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2007年10月

2007年10月31日 (水)

遺愛学院

昨晩は、遺愛学院の講堂で開かれたジャズ・コンサートを聴きに行きました。遺愛ではこの度、家一軒建つほど高価な(?)「スタインウェイ・フルコンサートモデル」というピアノを購入したそうで、そのお披露目コンサートということです。知り合いの方から整理券を分けていただき、親子4人で出席することができました。

佐山雅弘(ピアノ)、小井政都志(ベース)、大坂昌彦(ドラム)という3人の方からなる「M's」(マサちゃんズ)というトリオが、ゲストでした。昼間は中学生と高校生、夜は一般向けと、一日3回のコンサートをこなしたようです。ハードスケジュールにも関わらず、素晴らしい演奏を聴かせていただきました。

遺愛学院というのは、メソジスト教会から派遣された宣教師M・C・ハリス夫妻が、1874年、函館に着任したことが、設立のきっかけとなったようです。フローラ・ハリス夫人は、当時の日本の教育を憂い、米国教会の機関紙に、女子教育の必要性を強く訴えました。この記事に心迫られたカロライン・ライト夫人は、神様の導きを感じ、多額の学校建設資金を献金したそうです。病気で亡くした最愛の娘のため、貯めていた教育費用だったそうです。

初代理事長は、クラーク博士の下でクリスチャンとなり、北大初代総長ともなる佐藤昌介。昨日のコンサート会場となった講堂は、メンソレータム(メンターム)を普及させ、日本各地に西洋建築を遺した、かの有名なプロテスタント建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズとのこと。600人が座れる木のベンチも、ヴォーリズの設計だそうです。ずいぶん年季の入った椅子だと思いましたが、知らないとは恐ろしいものです。(苦笑)

もともとの学校名は、「ミセス・カロライン・ライト・メモリアル・スクール」でしたが、カタカナで分かりにくいということで、「遺愛」になったそうです。カロライン・ライト夫人が、日本の女の子たちのために遺した愛を覚え、受け継いでいくという趣旨なのでしょう。

フローラ夫人もカロライン夫人も、もちろん、イエス・キリストの遺された愛を覚え、受け継ぐ人たちでした。私たちも、後の世代に愛を遺す生き方をしていきたいですね。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9、新改訳第3版)

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2007年10月30日 (火)

ボストン

ボストン・レッドソックスが、ワールドシリーズを制しました。昨秋の移籍交渉の頃からメディアに出突っ張りの松坂投手は、なかなか思うように活躍できず、苦しみぬいた1年のようでしたが、最後に優勝できて良かったですね。大車輪で登板したにも関わらず、「自分は影です」と言い続けた岡島投手とともに、良いコンビでした。

ボストンという街は、私にとっては、憧れの地の一つです。マサチューセッツという場所は、クラーク博士の出身地でもあり、新島襄や内村鑑三が学んだ地でもあります。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)も、この地にあります。北海道とマサチューセッツ州は姉妹州であり、この州にあるコンコード町と七飯町は、姉妹都市になっています。ただ、松坂・岡島両選手が渡米するまで、こんなに熱心な野球ファンたちがいるとは知りませんでした。

もう20年以上前、北海道が主催した交流事業(?)で、ボストンの大学院生たちと一緒に、札幌で「北太平洋地域」に関するセミナーに出席する機会がありました。訪れた教授陣も学生たちも、みな良家出身のたいへん優秀な方々という印象でした。どこかの体育館で、バドミントンをして楽しんだのが、思い出として残っています。その時、ボストンの写真集をいただき、レンガ造りの美しい街並みを、いつか実際に見てみたいと思いましたが、未だに訪問機会がありませんね。

ボストンは、1630年、イギリスから移住したピューリタンたちによって開拓された土地です。「ピルグリム・ファーザーズ」がメイフラワー号で大西洋を渡ったのは、その10年前。信仰の自由を求める入植者たちが、次々と新大陸に渡ってきた時代でした。

マサチューセッツ湾植民地の初代総督、ジョン・ウィンスロップは、「クリスチャンの愛の模範」と題する説教をし、「ボストンは、神様から選ばれた特別な町だ」と語りました。イエス・キリストの山上の説教に基づき、ボストンは神様の栄光を輝かせ、世界中の模範となるべき「山の上にある町」だと主張したのです。

このメッセージは、純粋なキリスト信仰を求め、新天地に新たなコミュニティを建設しようとするピューリタンたちの心に、大きな影響を与えました。後には、ケネディ大統領やレーガン大統領の演説にも、引用されたとのことです。松坂選手や岡島選手が、この話を知っているかどうか分かりませんが、メディアに出る頻度が多い人たちですから、良いロールモデルとなっていってほしいですね。家庭円満のようすは、見ていて、ちょっとホッとします。

私たちも、一人ひとり、神様の光を輝かせるような生き方をしていきたいですね。

「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」(マタイ5:14、新改訳第3版)

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2007年10月29日 (月)

神の国を喜び楽しむ(ゼカリヤ2章)

Flower071028 最近は、ボクシング関連のニュースがマスコミを賑わせています。近頃のボクシング中継は、個人的にあまり見る気がしません。ただこの騒ぎの中で、牧師になったという、あるボクサーの話を思い出していました。

その人は、たいへん貧しい家庭に生まれ育ちました。不良仲間とケンカに明け暮れ、警察に追われるような日々を送った後、ボクシングの世界に入ります。オリンピックに出場し、19歳で金メダルを獲得。翌年、プロデビューを果たし、その4年後には、世界チャンピオンにまで上りつめました。

しかし、そのタイトルは、1年半ほどで他の人に奪われてしまいます。3年後、別な試合に敗れ、タイトルに再挑戦する望みが絶たれた日、ロッカールームで、彼は特別な体験をします。意識を失い、再び目覚めた瞬間、神様の力を強く感じ、イエス・キリストが心のうちに来られ、生きておられると叫んだそうです。

彼はボクシングの世界を離れ、街頭で福音を語り、後に牧師となります。ところが、設立した青少年の更生施設が維持費に事欠くようになり、10年のブランクを経て、牧師はボクシングに復帰します。そして何と45歳で、世界タイトルを再び獲得しました。もちろん、最年長記録であり、かつタイトルを失ってから再度獲得するまで20年というのも、世界記録だそうです。

ボクサーの名前は、ジョージ・フォアマン。1974年にタイトルを奪われた相手は、かのモハメッド・アリです。イスラム教徒にKOされたのが、イエス・キリストを信じ、牧師となる結果につながったのですから、神様の計画は実に不思議です。

かつては怒りや憎しみに支配されていたフォアマンの心は、キリストとの出会いにより、喜びと平安で満たされるようになりました。救い主への信仰により、聖霊なる神様が、心のうちに住んでおられるからです。今なお、フォアマン牧師は、テキサス州ヒューストンにある教会を拠点とし、私たちの人生を新しく変えて下さる神様の愛を語り続けています。

聖書の中の「シオンの娘」とは、神の国の民を意味しています。私たちも、神の国の一員とされ、神様とともに生きる新しい人生が与えられていることを、喜び楽しんでいきたいですね。

「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。」(ゼカリヤ2:10、新改訳第3版)

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2007年10月26日 (金)

音楽の秋

今日は、小6の次女の学習発表会に行ってきました。6年生は毎年、器楽合奏や合唱が定番なのですが、今年はその他にボディパーカッションや「キーズ・ラインダンス」、そしてトーンチャイムもありました。「キーズ・ラインダンス」というのは、ポンキッキーズでやっていたそうで、音楽に合わせて踊るダンスです。

次女は、最初の「CHE.R.RY」という曲のピアノ伴奏を担当しました。秋に「CHE.R.RY」もないだろうと思いましたが、南半球の桜を見に行った気分になりました(笑)。この曲はau「LISMO」のキャンペーンソングだったそうで、春、夜桜を見ながら好きな人に携帯メールを送る切ない恋心を歌っているようです。今回の「春」は、思春期の始まりを象徴していたのでしょうか。親としては、複雑な思いがしますね(苦笑)。

北半球は秋たけなわで、七飯では木々が色づき、雪虫が飛んでいます。この秋、わが家は、ずいぶん音楽づいています。長男は先月末、中学校の合唱コンクールで指揮をし、クラスは学年で優勝しました。その2日後、近くの教会が主催したピアノ弾き語りコンサートに出席し、2週間後には中学校吹奏楽部の定期演奏会がありました。来週は、七飯町の音楽発表会に、小6の器楽合奏と中学校の吹奏楽部が出演します。今月末には、家族でジャズコンサートを聴きにいく予定です。まさに「音楽の秋」ですね。

教会では、「愛」が、すべての音楽を貫く大きなテーマとなっています。しかし、それは「恋心」や「失恋」のような、人と人との間の愛ではありません。私たち一人ひとりを形造って下さった、創造主なる神様の限りない愛。そして、その愛に応答し、ただお一人の創造主だけを愛し続けようとする私たちの思い。それらを表現した曲が、教会音楽となり、音楽スタイルが多様化した今でも、この「愛」が演奏され、歌い継がれているのです。

この秋、心から神様の愛に感謝をささげ、賛美していきたいですね。

「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」(詩篇28:7、新改訳第3版)

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2007年10月25日 (木)

学校

アメリカにいた頃、ホームスクーリングをしている家庭が多くありました。公立学校は反キリスト教的で荒れており、また私立学校は学費が高いため、クリスチャンの友人たちは、子どもたちを自宅で自ら教えていたのです。そのための教科書もカリキュラムも、しっかりしたものが整備されていたようです。

帰国した時、長女は小1でした。どのように育てるかについては、いくつか選択肢がありましたが、結局、近くの公立学校に通わせることにしました。聖書を土台とした価値観と人格形成については、家庭と教会が責任を負っています。「現代社会の基礎知識」と対人関係能力については、さまざまな子どもたちが集まる公教育の場で経験をつみ、習得した方が良いのではないかと考えたからです。

ある年の小学校の入学式で、学校関係の方が、このように言いました。「これまでは保護者の方々がお子さんたちを教え、育てて来られたわけですが、これからは私たちに任せて下さい。」たいへん申し訳ありませんが、私としては、先生方にすべてお任せするつもりはありませんでした。子どもの教育の責任は、親が負っているというのが、聖書的な原則だからです。

先生方が子どもたちに関わるのは、せいぜい数年間ですが、親は縁切りでもしない限り、一生です。一定期間、それも週日の日中だけ時間を過ごし、特定の限られた内容を学習したとしても、それが子どもたちが学ぶべきことのすべてではありません。何のために生きるのか、人生に意味があるのか、人はどこから来てどこに行くのか、世界はなぜ存在しているのか、については、国家主導による公教育は良くて口を閉ざし、悪ければ私たちの信じる聖書と違う内容を教えたりします。

幸い、うちの子どもたちが通ってきた公立学校は、ひどく荒れはせず、また先生方も私たちの信仰に理解を示してくださる、誠実な方々でした。子どもたちは、感謝なことに三人とも自らの意思で洗礼を受け、教会の集会に集い、朝は一言祈ってから学校に出かけます。「知識習得」以外にも、児童会書記局に選ばれたり、クラスや部活動でリーダーシップのあり方を学んできました。

いわば、家庭と拡大家族である教会をベースとして、「他流試合」か「武者修行」のために、学校に通わせて来たようなものかもしれません。しかし、あくまでも家庭と教会で教える聖書のことばが土台です。「主を恐れること」、つまり創造主なる神様を信じ、その教えに従うことが、人生の基本だからです。

子どもたちは、基本に忠実に歩み、神様の祝福をたくさん受けていってほしいですね。子どもたちのみならず、親である私たちも、子どもたちに良い模範を示していきたいものです。(冷汗)

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7、新改訳第3版)

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2007年10月24日 (水)

コミュニティ

先週はまた東京で、中学校の同期の人たちと会いました。待ち合わせ場所は、現在工事中の東京駅八重洲中央口。八重洲口はこれまで、八重洲ブックセンターや丸善に行く時に利用するのが主で、友人と待ち合わせたことは、ほとんどなかったように思います。ましてや駅ビル内や周辺の居酒屋に行くのも、初めてでした。

今回、集まったのは、私を含めて6人。ある人の体験談に盛り上がり、久しぶりに、涙が出るほど笑いました。考えてみると私の場合、札幌の中学校にいたのが1年半ほどで、卒業後、30年くらいまったく顔を合わせなかった人もいます。その同期生たちと集まり、長年の友人のように一緒に飲むことができるというのは、実に不思議な感じがしますね。(と言っても私が飲むのは、もっぱらお茶ですが。)

「学校」というのは、もちろん学びの場ですが、同じ年代の子どもたちが教師の指導の下、一定期間共同生活をする「コミュニティ」としての役割も果たしています。生徒たちは、同世代の対人関係の中で自分自身を知り、将来の可能性を探ります。多感な思春期をともに過ごした友人たちは、その後、それぞれ全く違う道を歩んだとしても、同郷の仲間としての連帯感が残るようです。楽しい記憶が多ければ、ますますそう言えるでしょうね。

最近は、いじめの問題が多発し、不登校の子も増えています。フリースクールやホームスクーリングといった運動も、着実な活動を続けているようです。どんな教育が良いのか、一概に主張するのは難しい時代となっていますが、子どもたちは将来に希望を見出し、健全に成長していってほしいですね。大人になって振り返った時、楽しく有意義な子ども時代だったと思い出すことができれば幸いです。

教会は、イエス・キリストを中心とするコミュニティです。その教えによって育てられる子どもたちには、神様が平安を約束して下さっています。救い主の愛に満たされ、周りの人をも思いやることができるように成長する子どもたちが、さらに増えていってほしいと願っています。

「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(イザヤ54:13、新改訳第3版)

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2007年10月23日 (火)

幸いな家庭

今月号のJAL機内誌「スカイワード」に、ギリシャのサントリーニ島が紹介されていました。真っ青な空とエーゲ海をバックに、白壁ですべてが統一された芸術作品のような街並み。紀元前からの歴史を誇る美しい火山島には、多くの観光客とハネムーン・カップルが集まるそうです。

美しい景色以上に、特に印象に残ったのは、そこに住む人のコメントでした。確か、レストランを経営する若い男性だったように思います。「個人が国家を形成するというのは、ここ100年、200年くらいの考え方にすぎない。ギリシャでは6000年の昔から、家族が国家の基本単位だという考え方を貫いてきている」というような話でした。(正確な引用ではありません。)

日本では、どうでしょうか。「小さな家」である家族よりも、「大きな家」である企業や国家の論理が優先され続けた結果、家族は崩壊してきたように思えます。仕事中心で家庭を顧みなかった世代の子どもたちが、両親と同じような生き方を選択すると、家庭崩壊の連鎖が続きます。子どもたちは育児放棄や虐待を受け、父と母のビミョーな関係に傷つき、結婚に幻滅します。将来に明るい希望を持てなければ、子どもを産み、育てていきたいとも願わないでしょう。こうして少子高齢化が加速し、国は次第に衰亡していくのかもしれません。

先日も、離婚の話を耳にしました。心が痛みます。子どもたちも、心を引き裂かれるような思いがしたのではないかと想像します。神様が、すべての内なる傷をいやして下さるよう祈ります。そして、多くの人が幸いな家庭を築いていくことができるよう、強く願っています。

「主を恐れる」とは、創造主なる神様を信じ、そのことばに従って生きることです。そのような生き方をする人は、その家庭が祝福されると聖書に約束されています。多くの人々が幸いな家庭を築いていくことができるよう、微力ながら、何かお手伝いをしていきたいですね。

「あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」(詩篇128:3-4、新改訳第3版)

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2007年10月22日 (月)

主のもとに帰る(ゼカリヤ1章)

Flower071021 最近、社会が壊れてきているように感じます。家庭が壊れ、学校が壊れ、地域社会が壊れているようです。多くの人は、政治に解決を求めます。確かに、政治が取り扱わなければならない問題も多々あるのでしょう。しかし下手をすると、政治的解決を叫び、他の人に責任を押し付けることは、真の問題から目をそらす結果をもたらしているかもしれません。

真の問題、それは私たち自身が壊れているということです。人類共通の父祖アダム以来、私たちは、創造主なる神様から離れて生きてきました。神様の存在を無視し、そのことばに聞き従うことがありませんでした。すべての善悪と価値判断の基準なる創造主から離れてしまった時、何が正しく、何が間違っているのか、私たちは自分たちで勝手に判断するようになります。こうして正しさの尺度が、次第に壊れてしまったのです。

価値判断の尺度が失われてしまうと、人はそれぞれ好き勝手に生きるようになり、社会は崩壊へと向かいます。「共通のルール」を守ろうとする意思が希薄になると、互いに信頼関係を築くのが困難となり、人は相互不信に陥ります。そして、人々は孤立化し、表面的な関わりしか持たず、人間関係は簡単に壊れてしまうようになります。

真の問題、つまり私たちが「壊れている」問題を解決するには、どうしたら良いのでしょうか。神様は、「わたしのもとに帰りなさい」と言われています。壊れている私たちを直すことができるのは、全知全能なる神様だけだからです。

イエス・キリストを信じる人は、心のうちに聖霊が住まわれ、創造主なる神様のための「神殿」とされています。この「神殿」は、ずっと破壊された状態でしたが、神様が少しずつ回復を与え、本来のあるべき姿へと再建して下さるのです。私たちが、「万軍の主」と呼ばれる創造主のもとに帰る時、神様ご自身も、アダム以来、神様から距離を置いていた私たちのもとに戻って来て下さいます。

神様に、私たちの壊れている部分をたくさん直してほしいですね。

「わたしに帰れ。……そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ1:3、新改訳第3版)

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2007年10月15日 (月)

神の栄光を求める(ローマ16章)

Flower071014 使徒パウロは、ローマに行くことを願っていました。帝国の首都であるローマの教会を訪問して励まし、多くの人々に福音を伝えたいと思っていたのでしょう。そして、さらにはスペインにまで足を伸ばしたいと考えていました。ローマ帝国の西方、まだ福音が届いていない地域にさらに新たな教会を開拓していくことが、パウロの切なる望みだったに違いありません。

紀元57年頃、ローマ教会に宛てた「ローマ人への手紙」を書いた時、彼は第三次宣教旅行の途中で、ギリシアのコリント(コリントス)辺りにいたようです。そこから西に向かえば、すぐイタリア半島でしたが、パウロは東に向かい、エルサレムを訪問しなければなりませんでした。生活に困っている人々のために集めた献金を、届ける必要があったからです。

訪れたエルサレムで、パウロは捕われの身となり、裁判のためにローマに連れて来られます。そこで彼はしばらくの間、自由にイエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えることができました。スペインには行けなかったかもしれませんが、数年後にローマで殉教するまで、神様から与えられた使命を全うすることになります。

ローマに伝えられた「よい知らせ」は、その後ヨーロッパ全土に広がり、スペイン出身のフランシスコ・ザビエルにより、日本にも伝えられます。ロシアからは正教会の宣教師、イギリスや北米などからはプロテスタントの宣教師たちも来訪し、日本各地に教会が形成されてきました。「全世界に福音を宣べ伝えなさい」というキリストのことばに忠実に生きた、使徒パウロの生き様は、時代を超え、多くの人々に共感を与え、その使命は受け継がれてきたのです。

パウロは、ローマ人への手紙の最後で、創造主なる神様の栄光を求めて祈っています。その祈りには、彼が自らの人生を通し、真に求め続けていたものが表されているように思います。彼は、福音を宣べ伝え、教会を一つにまとめ、一人ひとりの霊的成長を助ける働きのため、その一生をささげました。私たちも、彼の生き方にならう者となりたいですね。

「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」(ローマ16:27、新改訳第3版)

P.S. 都合により、今週の更新は本日のみとします。来週また、お会いしましょう。今週も、皆様の生活の中に、神様の祝福が豊かにありますように。

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2007年10月12日 (金)

聖地をめぐる長く熱い戦い

9年前の初夏、ペンテコステの祭りの時、私はエルサレムにいました。イエス・キリストが十字架を背負い、歩いたヴィア・ドロローサ(ラテン語で「悲しみの道」)をたどると、十字架につけられたゴルゴタの丘とされる場所まで、ゆるやかな坂が続きます。「アラブの商人」という雰囲気の土産物屋が、道の両側を埋め尽くしています。丘を上りきった所には、聖墳墓教会(復活教会)がありました。

ローマ皇帝コンスタンティヌスの母へレナは、326年、この地を来訪し、ここに教会が建てられたとのこと。その後、火災による損傷やイスラム教徒による破壊を受けつつも、再建、修築が加えられてきました。今も世界中から多くの人々が集い、キリストの十字架と復活を感謝し、礼拝する場所となっています。

安息日には、エルサレム市内のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を訪問し、キッパーと呼ばれる帽子をつけて礼拝に出席しました。嘆きの壁では、黒衣のユダヤ人たちともに、祈りの時を持ちました。そして、かつてイスラエルの神殿があった丘では、岩のドームと呼ばれるモスクに靴を脱いで入り、アブラハムがイサクをささげようとした岩を大勢のイスラムの人たちと一緒に眺め、心の中で祈りました。

私がイスラエルを訪問したのは、建国からちょうど50周年の時です。イスラエルは、国連のパレスチナ分割決議に基づき、1948年に建国が宣言されます。もし「イスラエルの地」に当時、ユダヤ人以外の居住者がおらず、他のどの民族もその領有権を主張しなかったとしたら、何の問題もなかったかもしれません。しかし、そこにはパレスチナの人々が住んでいて、多くの人々が難民化したため、アラブ諸国との間に紛争が引き起こされました。

4度の中東戦争を経て、和平の努力が続けられてきましたが、今なお、解決には至っていません。機関銃を持った男女のイスラエル軍兵士たちが、国中の至る所で警備をしている様子は、今も、私が訪問した頃とおそらく変わりがないでしょう。その警備の中、ある人々は観光客相手の商売に励み、他の人々は巡礼者として、それぞれの信仰に基づいて祈りをささげているのです。

この「聖地」をめぐっては、数千年の昔から、戦いを通して多くの血が流されてきました。殺人は、もちろん罪です。イエス・キリストは、すべての人の罪を背負って十字架につかれました。それは、すべての人が創造主なる神様と和解し、また互いに和解するためでした。

十字架と復活直後のペンテコステの日以来、その愛と平和のメッセージは全世界に伝えられてきています。今だに平和的共存ができず、「聖地」が血で汚され続ける真に残念な状況を見て、天上のイエス様は、十字架の上で祈られたのと同じ祈りをされているかもしれませんね。

「『どくろ(ゴルゴタ)』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(ルカ23:33-34、新改訳第3版)

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2007年10月11日 (木)

反ユダヤ主義とシオニズム

中2の頃、家出をしかけたことがあります。父とケンカになり、「出てけっ!」という言葉を真に受け、着の身着のまま、家を飛び出しました。今となっては、何が原因だったかよく覚えていませんが、とにかく反抗期でした。

実際に飛び出してみて、よく分かったのは、行くところがないということです。親戚の家に行っても、友人の家に行っても、すぐ連れ戻されることは明らかでした。所持金も少なく、中学生ですから、働き先を見つけるのも難しかったでしょう。しばらく街中を歩いて、結局は家に帰ることにしました。帰って来た息子を見て、両親もほっとした様子でした。

行き先がない、あるいは居場所がない、というのは、つらいものです。ましてや、行った先々で悪質ないじめにあったら、それこそ死んでしまいたいような思いになってもおかしくありません。祖国を失ったユダヤ人たちは、千数百年もの間、そのような過酷な状況を生き延びたのです。彼らには、帰ろうとしても、帰る場所がありませんでした。

真に残念なのは、このユダヤ人迫害に、キリスト教会が深く関わってきたことです。ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認して以来、それまで帝国内で保護されてきたユダヤ教徒たちに対する風当たりは強くなりました。反ユダヤ主義により、「キリストを殺した異教徒」という偏見が流布し、カトリック教会が進めた十字軍や宗教裁判を通して、あるいは大流行したペストの犯人扱いをされ、多くのユダヤ人が惨殺されました。

19世紀末から20世紀初頭の帝政ロシアでは、ボグロムと呼ばれるユダヤ人迫害運動がありました。ロシア系ユダヤ人に対する破壊、略奪、殺人、婦女暴行に関し、正教会はよくて黙認、時には攻撃に手を貸したそうです。

ナチスによるホロコーストに、思想的な土台を提供したのは、実はプロテスタント運動の創始者マルティン・ルターです。ユダヤ人たちが福音を受け入れないのを見て、彼は反ユダヤ的な言葉を多く遺しました。ヒトラーは、ルターの著作により、ホロコーストを正当化します。その結果、ヨーロッパにいた600万人のユダヤ人の命が奪われたのです。そのうち200万人は、子どもだったそうです。

これだけ世界各地で「いじめ」が続けば、離散する前の故郷に帰りたいと思うのは、当然です。ユダヤ人への冤罪であるドレフュス事件を取材し、ショックを受けたテオドール・ヘルツルは、1896年、「ユダヤ人国家」を出版。祖国イスラエルの再興を目指す「シオニズム(シオン主義)運動」が始まり、約60年の後、イスラエル国が誕生することになります。

シオンとは、エルサレムのある丘のことです。それは、かつて神殿のあった丘であり、神様がおられる場所を象徴しています。そして、世の終わりとともに完成される「神の国」を象徴する場所でもあります。私たちも、教会が犯した過去の罪を悔い改め、ユダヤ人たちとの関係を修復し、「新しいシオン」で神様の永遠の愛をともに喜んでいきたいですね。

「主はこう仰せられる。『わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。』…『再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。』 …『もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。』」(ゼカリア8:3-6、新改訳第3版)

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2007年10月10日 (水)

キリスト教諸国とイスラム勢力

神様がアブラハムに与えられた「約束の地」には、もともとカナン人が住み、「カナンの地」と呼ばれていました。ダビデが王国を確立する少し前、紀元前13世紀頃からペリシテ人たちが住み着いたようで、それが「パレスチナ」(ペリシテ人の地)という名称の由来となっています。現在のイスラエルではもちろん、神様から与えられた土地として、通常は「イスラエルの地」と呼ばれています。

ローマ帝国は紀元70年、エルサレムを破壊し、古代イスラエルが滅亡します。当時ユダヤと呼ばれていたこの地域一帯は、パレスチナと改称されます。その後、7世紀までキリスト教帝国(東ローマ帝国、通称「ビザンティン帝国」)の支配下にあったこの地域を、新たに制圧したのは、新興のイスラム勢力でした。

「最後にして最大の預言者」と自称したムハンマド(マホメット)は、イスラム共同体(ウンマ)を結成し、630年にメッカを征服。翌年にはアラビア半島のほぼ全域を影響下に置きます。彼の死後、翌633年からジハード(聖戦)によってイスラム勢力は急速に拡大し、東は中央アジア、西は北アフリカとイベリア半島にまで進出、世界帝国を樹立します。

エルサレムがイスラム軍の手に陥落したのは、638年。カール大帝の祖父カール・マルテルが、イスラム軍のフランク王国制圧を阻止するのが、732年。セルジュク朝が小アジアに進出して東ローマ帝国と戦い、勝利を収めるのが1071年。脅威を感じた東ローマ皇帝はローマ教皇に救援を要請、これが1096年から始まる悪名高い十字軍のきっかけとなります。キリスト教諸国とイスラム勢力の宿命の(?)対決は、もう千数百年の歴史を刻んでいます。

宣教開始直後から軍事行動をとり、支配地域を拡大していったムハンマドとは対照的に、イエス・キリストは、自ら十字架への道を選択されました。それは、「いのちを懸けるほど愛している」という神様のメッセージを、人々に伝えるためでした。そのメッセージは、イスラムの人々はもちろん、十字軍を送り出した中世キリスト教世界の人々にも、残念ながらよく理解されていなかったのかもしれませんね。

「イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』」(ヨハネ18:36、新改訳第3版)

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2007年10月 9日 (火)

ディアスポラ

人は、自分のもつ物差しでしか、物事を理解しない傾向があります。多くの日本人にとって、日本という国は神代の昔から存在し、その歴史は「千代に八千代に」永続する天皇家を大きな軸として展開し、地殻変動によって沈没でもしない限り、未来永劫、日本人の大半は同じ列島に住み続けると考えるのが、「フツーの感覚」なのかもしれません。

そのような感覚からすると、イスラエルの歴史は、想像を絶しています。彼らの先祖は、紀元前2100年頃、神様に選ばれ、メソポタミアから地中海沿岸に移住してきたアブラハムでした。その後、子孫は今のイスラエルの地に王国を築きますが、アッシリアとバビロニアに国を滅ぼされ、人々は外国の地に連れ去られます。これが紀元前8~6世紀に起きた、イスラエルの離散(ディアスポラ)でした。

バビロニアに取って代わったペルシアの時代、紀元前538年に、一部のユダヤ人は祖国に帰還します。ペルシアの次はギリシア(マケドニア)、そしてその次に「占領軍」としてやって来たのは、ローマ帝国でした。この時代に、ユダヤ人たちは国を挙げて、ナザレのイエスがメシア(救い主)であることを拒絶します。その血の責任は、自分たちやその子孫にふりかかってもよいと、彼らは宣言しました。

キリストの十字架から40年後の紀元70年、エルサレムはローマ軍により、徹底的に破壊されます。きっかけは、ユダヤ人たちの反乱でした。このエルサレム包囲戦で100万人のユダヤ人が犠牲となり、エルサレム以外のユダヤ人も大勢殺され、何万人もの人々が奴隷として売り飛ばされたそうです。

国を失ったユダヤ人たちは、また世界中に散らされました。これが現代にまで続く「離散(ディアスポラ)のユダヤ人」です。彼らは各地にシナゴーグ(会堂)を建て、旧約聖書とユダヤ法(ハラハー)に基づくコミュニティーを築いていきました。領土を失い、世界各地に離散した民が、1900年もの間、民族的アイデンティティを失わずに生き延びたのは、奇蹟としか言いようがありません。

イスラエルの歴史には、神様の計画がありました。不信仰により、世界中に散らされたユダヤ人たちに対しても、時が来たら、神様が回復を与えて下さると約束して下さっていたのです。「メシアニック・ジュー」と呼ばれる、イエス・キリストを信じるユダヤ人たちが今、増え広がっているとのこと。イスラエルの人々が真のメシアを知り、アブラハム以来の「選ばれた民」という本来の姿に立ち返るよう、さらに祈っていきたいですね。

「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。」(ローマ11:22-23、新改訳第3版)

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2007年10月 8日 (月)

エルサレムの平和を祈る(詩篇122篇)

Flower071007 昨日は、「エルサレムの平和を祈る日」でした。「平和の町」という意味のエルサレムが、聖書に最初に登場するのは、紀元前2000年頃、アブラハムがメルキゼデクから祝福を受けた時でしょう。おいのロトを強盗から救い出した後、アブラハムを祝福した「いと高き神の祭司」メルキゼデクは、シャレムという町の王でした。この町は、後のエルサレムだと言われています。

アブラハムが神様に従い、その子イサクをささげようとしたモリヤの山も、後にエルサレムの神殿が築かれる丘にあたります。アブラハムの信仰を見て、神様は、身代わりの雄羊を備え、アブラハムに祝福の約束を与えられます。彼の子孫は、空の星、海辺の砂ほどに増し加えられ、地上のすべての民族がその子孫によって祝福されるという約束でした。

紀元前1000年頃、イスラエル王国の2代目の王となったダビデは、エルサレムを首都とし、そこに契約の箱(いわゆる「失われた聖櫃(アーク)」)を運び入れ、幕屋(ポータブルの神殿)を設置します。ダビデの子・ソロモン王は、父の事業を引き継ぎ、神殿を完成させました。エルサレムは、祭りの度に大勢の人々が国中から集まる、祈りと礼拝の中心地となったのです。

エルサレムは、もちろん、イエス・キリストによる救いが現された場所です。紀元30年頃、むち打たれ、十字架を背負わされて、エルサレムの町を歩いたイエスは、町外れで十字架にはりつけとなります。そして、墓に葬られた後、三日後に復活されるのです。復活のイエスに力づけられた弟子たちは、ペンテコステの祭りの日より、このエルサレムを拠点として、神の救いのメッセージを世界中に発信するようになりました。

世界が終末を迎え、すべてが滅び去る時、新たに創造される「神の国」(天国)も、「新しいエルサレム」と呼ばれています。そこは、救い主イエスを信じる者すべてが、ともに集う終着地でもあります。多くの国々の人々が、一つの家族とされ、神の永遠の祝福をともに喜ぶ場所です。

このエルサレムの平和のために祈りなさいと、神様が言われています。エルサレムの平和は、全世界の平和につながっています。私たちも世界中の教会と心を合わせ、喜びと感謝、愛をもって、エルサレムの平和のためにいつも祈っていきたいですね。

「エルサレムの平和のために祈れ。『おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。』」(詩篇122:6-7、新改訳第3版)

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2007年10月 5日 (金)

プロテスタント諸派の宣教

函館ハリストス正教会のすぐ横には、聖ヨハネ教会が建っています。この教会は聖公会、つまりイギリス国教会(Anglican Church)につらなるキリスト教会です。イギリスの宗教改革は、国王の離婚問題がきっかけとなり、1534年、カトリック教会から国教会が独立するところから始まっています。

初めは実に不純な動機でしたが、教会自体は国王主導による改革が進められ、エリザベス1世の時代に、カトリックとプロテスタントの中道を行く教会として方向づけがなされました。しかし、その方針を妥協的だと感じた人々は、徹底的な改革を主張します。ピューリタン(清教徒)と呼ばれた彼らは、その後、カトリック国に戻そうとした王たちと戦い、二度の革命を通して信教の自由を獲得するに至ります。

ピューリタンの多くは国教会にとどまりましたが、追放されたり、独立したりする人々もいました。彼らは、いくつかの新しいグループを形成し、それが会衆派(組合派)、バプテスト派、クエーカー派の教会となっていきます。1620年、メイフラワー号で新大陸に渡ったのは、会衆派の人々です。

イギリス国教会は、後にも新しい教派を生み出します。18世紀の産業革命期、労働者たちが貧困と過労に苦しみ、道徳が地に落ちていた退廃的な時代に、国教会の司祭だったジョン・ウェスレーらが始めたメソジスト運動です。メソジスト教会は、後に国教会から独立。19世紀にはホーリネス派や救世軍を生み、20世紀にはホーリネスを母体としてペンテコステ運動が始まります。(私たちの教会は、このペンテコステ派に属しています。)

函館に最初に来たプロテスタントの宣教師は、米国のメソジスト教会から派遣されたM・C・ハリスです。ハリス夫妻は、1874年1月に来函。現在の日本基督教団函館教会を開拓します。3年後に現在地に会堂を建設したとのこと。ハリストス正教会、カトリック元町教会、聖ヨハネ教会の一角からは、坂の少し下の方になります。

74年5月には、英国聖公会から、W・デニング宣教師が函館に派遣されます。78年に、会堂を建設。礼拝には、200名もの人が集まったそうです。後に来訪したJ・バチェラー宣教師らと同じく、アイヌ伝道にも力を入れています。

ニューイングランドに生まれ育ったW・S・クラーク博士が、札幌農学校に到着するのは、1876年夏。彼は会衆派に属し、先祖はメイフラワー号の舵手だったという話も伝わっています。会衆派のクラークが伝道した農学校で、信仰をもった学生たちに洗礼を授けたのは、聖公会のデニングやメソジストのハリスたちでした。イギリスやアメリカではなく、海外の宣教地だからこその協力関係だったのでしょう。

函館山には、まったく違う歴史的背景をもつ教会が、仲良く肩を並べるように建てられています。信仰のスタイルが少々異なっていたとしても、同じ主を信じる一つの大きな家族として、愛をもって受け入れあっていきたいですね。

「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。…主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(エペソ4:3-6、新改訳第3版)

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2007年10月 4日 (木)

カトリックの世界宣教

ハリストス正教会は、函館山ふもとの坂の途上にありますが、細い道をはさんで、すぐ下隣にあるのが、カトリック元町教会です。この教会は、日仏修好通商条約の締結時に通訳として来日したメルメ・デ・カッション神父が、1859年に来函し、開拓したものです。

メルメ神父は、フランスとスイスの国境にある小さな村の農家の次男だったそうです。1828年生まれとありますから、函館に来た時は、31歳だったのでしょう。4年ほど滞在し、仏英和辞典を編さん、人々にフランス語を教え、病人の世話をしたそうです。初期の会堂が二度も火災で失われた後、現在のゴシック風聖堂が建てられたのは、1924年とのことです。

カトリック教会が世界宣教に乗り出すのは、宗教改革がきっかけでした。ヨーロッパ各地に広がるプロテスタント運動に対抗するため、カトリック教会の教勢拡大の使命に邁進したのは、スペイン貴族出身のイグナティウス・デ・ロヨラが創設した、ご存知、イエズス会です。

1540年に修道会として認可されたイエズス会は、スペインやポルトガルの貿易船に同乗し、アメリカ、アフリカ、アジアへと海外宣教に出かけました。「インドと日本への使徒」とも呼ばれるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、宣教を始めたのが1549年。それから江戸幕府がキリシタンを禁制とし、1644年、日本人イエズス会員であった小西マンショ神父が殉教するまでの約100年間、日本におけるカトリック宣教は、多大な成果を上げます。

多くの殉教者を生んだ宣教地・日本のため、カトリック教会は祈り続けていたようです。イエズス会が始めた日本宣教の働きを引き継いだのは、メルメ神父が所属していたパリ外国宣教会でした。メルメと同じ頃、長崎に赴任したプチジャン神父は、1865年に大浦天主堂(26聖殉教者天主堂)を建て、そこで200年の迫害を耐え抜いた隠れキリシタンたちと感動的な再会を果たします。その喜びのニュースは世界中を駆け巡り、衝撃を与えたようです。

明治政府によるカトリックや正教会への新たな迫害は、欧米列強の抗議を経て、1873年のキリスト教解禁へとつながります。日本のキリスト教会にとって、ようやく新しい時代が到来しました。

カトリック元町教会の祭壇は、火災の見舞いとして、ローマ教皇ベネディクトゥス15世から贈られたとのこと。(現在の教皇は、ベネディクトゥス16世のようですね。)ローマ教皇から贈られたものとしては、日本で唯一だそうです。

立派な祭壇とその周りには、福音書や使徒の働きのストーリーを表現した聖像が、いくつも並べられています。ゲルマン宣教のためには、像が用いられたようです。識字率が低ければ、目に訴える形の宣教方法は、特に有効だったでしょうね。

ハリストス正教会で、コンスタンティノポリスを思い浮かべるとすれば、カトリック教会では、ローマと世界宣教に思いを馳せることができます。初代教皇とされるペテロを始め、多くの人々が殉教してきました。その多くの人々の尊い犠牲を、私たちは決して忘れないようにしたいですね。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33、新改訳第3版)

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2007年10月 3日 (水)

東方正教会

函館湾の東端に位置する函館山には、山麓にハリストス正教会があります。漆喰塗の白壁に緑色の銅板屋根をもつロシア・ビザンティン様式の美しい教会堂は、国の重要文化財にも指定され、函館のシンボルの一つとなっています。

ハリストスとは、キリストのこと。正教会(Orthodox Church)とは、西方のローマ・カトリック教会と袂を分かち、独自の発展を続けてきた東方教会のことです。

キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌスは、ビザンティウムに遷都し、キリスト信仰に基づく新しい首都を建設しようとしました。都市の名は当初、「新ローマ」とされ、後にはコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と呼ばれます。

広大なローマ帝国は次第に分割統治されるようになり、その後、東西に分裂します。西方で主導的な役割を果たしたローマ教会は、ゲルマン宣教に力を入れ、西ローマ帝国滅亡後は西方のフランク王国、そして神聖ローマ帝国とその周辺諸国に、基盤を築いていきます。教皇と皇帝のビミョーな関係が、政教分離の原則につながったことは、すでに記した通りです。

これに対して、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)首都にあったコンスタンティノポリス教会は、同帝国が15世紀まで続いたため、皇帝の権威の下に置かれ、国家により保護された「正教会」を築いていくことになります。「正教会」という名称は、「使徒たちの信仰と教会のあり方を正しく受け継ぐ教会」という意味のようです。

イスラム教帝国であるオスマン・トルコが、1453年にコンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国を滅ぼした後、正教会の中心地はロシア帝国へと移っていきます。モスクワは、「第三のローマ」とも呼ばれたそうです。(ちなみに陥落した「第二のローマ」は、オスマン帝国により、イスタンブールと改称され、現在に至ります。)

ロシアは、16世紀からシベリアに進出し、18世紀には正教会が千島で伝道を開始しています。ペリー来航後にロシアとも結ばれた通商条約に基づき、1858年、最初のロシア領事が函館に着任し、それとともに正教会の司祭も来函。領事館内に聖堂建設を進めました。宣教師として大活躍するニコライ大主教は、二代目の司祭として1861年、函館に来航します。

日露戦争の後、初期の聖堂は1907年の大火で焼失しました。現在の聖堂は、1916年に建設されたものだそうです。ロシア本国では翌年から共産革命が始まり、無神論の政府により、正教会は迫害され、聖堂は破壊されました。函館では教会堂が守られたようで、良かったですね。

ハリストス正教会の中に入ると、ろうそくが灯された薄暗い会堂の奥の壁に、何枚もの聖画が飾られています。イエス・キリストが降誕され、十字架にかかり、復活され、天に昇られた福音の内容を、絵を通して理解することができるようになっているようです。

東ローマの人々は、目で見て、イエス・キリストによる救いを理解したのかもしれませんね。おごそかな会堂内には、コンスタンティノポリスに生きたキリストの証人たちの声が、今なお、こだましているようです。

「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24:46-48、新改訳第3版)

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2007年10月 2日 (火)

修道院運動

七重浜から海岸に沿って、西および南西方向に走っていくと、函館湾の西端を過ぎたあたりが当別(渡島当別)となります。「トーベツ」というのは、アイヌ語で「沼のある川」という意味だそうです。ここにはご存知、トラピスト修道院があります。

市街地と空港に近いトラピスチヌ(女子)修道院と違い、トラピスト(男子)修道院は人里離れ、観光客もあまり多くないようです。何度か行ったことがありますが、丘の上の緑豊かな敷地に建つ修道院は、いつも静かなたたずまいですね。世俗を離れ、ただひたすら祈りと労働に励むには、絶好の環境なのでしょう。

カトリックの信徒により当別の原野が寄進され、1896年に修道院創設。「赤とんぼ」の作詞者・三木露風や男爵いもの開発者・川田龍吉は、この当別の修道院との関わりで、カトリックの洗礼を受けたそうです。

西欧に修道院運動が始まったのは、紀元480年頃、古代ローマ貴族の家に生まれたベネディクトゥスからと言われています。その前にも先駆者がいましたが、ベネディクトゥスは、529年頃にローマの南130キロにあるモンテ・カッシーノに修道院を築き、共同生活のための会則を定めました。

祈りと労働を中心とするベネディクト会のスタイルは、その後、ヨーロッパ各地に広がっていく修道院運動のモデルとなり、中世キリスト教世界を形成するネットワークを築いていきます。修道院は農地を開拓し、農業技術を改良・普及させ、学問と教育そして伝道の拠点となり、人々に避難所を提供しました。ローマ教皇に忠実で、働きに熱心な修道士たちは、カトリック(普遍)教会の権威を西ヨーロッパ全体に及ぼす「神聖な戦士たち」でもあったのです。

ベネディクト会の改革運動の中から出てきたのが、クリュニー会、シトー会、トラピスト会(厳格シトー会)などの新しい修道会でした。12~13世紀には、トラピスト会だけで全ヨーロッパに1,800の修道院があったというのですから、たいへんな数ですね。日本には、男子修道院が当別の他に大分県に、女子修道院は函館の他に栃木、兵庫、佐賀、大分にあるそうです。

宗教改革の中心人物、マルティン・ルターも、もともとは聖アウグスチノ会の修道士でした。教皇よりも聖書の権威が上だと考えた時、彼の教会改革運動は、新しい教派・教団の形成へと導かれていくことになります。

「聖職者」だけでなく、すべての信徒は、祭司として神に仕える者とされている(万人祭司説)と彼が主張したことは、よく知られていますね。それは、修道院の中に限られていた「祈り、働け」という生活スタイルを、修道士だけでなく、世俗の世界に生きる一般のクリスチャンたちにも広げるという意味を持っていたはずです。

とすれば、プロテスタント教会の源流の一つは、修道院運動の中にもあったと言えるかもしれません。そう考えると、トラピスト修道院と、そこで作られているバター、クッキー、バター飴が、前よりも少し身近なものに感じられます(笑)。私たちも、一人ひとりが神様から選ばれた「祭司」として、熱心に祈り、忠実に働いていきたいですね。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9、新改訳第3版)

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2007年10月 1日 (月)

信仰と希望をもって愛する

Flower070930 七飯町の中心部は、山地の中腹に位置しており、晴れた日には、南の方向に函館山が美しく見えます。七飯町の北には馬の鞍の形をした駒ケ岳がありますが、南に見える函館山は、牛が臥(ふ)せっている姿に似ていると言われ、「臥牛山(がぎゅうさん)」とも呼ばれています。

臥牛山の麓には、海が見えます。函館はかつてアイヌ語で、「ウスケシ(湾の端)」と呼ばれていたそうで、きれいに湾曲した海岸線とキラキラと光り輝く水面は、函館山をとりまく風景に花を添えています。

この海岸線の北側(七飯側)は、七重浜と呼ばれます。かつては戦場となった場所で、1457年に起きたアイヌ人蜂起の折には、松前藩の先祖となる武田信広が、コシャマインの軍を壊滅させたそうです。1869年の箱館戦争では、土方歳三が明治新政府軍と、この七重浜で戦いを交えました。

20世紀半ば、この七重浜は再度、死と悲しみの場所になりました。1954年9月26日夜、函館港を出航した青函連絡船「洞爺丸」は、台風15号の強風により七重浜沖に座礁し、沈没したのです。犠牲者1155名、生存者159名。世界第4の規模の海難事故だったそうです。

洞爺丸には、三人の宣教師が乗船していました。二等船室にいた彼らは、天井ロッカーから取り出した救命胴衣を他の乗客に配り、人々を励ましたそうです。船が沈む直前にまだ救命胴衣を着けていない人を見つけ、自分たちの救命胴衣をゆずりました。「君はまだ若い。日本のために役立つ機会がいくらでもある。最善をつくせ」と言い、祈ったそうです。「私にはちゃんと行くところがあるから、心配しないで下さい」とも語ったようです。

三人の宣教師のうち、二人は遺体で発見されました。あとの一人は、奇跡的に助かったとのこと。彼らは、この死と悲しみの浜を、愛があらわされた場所に変えてくれました。救い主を信じ、天国への希望をもっていたからこそ、自らのいのちを懸けて、隣人への愛をあらわすことができたのです。

私たちも、そんな生き方を目指していきたいですね。召された宣教師の一人は、アルフレッド・ストーンという52歳のカナダ人で、もう一人は、ディーン・リーパーという33歳のアメリカ人だったそうです。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13:13、新改訳第3版)

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