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2007年9月

2007年9月25日 (火)

神聖ローマ帝国

ギリシア人が木馬をつくった話で有名なトロイの町。その25キロ南にある小アジアの小さな港町トロアスで、マケドニア人の不思議な幻を見たパウロが、初めてヨーロッパ宣教のためエーゲ海を渡るのは、紀元50年頃のことです。その後、多くの迫害や殉教を経た後、キリスト教が公認され、ローマ帝国の国教となり、さらにはそれがヨーロッパを征服したゲルマン人たちへと受け継がれていきました。

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が目指したキリスト教帝国の理念を継いだゲルマンの雄、カール大帝のフランク王国は、一代限りで分裂してしまいます。その後、キリスト教に基づく帝国形成を図ったのは、ドイツのオットー大帝でした。彼は、962年、カールの子孫にあたる教皇ヨハネス12世から戴冠され、「神聖ローマ帝国」が誕生します。

少なくとも、これまで調べた資料からは、オットー大帝が、真摯な信仰心からキリスト教帝国をつくろうと願ったようには思えません。戴冠には教皇の思惑もあったようですが、オットー側としては、「皇帝」という地位を得ることにより、国内外の政敵たちに対する自らの立場を有利にするという政治的目的が大きかったのではないでしょうか。

オットーの意図がどこにあったにせよ、この神聖ローマ帝国は、名目上、ナポレオンによって解体される19世紀初頭まで続きます。そしてローマ・カトリック教会とともに、西ヨーロッパ中世の「キリスト教世界(Christendom)」を形づくる、2つの中心となっていくのです。

帝国内における聖職者の任命権(叙任権)などをめぐる教皇と皇帝の主導権争いは、宗教的権威と世俗的権力の違いを浮き彫りにしていきます。そしてそれは、宗教改革以降の動乱を経た後、近代国家における政教分離の原則へと結実するに至ります。イエス・キリストが「カイザル(皇帝)のものはカイザルへ、神のものは神へ」と言われてから、ずいぶん時間が経過してしまいましたね。

イエスの十二弟子も、使徒パウロも、武力や政治力をもって、「神聖なる帝国」を築こうとはしませんでした。それは、「天の帝(みかど)」なるイエスご自身が、そうなさろうとせず、弟子たちにもそのように命じられなかったからです。主イエスが命じられたのは、「神の国」の到来を世界中に告げる証人となることでした。

「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」(使徒1:6-8、新改訳第3版)

P.S. 都合により、今週の更新は本日までとします。また来週お会いしましょう。今週の残りの日々も、神様の祝福がありますように。

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2007年9月24日 (月)

誇りをもって神に仕える(ローマ15章)

使徒パウロは、小アジアのタルソ(タルソス)出身です。タルソは、ローマ帝国の属州キリキアの首都で、住民はみなローマ市民権が与えられたそうです。ユダヤ系ローマ市民としてその町に生まれ育ったパウロは、律法(旧約聖書)やユダヤ教の伝統とともに、ギリシア・ローマの神々や哲学にもふれる機会があったに違いありません。

タルソは、当時の学問の中心地であったアテネやアレクサンドリアにも並びうる文教都市だったようで、パウロはその空気を十分に吸ったのでしょう。さらに向学心に燃えた彼は、イスラエルの古都エルサレムに上ります。高名なラビであったガマリエルの下、律法を熱心に学び、パリサイ人としてのエリート教育を受けました。

ユダヤ社会の主流派に属し、キリスト教会を迫害していた彼は、ある時、不思議な形でイエス・キリストと出会い、人生の目的が一変します。律法を厳格に守ることで正しく生きようとしていた彼は、この後、主イエスを信じることによって救われるという「福音(よい知らせ)」を伝えるため、ローマ帝国各地を巡回するようになりました。

ユダヤの体制側から突然、取り締まり対象の地下活動に加わったパウロは、それまで努力して築いてきた学歴や社会的立場、評判などすべてを失ってしまいます。教会内ではすぐには信用されず、教会外のユダヤ人たちからは、裏切り者として命を狙われるようになりました。

しかしパウロは、皇帝ネロの迫害により殉教するまで、宣教と教会設立という、神様から与えられた使命を忠実に果たしていきます。彼は、「神の国の大使(使節)」として異邦人に福音を伝えるという自らの務めに、誇りをもっていました。神様から与えられた祝福を人々と分かち合い、互いのために力を尽くして祈りました。キリストの素晴らしさと比べれば、過去に自分が築いて得たものなど、ちりあくた同然だとも言いのけています。

私たちも、パウロと同じように、誇りをもって神様に仕えていきたいですね。救い主イエスを信じる者は、全世界の王なる神様の子どもとされ、世界各地に遣わされる大使とされているのですから、地上の国籍が何かに関わらず、「天国人」としての誇りをもって生きていきましょう。

「それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。」(ローマ15:17、新改訳第3版)

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2007年9月21日 (金)

カール大帝

古くからローマ帝国の領土を脅かし、ついには西ローマ帝国を滅ぼして、ヨーロッパ中世の開始を告げることになるゲルマン民族。彼らの中で初めて正統的なキリスト信仰(ニカイア公会議で採択された信条)に基づく洗礼を受けたのは、フランク王国を創設したクローヴィス1世でした。

クローヴィスは、コンスタンティヌスと同様、戦闘で敗北する危険に迫られていた時、神に助けを叫び求め、勝利が与えられるなら洗礼を受けると誓ったそうです。496年、戦いに勝利したクローヴィスは、指揮下にあった3000人の兵士とともに、フランス北部のランスで洗礼を受けました。

その後も、フランク王国とローマ教会との関係は続きます。迫り来るイスラム軍の攻撃を撃破したカール・マルテルの孫、カール大帝(シャルルマーニュ)も、イベリア半島でイスラム軍と戦い、現在のフランス、ドイツ、そしてイタリア北部に及ぶ広大な版図を築きます。そして、ついに紀元800年のクリスマス、ローマのサンピエトロ大聖堂で、教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠されたのです。

温泉好きだったカールは、ローマ時代から温泉保養地として有名だったアーヘンを首都に定め、ローマ風の王宮を築きます。そして自らが礼拝する場所として、東ローマ帝国皇帝用の教会とそっくりの「アーヘン大聖堂」を建設しました。(ちなみにこの聖堂は、北ヨーロッパ最古のものとして現存し、世界遺産の最初の12遺跡の一つとして、登録されているそうです。)

カールは、明らかに、コンスタンティヌスが築こうとしたキリスト教帝国の理念を引き継ごうとしたようです。征服した各地に教会や修道院を建て、重要な官職には聖職者を任命し、「十分の一税」も徹底したとのこと。先日ふれたブレーメンも、同じようにして町づくりがなされたのでしょう。王国内においては、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素が交じり合った文化が形成されました。イスラム帝国の攻撃に立ち向かうキリスト教帝国という図式は、現代にもつながるテーマですね。

カールは、アウグスティヌスの著作「神の国」を座右に置き、自ら「神の国」の建設を夢見ていたようです。しかし、主イエスが語られた「神の国」は、国家権力によって保持されるこの世の国のことではありません。「神の国」とは、創造主なる神様が全世界の「皇帝」として君臨し、統治する領域のことです。それは、神の前にへりくだり、その権威を自発的に受け入れようとする人々の心の中に存在するのです。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15、新改訳第3版)

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2007年9月20日 (木)

コンスタンティヌス

ヨーロッパの歴史の中で、キリスト信仰と国家との関係を決定的に変えたのは、コンスタンティヌス大帝でしょう。コンスタンティヌスは、母がクリスチャンだったようで、迫害の時代にあっても、父はキリスト信仰に寛容だったようです。父も実は、クリスチャンだったという話もあるそうです。

コンスタンティヌスの人生を大きく変えるきっかけとなったのは、312年に見た不思議な幻でした。ガリアにいた彼は、帝国の内乱を収めるため、アルプスを越えてローマに向かい、マクセンティウスと戦わなくてはなりませんでした。するとある日、太陽が西に傾きかけた頃、空に光り輝いた十字架を見、そのすぐ横に「汝これにて勝て」という文字が読めたとのこと。

これは何かと思い巡らしていると、その夜、夢の中にキリストがあらわれ、十字架に軍旗をつけるよう命じたそうです。この命令に従い、コンスタンティヌスは勝利を収めることができました。この戦いは、コンスタンティヌスにとって不利な状況であり、もしマクセンティウスが自らの罠にかかるという大きなミスを犯さなければ、勝敗の行方は分からなかったそうです。(弓削達、「ローマ帝国とキリスト教」、河出書房新社より)

勝利がイエス・キリストの恩恵によると信じた彼は、翌313年、「ミラノ勅令」を発布し、キリスト教を公認します。これはキリスト信仰だけでなく、他の信仰も認める内容だったため、原則としては、信教の自由を保障する勅令だったようですね。

ただコンスタンティヌスは、この後、皇帝の座にありながら、キリスト教宣教の上で大きな役割を果たします。自分は「神の奉仕者」であると宣言し、帝国民が真の神への正しい信仰を持ち、神の怒りにふれないよう、国費で各地に教会が建てられ、日曜日が祝日となり、異教の神々への国家儀礼は中止となりました。

さらには325年、小アジアのニケーア(ニカイア)に数百名の教会指導者たちを集め、正統的なキリスト信仰とは何かについて、教会が一致した見解を持つよう働きかけました。皇帝の決断により、父なる神と御子イエスが「同質(ホモウシオス)」だと下された結論は、後の三位一体論へとつながっていきます。

キリスト教会を各地に設立し、神学的な基礎を築いたという点から見ると、コンスタンティヌスは、使徒たちに準ずる働きをしたと言ってよいかもしれません。彼の働きにより、キリスト教会は、ローマ帝国内においてさらに発展し、根付いていったのでしょう。しかし同時に、教会の活動に国家権力が介入したり、政治的な動きと直結するような状況をも生み出されていくことになります。

「神の家」なる教会が何を信じ、どのような形であるべきか、私たちも注意をしていかなければなりませんね。「神の家」ですから、主人は創造主なる神様であり、世俗的な権威を持つ時の権力者ではありません。それは教会が、国家権力によって迫害される時代でも、保護される時代でも、変わらない真理です。

「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」(1テモテ3:15)

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2007年9月19日 (水)

グリム兄弟

「ブレーメンの音楽隊」や「赤ずきん」、「ヘンゼルとグレーテル」、「白雪姫」などを発表したグリム兄弟は、兄のヤーコプが1785年、弟のヴィルヘルムは翌1786年に、ドイツ南西部の都市ハーナウで誕生しました。

宗教改革の際、ハーナウに亡命してきたプロテスタントのクリスチャンたちの中に、宝石や貴金属を加工する職人がいたらしいとのこと。グリム兄弟の頃はもちろん、今日に至るまで宝石・貴金属加工が、この都市を支える主要産業となっているようです。

兄弟の祖父は、近隣のシュタイナウで牧師をしていました。兄弟の父は法律家を目指し、1791年にシュタイナウで行政司法官という高い役職に就いたそうです。グリム兄弟は、大きな家に住み、使用人が何人もいるという裕福な少年時代を過ごしたようですね。彼らには4人の弟妹がいたようで、きっと賑やかで楽しい家庭だったのでしょう。

ところが、この幸せな少年時代は、突然、終わってしまいます。ヤコプが11歳、ヴィルヘルムが10歳の時、彼らの父親が肺炎で亡くなるのです。急に収入を失い、困窮する家族を伯母が支援し、兄弟は猛勉強の末、大学に進学、学位を取得します。

一緒に暮らす家族を支え、一日一回だけ、3人分の食事を5人で食べるという極貧の生活をしながら、研究を続け、著作を出版したようです。政治的な荒波にもまれながらも、兄弟でゲッティンゲン大学教授、後にベルリン大学教授となり、ヤーコプはフランクフルト国民議会の代議員としても活躍したようです。

大学時代の恩師サヴィニーから影響を受け、兄弟は古いゲルマン文学に関心を持つようになりました。17世紀のウェストファリア条約以降、神聖ローマ帝国は有名無実となり、ドイツは300にも及ぶ小さな領邦国家が群立します。そして1806年、ナポレオンによって占領されたドイツの人々は、その屈辱的な状況を通し、ドイツ民族の統一を夢見るようになります。

グリム兄弟がゲルマンの古い文化を研究し、童話集を出版したのは、将来のドイツ統一のため、民族的遺産である言語文化を発掘し、伝えていきたいという思いがあったようですね。そして、その「古き良き時代」への思いは、おそらく、自分たちの少年時代の幸せな思い出とつながっていたに違いありません。

苦難を経験したからこそ、幸せな記憶が一層、心の中で光り輝くようになったのかもしれませんね。私たちも、神様からいただいた恵みを忘れず、苦難を乗り越えて生きていきたいですね。

「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。」(詩篇31:7、新改訳第3版)

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2007年9月18日 (火)

ブレーメン

昨日は、ブレーメンの音楽隊の話をしましたので、ブレーメン(Bremen)についてちょっと調べてみました。ブレーメンは、北ドイツ平原に位置する人口55万人ほどの都市で、近隣のブレーマーハーフェン市とともに、ブレーメン州を構成しているとのこと。ちなみにドイツ連邦共和国には16の州(連邦州)があり、その中でブレーメン州は一番人口が少ないようです。

ブレーメンは交通の要衝にあったためか、古くから歴史の表舞台に登場します。西ヨーロッパ世界を統一したフランク王国のカール大帝は、キリスト教の布教にたいへん熱心でした。この時代、政治と宗教は不可分であり、彼は、自らの王国をキリスト教に基づいて治めたいと願ったのです。ブレーメンには787年に司教管区が設置され、その後、大司教管区に格上げとなり、北欧における宣教の拠点となったようです。

オットー大帝から始まる神聖ローマ帝国の時代には、帝国自由都市として発展していくことになります。1189年には、ブレーメンの船舶が第3回十字軍に参加したとのこと。これが発端となり、三大騎士修道会の一つである「ドイツ騎士修道会(チュートン騎士団)」が発足したそうです。

宗教改革が始まる16世紀には、ブレーメンでも、贖宥状(しょくゆうじょう)販売に対する不満が高まっていたようです。贖宥状は、カトリック教会が販売した罪のつぐないを軽くする証明書で、その利益は戦費調達や大聖堂建築の資金として用いられました。

これが聖書の教えに反すると疑問をもったマルティン・ルターは、1517年、ヴィッテンベルク教会の扉に「95か条の論題」を掲示します。その知らせはブレーメンにも届き、1526年までにブレーメンの教会はすべてプロテスタントとなったようです。こうして始まった宗教改革の運動は、国家と信仰が結びついていた西ヨーロッパ全土に、残念ながらこの後、いくつもの戦争を引き起こしていくことになります。

ドイツ史上、未曾有の惨禍をもたらした30年戦争(1618-48年)において、ブレーメンは独立を守り抜き、ナポレオンがドイツを占領した時代にも、自由都市としての権利を保持しました。現在、ドイツの連邦州として残ったかつての帝国自由都市は、ブレーメンとハンブルグだけだそうです。

世界貿易と造船業で発展したブレーメンは、その後、ドイツ屈指の重工業地帯となり、第二次大戦の時には、連合軍の爆撃により、町の69%が破壊されたとのこと。しかし、戦後、昔の美しい街並みが復元されました。

信仰や経済の拠点として、これまで多くの人々が集まってきたのでしょうね。教会を中心として音楽も盛んだったでしょうから、そこの「音楽隊」に入ろうとする動物たちがいても、不思議ではなかったかもしれません(笑)。

それにしてもロバはギターを弾き、イヌは太鼓を叩き、ネコとオンドリが歌を歌う予定だったようですが、どんな音楽になったのでしょうね。歌うなら悲しい歌でなく、神様を賛美する歌を喜んで歌っていきたいですね。

「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(詩篇33:1-3、新改訳第3版)

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2007年9月17日 (月)

平和と成長を追い求める(ローマ14章)

Flower070916 グリム童話に、「ブレーメンの音楽隊」という物語があります。年をとって以前と同じように働けなくなったロバとイヌ、ネコ、オンドリが、主人から追い出されたり、殺されそうになったため、ブレーメンに行って音楽隊に入ろうとする話ですね。

ご存知の通り、彼らはブレーメンにまでは行きませんでした。途中の森にあった家から泥棒たちを追い出し、その家にそのまま住みつくことになります。家の主人がその後、戻ってきたのかどうかは分かりませんが、動物たちは、その家で楽しい音楽を奏でながら、いつまでも仲良く幸せに暮らしたそうです。

しかし、ちょっと考えてみると、ロバとイヌとネコとオンドリが仲良く暮らすというのは、難しいかもしれませんね。それぞれ生活習慣も食べ物も異なっているでしょう。性格や趣味、考え方も、まるで違うかもしれません。まったく違うものたちが、一つの屋根の下に集まり、一緒に暮らし続けるには、それなりの努力が必要になります。

教会も、それに似ています。まったく違う環境で生まれ育った、性格も趣味も考え方も生活習慣も異なる一人ひとりが、一つの場所に集められ、一つの家族とされます。「天の御国」に向かう私たちは、「神の家」なる教会でともに過ごすようになるのです。互いの間に平和な関係を築くこと、そして互いの違いを受け入れ合えるよう、成長していくことが大切ですね。

イエス・キリストは、どんな人をも愛し、受け入れて下さっています。神の家の主人として、その家を訪れる人を誰でも歓迎し、家族の一員として喜んで迎え入れて下さいます。ただ恵みによって神の家族とされた私たちも、人の弱さを受け入れ、霊的・人格的成長の妨げになるものを避けるよう、互いに配慮していきたいですね。

「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」(ローマ14:19、新改訳第3版)

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2007年9月14日 (金)

政教分離

安倍首相の退陣により、「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズも、お蔵入りになるのでしょうか。「戦後レジーム」というのは、もちろん、第二次大戦後に成立した日本国憲法による国家体制という意味で、それは国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という三大原則に基づいています。これら原則に手を入れ、「戦前レジーム」の一部を復活させようとしているのかと思うと、少々気がかりでした。

私が特に懸念しているのは、基本的人権としての信教の自由の問題で、具体的には歴代首相による靖国神社公式参拝と将来における国家神道復活の危険性、そしていわゆる「愛国心教育」です。明治国家は、キリスト教を土台とする欧米列強に対抗するため、神道を土台とする国家を目指します。それが政教分離の原則に反するという批判をかわすため、「神道は宗教ではない」と主張しました。

この「戦前レジーム」により、神社参拝を拒否し、愛国心を持たない「非国民」と烙印を押されたクリスチャンたちは、治安維持の大義名分に基づき、迫害されます。聖書を信じるクリスチャンにとっては、神々を奉る神社は、どう考えても他宗教の施設に他なりません。「現人神(あらひとがみ)」とされた天皇と、創造主で救い主なるイエス・キリストのどちらが偉いかと問われれば、明らかにキリストという答えになります。

基本的人権の尊重と政教分離の原則により、信教の自由が保障されなければ、クリスチャンたちにとって日本は、たいへん住みにくい国になります。「神道は宗教ではない」と宣言し、神道行事への参加が愛国心を測るバロメーターになってしまうと、また憲兵隊やボランティアの監視員たちがうろうろする統制社会に、逆戻りしてしまうかもしれません。

近代国家が、政教分離の原則を土台とするようになるまでには、多くの血が流されてきました。日本でも、キリスト信仰をあくまでも貫こうとした人たちは、そのために命を捨てました。私たちは、それらの尊い犠牲を決して忘れず、信教の自由を守る国づくりを目指していきたいですね。

ローマ帝国に占領されていた1世紀のユダヤ人たちは、帝国からの独立を強く望んでいました。イエス・キリストが新たな王として、イスラエルをローマから解放し、神権政治を復興させることを期待する人たちもいました。しかし、キリストは、「国家と信仰は分離して考えなさい」と教えられたのです。「カイザル(皇帝)のもの」と「神のもの」は、まったく別次元に属しているからです。

「するとイエスは言われた。『カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」(マルコ12:17、新改訳第3版)

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2007年9月13日 (木)

とりなしの祈り

内閣総理大臣が、国会の所信表明演説の直後、突然、辞任しました。本人にとっても、支援者たちにとっても、政府与党にとっても、国民全体にとっても、真に残念な辞め方でしたね。私は安倍首相の考え方や政治手法に賛成していたわけではありませんが、前代未聞のこの辞任劇は、日本の憲政史における一コマとして、歴史に刻まれることになりました。

一国のリーダーというのは、たいへんな職務です。国民にビジョンを訴え、内閣と官僚、そして与党政治家たちを束ね、自らの信念と外交方針に沿った法案を国会で成立させ、さらに後継者のことも考えていかねばなりません。当然、分刻みの激務となりますから、体調管理も万全でなくてはなりません。

始終、批判にさらされますから、精神的にもかなりタフな人でなくては務まりませんね。KY(空気が読めない)でなく、世論に敏感で、かつ批判を聞き流せる鈍感力のある人という、矛盾したような条件がつきますから、「この人なら大丈夫」といった適任者がなかなか見つからないものも当たり前と言えます。

米国留学中、大統領選挙がありました。1992年の選挙で、現職の共和党候補ジョージ・H・W・ブッシュ(いわゆる「パパ・ブッシュ」)が破れ、民主党のビル・クリントンが大統領に選出された時です。私が行った聖書大学では、チャペルの時間に、大統領と選挙のためにともに祈りました。政治家と選挙のために祈るというのは、その時、初めてだったかもしれません。聖書的だと思いましたが、ちょっとサプライズでした。

フォースクエアという教団は、教団や教会を挙げて、一人の政治家や政党を応援することはありません。政治とは、一定の距離を置いているように思います。実際、あまり聖書的とは言えない政策を掲げるクリントン氏が就任しても、大統領のために祈る時を持ち続けていました。もし米国中の教会が、大統領のために祈っているのだとしたら、これこそがアメリカ合衆国の底力なのではないかと感じました。

ひるがえって、日本はどうでしょう。アメリカでは自称クリスチャンが全人口の8割、いつも教会に行っている人は、30%ほどだと聞きました。日本では、クリスチャンは1%前後です。その中でも、国の指導者のためにいつも祈っている人たちは、それほど多くないかもしれませんね。

とりなしの祈りとは、自分以外の人のために、神様に祈ることです。初代教会のクリスチャンたちは、ギリシヤ・ローマの神々を信じるローマ皇帝たちが、教会を迫害したとしても、彼らのために祈り続けたに違いありません。私たちも、国の指導者たちが良きリーダーシップを発揮していけるよう、心して祈っていかなければなりませんね。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1テモテ2:1)

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2007年9月12日 (水)

椅子とテーブル

スーツ・ネクタイをやめ、「先生」と呼ぶのもやめて下さいとお願いした時、ついでにもう一つ、礼拝スタイルを変更しました。メッセージ(説教)の際、講壇に立つのをやめて、椅子に座ったことです。

私が洗礼を受けた20年ほど前、会堂には80cmくらいもあるステージが設けられ、その上に木製の大きな講壇が置いてありました。高いところからメッセージを取り次ぐ牧師を、礼拝出席者は、下から見上げるようにして話を聞いたものです。

もちろん、大きな礼拝堂で、ずっと後ろの方からもよく見えるようにするためには、それでも良いかもしれません。実際、私がアメリカで通っていた教会では、礼拝堂は1000人以上収容の音楽ホールのようでしたから、ステージの高さは同じくらいあったと思います。

しかし、七飯の教会はいっぱいに詰めても、せいぜい80人ほどしか入りません。礼拝の場で家族的な雰囲気を保つには、服装と呼び方を変えるだけでなく、メッセージの仕方も家庭的な形にした方が良いのではないかと思いました。

そこで、丸テーブルを置き、その後ろに椅子を置いて座りながら、お話をすることにします。他の人の椅子の配置も、ただまっすぐ前向きに並べるのではなく、テーブルを囲むような形に少し変えてみました。人数が多い時は、顔が見えなくなるため、立ってお話ししますが、普段は、座ったままで十分、表情が分かります。

イエス・キリストも弟子たちと日常生活をともにし、お話しする時は座ったり、寝そべっていたりだったようです。その方が、ひょっとしたら、身近な関係を築きやすいのかもしれませんね。

「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』」(マタイ5:1-3、新改訳第3版)

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2007年9月11日 (火)

「先生」

礼拝でスーツ・ネクタイをやめた頃、牧師の呼び方も変えたいと思いました。プロテスタント教会では、一般的に牧師のことを「○○先生」と呼んだり、「△△師」と呼んだりします。実は私は、以前からこの呼び方に疑問を持っていたのです。

牧師は、確かに聖書と教会形成の専門家で、聖書とそれに関わる知識を教える指導的立場にあります。ですから、日本語の定義からすれば、十分に「先生」としての働きをしていると言えるでしょう。

ただ、イエス・キリストは弟子たちに対して、「先生(ラビ)」、「師(指導者)」と呼ばれてはいけませんと命じられています。それは、そのように呼ばれながら人々の悪い見本となっていた、当時の社会的指導者たち(パリサイ人や律法学者)と同じような生き方をしてはいけないという警告でした。

日本の教会をよく知っている、あるアメリカ人の牧師は、日本の牧師たちに対して、「先生」という呼称をやめることを呼びかけてきました。その牧師は、聖書に忠実に従った教会形成をしたいという願いから、教会内で「牧師(pastor)」という呼称を用いず、互いにファーストネームで呼び合う家族的な関係を築いてきたのです。

私もそのような教会を建て上げたいと願い、何年か前に、「佐藤先生」ではなく「shigeki(さん)」と呼んで下さいとお願いしました。教会は、互いに「ヨソサマ」でなく、神の家族という「みうち」の集まりだからです。しかし、牧師を「さん」付けで呼びにくい人も、いるようです。名前で呼んでくれる人もいますが、結局、「先生」のままの人もいますね。

何と呼ばれようと、肝心なことは、リーダーが謙遜な心を持っているかどうかです。他人から「先生」とか「師」とか呼ばれたり、「偉い人」のように扱われたりすることを、自ら求める心があってはいけないというのが、主イエスの教えのポイントです。へりくだる心をもって、「仕える人」になっていきたいですね。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。…また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:8、10-11、新改訳第3版)

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2007年9月10日 (月)

キリストを着て生きる(ローマ13章)

Flower070909 礼拝では、牧師はスーツにネクタイというのが、今でも日本のプロテスタント教会の「ジョーシキ」かもしれません。しかし、ハワイやカリフォルニアのいくつかの教会を訪問し、ロスのホームレス教会で奉仕した私には、牧師は必ずしも背広姿でなくても良いように思えてきました。

会社勤めをしていた頃、礼拝に行く時は、スーツを着ないようにしました。礼拝でもスーツを着ると、ビジネスの延長線上のような感じがし、気分の上で、オンとオフの切り替えにならないからです。その頃は教会スタッフで、賛美リーダーの一人として人前に立つことが多かったので、カジュアルすぎず、かつフォーマルでもない服装を心掛けました。

七飯の教会には牧師として赴任しましたが、しばらく前から、礼拝でのスーツ・ネクタイはやめています。神の家族としての「みうち」の集まりに、「よそいき」の格好をしなくても良いだろう、という理由からです。その方が、タテマエではなく、ホンネのつきあいができるのではないか、という意図もあります。

使徒パウロは、ローマのクリスチャンたちに、「キリストを着なさい」と書き送っています。それはもちろん、主イエスと同じような服を身に付けることではありません。キリストと同じ心をもって、その品性が外側に表されるような生き方をするということです。

ローマ13章では、具体的に、与えられた義務を果たすこと、隣人を愛すること、そして正しい生き方をすることが挙げられています。自分の力ではできないことも、神様は助けて下さいます。この世の欲求をただ満たすような生き方ではなく、神様の栄光を表すような生き方をしていきたいですね。

「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:14、新改訳第3版)

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2007年9月 7日 (金)

味噌ラーメン

今週は出張で、また札幌に行って来ました。先週も今週も、そしてお盆の時も自家用車で往復したので、1ヶ月以内に1500キロ以上走破しましたね。普段、あまり走り回らないので、ずいぶんロングドライブをしたような気がします。やっとこれで、夏の一連のイベントが終わりました。

月曜日は、札幌駅付近のホテルにチェックインし、久しぶりに書店(紀伊国屋)でゆっくり本を見た後、夕食は駅地下の「アピア」でラーメンを食べることにしました。「北海道知事賞受賞」という看板のある「寶龍」というお店です。

「札幌といえば、やっぱり味噌ラーメンだよなぁ」と思いつつ、オススメマークのある特製味噌ラーメンを注文しました。バター、コーン、しらがネギ、半熟玉子といったトッピングつきです。分量もたっぷりあって、たいへん美味しかったです。

味噌ラーメンは、大通付近にある「味の三平」が発祥だそうです。1955年頃から常連客向けに開発され、61年には正式メニューに加えられたとのこと。私が初めて食べたのは、小学校の頃、近くにできた「どさんこラーメン」だったかもしれません。こってりとした味噌スープに入った太麺を、どっさりのったモヤシをかき分けながら食べるのが、大好きでした。

それ以降、さまざまなラーメンを食べ歩き、結構、味にもうるさくなりましたが、やはり味噌味が一番好きですね。子どもの頃からの「刷り込み」かもしれません(笑)。

神様が、私たちに必要な食物を与えて下さっていることを感謝します。

「主は情け深く、あわれみ深く、主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。」(詩篇111:4-5、新改訳第3版)

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2007年9月 6日 (木)

スープカレー

Kitaraの帰りには、初めてスープカレーを食べに行きました。妻と私が、これまでスープカレーを食べに行く気にならなかったのには、理由があります。それは小学校の頃、給食で出た「カレー汁」のトラウマが残っていたからです(笑)。

妻も私も、給食には苦手なメニューがありました。今はアレルギーの子がいるため、無理に食べさせることはないようですが、昔は給食を残すことは許されませんでした。嫌いなメニューであっても、すべて食べなければなりません。給食時間が終わり、掃除が始まっても、一人で食べていたことがあります。(妻もだそうです! 苦笑)

カレー汁は、特に嫌いではありませんでしたが、あまり美味しいと思ったこともありません。金属の容器に注がれた「汁」は、ただお腹を満たすためのもので、食欲をそそりはしませんでした。給食のおばさんは、心をこめて作って下さったのでしょうから、予算と材料の問題だったのでしょうね。

スープカレーが流行った時、この「カレー汁」を思い出したので、すぐに食べたいとは思いませんでした。しかし、今年こそ意を決して(笑)、食べてみようかと妻が言い出したため、アクセスが便利で美味しそうなお店をネットで検索し、行くことにします。

結局、西武地下1階の「一灯庵」に入りました。4人とも違うメニューを注文し、ちょっとずつ試食しましたが、たいへん美味しかったです。思えば、食べ物に関して、私たちはずいぶん贅沢になっていますね。荒野を行くイスラエルの民は、日々、神様が与えられるうずらの肉とパン(マナ)だけで生活しました。私たちも、神様から与えられるものに文句を言わず、感謝をもって生きていきたいですね。

「主はモーセに告げて仰せられた。『わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。“あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。”』」(出エジプト16:11-12、新改訳第3版)

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2007年9月 5日 (水)

お好み焼き

幌平橋付近といえば、「風月」というお好み焼き屋さんがありました。私の通う高校のすぐ裏手で、地下鉄駅に向かう途中に位置しています。ただ私は、帰宅路が別方向で、かつ自転車だと家まで3分くらいだったので、友人にさそわれた時くらいしか行かなかったですね。部活の帰りに時折、お好み焼きや焼きそば、夏にはかき氷を食べました。

「風月」という名前は、お客さんの「風」が日々、「月々」大きく吹いてほしいという願いから名づけられたそうです。大阪生まれの二神敏郎さんという方が、大阪ではどこにでもあるお好み焼き屋が、北海道にはどうしてないんだろうと思い、1967年に開店したとのこと。目の前の鉄板で焼いたお好み焼きを食べるというのは、私もその店に行くまで、経験したことがなかったかもしれません。

焼き方も見ていて面白かったですが、タレにマヨネーズを混ぜるというのが、私にとっては新鮮でした。昨年の高校同窓会では、ホテルに二神さんが来て、会場に設営された鉄板でお好み焼きと焼きそばを焼いて下さいました。久しぶりで、たいへん美味しかったです。今では各地に支店ができ、ファミリーレストランや岩盤浴、温泉なども経営されているらしく、起業家として立派に成功されたようですね。

「風月」では店長に焼いてもらっていたお好み焼きですが、大学時代に行った東京・渋谷のお好み焼き屋さんでは、おそらく初めて自分で焼きました。結婚後は、家のホットプレートで食べています。妻が材料を混ぜ合わせ、焼くのは私の担当です。子どもたちは皆、なぜかマヨネーズが苦手なので、マヨネーズを混ぜるのは、もっぱら私と妻だけですね。

二神さんが伝えたお好み焼きの文化は、たまにしか行かなかった客である私に大きな影響を残し、妻とともに子どもたちに伝わっています。聖書の教えも、そのように伝えていきたいですね。一人でできることには、限りがあります。世代を超え、次々と受け継がれていく時、大きな広がりが生まれていくものです。

「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(第2テモテ2:2、新改訳第3版)

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2007年9月 4日 (火)

自転車

地下鉄「幌平橋」駅というと、自転車が盗まれたことを思い出します。あれは確か、11月頃で雪が降りつもる直前だったのではないでしょうか。私は高校3年生で、模試を受けに行く日でした。会場がどこだったかは覚えていませんが、家から自転車で幌平橋まで走り、駅入口脇に自転車を止め、施錠しました。その時、何かの予感だったのか、ちょっと変な感じがあったことが記憶に残っています。

模試から帰って来ると、自転車はありませんでした。長い間愛用した自転車でしたが、とうとう盗まれたかと思い、とぼとぼと歩いて帰宅します。その後、雪が降り、入試があり、春には上京したため、新しい自転車を買うことはありませんでした。

昔、南16条西10丁目の石山通り交差点付近に自転車屋さんがあり、おそらく小学校6年の頃、その自転車を買ったのだと思います。その後、ドロップハンドルに改造し、サドルを調整し、18歳まで乗り続けました。その自転車であちこち走り回り、真駒内やススキノまで行きました。高校の時は通学に使い、いつも遅刻スレスレで学校に駆け込みました。

その後、新しい自転車を買ったのは、七飯に来てからでしょうか。盗難事件から、もう20年近く経っていましたね。たしか以前のは白かったと思いますが、新たに購入したのはシルバーのマウンテン・バイクです。春秋の花粉が飛ぶ季節には、あまり乗ることがないので、いつまでも新品のようで、これも体力の続く限り愛用しそうです(笑)。

ずっと自転車で走っていましたから、乗り方や基本的な調整の仕方を教えることはできます。子どもたち3人には、小学校低学年の頃(?)、家の前で乗り方を指導しました。3人とも、乗れるようになったことを感謝します。去年、駐輪場で車の下敷きになったらしい長女の自転車も、なんとか直して乗れるようにできました。アクシデントもありましたが、神様は私に、「自転車の乗り方を教え、調整する賜物」を与えて下さったかもしれませんね(笑)。

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」(ローマ12:6-8、新改訳第3版)

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2007年9月 3日 (月)

新しい生き方をする(ローマ12章)

Flower070902 先週の木曜日、札幌のKitaraに応援に行ってきました。長男が所属する吹奏楽部が、コンクールの全道大会に出場したのです。Kitaraに行くのは、長女の時以来、4年ぶりでした。

午後1時過ぎ、地下鉄「幌平橋」駅を降り、中島公園に入ると、制服を着た中学生たちがおおぜい集まっています。さわやかな青空の下、公園の緑に囲まれた透明感のあるホールも、何かしら、緊張感につつまれているかのようでした。

チケットを渡して入場すると、3階席に案内されました。前回の時より、たくさん応援に来ているようです。2008席あるというアリーナ型の大ホールは、全体がウッディな曲線に彩られ、天井から大きなシャンデリアが優しい光を照らしています。巨大な音響反射板は、3階の上の方まで、美しいハーモニーを響かせてくれました。

ホールの中では、定められたルールがあります。演奏者や審査員の邪魔にならないよう、音を立てず、写真撮影も禁止されていました。私は、ある中学校の演奏中、くしゃみが出そうになりましたが、生まれて初めて、まったく音を立てずにくしゃみをすることに成功しました!(笑)

演奏者たちは、35人以上50人以下の編成で、12分以内に課題曲と自由曲の2曲を演奏しなければなりません。長男の中学校は、銀賞となりました。一生懸命練習を積み重ね、持てる力を十分に発揮したのではないでしょうか。神様が、よい経験を与えて下さったことに感謝します。

演奏する人たちにも、応援する人たちにも、ホールの中に入ると、定められたルールがあります。イエス様のいのちという「チケット代」が支払われ、神の国という「ホール」に入った私たちにも、同じように、従うべきルールがあるのです。私たちは、新しい生き方をする者として、神の国に招かれています。

神様のみこころに従い、心の一新によって、新たな生き方をしていきたいですね。それは具体的には、ささげる生き方、仕える生き方、愛する生き方だと、パウロは語っています。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2、新改訳第3版)

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