりとお話しすることができました。

単身赴任の人がいました。社命により東京勤務となり、地方に家族を残して一人住まいをすることは、本人も家族もたいへんですね。ある調査によると、単身赴任者の平均年齢は46歳、結婚年数は平均20年とのこと。ちょうど私の世代になります。(詳しい調査結果は、こちら→http://www.the0123.com/kenkyu/vol9.html

国内への単身赴任者がいる企業は95%だそうで、企業規模や業態に関わらず、ほとんどの企業で単身赴任の人がいるようです。単身赴任者は、塩分の多い外食が中心となるせいか、高血圧になりやすいそうです。食生活に気をつけてほしいですね。

単身赴任は、日本以外ではあまり見られないという話も聞きます。欧米をはじめとする諸外国ではおそらく、夫婦が離れて暮らせば、すぐに離婚の危機を迎えるに違いありません。日本ではなぜ、この「制度」が一般的なのか、理解するキーワードは、ひょっとすると「イエ」なのではないかと考えています。

日本では長い間、企業は「大きなイエ」として機能してきました。武家社会の「お家」の文化が、産業化とともにビジネス社会に引き継がれてきたのでしょう。「大きなイエ」の構成員は、帰属意識が強く、内部のルールは外部のルールよりも優先されます。「小さなイエ」である家族は、あくまでも「私的」なことであり、優先すべきは「おおやけ=大きなイエ」の論理なのです。

この「イエ社会」は、最近、ずいぶん変化してきたとは言え、まだかなり昔の名残りをとどめているのではないでしょうか。仕事と家庭のどちらを優先するかと聞かれ、もちろん家庭だと答える男性は、日本ではまだ、それほど多くないように思います。それで必ずしも即、離婚とならないのは、「大きなイエ」の論理に従わざるを得ない夫たちに対する、妻たちの理解もあるのでしょう。

イエス・キリストを信じる人は、「神の家」に属しています。それは、世界中に広がる「大きなイエ」です。そして、その「大きなイエ」は、家庭という「小さなイエ」をも、愛によって満たしてくれます。「大きなイエ」の家主である神様が、私たち一人ひとりの「小さなイエ」を祝福し、支えて下さっていることを感謝します。

「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(ヘブル3:6、新改訳第3版)

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2007年7月12日 (木)

故郷(ふるさと)

昔の文部省唱歌に、「故郷」という曲があります。「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川」という、あの曲ですね。作曲者の岡野貞一氏はクリスチャンで、宣教師からオルガンを習い、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授となり、教会ではオルガン奏者を務めたそうです。(詳細は、こちら→http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/furusato.htm

私は、生まれも育ちも札幌なので、故郷はどこかと聞かれれば、通常は札幌と答えます。中学生で一時、千葉県に住んだ時、札幌では街中をクマが歩いているのかと聞かれたことがあります(笑)。七飯の教会では、何年か前、クマではなく、キツネを目撃したことはあります。しかし、子どもの頃、近くの山でうさぎを見たことや、追い回したことはないですね。食べたこともないので、うさぎの肉は美味しいかどうかも、分かりません(笑)。

私は釣りをしたことがなく、もっぱら釣ってきた魚をいただいて食べる方が専門なので、川でフナを釣ったこともないですね。近くの大沼公園では、ヘラブナが釣れるようですが、そちらも行ったことがないです。個人的には、フナというと、小学校の理科の授業で解剖した時のことを思い出します(笑)。

市街地で育った私にとって、「忘れがたき故郷」のイメージは、歌とはちょっと違っています。北海道の自然と「内地」の「里山」の風景とは、またおそらく、ずいぶん異なった趣があるのではないでしょうか。

唱歌「故郷」の三番は、「志をはたして いつの日にか帰らん…」と続きます。これは、「故郷に錦を飾る」という発想と、つながっているのかもしれません。青雲の志を抱いて故郷を後にし、苦労の末に自らすべきことを成し遂げ、「さと」に戻って、人々に報告するというイメージでしょうか。早々に志が成就し、故郷の風景もあまり変化なく、両親や知人たちも健在なうちに、華々しい活躍の報告ができれば良いですね。

しかし、なかなかそう、上手くはいきません。「少年老いやすく、志なりがたし」(?)です。苦労しているうちに、故郷は開発が進んで昔の面影がすっかりなくなってしまい、「さと」の人たちも、送り出した子どもたちの活躍を見る前に、亡くなってしまうかもしれません。そうなると、どこが帰るべき故郷なのか、よく分からなくなってしまいます。

神様に導かれ、故郷を後にしたアブラハムは、生まれ故郷のメソポタミア・ウルの町に「いつか帰ろう」と思ってはいませんでした。彼が帰ろうとしたのは、「天の故郷」だったのです。私も、神様が用意して下さっている天国の都、天の故郷に帰りたいと願っています。

出身地の「地上の故郷」が世界中のどこだったとしても、イエス・キリストを信じる人は、誰でも同じ「天の故郷」に帰ることができます。神様が「故郷」で待っていて下さり、「同郷の人々」との出会いや再会を楽しみにしつつ、一歩一歩そこに導かれていることを感謝します。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:13-16、新改訳第3版)

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2007年7月11日 (水)

祖国

「クリスチャンになることは、『祖国』への背信行為にあたるのか」という疑問が長くありました。しかし、昨日のブログを書いていて、自分の「祖国」が日本だという根拠は、出生地と現国籍以外、はっきりとしていないことに気がつきました。

祖国とは、「先祖代々住んできた国」だそうです。では、私のように、先祖がどこに住んでいたのかよく分からない人は、どこが祖国になるのでしょうか。ただ漠然と、私の先祖は縄文・弥生時代以来、日本のどこかで暮らしてきたかのように考えてきましたが、そんな証拠はどこにも残っていません。

私の父は、サハリン生まれで、子どもの頃は満州や北京で暮らしました。母も、終戦までは、上海で生活しました。彼らのさらに先祖たちが、中国大陸で生まれたり、そこで人生の大半を過ごしたことが一切なかったと、言い切ることはできません。日本の大多数の人たちが、もし何代か前はどこで生活していたか分からないとしたら、「日本こそわが祖国」と考えるのは、ひょっとすると「共同幻想」なのかもしれませんね。

イエス・キリストを信じる人は、神の国(天国)に国籍が与えられます。つまり、天国が祖国となるのです。今、私は住民票は日本にありますが、本籍地は天国にある「天国人」となっています。でもきっと、役所に行って、本籍地が「天国」になりましたと主張しても、相手にしてくれないでしょうね(笑)。

神様が、幻想ではない「祖国」と、「天国人」としての明確なアイデンティティを与えて下さったことを感謝します。

「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20、新改訳第3版)

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2007年7月10日 (火)

先祖

「クリスチャンは、先祖を大切にしない」というイメージがあるようです。確かに、神社や仏壇に手を合わせることはなく、お墓参りもそれほど熱心でないかもしれません。しかし、振り返ってみると、私の育った家はもともとクリスチャンではなかったですが、仏壇もお墓もなく、初詣にも行きませんでした。日本人なら神道だとか、仏教だとか言われますが、私の家は「無宗教」だったのです。

私は、祖父は何をしていた人か知っていますが、曽祖父のことは何も知りません。札幌にある、父が建てた墓には、祖父と父の二人分の骨が納められているだけです。「○○家の墓」と書いてありますが、「先祖代々の墓」ではありません。だいたい、先祖がどんな人たちで、どこで何をしていたのか、まったく知らないのです。

「藤」のつく名字は、「藤原氏」と関わりがあるという話ですが、明治時代に適当に名字をつけた人たちが多かったため、本当にその血筋かと言うと、そうでもないようです。母はよく、父方の家系について、「どこの馬の骨か分からない」と口走っていました(笑)。

クリスチャンになった時、もう日本人でなくなってしまったかのような感覚を持ちましたが、よく考えれば、もともと私の家には、日本的な伝統など、ほとんどなかったのです(苦笑)。先祖もどこの国の人か(馬か?)、はっきりしません。でも、ひょっとすると、日本の多くの人々は、何代もさかのぼれば、似たところがあるかもしれません。日本人は、そもそもどこから来たのか、よく分からない民族ですね。

イエス・キリストを信じる人は、神の家族とされます。それは、アブラハムを共通の祖先とし、世界中に広がる一大ファミリーの中に、養子として迎えられるという意味です。その新しい家族には、素晴らしい生き方をした先祖たちがたくさんいたことが、聖書の中に記されています。私は、この家族の一員とされたことをたいへん誇りに思い、感謝しています。

新しい家族の養子となったことは、古い家族をないがしろにすることではありません。仏壇やお墓、あるいは神社で合掌しなくても、祖父や父たちの記憶は、心の中にしっかりと刻み込まれています。日本史に登場するヒーローたちの生き様も、決して忘れはしません。しかし、同時に、新しい家族の偉大な家系図の中に、私の名前が記されるようになったことは、身に余る光栄と感じているのです。

私たちがどのように生きたらよいのか、模範となる先祖たちが与えられたことを感謝します。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29、新改訳第3版)

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2007年7月 9日 (月)

アブラハムの信仰にならう(ローマ4章)

Flower070708 アブラハム(Abraham)という人物は、日本では、あまり知られていないかもしれません。聖書の主要人物を何人か挙げて下さい、と一般の(クリスチャンでない)日本人に聞いたら、おそらくアブラハムの名前を口にする方は少ないのではないでしょうか。しかし、もし彼がいなかったら、人類の歴史は全く違ったものになったと思えるほど、実は重要な人物なのです。

ノア(Noah)の時代の大洪水で、箱舟に乗って生き残った人類は、ノアの家族8人だけでした(だからトヨタのノアは8人乗り? 笑)。つまり、現存する全世界の諸民族は、すべてノアの子孫になります。たくさん増え広がった子孫たちは最初、一つの言葉を話していたのですが、天にまで届く「バベルの塔」を建てようとしたため、神様が言葉を混乱させ、人々を全世界に散らされました。最近、菊地凛子さんがアカデミー賞候補となり話題になった、映画「バベル」の下敷きになっている出来事です。

塔のあった場所は、チグリス・ユーフラテス両河に潤される肥沃なメソポタミア地方で、今で言うとイラクのあたりです。そこから歩いて、日の出ずる「地の果て」までやってきた日本人の祖先は、もちろん何代も後になっていたでしょうが、ずいぶん長旅を経験しましたね。

世界中に散った諸民族の中から、神様は、たった一人だけ、神様とコミュニケーションをとる(特別啓示する)ための代表者を選びます。それが、まだメソポタミアに残っていたアブラハムでした。もし、彼が神様の導きに従い、新しい土地(今のイスラエルの地)に行くなら、神様は彼を祝福すること、そしてその祝福を通して、全人類を祝福することが約束されたのです。

アブラハムは、神様に語られた通り、75歳でイスラエル(パレスチナ)の地に向かいます。するとその後、高齢にも関わらず子どもが与えられること、その子孫は星の数ほどになることが、さらに約束されました。アブラハムは、その約束を信じます。神様はその「信仰」を喜んで下さり、約束を果たして下さいました。今のユダヤ人、アラブ人、そしてクリスチャンたちは皆、この「信仰の父」アブラハムの子孫にあたります。

アブラハムのように、創造主なる神様の祝福の約束を信じる人は、その祝福を受け継ぐ「相続人」とされています。イエス・キリストを通して、その約束の対象が、ユダヤ人以外の全世界の人々に広げられていることを感謝します。

「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々(ユダヤ人)にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」(ローマ4:16、新改訳第3版)

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2007年7月 6日 (金)

歴史観

時折、新聞国際面の小さな記事の中に、米国公教育の場における進化論と創造論の議論が紹介されています。キリスト教系の私立学校では、おそらく何の問題もなく、聖書と創造論を教えているのでしょうが、公立学校は日本と同じで、進化論が主流なのでしょう。

創造論を支持する人は、公教育の場で進化論を教えるなら、創造論についても、その代替理論として紹介すべきだと主張するようです。しかし、進化論支持者は、創造論は宗教だから、公教育の場から排除すべきだと言って、譲りません。記事を書く記者は、ほとんどクリスチャンではなさそうなので、たいてい創造論について否定的です。科学の発達した現代でもなお、このような時代錯誤の考えに固執する奇妙な人たちがいる、といった論調ですね。

もし、進化論が科学理論であるなら、それは仮説に過ぎません。仮説は、いつでも反証可能で、より優れた(説得力のある)理論によって、くつがえされることにより、科学は発展していくはずです。天動説が地動説になったり、ニュートン力学が相対性理論や量子力学によって、位置付けがまったく「転換」したのと同じです。ですから、主流となっている理論に対する反対意見は、本来は歓迎されてしかるべきだと思います。

ところが、進化論に対する反対意見は、あまり歓迎されず、創造論との対話は、いつも感情的な議論の平行線に終わってしまうように見受けられます。それは、実は進化論も創造論も、理性的議論によって反証可能な科学的仮説ではなく、人類および宇宙全体の起源と将来に関する歴史観だからではないかと、私は考えています。

歴史観というのは、人々が「事実」をどのように解釈し、人生の意味をどう理解し、いかに生きていくべきかを考えるための基本的な枠組みです。昨日のブログの言葉を使えば、世界観であり、パラダイムであり、公理です。自分が何者かという、「アイデンティティ(identity)」を支える基盤でもあります。

創造主の存在を認めない(世俗主義的な)進化論では、すべてが偶然に発生し、偶然に突然変異を起こし、適者生存の原則に従って、優れたものが勝ち残っていくという歴史観になるのでしょう。人類の起源に何の意味もなく、格差が出来ても当然で、将来の行方は偶然に支配されており、不明です。

未来の世界では、サルが人類を支配するのか、ロボットと人類が全面戦争するのか、異星人が攻めて来るのか、フォースをあやつる「騎士」たちが登場するのか、はたまたミュータントが活躍するのか、映画の題材には事欠きませんね(笑)。

これに対して、創造論では、時間と物的世界を超越した知的存在が宇宙と人類を設計(デザイン)し、組み立て、その進む方向を導き、将来についてもすでに周到な計画が用意されていると考えます。イエス・キリストによる人類の救いという、大きなテーマに貫かれているため、「救済史観」とも呼ばれます。人はすべて創造主なる神様に愛されている存在として造られ、大切に養われ、救い主によってもたらされる栄光の未来が約束されています。

唯物史観が魅力を失い、バラ色の進歩史観が色あせてきた今、日本では戦後史観の見直しとともに、皇国史観がまた頭をもたげてきているように感じます。「過ちは繰り返しませんから」という言葉を重く受け止め、何が正しい歴史観なのか、よく考えていきたいですね。

「なぜなら、万物は御子(キリスト)にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16、新改訳第3版)

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2007年7月 5日 (木)

公理

廣松渉氏の講義をきっかけに、自らの科学観がひっくり返ってしまった私は、ある日、大学生協書籍部に、「西欧近代科学――その自然観の歴史と構造」と題する書籍を発見します。著者は村上陽一郎というクリスチャンの先生でした。

この先生の講義を聞いてみたいと願いましたが、残念ながら他の必修科目と重なっていて、登録することができません。そこで、休講か何かの時だけ、一度か二度、聴講させていただくことにしました。

廣松氏の授業も大教室でしたが、理系向けのクラスです。今はどうか知りませんが、当時、私の大学の理系学生は、ほとんど男ばかりでした。ところが、文系向けの村上氏の授業にもぐり込むと、大きな階段教室に、女の子たちが大勢座っています。わが大学に、こんなに女子学生がいたのかと、私は目を疑いました。(これも「パラダイム・シフト」? 笑)

私が聴講した時は、ケプラーの話をされたように思います。ヨハンネス・ケプラーは、惑星の運動理論を定式化し、コペルニクスの提唱した地動説の優位を決定的にするという功績を残しました。しかし、彼がその運動法則を発見するプロセスは、一般的に「科学的方法」と理解されているような、無心にデータを収集してそこから一般原理を導き出すという、純粋な帰納法ではなかったとのこと。神様が創造された宇宙の秩序は、数学的に調和しているはずだという「信仰」から導かれた、演繹的推論だったと言うのです。

「人は、自分の見たいものを見る」と言われます。ある出来事に遭遇した時、人は、自らの人生観、世界観(worldview)の基本的な枠組みに基づいて、感知すべき情報を取捨選択し、自分が重要と考えた情報だけを受け取って、「事実」として理解する傾向があります。この基本的な枠組みが、「パラダイム(paradigm)」と呼ばれたりもします。

このパラダイムは、多くの場合、検証されることはありません。それは、数学や論理学において「公理(axiom)」と呼ばれるようなもので、すべての議論の土台となる前提で、「証明する必要のない、自明な法則」なのです。つまり、どんな科学的推論も、検証されることのない「自ら明らかな法則」が前提となっていると言えます。ある人たちは、「唯一神による天地創造」をその前提とし、ある人たちは、「偶然による進化」を前提としているわけで、どちらも同じく「信仰」と呼ぶことができます。

村上陽一郎氏は、古畑任三郎のモデルとも言われているそうです。真偽のほどは分かりませんが、大教室の演壇にさっそうと登場し、多くの若い女性たちを前に、人々をあっと驚かせる新たな学説を説得力をもって語る姿は、とにかく格好良かったです(笑)。映画「インディ・ジョーンズ」の何作目か忘れましたが、ジョーンズ博士が大学で考古学を教える姿に、女子学生たちがうっとりするという場面が確かありました(マニアック? 笑)。そのシーンを連想させるほど、ダンディな方でした。

その授業の聴講から、私がクリスチャンになるまで、何年かかかりました。しかし、今でも思い出すくらいですから、かなりインパクトがあったのでしょうね。「一般啓示」を解明する自然科学の話から、「特別啓示」として聖書に記される「公理」へと、神様が次第に導いて下さったことを感謝します。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1、新改訳第3版)

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2007年7月 4日 (水)

真理

科学について、いろいろと考えさせられるようになったのは、クリスチャンになる前、大学1年の頃からです。きっかけになったのは、教養の哲学の授業で、先生は廣松渉(ひろまつわたる)という方でした。今はどうされているのだろうかと、検索してみると、私が渡米中の1994年に亡くなられているようです。

先日、亡くなられたZARDの坂井泉水さんのヒット曲「負けないで」も、あまり聴いたことがないなと思っていたら、留学中の1993年のミリオンセラーだったとのこと。この頃、日本で起きたことは、すっぽり抜け落ちているのかと、あらためて感じました。

廣松渉氏は、もともとマルクス主義系の哲学者だったようですが、大学に入りたての私は、そんなことは何も知らず、「資本論」にも「民青」にもまったく関心がありませんでした。私が強いインパクトを受けたのは、理科系の学生向けに「教養」の一つとして教えられた、同氏の科学哲学の講義だったのです。

「20世紀の物理学を代表する相対性理論と量子力学は、哲学的に大きな問題を提起した。それは、観測者の『主観』から切り離された『客観的事実』は、もはや存在しないということだ」と廣松氏は語ったように思います。以前書いたように、パラダイム・シフトと「科学革命」の話もされました。(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_084d.html

「科学的真理」とは、実はいつでも反証可能な仮説に過ぎないことを知った私は、それでは「絶対的真理」は、どこにも存在しないのだろうかと探し求めるようになりました。

東京郊外にある素粒子研究施設に足を運び、研究者の方から、最先端の物理学研究のお話を伺ったこともあります。その方は、大きな加速器を見学させて下さり、クォークだとかニュートリノだとかの解説をされた後、「最後は仏教思想だ」と言われたように記憶しています。

私は、仏教の経典ではなく、聖書の中に「絶対的真理」を見出しました。真理とは何かを、神様が教えて下さっていることを感謝します。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Iテモテ2:4、新改訳第3版)

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2007年7月 3日 (火)

信じる理由

昨日のブログで、「幸せに暮らすことができる場所を用意し、元気に生きていくための食べ物を与える」というのは、難しい言葉で、「一般啓示」と言います。これに対して、「直接語りかける」というのは、「特別啓示」と呼ばれます。創造主なる神様は、さまざまな方法で、私たちにその愛を伝えて(啓示して)下さっています。

最近、ヒュー・ロスというクリスチャンの天文学者が日本を訪れました。この方はPh.D.(哲学博士号)をもつ科学者ですが、聖書を信じるクリスチャンとして、宇宙全体が創造主なる神様によって造られたと信じています。ビッグバン理論は、宇宙を超越した神の存在を指し示す説得力ある証拠であり、それは旧約聖書・創世記1章の記述と全く一致する、という立場です。

日本では、青山学院大学や東京大学などで講演したようで、私も行ってみたかったのですが、残念ながらスケジュールの都合がつきませんでした。ロス博士は、「Reasons To Believe(信仰の根拠)」という団体の創設者で、イエス・キリストを信じることには、大きな科学的な理由がいくつもあることを、一般の人々に紹介しているとのことです。(詳しくは、こちら→ http://www.reasons.org/、またはhttp://www.konkyo.org/

科学は、クリスチャンたちの手によって始められました。一般には、信仰と科学は、互いに相容れないものとして対比されることが多いですが、実は、コペルニクスもガリレオもニュートンも皆、クリスチャンでした。彼らは、創造主なる神様こそが秩序ある自然界を造られたと信じており、彼らにとって科学は、神様の「一般啓示」を解明する手段だったのです。

神様が定められた「自然法則」の精緻さを発見した初期の科学者たちは、天地創造の偉大さにあらためて思いを馳せ、神様の素晴らしさをほめたたえたことでしょう。私たちも、自然界の中にも神様の愛を見出し、感謝をもって生きていきたいですね。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1、新改訳第3版)

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2007年7月 2日 (月)

神の恵みを受け取る(ローマ3章)

Flower070701 気候がよくなったせいか、あるいはわが家の居心地がよいせいか、最近、家の中に蟻がよく侵入してきます。妻にとって虫は、天敵のようなもので、わが家で見つかったら、それが蟻の最期の日となります。別に蟻に恨みを抱いているわけでもなく、少し気の毒な気持ちもするのですが、入るべきではない場所に入ったという「罪」を犯してしまった以上、蟻たちは自らその罪の責任を負わなければなりません。

さて、もしあなたが蟻を心から愛する人で、蟻たちにあなたの愛を伝えたいとしたら、あなたはどうしますか?

きっとあなたは、蟻が幸せに暮らすことができる場所を用意し、元気に生きていくための食べ物を与えるでしょう。雄アリ一匹だけでは後が途絶えてしまい、「良くない」ので、雌アリ(女王アリ)も必要ですね。何世代にもわたって、幸せに暮らすことのできる環境を整え続けていけば、少しは、蟻もあなたの愛を分かってくれるかもしれません。

そのうち、あなたは蟻たちに、もっとあなたの深い愛を理解してほしいと、思いが募ります。それには、彼らに直接語りかける必要があります。蟻の言葉で、「愛してる」と言わなければなりません。あなたの語りかけを受け取る蟻を先ず選び、その蟻から、他の蟻たちにあなたの愛を伝えてもらいます。そして時がきたら、あなた自身が蟻になって、直接、「蟻語」で愛を語るのです。

勝手に家の中に入るという「罪」を犯したすべての蟻の身代わりとなり、あなた自身が死んだとしたら、あなたの愛のメッセージは、蟻たちにきっと明確な形で伝わるでしょうね。

神様は、私たちを愛し、イエス・キリストの身代わり(贖い)の十字架により、私たちの罪を帳消しにする(義と認められる)と約束して下さっています。罪とは、神様の完全な基準に達しないことで、すべての人に当てはまります。しかし、救い主イエスを信じる人は、その罪が赦されるという、特別なプレゼントが用意されているのです。神様のこの恵みを、喜んで受け取っていきたいですね。私たちが、神様の愛のプレゼントを受け取る時、私たちを深く愛しておられる神様も喜んでいて下さいます。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24、新改訳第3版)

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