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2007年9月14日 (金)

政教分離

安倍首相の退陣により、「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズも、お蔵入りになるのでしょうか。「戦後レジーム」というのは、もちろん、第二次大戦後に成立した日本国憲法による国家体制という意味で、それは国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という三大原則に基づいています。これら原則に手を入れ、「戦前レジーム」の一部を復活させようとしているのかと思うと、少々気がかりでした。

私が特に懸念しているのは、基本的人権としての信教の自由の問題で、具体的には歴代首相による靖国神社公式参拝と将来における国家神道復活の危険性、そしていわゆる「愛国心教育」です。明治国家は、キリスト教を土台とする欧米列強に対抗するため、神道を土台とする国家を目指します。それが政教分離の原則に反するという批判をかわすため、「神道は宗教ではない」と主張しました。

この「戦前レジーム」により、神社参拝を拒否し、愛国心を持たない「非国民」と烙印を押されたクリスチャンたちは、治安維持の大義名分に基づき、迫害されます。聖書を信じるクリスチャンにとっては、神々を奉る神社は、どう考えても他宗教の施設に他なりません。「現人神(あらひとがみ)」とされた天皇と、創造主で救い主なるイエス・キリストのどちらが偉いかと問われれば、明らかにキリストという答えになります。

基本的人権の尊重と政教分離の原則により、信教の自由が保障されなければ、クリスチャンたちにとって日本は、たいへん住みにくい国になります。「神道は宗教ではない」と宣言し、神道行事への参加が愛国心を測るバロメーターになってしまうと、また憲兵隊やボランティアの監視員たちがうろうろする統制社会に、逆戻りしてしまうかもしれません。

近代国家が、政教分離の原則を土台とするようになるまでには、多くの血が流されてきました。日本でも、キリスト信仰をあくまでも貫こうとした人たちは、そのために命を捨てました。私たちは、それらの尊い犠牲を決して忘れず、信教の自由を守る国づくりを目指していきたいですね。

ローマ帝国に占領されていた1世紀のユダヤ人たちは、帝国からの独立を強く望んでいました。イエス・キリストが新たな王として、イスラエルをローマから解放し、神権政治を復興させることを期待する人たちもいました。しかし、キリストは、「国家と信仰は分離して考えなさい」と教えられたのです。「カイザル(皇帝)のもの」と「神のもの」は、まったく別次元に属しているからです。

「するとイエスは言われた。『カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」(マルコ12:17、新改訳第3版)

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