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2007年9月13日 (木)

とりなしの祈り

内閣総理大臣が、国会の所信表明演説の直後、突然、辞任しました。本人にとっても、支援者たちにとっても、政府与党にとっても、国民全体にとっても、真に残念な辞め方でしたね。私は安倍首相の考え方や政治手法に賛成していたわけではありませんが、前代未聞のこの辞任劇は、日本の憲政史における一コマとして、歴史に刻まれることになりました。

一国のリーダーというのは、たいへんな職務です。国民にビジョンを訴え、内閣と官僚、そして与党政治家たちを束ね、自らの信念と外交方針に沿った法案を国会で成立させ、さらに後継者のことも考えていかねばなりません。当然、分刻みの激務となりますから、体調管理も万全でなくてはなりません。

始終、批判にさらされますから、精神的にもかなりタフな人でなくては務まりませんね。KY(空気が読めない)でなく、世論に敏感で、かつ批判を聞き流せる鈍感力のある人という、矛盾したような条件がつきますから、「この人なら大丈夫」といった適任者がなかなか見つからないものも当たり前と言えます。

米国留学中、大統領選挙がありました。1992年の選挙で、現職の共和党候補ジョージ・H・W・ブッシュ(いわゆる「パパ・ブッシュ」)が破れ、民主党のビル・クリントンが大統領に選出された時です。私が行った聖書大学では、チャペルの時間に、大統領と選挙のためにともに祈りました。政治家と選挙のために祈るというのは、その時、初めてだったかもしれません。聖書的だと思いましたが、ちょっとサプライズでした。

フォースクエアという教団は、教団や教会を挙げて、一人の政治家や政党を応援することはありません。政治とは、一定の距離を置いているように思います。実際、あまり聖書的とは言えない政策を掲げるクリントン氏が就任しても、大統領のために祈る時を持ち続けていました。もし米国中の教会が、大統領のために祈っているのだとしたら、これこそがアメリカ合衆国の底力なのではないかと感じました。

ひるがえって、日本はどうでしょう。アメリカでは自称クリスチャンが全人口の8割、いつも教会に行っている人は、30%ほどだと聞きました。日本では、クリスチャンは1%前後です。その中でも、国の指導者のためにいつも祈っている人たちは、それほど多くないかもしれませんね。

とりなしの祈りとは、自分以外の人のために、神様に祈ることです。初代教会のクリスチャンたちは、ギリシヤ・ローマの神々を信じるローマ皇帝たちが、教会を迫害したとしても、彼らのために祈り続けたに違いありません。私たちも、国の指導者たちが良きリーダーシップを発揮していけるよう、心して祈っていかなければなりませんね。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1テモテ2:1)

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