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2007年7月10日 (火)

先祖

「クリスチャンは、先祖を大切にしない」というイメージがあるようです。確かに、神社や仏壇に手を合わせることはなく、お墓参りもそれほど熱心でないかもしれません。しかし、振り返ってみると、私の育った家はもともとクリスチャンではなかったですが、仏壇もお墓もなく、初詣にも行きませんでした。日本人なら神道だとか、仏教だとか言われますが、私の家は「無宗教」だったのです。

私は、祖父は何をしていた人か知っていますが、曽祖父のことは何も知りません。札幌にある、父が建てた墓には、祖父と父の二人分の骨が納められているだけです。「○○家の墓」と書いてありますが、「先祖代々の墓」ではありません。だいたい、先祖がどんな人たちで、どこで何をしていたのか、まったく知らないのです。

「藤」のつく名字は、「藤原氏」と関わりがあるという話ですが、明治時代に適当に名字をつけた人たちが多かったため、本当にその血筋かと言うと、そうでもないようです。母はよく、父方の家系について、「どこの馬の骨か分からない」と口走っていました(笑)。

クリスチャンになった時、もう日本人でなくなってしまったかのような感覚を持ちましたが、よく考えれば、もともと私の家には、日本的な伝統など、ほとんどなかったのです(苦笑)。先祖もどこの国の人か(馬か?)、はっきりしません。でも、ひょっとすると、日本の多くの人々は、何代もさかのぼれば、似たところがあるかもしれません。日本人は、そもそもどこから来たのか、よく分からない民族ですね。

イエス・キリストを信じる人は、神の家族とされます。それは、アブラハムを共通の祖先とし、世界中に広がる一大ファミリーの中に、養子として迎えられるという意味です。その新しい家族には、素晴らしい生き方をした先祖たちがたくさんいたことが、聖書の中に記されています。私は、この家族の一員とされたことをたいへん誇りに思い、感謝しています。

新しい家族の養子となったことは、古い家族をないがしろにすることではありません。仏壇やお墓、あるいは神社で合掌しなくても、祖父や父たちの記憶は、心の中にしっかりと刻み込まれています。日本史に登場するヒーローたちの生き様も、決して忘れはしません。しかし、同時に、新しい家族の偉大な家系図の中に、私の名前が記されるようになったことは、身に余る光栄と感じているのです。

私たちがどのように生きたらよいのか、模範となる先祖たちが与えられたことを感謝します。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29、新改訳第3版)

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