歴史観
時折、新聞国際面の小さな記事の中に、米国公教育の場における進化論と創造論の議論が紹介されています。キリスト教系の私立学校では、おそらく何の問題もなく、聖書と創造論を教えているのでしょうが、公立学校は日本と同じで、進化論が主流なのでしょう。
創造論を支持する人は、公教育の場で進化論を教えるなら、創造論についても、その代替理論として紹介すべきだと主張するようです。しかし、進化論支持者は、創造論は宗教だから、公教育の場から排除すべきだと言って、譲りません。記事を書く記者は、ほとんどクリスチャンではなさそうなので、たいてい創造論について否定的です。科学の発達した現代でもなお、このような時代錯誤の考えに固執する奇妙な人たちがいる、といった論調ですね。
もし、進化論が科学理論であるなら、それは仮説に過ぎません。仮説は、いつでも反証可能で、より優れた(説得力のある)理論によって、くつがえされることにより、科学は発展していくはずです。天動説が地動説になったり、ニュートン力学が相対性理論や量子力学によって、位置付けがまったく「転換」したのと同じです。ですから、主流となっている理論に対する反対意見は、本来は歓迎されてしかるべきだと思います。
ところが、進化論に対する反対意見は、あまり歓迎されず、創造論との対話は、いつも感情的な議論の平行線に終わってしまうように見受けられます。それは、実は進化論も創造論も、理性的議論によって反証可能な科学的仮説ではなく、人類および宇宙全体の起源と将来に関する歴史観だからではないかと、私は考えています。
歴史観というのは、人々が「事実」をどのように解釈し、人生の意味をどう理解し、いかに生きていくべきかを考えるための基本的な枠組みです。昨日のブログの言葉を使えば、世界観であり、パラダイムであり、公理です。自分が何者かという、「アイデンティティ(identity)」を支える基盤でもあります。
創造主の存在を認めない(世俗主義的な)進化論では、すべてが偶然に発生し、偶然に突然変異を起こし、適者生存の原則に従って、優れたものが勝ち残っていくという歴史観になるのでしょう。人類の起源に何の意味もなく、格差が出来ても当然で、将来の行方は偶然に支配されており、不明です。
未来の世界では、サルが人類を支配するのか、ロボットと人類が全面戦争するのか、異星人が攻めて来るのか、フォースをあやつる「騎士」たちが登場するのか、はたまたミュータントが活躍するのか、映画の題材には事欠きませんね(笑)。
これに対して、創造論では、時間と物的世界を超越した知的存在が宇宙と人類を設計(デザイン)し、組み立て、その進む方向を導き、将来についてもすでに周到な計画が用意されていると考えます。イエス・キリストによる人類の救いという、大きなテーマに貫かれているため、「救済史観」とも呼ばれます。人はすべて創造主なる神様に愛されている存在として造られ、大切に養われ、救い主によってもたらされる栄光の未来が約束されています。
唯物史観が魅力を失い、バラ色の進歩史観が色あせてきた今、日本では戦後史観の見直しとともに、皇国史観がまた頭をもたげてきているように感じます。「過ちは繰り返しませんから」という言葉を重く受け止め、何が正しい歴史観なのか、よく考えていきたいですね。
「なぜなら、万物は御子(キリスト)にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16、新改訳第3版)
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