国益
好きな言葉、嫌いな言葉というのは、誰にでもあると思いますが、私は、「国益(national interest)」という言葉があまり好きではありません。国家主義と利益至上主義の両方が、一つに組み合わさったような響きを感じるからです。素人なので、間違っているかもしれませんが、「国益」という考え方はおそらく、「近代国際社会」が成立したあたりから生まれてきたのではないでしょうか。
ルネサンスと宗教改革以降のヨーロッパでは、政治的には1648年のウェストファリア(ヴェストファーレン)条約の結果、中世で主導的役割を果たした教皇や皇帝といった、国境を超越する権威・権力が力を失いました。近代という新たな時代を政治的に形づくったのは、「主権国家」であり、それら対等な国家間の「国際関係」だったのです。
国際社会は、必ずしも「平和を愛する諸国民」ばかりでなく、「万人の万人に対する闘争」状態にあるとも見られます。弱肉強食の世界で生き抜くため、各国は外交や戦争を繰り返しながら、それぞれの国益を維持し、あわよくば拡大しようとしてきました。集団安全保障のために設けられた国際機関も、結局は、国々の国益がぶつかる場になっているようですね。
「国益」が優先されると、外国に対しては損害を与え、国内では人権を抑圧する可能性があります。かつて日本が中国大陸に侵略した際のキャッチフレーズは、「満蒙は日本の生命線」であり、満州国建国は国益に合致していると判断されていました。国内では、国家神道を奉じることこそが国益だとされ、それを拒否したクリスチャンたちは、「非国民」として弾圧されました。
米国にとっては当時、中国市場の喪失は国益に反し、ヨーロッパ戦線への参加は国益にかなっていたようです。ドイツが降伏した後、「大量破壊兵器」である新型爆弾を広島と長崎に落として、戦争を早期終結に向かわせることも、米国にとっては「国益」だったのでしょう。今でも、それが正しい選択だったと考える米国人は、数多いようですね。
戦後の日本においては、対外的には平和主義、国内的には積極財政という路線こそ「国益」にかなうと考えたのが、「保守本流」でした。しかし今、憲法改正、軍備拡張、市場原理主義を「国益」とする「保守傍流」の方々が、政権の主流となっているようです。表立って靖国参拝こそしなくなり、参院選でも苦杯を味わったようですが、今後、年金のみならず、憲法や「愛国心教育」がどうなっていくのか、しっかり見張り番をしていかなければなりませんね。
私自身は、何が国益にかなうかと聞かれれば、救い主を信じ、神様の祝福を受けることと答えるでしょう。創造主なる神様が、イエス・キリストを通して与えて下さる「永遠のいのち」と、その他すべての霊的祝福にまさる「国民の利益」は、実は、この世に存在しません。日本の多くの人々が、真の「国益」に気づいてほしいと願っています。
「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」(詩篇33:12、新改訳第3版)
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