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2007年7月 4日 (水)

真理

科学について、いろいろと考えさせられるようになったのは、クリスチャンになる前、大学1年の頃からです。きっかけになったのは、教養の哲学の授業で、先生は廣松渉(ひろまつわたる)という方でした。今はどうされているのだろうかと、検索してみると、私が渡米中の1994年に亡くなられているようです。

先日、亡くなられたZARDの坂井泉水さんのヒット曲「負けないで」も、あまり聴いたことがないなと思っていたら、留学中の1993年のミリオンセラーだったとのこと。この頃、日本で起きたことは、すっぽり抜け落ちているのかと、あらためて感じました。

廣松渉氏は、もともとマルクス主義系の哲学者だったようですが、大学に入りたての私は、そんなことは何も知らず、「資本論」にも「民青」にもまったく関心がありませんでした。私が強いインパクトを受けたのは、理科系の学生向けに「教養」の一つとして教えられた、同氏の科学哲学の講義だったのです。

「20世紀の物理学を代表する相対性理論と量子力学は、哲学的に大きな問題を提起した。それは、観測者の『主観』から切り離された『客観的事実』は、もはや存在しないということだ」と廣松氏は語ったように思います。以前書いたように、パラダイム・シフトと「科学革命」の話もされました。(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_084d.html

「科学的真理」とは、実はいつでも反証可能な仮説に過ぎないことを知った私は、それでは「絶対的真理」は、どこにも存在しないのだろうかと探し求めるようになりました。

東京郊外にある素粒子研究施設に足を運び、研究者の方から、最先端の物理学研究のお話を伺ったこともあります。その方は、大きな加速器を見学させて下さり、クォークだとかニュートリノだとかの解説をされた後、「最後は仏教思想だ」と言われたように記憶しています。

私は、仏教の経典ではなく、聖書の中に「絶対的真理」を見出しました。真理とは何かを、神様が教えて下さっていることを感謝します。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Iテモテ2:4、新改訳第3版)

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