倫理観
バブル経済の頃、サラリーマンだった私は、あるレポートをまとめるため、国家と企業、そして個人の関わり方について考えていました。
明治維新以降の日本社会は、富国強兵、殖産興業、「欧米列強に追いつき追い越せ」という国家的大目標の下、企業も個人もある意味、一つの方向を向いていたように思えました。個人と会社(ミウチ、ナカマ)、国(セケン)は、同心円でくくることができ、「ソトの世界」(国際社会)における弱肉強食の生存競争に、一丸となって戦っていく、というイメージです。
戦後の日本も、しばらくの間は、似たような方向性をもっていました。平和主義を掲げ、「強兵」のスローガンはなくなりましたが、国の掲げた経済復興の大目標に向かい、企業も個人も、「モーレツ」に努力しました。「ソトの世界」は、米国との同盟関係と国際連合への加盟により、より平和的な「広いセケン」として認識され、そこで「名誉ある地位を占めたい」というのが、新しい憲法の指し示す目標となりました。
ところが、「経済大国」と自認し、「先進国首脳会議」の常連となった頃から、「同心円」は、はっきりしなくなります。企業は国を飛び出し、個人も一つの企業と「添い遂げる」意識が薄くなりました。こうなると国家、企業、個人の関係は、互いに一部のみが重なる3つの円のように理解できるでしょう。
個人、企業、国家が同心円状であれば、個人は会社のため、会社は国のために存在すると言えます。「一所懸命」に自らの分を果たせば、それがひいては「ミウチ」や「ナカマ」のため、そして「クニ」のためになりました。自分の仕事が人様の役に立ち、ひいては「セケン」のためになるという意識は、強い職業倫理を生み出したでしょう。
しかし、個人と企業、国家が別々の方向性を持つようになると、それぞれが別個の存在目的や倫理観を問われることになります。国家や企業が、個人の存在目的や倫理観の土台とならないとすると、個々の日本人にとっては、何がその土台となるのでしょう。
かの天才的な社会学者マックス・ヴェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、プロテスタント・クリスチャンたちの禁欲的職業倫理が、資本主義の発展に寄与したと分析しました。しかし、経済発展をした後、その倫理を失った人々が、「精神のない専門人、心情のない享楽人」となり、「かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ」とも予測しています。
日本では、プロテスタンティズムが経済発展をもたらしたわけではありません。ただ、ヴェーバーの指摘と重なるのは、バブル経済で人々が未曾有の繁栄を謳歌して以降、倫理観の崩壊が随所に見られることです。倫理の欠如が、さまざまな社会的問題の背景となっているようにも感じます。
「倫理」とは、「人として守るべき道」と辞書にあります。私たちは今、何が人として守るべき道なのか、よく考えていかなければなりません。創造主なる神様が示される道は、幸いにつながる道だと聖書には記されています。
「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。」(箴言8:32、新改訳第3版)
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