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2007年7月 5日 (木)

公理

廣松渉氏の講義をきっかけに、自らの科学観がひっくり返ってしまった私は、ある日、大学生協書籍部に、「西欧近代科学――その自然観の歴史と構造」と題する書籍を発見します。著者は村上陽一郎というクリスチャンの先生でした。

この先生の講義を聞いてみたいと願いましたが、残念ながら他の必修科目と重なっていて、登録することができません。そこで、休講か何かの時だけ、一度か二度、聴講させていただくことにしました。

廣松氏の授業も大教室でしたが、理系向けのクラスです。今はどうか知りませんが、当時、私の大学の理系学生は、ほとんど男ばかりでした。ところが、文系向けの村上氏の授業にもぐり込むと、大きな階段教室に、女の子たちが大勢座っています。わが大学に、こんなに女子学生がいたのかと、私は目を疑いました。(これも「パラダイム・シフト」? 笑)

私が聴講した時は、ケプラーの話をされたように思います。ヨハンネス・ケプラーは、惑星の運動理論を定式化し、コペルニクスの提唱した地動説の優位を決定的にするという功績を残しました。しかし、彼がその運動法則を発見するプロセスは、一般的に「科学的方法」と理解されているような、無心にデータを収集してそこから一般原理を導き出すという、純粋な帰納法ではなかったとのこと。神様が創造された宇宙の秩序は、数学的に調和しているはずだという「信仰」から導かれた、演繹的推論だったと言うのです。

「人は、自分の見たいものを見る」と言われます。ある出来事に遭遇した時、人は、自らの人生観、世界観(worldview)の基本的な枠組みに基づいて、感知すべき情報を取捨選択し、自分が重要と考えた情報だけを受け取って、「事実」として理解する傾向があります。この基本的な枠組みが、「パラダイム(paradigm)」と呼ばれたりもします。

このパラダイムは、多くの場合、検証されることはありません。それは、数学や論理学において「公理(axiom)」と呼ばれるようなもので、すべての議論の土台となる前提で、「証明する必要のない、自明な法則」なのです。つまり、どんな科学的推論も、検証されることのない「自ら明らかな法則」が前提となっていると言えます。ある人たちは、「唯一神による天地創造」をその前提とし、ある人たちは、「偶然による進化」を前提としているわけで、どちらも同じく「信仰」と呼ぶことができます。

村上陽一郎氏は、古畑任三郎のモデルとも言われているそうです。真偽のほどは分かりませんが、大教室の演壇にさっそうと登場し、多くの若い女性たちを前に、人々をあっと驚かせる新たな学説を説得力をもって語る姿は、とにかく格好良かったです(笑)。映画「インディ・ジョーンズ」の何作目か忘れましたが、ジョーンズ博士が大学で考古学を教える姿に、女子学生たちがうっとりするという場面が確かありました(マニアック? 笑)。そのシーンを連想させるほど、ダンディな方でした。

その授業の聴講から、私がクリスチャンになるまで、何年かかかりました。しかし、今でも思い出すくらいですから、かなりインパクトがあったのでしょうね。「一般啓示」を解明する自然科学の話から、「特別啓示」として聖書に記される「公理」へと、神様が次第に導いて下さったことを感謝します。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1、新改訳第3版)

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