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2007年11月

2007年11月30日 (金)

格闘家から「不良牧師」へ

所沢にいた頃、ずいぶん風変わりな伝道者と出会いました。確か最初、メッセージを聞いたのは、市内で開催されたコンサート集会だったでしょうか。音楽の後、さっそうと登場したその伝道者は派手なスーツを着て、過去の悪事を洗いざらい告白し、イエス様はそんな自分をも愛し、救って下さったと力強く語りました。その後、私たちの教会にも、講師として来ていただいたように記憶しています。

彼の名は岡田正之、英語名アーサー・ホーランド。通称「アサホ」と呼ばれています。父親は、朝鮮戦争に参加したアメリカ海兵隊員。母親は、大阪・西成のやんちゃ娘。ダンスホールで出会った二人は、駆け落ちして結婚し、生まれた長男が「アサホ」だったそうです。

父親の影響で柔道を始め、高校時代はマリファナを吸い、売春婦と関係を持ち、ケンカに明け暮れた末、バーの用心棒にも雇われたとのこと。このまま日本にいては大変だと考えた父親は、高校を卒業したアーサーを、アメリカの大学に送り出します。留学しても素行は変わらなかったようですが、格闘技は続け、全米レスリング選手権チャンピオン2回、パンアメリカン大会銀メダル、全米柔道選手権3位という成績を残します。

ある日、アメリカ人女性と結婚した高校時代の柔道の恩師から電話があり、教会に行くことになります。奥様のお父さんが、牧師だったのです。アーサーはそこで、不思議な目をした老人たちと出会いました。「ガンつけ」や勝負の世界をはるかに超えた、深く、広く、高い次元に生きる、輝きをもった澄んだ目だったそうです。強くなることで魅力的になろうと努力していたアーサーは、強烈なインパクトを受けました。

その目が「ジーザス」につながっていることを知ったアーサーは、神様の愛と赦しを信じ、23歳で洗礼を受けます。大学生向けの宣教団体で奉仕した後、日本宣教の志を同じくする米国人女性と結婚し、日本に帰国。そこで始めたのが、新宿駅東口アルタ前の交差点伝道でした。白いスーツに赤いネクタイの奇抜なファッションは、数々のメディアでも注目されることになります。

十字架を担いで日本縦断する「伝道旅行」も、アーサーが発案したようです。その計画に、鈴木啓之さんを含む6名の仲間が集まって来ました。日本列島を北上するうち、各地に元ヤクザのクリスチャンがいることが分かり、それがミッションバラバ結成のきっかけになったとのことです。

40歳を過ぎて、バイクに魅せられたアーサーは、宣教活動の合間を縫って大型二輪免許まで獲得し、ハーレー・ダビッドソンに乗り始めます。バイクを使った伝道を目指し、日本初のクリスチャン・バイカーズクラブ「ザ・ロード・エンジェルス」を立ち上げました。全国をバイクで旅行し、今度はバイク乗りに「ジーザス」を伝えると言います。

バイカーらしく革ジャンを着て、鎖をチャラチャラさせ、刺青をしている格好は、自著のタイトルにある通り、「不良牧師」と呼ばれるのにふさわしいかもしれません。彼の過激な発言のすべてに、諸手を挙げて同意できるわけでもありません。しかし、既成の教会や宣教団体がなかなか関わりをもてない人々のところに自ら飛び込んで行き、なんとかして「ジーザス」の愛を伝えようとしている姿には、何かしら心打たれるものがあります。

大多数の「マジメなクリスチャン」たちから見れば、ずいぶん型破りですが、こうした働きを通しても、神様の愛を知り、生き方が新しく変えられる人たちが増えていってほしいですね。

「律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(1コリント9:21-22)

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2007年11月29日 (木)

放蕩三昧から一文無しへ

鈴木啓之さんたちが、十字架を背負って日本を縦断したのが1992年。その後、韓国にまで行ったのは、翌年とのこと。残念ながら私はこの頃、留学中で、日本でのリアルタイムの報道に触れることがほとんどありませんでした。

ただ、93年に結成された元ヤクザのクリスチャン伝道グループ「ミッションバラバ」が、各地をまわり、刺青を見せ、悔い改めと人生再生のメッセージを語っているという話は、どこからか伝え聞いていました。94年には、ロサンゼルスにも来たとのこと。その時も、残念ながら集会に出席して、じかに話を聞く機会はなかったです。

2001年に映画「親分はイエス様」が公開される前には、広く支援献金が呼び掛けられていましたので、私たちの教会も微力ながら協力させていただきました。イエス・キリストへの信仰により、どんな人でも人生をやり直すことができる、という映画のテーマは、まさに聖書が語る「グッド・ニュース(福音)」そのものだと感じたからです。

映画公開の翌年5月、函館周辺のいくつかの教会で、中島哲夫さんの講演会をしようということになりました。ミッションバラバのメンバーで、映画「親分はイエス様」のエグゼクティブ・プロデューサーでした。講演会は日曜午後。午前中はどこかの礼拝に集うことになるため、お伺いしてみると、感謝なことに七飯に来て、メッセージを語って下さると言います。

中島哲夫さんは北海道出身。中学卒業後、ヤクザ映画に出てくる極道にあこがれ、上京したそうです。バブル絶頂期、政財界の裏取引にかかわり、経済ヤクザとして数十億円の利益を上げていたとのこと。(何だか、最近のニュースとつながるかのようですね。)38歳の時、住吉会で序列2番目の相談役に抜擢され、酒、金、女、覚せい剤の日々を送っていたようです。

そんな中島さんの生き方が変わり始めるのは、東京・赤坂の高級コリアンクラブにいた、明るく美しい韓国女性との出会いからでした。彼女の名は、李盛愛さん。子どもの頃から放蕩娘だった彼女は、日本に留学してから教会に通い始めますが、遊ぶ金ほしさに水商売を始めます。しかし、すぐ仕事が嫌いになった彼女は、もう結婚したいと願い、神様にこう祈ったそうです。「神様、こんな生活イヤです。神様から見て、私にぴったりな人を与えて下さい。」

中島さんは、そんな時、彼女の前に現れました。「お金持ちの社長さん」だと思っていた彼とは、結婚したら一緒に教会に行くことを条件に、式を挙げたそうです。中島さんは、その後、覚せい剤中毒から組の仲間を殺そうとし、ヤクザを破門になります。経済的には何不自由のない生活でしたが、夫の浮気や薬物に苦しみぬいた盛愛さんは、とうとう「神様、あの人から財産を全部奪って下さい」と祈ったそうです。お金が、夫の生き方を狂わせていると確信したからでした。

神様は、すぐにその祈りに応えて下さり、一文無しになったそうです。その後、二人の生き方は、神様によって大きく変えられました。今は、東京・新宿にあるナオス国際キリスト教会の牧師夫妻です。私たちの教会に来て下さった時は、きれいな奥様に優しいご主人と、まさに「ぴったり」の、お似合いのカップルのようでした。

お金は、神様によって必要なだけ与えられるものですが、使い道をわきまえないと、人の生き方を狂わせてしまいます。神様は、何のために経済的に祝福して下さるのか、よく考えて生きていきたいですね。神様が与えて下さる「必要経費」や「お小遣い」は、放蕩するため、自分がいい思いをするためのものではありません。(贈収賄やゴルフ三昧のためでもないでしょうね。 苦笑)

「この青年はイエスに言った。『そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。』イエスは、彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」(マタイ19:20-22、新改訳第3版)

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2007年11月28日 (水)

ホステスから牧師夫人へ

「イエス様が、俺を助けてくれるんや。頼みもしないのに、自分の命を捨ててまで、他人の罪を償ったイエス様。俺は自分で死ぬこともできへんかった人間や。せやのに、この人は他人のために自分を犠牲にすることができたんや。とっても、かなわん。この人が俺の親分やったら、俺はもう一度、人生をやり直せるかもしれへん。」「イエス様、俺の生き甲斐になってください。」

暴力団仲間から追われ、愛人と東京に逃げた夫・鈴木啓之さん(現シロアムキリスト教会牧師)が、新宿の教会で真剣に祈り始めた時、妻のまり子さんはまったくそのことを知りませんでした。ただひたすら、夫が大阪に帰ってくるよう祈り、幼い娘とともに待ち続けていたのです。5億円もの借金をした末、ヤクザの掟破りをして命を狙われている夫が、愛人と手を切って、無事に大阪に帰ってくることなど、まさに神様の奇跡に期待するようなものでした。

鈴木まり子(韓国名・韓錦子)さんは、かつてコリアンクラブで働くホステスでした。父はアル中で働かず、母が小さな食堂を営み、家計を支えていました。水商売で稼ぎ、お母さんを楽にしてあげようと思い、来日したのは、30歳を過ぎてからです。大阪・ミナミのコリアンクラブで、ばくち打ちの啓之さんと出会いました。ピンク色のチマ・チョゴリを着ていたまり子さんに、啓之さんは一目ぼれだったそうです。

店のチーママに誘われて、教会に顔を出すようになったまり子さんが、神様を心から信じるようになったのは、ひざのケガが奇跡的にいやされてからです。店の入口でヒールを引っ掛け、階段を転げ落ちた時、半月板を骨折し、全治3ヶ月で手術が必要だと診断されました。ところが、教会で牧師が祈ると、その場で直ってしまいます。初めて体験する、神様の奇跡でした。

同棲相手の啓之さんとは、結婚したくないと思っていました。ヤクザで多額の借金を抱えていたからです。ところが、家庭礼拝にやってきた牧師が啓之さんとの関係を知ると、結婚しなさいと言い、日取りまで決めてしまったのです。しぶしぶ結婚したまり子さんは、その後すぐに身ごもり、水商売から足を洗いました。夫も、いつかはヤクザをやめてくれると期待していたそうです。

夫の更生を信じ、大きな声で必死に祈り続けたまり子さんの顔は涙にぬれ、部屋は鼻をかんだティッシュが散乱していたとのこと。あまりの祈りの激しさに、アパートの上階に住む人が苦情を言いに来たこともあるそうです。夫に捨てられたと知った後も、「神様、主人を帰してください」と祈り続けました。

そんなある日、啓之さんは、突然帰宅します。神様の愛を知り、もう一度人生をやり直したいと決意した結果でした。大阪は危ないので、家族で東京に移り住むことにします。かつて夫が愛人と暮らしたマンションに引っ越すと、絶望感と夫への不信感で押しつぶされそうになりました。「夫を赦せないけど、赦せる力をください。愛せないけど、愛せる力をください」と祈ったそうです。

夫のかつての愛人から電話が掛かって来た時、「私は人間だからあなたを赦せないけど、私はイエス様を信じるから神の愛で赦します」と伝え、まり子さんの過去の心の傷は、完全にいやされました。今は、牧師夫人として、ご主人とともに教会を支えておられるようです。

「主人の変わりようには私が一番びっくりしてます。神様は私が思っていた以上のまじめな夫にしてくれました」と語る鈴木まり子さん。彼女の真摯な祈りに、神様は確かに答えて下さり、啓之さんは新しく変えられました。神様の恵み、奇跡のみわざに感謝します。

「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。」(箴言31:10、新改訳第3版)

(今日の記事は、坂口さゆり著「バラバの妻として」NHK出版、を参考にさせていただきました。)

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2007年11月27日 (火)

ヤクザから牧師へ

七飯シオン教会では来月13日(木)夜、シロアムキリスト教会の鈴木啓之牧師をお招きし、クリスマス講演会を開催することになりました。(http://homepage3.nifty.com/nanaezion/xmas2007.pdf

17歳からヤクザの世界に入り、35歳の時に劇的な回心を経験してイエス・キリストを信じ、牧師となった方です。沖縄から北海道まで十字架を背負って歩いた姿は、2001年公開映画「親分はイエス様」のモデルにもなりました。元ヤクザのクリスチャン伝道グループ「ミッションバラバ」にも所属し、米国大統領を始め、世界のVIPの前で人生再出発の体験を語りました。

同牧師の著書には、「愛されてゆるされて」、「誰だって人生をやり直せる」、「イレズミ牧師のどん底からの出発法」などがあります。本の帯に記されている、「過去は変えられない。でも未来は変えられる!」、「神の力で地獄の底から這い上がれ!」といったフレーズは、見る人の心に強烈なインパクトをもって訴えかけてきます。

ヤクザになって最後には殺されかけ、自殺寸前まで追い込まれた、同牧師の次のような言葉には、説得力がありますね。「自分の人生をやり直すことも、自分が決断し、腹をくくり、強い忍耐と勇気を持って戦うことだと私は思います。しかし、安心してください。私のようなどうしようもないヤクザ人生を生きてきた人間でさえ、人生をやり直せたのです。」

バクチ依存症、アルコール依存症、女性依存症、覚せい剤依存症だった同牧師が、その絶望的な状態から抜け出すことが出来たのは、「イエス様依存症」になったからとのこと。「イエス様中毒」となって健康を取り戻し、妻子との関係が回復し、聖職者として再スタートできた経験は、今、多くの悩みをかかえる人たちの励ましとなっているようです。

ミッションバラバの「バラバ」とは、イエス・キリストの代わりに恩赦を受けた囚人でした。キリストは、このバラバの身代わりとなって十字架につかれ、その罪を一身に引き受けて下さったのです。元ヤクザのクリスチャンたちは、「親分イエス様」に罪を肩代わりしてもらった「極悪人バラバ」を自分たちのモデルとし、神様の限りない愛とゆるしのメッセージを日本内外の多くの人々に伝えてきました。

しかし、バラバは、ただヤクザ者の象徴だけではありません。神様の完全な基準に照らせば、私たちの小さな嘘も罪になります。神様から見れば、すべての人は、「すねに傷を持つ」罪人だと聖書は語っています。私たちすべての身代わりとなり、十字架について下さった「親分」イエス・キリストに感謝します。

「彼らは、声をそろえて叫んだ。『この人を除け。バラバを釈放しろ。』バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。しかし、彼らは叫び続けて、『十字架だ。十字架につけろ』と言った。」(ルカ23:18-21、新改訳第3版)

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2007年11月26日 (月)

真実と平和を愛する(ゼカリヤ8章)

Flower071125 先月、製造日などの偽装事件が発覚した「赤福餅」という和菓子。私が初めて食べたのは、もう20年以上前、三重県伊勢市に住む知り合いの方を訪ねた頃でしょうか。その方は当時、株式会社「赤福」に勤めていました。「一度、遊びにおいで」と言うので、「お伊勢参り」もかねて、お宅にお邪魔することにしました。まだクリスチャンになる前の話です。

伊勢神宮内宮では天照大御神(あまてらすおおみかみ)、外宮では豊受大御神(とようけおおみかみ)を祀っているとのことですが、どこをどうお参りしたのか、よく覚えていません(笑)。ただ紀元690年から1300年間にわたり、20年ごとに遷宮(宮の引越し)をしているという話は、強く印象に残りました。

信仰心よりも食い意地の張っていた私は、神宮とその祭神にではなく、門前の赤福本店で食べた餅に心を奪われました。やわらかい餅をこし餡でくるんだ作りたて(多分?)の赤福餅。いっぺんでファンになった私は、その後、何度か機会があるたびに喜んで食べていたように思います。最後に食べたのは、おそらく15年以上前でしょうが、今回の不祥事がニュースで流れると、何だか、むねやけがするような気がしました(笑)。

世の中は、嘘で満ちています。政治家や官僚、建設業界や食品業界だけの話ではありません。日本人は、「嘘も方便」と言い、嘘・偽りに寛容なところがあります。ホンネとタテマエを使い分け、真実を隠して、偽りで表面をとりつくろったりします。しかし、どんなに黒を白と言いくるめようとしても、神様をだますことはできません。全知全能なる神様は、すべてをお見通しです。

神様の目から見て、嘘は罪です。それは人との間、そして神様との間に壁を作ります。神様は、その壁を取り払い、正直で平和な関係を築くことを求めておられます。そのような生き方をする人を、豊かに祝福して下さるとも約束しておられます。創造主なる神様と周りの人々に対し真実を語り、平和をつくる者となっていきたいですね。

「これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行え。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。──主の御告げ──」(ゼカリヤ8:16-17、新改訳第3版)

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2007年11月23日 (金)

春の道

春の道といえば、桜です。私は、もともと花にはあまり関心がなく、親に連れられて花見に行った記憶もありません。大学でも会社でも「花見酒」がなかったため、桜花を愛でる習慣がありませんでした。花見をするようになったのは、妻と出会ってからでしょうか。春になると函館公園、五稜郭公園、所沢では航空公園などに、二人で、あるいは家族で足を運びました。

特に印象に残っているのは、4年前のゴールデンウィークに訪れた松前公園です。その前のGWは、2年連続札幌でした。2001年は父の見舞いと葬儀、翌年は教会に来ていた人の葬儀を七飯で司式した後、教団の北部聖会(特別集会)に駆けつけました。ゆっくり花見どころではありません。2003年は一息つきたいと思い、ちょうど桜も良い時期だったので、義父母を含めた7人で松前に出かけました。

混雑を避けるため、朝8時に出発。車の多そうな函館・木古内回りではなく、厚沢部・江差回りとしました。海岸沿いの道に出ると、かつて税務署勤めだった義父が昔のことを思い出し、函館から郡部まで自転車をこいで税金滞納者の取立てに行った話をします。若い税務署員の前で、出刃包丁を畳の真ん中に付き立てた人もいた、という話は、大うけでした。(笑)

松前公園までは、2時間ほどだったでしょう。幸い、駐車場はまだ空いていました。公園内をくまなく歩き回り、たっぷりと桜を見て、持ってきた弁当も平らげ、松前城址を見学しました。ここは松前藩によって築城され、箱館戦争の際に土方歳三らにより攻略された城です。園内には250種、1万本の桜があるそうで、見ごたえがありましたね。「さくらまつり」の最中で、露店もカラオケ(のど自慢大会?)もあり、たいへん賑わっていました。

江戸時代の町並みを再現した「松前藩屋敷」に行くと、かつて北前船の往来で賑わい、「北の小京都」と呼ばれ、「松前の五月は江戸にもない」とうたわれた城下町の雰囲気を味わうことができました。まだ小学生だった下の二人は、着物や鎧・兜を身に付けて記念写真を撮ったりし、花見よりこちらの方が楽しそうでしたね。「桜アイス」も美味しかったです。

午後2時頃、駐車場を出る時は満車状態で、入れない車が並んで待っています。帰りは福島・木古内回りの逆方向で、空いている道をのんびりドライブして帰宅しました。あれから4年。長女は親元を離れ、義父は足が弱って、もうたくさん歩けません。7人でたっぷり歩くお花見は、あの松前が最後だったかもしれませんね。

神の民イスラエル(別称ヤコブ)は、桜の園ではありませんが、ぶどう園にたとえられています。神様が園に木を植え、一本一本、手塩にかけて育てて下さいます。それは、イエス・キリストを信じ、神の民とされた私たちについても、同じです。

創造主なる神様が、限りない愛をもって私たちにいのちを与え、満開の花を咲かせ、豊かな実を満たすよう養い育てて下さることを感謝します。

「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(イザヤ27:6、新改訳第3版)

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2007年11月22日 (木)

秋の道

秋の道として思い出すのは、大学キャンパスの銀杏並木です。1、2年生が使うキャンパスでは、ちょうど銀杏が色づく頃、学園祭がありました。露店や立看板が立ち並び、あちこちでコンサートやセミナーが開かれ、大勢の若者たちで賑わっていました。

しかし私は、どちらかと言うと、静かな銀杏並木の方が好きだったかもしれません。みごとに色づいた銀杏の木々。実が放つ、あの独特の匂い。黄色い葉の間から、遠慮がちに差す木洩れ日。そして別の日には、道の真ん中で雨に打たれていた黄色い葉。そのどれもが、お気に入りの光景でした。

1、2年の頃は、キャンパス内にあった寮がたまり場でした。旧制高校の時代から使っていたらしい「お化け屋敷」のような寮でしたが、同じクラスの友人が寮生だったのです。彼は函館出身で学業優秀、特に数学が天才的にできました。私は、高校までは数学が好きだったのですが、大学の数学は、まったくお手上げ状態でしたね。(笑)

授業以外はいつも(?)テニスをしていた数学の助教授(当時)は、手ぶらでタオルを首にかけたまま教室に現れ、ほとんど何の前置きもせず、いきなり「デデキント・カット」(デデキントの切断)の証明か何かを板書し始めたように思います。「実数とは何か」という話のようです。高校のバレー部を引退した後、大学入試用の参考書・問題集をやっとのことでこなし、合格ラインすれすれで大学にすべり込んだ私にとっては、限りなくちんぷんかんぷんでした。(爆)

ところが、寮生の友人は、しっかりと理解していました。彼の本棚には、数学の大全集があり、先生が語る講義内容は、彼にとって初めて聞く話ではなかったのです。私も彼と同じ理科系の学生で、物理学にも興味がありましたが、理学部や工学部に進学する気が薄れてしまいました。

函館出身の友人は、酒も強く、「たまり場」に何人か集まると、渋谷に出てよく飲みました。私も「ザル」と呼ばれたりしましたが、彼も、どれだけ飲んでも普段とあまり変わりませんでしたね。終電がなくなった後は、歩いて寮まで帰り、泊まらせてもらいました。コンクリートに薄いカーペットを敷いただけの床の上に、2冊重ねたマンガ本を枕にして寝ると、さすがに起きた時は、体の一部が痛かったです。

2年の秋以降、彼は理学部数学科に進み、今はある大学の教授のようです。文学部に進学した私は、次第に寮に立ち寄ることも少なくなり、3年以降、別のキャンパスに移ると、彼と飲みに行くこともなくなってしまいました。3、4年のキャンパスの銀杏並木もみごとでしたが、もうその頃は、たまり場と言える場所がなく、黄色一色の並木道も、何かものさびしげな印象が残っています。

木は、人類と深い関わりがあります。全人類の父祖アダムとエバ(イブ)は、エデンの園にあった数限りない木々の中から、ただ1本だけ食することが禁じられていた「善悪の知識の木の実」を食べ、園を追われてしまいます。(よく絵に描かれるように、その実がリンゴのようであったかどうかは、不明です。)

イエス・キリストは、この失われた楽園を再建し、救い主を信じる全世界の人々が「天のふるさと」に帰郷する道を開いて下さいました。キリストにより「罪に汚れた衣服」がきよめられ、天の都の住民とされた人たちは、いのちの木の実を存分に食べることができます。その木の葉はどんな色で、実はどんな香りと味がするのか、楽しみですね。神様の恵みを感謝します。

「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」(黙示録22:14、新改訳第3版)

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2007年11月21日 (水)

夏の道

夏に歩いた道で、特に印象に残っているのは、エジプト・イスラエル旅行の道です。9年前の、正確に言うと初夏でしたが、道産子にとっては十分、夏でした。ツアーガイドの方からいただいた、水のしたたるタオルを首にかけると、水打ちと同じ原理で簡易クーラーとなりました。ただそれも、照りつける日差しと乾燥した空気の中で、すぐに乾いてしまいます。一日に何度も水に浸して、繰り返し涼みました。

イスラエルは、どこに行っても、聖書に記されたエピソードと直接関連した場所ばかりで、クリスチャンとしては、たいへん感動的でした。ただ暑い初夏の日、じりじりと照りつける太陽のイメージと一緒に、いま特に思い出される二つの場所は、聖書には登場しません。その一つはマサダ要塞跡、もう一つはホロコースト記念館です。

マサダは、エルサレムから南に40キロほど、死海のほとりにある要塞跡です。草木のない荒れ果てた地に、400メートルほどの岩山がそびえています。ヘロデ大王がそこに離宮兼要塞を築き、紀元66年から始まったローマとの戦い(ユダヤ戦争)では、エルサレム陥落後、967人がマサダに立てこもりました。1万5千ものローマ兵に囲まれた彼らは、女性と子ども数名を残し、集団自決したそうです。

今では、イスラエル国防軍の入隊宣誓式が、この場所で執り行われ、「マサダの悲劇を、二度と繰り返してはならない」という決意表明がなされるとのこと。マサダ陥落の後、ユダヤ人は国を失い、世界中に離散しました。ですから、その決意表明には、もう二度と離散と迫害の歴史を繰り返さない、という意味もあるのでしょう。実際にその場に行くと、食糧と水が確保されていたとはいえ、砂漠の真ん中のような灼熱の岩山の上で、よく2年近くも持ちこたえたものだと、あらためて感銘を受けます。

ホロコースト記念館(「ヤド・ヴァシェム」)は、もちろん、第二次大戦期のヨーロッパで虐殺された、離散のユダヤ人600万人を追悼する場所です。犠牲者の灰や遺骨、遺品の他、さまざまな写真、絵画などが展示されいます。小泉元首相も麻生元外相も、在任中に訪問したようですね。記念館の外には、自らの命の危険をも冒してユダヤ人を助けようとした人々を讃え、植樹がなされています。この名誉ある「正義の異邦人」の称号が授与された日本人は、「日本のシンドラー」とも呼ばれた、かの杉原千畝さんただ一人です。

国連の分割決議案によってイスラエル建国が宣言され、第一次中東戦争が始まったのは、1948年5月。そして第三次中東戦争でイスラエルがエルサレムを奪還したのは、1967年6月。両方とも、中東の暑い初夏の出来事でした。

イエス・キリストは、エルサレムとイスラエルの滅亡を予見し、涙を流されました。彼らが国を失ったのは、神様のことばに聞き従わず、到来した救い主を拒否したからでした。今はイスラエル国内で、メシアなる「イェシュア(イエス)」を信じるユダヤ人たちが増えていると聞きます。イスラエルの民、そして世界中の人々に対する、神様の恵みと救いを感謝します。

「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『…やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。』」(ルカ19:41、新改訳第3版) 

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2007年11月20日 (火)

冬道

今年はあたたかくて、雪は降るんだろうかと思っていたら、日曜夜、いきなり白銀の世界になりました。礼拝が終わった後、妻の実家におじゃまして夕飯をご馳走になり、夜、帰ろうと外に出ると、もう雪が降り積もっています。そこからわが家まで、40分ほどのドライブ。先週、冬タイヤ(スタッドレス)にしておいて良かったです。

2、3年前の11月、まだタイヤ交換しなくても大丈夫だろうとタカをくくっていたら、ある土曜夜の礼拝後、雨に濡れた路面がツルツルに凍っていました。いわゆる「ブラックアイスバーン」です。夏タイヤ(普通のラジアルタイヤ)のまま、教会の駐車場から国道に出て、右にハンドルを切った瞬間、車が半回転くらいしてしまい、道の真ん中に止まりました。

両車線の他の車は、少し離れて停車します。私の車を注視し、待っている人々の冷たい視線を感じつつ(笑)、ズルズル滑りながら少しずつ前後に切り返し、なんとか体勢を建て直して、家まで走り着きました。翌朝も礼拝でしたから、帰宅後、懐中電灯で照らしながらタイヤ交換をしました。凍てつく夜に替えたのは、初めてでしたね。

もう20年以上前、教会のワゴン車を電柱にぶつけたことがあります。初めて走った冬道。急カーブで凍ったわだちにハンドルをとられ、慌てて逆方向に急ハンドルを切ったところ、「宇宙遊泳状態」になりました。そうなると、もう神様にいのちを預けて、止まるまで待っているしかありません。幸い前後に車はなく、反対車線の電柱に後ろ向きにぶつかって車が止まりました。電柱に被害はありませんでしたが、車はしっかり凹み、修理しなければなりませんでした。

他にも、急停車した前の車に追突しそうになったり、横断歩道を渡り始めた歩行者に突っ込みそうになったり、冬道でヒヤリとする経験には事欠きません。冬は、全知全能なる神様の守りを特に身近に感じられる季節ですね(笑)。神様が、どんな時にも守っていて下さることを感謝します。

「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」(詩篇91:11、新改訳第3版)

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2007年11月19日 (月)

和解の使節となる

Flower071118 アメリカの聖書大学で学んでいた時、台湾からの女性留学生と出会い、私たち夫婦は彼女と親しくなりました。アジア系の学生がほとんどいない大学で、互いに親近感を感じていたのかもしれません。優秀で勉強熱心な学生で、ロスのダウンタウンにあるホームレス教会にも、一緒に手伝いにいきました。

「あなたたちを見て、日本人のイメージが変わった」と、彼女は言ってくれました。戦前の軍隊のイメージ、そして戦後のビジネスマンや売春(買春)ツアーのイメージとは、少し違ったものを感じたようです。彼女は卒業後、帰国し、台北のNPOで慈善活動をしているようです。何年か前に台湾に行った時は、私と何人かの牧師たちを連れ、台北の街を案内してくれました。

聖書大学の後、私が学んだ神学大学院は、韓国人留学生が多く、キャンパスはまるでコリアン・コミュニティのようでした。そこで友人になった韓国人牧師は、私たち家族をある日、夕食に招待してくれました。ロス郊外にある一軒家で、裏庭にはプールがあります。子どもたちと一緒に少し泳いだ後、コリアン・バーベキュー(焼肉)に舌鼓を打ちました。

その牧師を含め、これまで会った韓国人クリスチャンはほとんど、日本人を愛し、日本に神様の愛を伝えたいと言います。それは、マスコミで報道される韓国(特に政治家やデモ隊の人たち)のイメージとは、全く違います。彼らはもちろん、旧日本軍が韓国・朝鮮で何をしたか、私たち日本人以上によく知っています。近親者が直接、被害を受けた人もいます。それでもなお日本人を赦し、日本を愛するという姿には、頭が下がる思いがします。

創造主なる神様は、キリストによって私たちに、和解の道を与えて下さいました。それは政治的な解決ではなく、アイドルやアニメの一時的な人気、はかない流行をベースとした民間交流でもありません。国籍や民族を越え、すべての人のために命を捨てて下さったイエス・キリストの愛に基づく、平和と共生への働きかけなのです。

キリストを信じる一人ひとりが、「愛の外交使節」として神の国から派遣され、世界中において神の愛による和解の働きを進めていることを感謝します。

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」(2コリント5:18-20、新改訳第3版)

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2007年11月16日 (金)

ペルシア

所沢に住んでいた頃、人のつながりで、妻はイラン人の家庭にお手伝いに行ったことがあります。まだ長女が、2歳くらいの時でした。ご主人は、かつてパーレビ元国王のスタッフで、1979年のイスラム革命の際に亡命し、日本に来たとのこと。ご主人は無神論のようでしたが、奥様はゾロアスター教だと言います。ゾロアスター教というのは、確か、高校の世界史の授業で習ったような気がしましたが、今でも信徒がいるとは知りませんでした。

紀元前539年、ペルシア王クロス(キュロス大王)は、新バビロニア王国を倒し、メソポタミアの地にアケメネス朝ペルシア帝国を確立します。この帝国は、第3代ダリヨス王(ダレイオス1世)の時代に最盛期を迎え、東はインダス川から西はエーゲ海とエジプトに至る大帝国となります。ゾロアスター教は、このアケメネス朝の時代に広まり、後のササン朝の時代にペルシアの国教とされました。

ペルシアは、アッシリアやバビロニアと異なり、征服した異民族とその信仰に寛容でした。紀元前538年、バビロン捕囚の中にあったイスラエルの民は解放され、祖国帰還の許可が下ります。エレミヤの預言通り、紀元前605年に起きたダニエルらの最初の捕囚から数えて、ほぼ70年が経過していました。

ダリヨスの息子で、ペルシア王位を継いだアハシュエロス王(クセルクセス1世)は、美しい王妃ワシュティとの関係が悪化し、別の王妃を帝国中から捜そうとします。この壮大なビューティー・ペイジェントを勝ち抜き、新たな王妃として選ばれたのは、両親を亡くし、親戚に育てられていた捕囚のユダヤ人エステルでした。

エステルは、ペルシアの宮廷で、ユダヤ人存続のため決定的な役割を果たします。王の側近が、帝国内における全ユダヤ人根絶の陰謀を企てた時、命懸けでその事実を王に伝え、自らの民を大量虐殺から救ったのです。イスラエルでは、今でも毎年2~3月頃、この出来事を記念し、「プリムの祭り」としてお祝いしています。

アケメネス朝ペルシアは、紀元前330年、アレクサンドロス(アレキサンダー)大王に滅ぼされ、その家臣が築いたセレウコス朝シリアは、イランとイスラエル、アナトリア(現トルコ)の地を含む広大な領域を支配。ギリシア風のヘレニズム文化が栄えます。その後、メソポタミアはパルティア王国、そしてササン朝ペルシアが治め、それがイスラム教徒の到来まで続きます。ササン朝の美術品は、シルクロードを経て、古代日本にも伝わったようですね。

ギリシア(マケドニア)人たちの後、新たな統治者としてイスラエルの地を制圧するのは、地中海世界の覇者ローマ帝国です。初代皇帝アウグストゥスの時代に生まれ、2代皇帝ティベリウスの時に十字架につかれたイエス・キリストは、自らの命を懸け、神様の愛を伝えられました。それは、あの王妃エステルが自らの民のため、命を懸けた姿と重なるものがあります。

キリストによる命懸けの愛が、今、私たちに注がれていることを感謝します。

「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16、新改訳第3版)

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2007年11月15日 (木)

バビロニア

確か、大学1年の頃、英語のクラスで使ったテキストに、バベルの塔のことが書いてあったように記憶しています。人々が神様のみこころに反し、一つの町に集まって天に届く塔を建て、自分たちの力を誇ろうとしたところ、神様はそれを喜ばず、言葉を混乱させたという旧約聖書・創世記の話です。私は、その話が強く印象に残り、言語と文化の違いに関心を持つ一つのきっかけになりました。

塔が建てられた町バベルは、メソポタミア文明の中心都市バビロンのこと。現在のイラク・バグダッドの南方90キロほどに位置していました。この町を首都とした古バビロニアは、法典で有名なハンムラビ王の時代、紀元前18世紀に最盛期を迎え、全メソポタミアを支配します。アッシリア帝国を滅ぼしたのは、それより1000年以上後となる新バビロニアで、こちらはネブカデネザル(ネブカドネザル)大王の時代に全盛期を築きます。

アッシリア帝国の支配から奇跡的に守られたイスラエルの南王国(ユダ王国)は、紀元前586年、このネブカデネザルによってついに滅ぼされ、国民の大多数はバビロニアに捕虜として連れ去られました。昨年暮れに死刑となったイラクのフセイン元大統領は、大統領在任時、自らを「現代のネブカドネザル」と称していたようです。イラク周辺国やイスラエルとその同盟国では、多くの人々が、彼の言葉に心中穏かではなかったでしょう。

ネブカデネザルは、彼が見た夢の意味を解き明かした預言者ダニエルや、偶像礼拝を拒否した他のユダヤ人たちを通し、イスラエルの民が信じる「いと高き神」を知るようになります。バビロニアの繁栄を自らの偉業として誇るようになった時、ダニエルの預言通り、大王は精神的な病に冒され、その回復後、本当の神様を礼拝するようになったと聖書に記されています。

70年間のバビロン捕囚は、神様に聞き従わなくなったユダヤ人たちへの天罰と再訓練でしたが、神様はその災厄をも用いられ、バビロニアにご自身のことばを伝えられました。フセイン元大統領最後の言葉は、イスラムの信仰告白、「アッラーは偉大なり。アッラーの他に神はない。ムハンマドはアッラーの使徒なり」だったそうです。ネブカデネザルの信仰とは、少し違ったようですね。

バビロニア王国は滅びましたが、イスラエルの民は捕囚の地から帰還し、他国の支配を受けつつも、祖国復興と来たるべき王(メシア)への希望を持ち続けます。南ユダ王国が陥落する前、神様は預言者エレミヤを通し、愛するイスラエルの人々に捕囚への警告と将来の希望について語られました。その恵みのことばは、混沌とした現代社会で将来を見失いがちな私たちにとっても、大きな励ましを与えてくれます。

神様が、ユダヤ人だけでなく、すべての人に将来と希望を約束して下さっていることを感謝します。

「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:10-11、新改訳第3版)

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2007年11月14日 (水)

アッシリア

米国留学中、就学前の長女にいくつかビデオを購入しましたが、その中にディズニーの「ピノキオ」がありました。木の人形ピノキオが、妖精により、最後は人間の子どもにしてもらうという、あの有名なストーリーです。主題歌「星に願いを」も、たいへん印象的な曲ですね。

ピノキオがクジラに飲み込まれ、反省した後、脱出するという話は、旧約聖書のヨナ書が下敷きになっているように思われます。紀元前8世紀頃、敵国アッシリアの首都ニネベに行き、神様のことばを語りなさいと言われたイスラエルの預言者ヨナは、それがいやで、地中海を渡ってスペインに行こうとします。大嵐の中、海に投げ込まれたヨナは、大きな魚に飲み込まれ、悔い改めた後、宣教師としてアッシリアへ向かいました。ヨナの言葉を聞いたニネベの人々は、即座に神様を信じて悪い行いから立ち返り、滅亡を免れたのです。

アッシリアは、史上最初の「世界帝国」を築いた国として、知られています。メソポタミア北部、チグリス・ユーフラテス両河の上流域を発祥とするこの国は、ペルシア湾からエジプトに至る「肥沃な三日月地帯」をすべて制圧し、広大な帝国を築きました。当時、二つに分裂していたイスラエルは、北王国が紀元前721年に滅ぼされ、人々は外国に連れ去られます。このいわゆる「失われた10部族」が、日本に来たかもしれないという話は、以前にご紹介しました。(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_63a7.html

被征服民への残虐さで悪名高かったアッシリア帝国は、結局、紀元前612年にバビロニアなどにより滅ぼされます。その後、アッシリア人は国を持たない民族として生き延び、使徒トマスの伝道などにより、クリスチャンになったとのこと。ネストリウス派(景教)の宣教師として、シリアからモンゴル、中国、韓国、日本、そしてフィリピンにまで福音を伝えたとも言われています。(景教についても、以前書きました。→http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_d37f.html

アッシリアのクリスチャン神学者たちは、神学書のみならず、ギリシア古典をアッシリア語に翻訳し、それが後にアラビア語訳となり、さらにはラテン語に訳されてヨーロッパに伝わり、近代のルネサンスにつながったという説もあるそうです。

イスラム帝国内でも活動を続けたアッシリア人教会は、その後、モンゴル帝国により壊滅的な打撃を受けます。モンゴル軍の攻撃を避け、現在のイラク北部、シリア東部、トルコなどに避難した彼らは、各地で迫害されたようです。2003年のイラク戦争以降は、イラクに住むアッシリア人たちが何百人も殺害され、何十という教会が破壊されているとのこと。米軍による保護もなく、人口の半分にあたる75万人のアッシリア人は、すでに亡命したと推測されています。

神様は、どんな国の人をも愛しておられます。一晩で枯れてしまったトウゴマ(唐胡麻)の木を惜しんだ預言者ヨナに対し、神様は、ニネベに住むアッシリア人たちへのご自身の思いを伝えられました。現在、苦難の中に置かれているアッシリア人たちが、神様の助けを得ることができるよう、祈っていきたいですね。救い主なる神様は、どんな困難の中にある人をも愛し、いつくしみ、決して見捨てることのないお方です。

「主は仰せられた。『あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』」 (ヨナ4:10-11、新改訳第3版)

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2007年11月13日 (火)

エジプト

98年の初夏、私はエジプトを訪問しました。イスラエル旅行の経由地だったのです。短い滞在でしたが、カイロの考古学博物館でミイラを見学し、ピラミッドの前ではラクダに乗りました(笑)。モーセが十戒を授かったシナイ山の頂で日の出を眺め、荷物を抱えながらイスラエル国境を歩いて越えた時は、「出エジプト」をしたような気分になりました。

古代文明発祥の地エジプトと隣の小国イスラエルは、古くから深い関わりがあります。イスラエルの父祖アブラハムは、「約束の地」を襲った飢きんのため、一時、エジプトに滞在しました。その孫ヤコブ(別名イスラエル)の時代、再び長期的かつ大規模な飢きんが起こり、イスラエルの家族総勢70名は、穀物備蓄のあったエジプトに移住します。ヤコブの息子ヨセフは、ファラオに仕える宰相として、その手腕を発揮しました。紀元前17~18世紀頃のことです。

その後、エジプトはシリアにまで領土を広げ、「帝国時代」とも呼ばれる最盛期を迎えます。400年のエジプト滞在で、人口200~300万人となったイスラエルの民は、奴隷の身分に落とされ、農業や土木工事などの過酷な労働を強いられました。紀元前13世紀頃、彼らをエジプトの苦役から解放するため、神様が遣わされたリーダーは、モーセです。この出来事は、「出エジプト(Exodus)」と呼ばれ、古くは「十戒」、最近では「プリンス・オブ・エジプト」として映画化されています。

イスラエルが脱出した後のエジプトは、次第に衰退し、アッシリア、ペルシア、マケドニア、そしてローマの支配を受けるようになります。イエス・キリストが誕生し、ヘロデ大王による虐殺を逃れるため一時、エジプトに滞在したのは、オクタビアヌスがプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラを破り、ローマ初代皇帝アウグストゥスとなった時代でした。

アレキサンダー(アレクサンドロス)大王が建設したアレクサンドリアは、学術都市として発展。使徒たちも読んだというギリシア語旧約聖書(70人訳)は、この町で翻訳・作成されています。アレクサンドリアに形成された教会は、初期の頃からキリスト教会の重要拠点(5大教会の一つ)となり、エジプトがイスラム世界に組み込まれるまで、キリスト教神学者たちが活躍しました。

神の民にとってエジプトは、養育と成長の地でしたが、同時に苦難の象徴ともなっています。神様は、私たちのすべての苦悩をご存知であり、そこから解放して下さるお方です。たとえ苦しみの奴隷のような状態にあったとしても、神様が私たちの祈りに応え、愛をもって救い出して下さることを感謝します。

「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地…に、彼らを上らせるためだ。』」(出エジプト3:7~8、新改訳第3版)

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2007年11月12日 (月)

主の神殿を建て直す(ゼカリヤ4~6章)

Flower071111 紀元前520年、捕囚の地から帰って来たイスラエルの民に対し、預言者ゼカリヤは、神様からのメッセージを語りました。帰還してから、はや18年。神の民の生活の中心となるべき神殿は、未だに再建されていませんでした。神殿を早急に建て直し、創造主なる神様を礼拝する者として生きなさい、というのが、神様のみこころだったのです。

イスラエルは、敵に囲まれていました。バビロニアを滅ぼしたペルシヤの王は、彼らの帰還を許しましたが、その動きに脅威を覚えた周囲の民族は、イスラエル再建を何とかして妨害しようとしたのです。帰還した人々にも、問題がありました。荒れ果てた祖国に帰って来た民は、日々の生計を立てることに没頭し、神様から与えられた使命を忘れていたのです。真の礼拝者として生きる模範を示し、世界中の人々に神様の素晴らしさを伝えるのが、彼らの本来の使命でした。

神殿再建のビジョンと自信を失っていた民に対し、神様は預言者ゼカリヤを通して、励ましのことばを与えられます。その働きは、バビロニアやペルシヤ、エジプトといった世界帝国の力によって進められるものではない。並外れた能力を持つ、天才的な人間の力によって成し遂げられるものでもない。天地万物を創造された神様の力により、神殿は再建されるのだ、という約束が与えられたのです。

ゼカリヤは、エルサレムの神殿のことを第一に語りましたが、同時に、イエス・キリストに関する預言も伝えています。「若枝」と呼ばれる救い主は、神殿を建て直し、大祭司である王として王座に君臨される。世界中の人々が集められ、この神殿再建の働きに加わる、という預言です。

イエス・キリストを信じる人は、聖霊なる神様の神殿とされています。私たちは、かつては破壊された建物のようでしたが、今は、主の神殿として、建て直されつつあります。今なお、壊れた部分が多くありますが、神様が少しずつ、本来あるべき姿に回復させて下さっていることを感謝します。主のことばに聞き従い、神様の栄光を輝かせる神殿として、さらに建て直されていきたいですね。

「また、遠く離れていた者たちも来て、主の神殿を建て直そう。このとき、あなたがたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。もし、あなたがたが、あなたがたの神、主の御声に、ほんとうに聞き従うなら、そのようになる。」(ゼカリヤ6:15、新改訳第3版)

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2007年11月 9日 (金)

欧州連合の母

大沼を来訪したドイツ皇弟ハインリッヒのことを調べていたら、ほぼ同じ頃来日した、もう一人のハインリッヒのことを知りました。彼の名は、ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵。1892年にオーストリア=ハンガリー帝国の代理駐日公使として、東京に赴任しています。

こちらのハインリッヒは、東京で一人の女性と、運命的な出会いをします。青山光子という人で、父は骨董商を営み、東京・青山の地名の由来と言われるほどの大地主だったそうです。馬を乗り回して東京見物していたハインリッヒは、ある日、青山家の店先で落馬。その救護にあたったのが光子で、後に二人は結ばれます。近代日本における、公式の国際結婚第1号だったようです。

帰国命令を受けた夫とともに、1896年、光子はヨーロッパに渡ります。渡航前には、明治天皇の皇后から、「日本人としての誇りを忘れないように」というお言葉をいただいたとのこと。新居は、ボヘミア地方のロンスベルク城でした。夫ハインリッヒは、かのハプスブルク家と深いつながりのある貴族だったのです。

ハプスブルク家は、1273年にルドルフ1世が神聖ローマ皇帝となって以来、中断はあったものの、その帝位を継続的に保ち続けた名門中の名門。ヨーロッパに一大勢力を築き、16世紀の最盛期にはスペインとその海外領土、イタリアの一部、ネーデルラント(オランダとベルギー)、そしてドイツとオーストリアに領地を得たそうです。

最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世も、もちろんハプスブルク家。彼は、神聖ローマ帝国の代わりに、自らの支配領域であるオーストリアとハンガリーを中心として、オーストリア帝国を形成。これが後に、オーストリア=ハンガリー帝国となります。

光子が渡航した頃は、東洋の未開国から来た、言葉も礼儀作法も知らない女性ということで、周囲の目は冷たかったとのこと。彼女は、家庭教師を雇い、ずいぶん努力したようです。光子への見方が大きく変わるのは、オーストリアと対立関係にあるロシアに、「未開国」日本が勝利した1905年。日露戦争は、光子にとっても大きな意味があったのでしょう。

ところが、結婚14年にあたる翌年、夫のハインリッヒが心臓発作で急死します。光子は、遺産相続の裁判に勝利し、法律、簿記、農場経営の勉強までして、7人の子どもたちを育て上げます。社交界でも「黒髪の貴婦人」として花形的存在だった「ミツコ」は、香水の銘柄にもなりました。第1次大戦では日本が敵国となったため、白眼視されましたが、それでも赤十字活動で懸命に奉仕したそうです。

第1次大戦後、最後のハプスブルク帝国である、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊します。戦争で莫大な損害と犠牲者を出し、「西洋の没落」がささやかれ、自信を失いつつあったヨーロッパに、「汎ヨーロッパ主義」という新しいビジョンでセンセーションを巻き起こしたのは、光子の次男リヒャルト(日本名・栄次郎)でした。彼は、1923年、「パン・ヨーロッパ」という著書を発表。ヨーロッパは、米国のように連邦国家を形成すべきだと主張したのです。

リヒャルトのビジョンは、キリスト教や自由主義を土台とする欧州統合運動を生み出します。その考え方は、ナチス・ドイツとは相容れず、彼は後に、アメリカに亡命します。「EUの父」と呼ばれた彼の生き方は、映画「カサブランカ」のモデルともなったそうです。(ドイツ軍歌「ラインの守り」は、嫌いだったかなあ? 笑)

リヒャルトから始まった欧州統合運動、「国際汎ヨーロッパ連合」は、彼の死後、ハプスブルク家の現当主であるオットー・フォン・ハプスブルクが国際名誉会長になったとのこと。オットーは、最後のオーストリア=ハンガリー帝国皇帝の長子だそうです。欧州統合運動は、第2次大戦後、欧州共同体(EC)、そして1993年には欧州連合(EU)として実を結ぶに至ります。

リヒャルトの母・光子は、「欧州連合(案)の母」とも称されたようですね。離日して45年、一度も帰国せず、1941年に67歳で亡くなりました。日本からヨーロッパに渡った「光の子」は、父を亡くした子どもたちの歩む道に光を照らし、その子どもの一人は、ヨーロッパの行く末に光を照らしたのでしょうか。

イエス・キリストを信じる者は、創造主なる神様の光を輝かせる人生が与えられています。「光の子ども」として、良い実を結んでいきたいですね。

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──」(エペソ5:8-9、新改訳第3版)

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2007年11月 8日 (木)

ドイツ帝国

昨日のブログで、ドイツ皇帝が大沼を訪れたというのは、どうも「ドイツ皇弟」ハインリッヒによる1879年の訪問だったようです。当時のドイツ皇帝は、ヴィルヘルム1世、フリードリヒ3世、ヴィルヘルム2世と続きますから、どう考えてもドイツ皇帝ではなさそうですね。さっそく訂正しておきました。

神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体された1806年以降、ドイツではフランスの支配に対抗する民族主義運動が盛んとなり、それがドイツ統一へと動いていきます。「ドイツ帝国」が成立するのは、普仏戦争に勝利した1871年、ヴェルサイユ宮殿で執り行われたヴィルヘルム1世の戴冠式によってでした。「鉄血政策」を打ち出した宰相ビスマルク、そして陸軍参謀総長として天才的な手腕を発揮した大モルトケらが、当時、大いに活躍しています。

祖父と父の死後、第3代ドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世は、複雑な外交術を駆使する老宰相ビスマルクと対立。結局、ビスマルクは辞職するに至ります。その後、ドイツは単純な植民地拡大主義をとり、各国との対立を深め、第1次世界大戦が勃発。敗戦によって帝国が滅ぶのは、1918年のことです。講和条約の場として選ばれたのは、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」でした。その50年ほど前、ドイツ帝国の成立が宣言されたのと、まったく同じ場所にあたります。

ヴェルサイユ条約の過酷な賠償規定は、ドイツ人たちの不満を呼び、ナチスの台頭へとつながります。神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ「第三帝国」を築くのだというヒトラーらの主張は、当時のドイツ人たちの心に強く響きました。それが第2次大戦への大きなうねりとなっていくわけです。

明治期の日本が、国づくりのモデルとしたのは、このドイツ帝国です。天皇は皇帝、元勲たちは宰相ビスマルクに相当したのでしょうか。陸軍は、ドイツ陸軍にならい、参謀本部を設置しました。(ちなみに、海軍はイギリスがモデルです。)

この仕組みは、元勲たちが生きている間は押さえが利いていたようです。ところが彼らがいなくなると、軍部(特に陸軍の一部)が暴走します。国政における有効なリーダーシップ不在のまま、日本は、第2次大戦へと突入することになりました。

ドイツ皇弟ハインリッヒは、1879年、80年、99年と、3回も大沼(正確に言うと、「蓴菜(じゅんさい)沼」)を訪問しているそうです。そこで私たち夫婦と同じように、「デート」をしたかどうかは不明です。(笑)戦乱や政治的駆け引き(それにマスコミの喧騒?)とは無縁な、ただ美しく、平和な景色に魅せられただけかもしれませんね。

戦いに満ちた世を生きる私たちに対し、創造主なる神様が、人の手によらない、神の手による平和を約束して下さっていることを感謝します。

「どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。」(2テサロニケ3:16、新改訳第3版)

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2007年11月 7日 (水)

大沼公園

Photo 牧師の休日というのは、たいてい月曜日です。一昨日は、天気が良かったので、妻と二人で大沼公園にドライブに行ってきました。家の近くの小学校では、木々が美しく紅葉していますが、大沼は少し気温が低いようで、残念ながら、もう大部分の葉っぱが落ちていましたね。それでも老若のカップルが散策をし、観光バスの一行も見受けられました。

湖のほとりで記念写真をとり、大沼だんごをお土産に買い、せっかく来たのだからと山川牛乳のソフトクリームも食べて帰りました。団塊世代の妻たちが定年後に夫としたいことの一つが、「デート」だという調査結果があるそうですが、私たちは、もうそれを先取りしています。(笑)

日米和親条約によって箱館が開港された1854年、七重村(今の七飯町)は外国人の遊歩地区に指定され、多くの外国人が大沼を訪れたそうです。小松宮、有栖川宮の他、ドイツ皇弟やイタリアの皇族も来訪したそうで、1881年には明治天皇も行幸されたとのこと。その後、観光客が増加し、1905年には大沼周辺が道立公園に指定されました。「沼の家の大沼だんご」は、この年から製造販売されているそうです。

22年前、私が洗礼を受けた日も良いお天気で、今の妻と一緒に大沼公園までドライブしました。私はその頃、ペーパードライバーで、湖畔道路をおっかなびっくり運転したことを覚えています。真っ赤なスズキ・セルボの持ち主であった妻は、助手席に座り、もっとおっかなびっくりだったでしょう。(笑)

洗礼式の日、お祝いに駆けつけて下さった別の教会のクリスチャンの方は、花束を持った私と隣にいた今の妻を見て、「あなたたちの婚約式みたいね」と言われました。その2年後、妻と私は結婚して一つの車に乗り、20年間、山も谷もともに走り抜けて来ました。神様の守りと支えがなければ、ここまで来るのは難しかったかもしれません。

神様が、私たちの行く道を祝福し、人生の空しさに代わり、楽しみを与えて下さっていることを感謝します。

「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」(伝道者の書9:9、新改訳第3版)

(写真は、食べかけの大沼だんご)

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2007年11月 6日 (火)

結婚披露宴

日曜夜は、知り合いの結婚祝賀会に出席しました。新郎は、函館の教会に属するクリスチャンで、教会学校に通っていた子ども時代から顔見知りの好青年です。新郎のお父様は建築士で、私たちの教会の会堂やお墓を設計していただきました。新婦もクリスチャンで、札幌で看護師をしていたそうですが、教会のある方の仲立ちで親しくなり、結婚に至ったそうです。美男美女のカップルでしたね。

会場のホテルには、150人近い出席者が集い、お二人を祝福しました。結婚祝賀会に参加するのは、久しぶりです。若いお二人を見ていて、20年前の私たちの結婚披露宴を思い出していました。

私たちの披露宴会場は、札幌プリンスホテルでした。父の仕事上のつながりがあったようですが、結婚式は大通の教会だったため、近くて便利ということもありました。ご招待したのは70名ほどで、こじんまりとした宴でした。普段食べられないようなフランス料理のディナーコースを注文し、たいへん美味しかったです。新婦は、胸が一杯だったせいか(笑)あまり食べられず、後で悔しがっていました。(残念!)

司会は、牧師家庭の長男で、本人も牧師となった私の幼馴染み。音楽ゲストには、当時、函館の教会にいたアメリカ人の宣教師を招き、ギター弾き語りで歌ってもらいました。もう一人、私の従妹が桐朋学園でピアノを学んでいたので、彼女にもみごとな演奏を披露していただきました。

お世話になった方々の祝辞をいただき、最後に私が、感謝の言葉と将来の抱負を語りました。披露宴の間中、私の番になる直前まで、何をどのように話そうか迷っていて、あまりうまくお話しできたとは思えません。ただ将来、牧師となって、神様のことばを伝えていきたいという「志」については、出席して下さった皆様の前で、しっかりと決意表明させていただいたように覚えています。後から出席者の一人に、「伝道集会のようだった」と言われました。

神の国は、婚姻の宴に例えられています。新郎である「小羊」は、もちろん、イエス・キリスト。「きよく正しい行い」で美しく着飾った「花嫁」は教会、つまり、キリストを信じる人々のことです。「小羊」と「花嫁」の結婚は、永遠の愛によって結ばれた契約関係を表しています。

神様が、私たちを天の祝福に満ちた結婚披露宴に招いて下さり、信仰によって花嫁とされた者たちに対し、永遠に変わることのないキリストの愛を約束して下さっていることを感謝します。

「『私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った。」(黙示録19:7-9、新改訳第3版)

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2007年11月 5日 (月)

祭司の国を築く(ゼカリヤ3章)

Flower071104 日本ハムはヒルマン監督だけでなく、マイケル中村投手やセギノール選手らも、クリスチャンなのだそうです。つい先日まで知りませんでしたが、マイケル投手たちは今年、左手首に黒いラバーバンドをつけており、それには白い文字で「A.S.K.」と記されていたとのこと。新約聖書、マタイ福音書7章にある有名な一節、「求めなさい(Ask)。そうすれば与えられます。捜しなさい(Seek)。そうすれば見つかります。たたきなさい(Knock)。そうすれば開かれます。」の頭文字ですね。

マイケル投手は、クローザーとして今年も大活躍したようですが、マウンドの上で厳しい状況に陥った時は、自分の仕事をやり遂げることができるよう、神様に祈ったそうです。日本シリーズでは、ダルビッシュ投手が完投した初戦以外、勝ちパターンの試合がなかったため、残念ながら登板の機会がありませんでした。神様から与えられた今年の「仕事」は、クライマックスシリーズの対ロッテ戦までだったようですね。

すべてのクリスチャンは、「祈る人」とされています。「聖なる祭司」とも呼ばれています。「祭司」というのは、神殿において神様に祈り、礼拝をささげるため、イスラエルの民の中から選ばれた人々でした。祭司たちのリーダーである「大祭司」は、神の民全体を代表して、一年に一度、神殿の最奥部である「至聖所」に入り、神様に罪の赦しを祈り求めました。

ゼカリヤ書3章に描かれる大祭司ヨシュアの姿は、イエス・キリストの姿と重なります。キリストは、私たちの罪を背負って十字架につかれ、人類の「不義」を一日で除いて下さいました。天上の大祭司として今なお、私たちのために祈っていて下さいます。そして、キリストを信じ、その弟子とされている私たちも神の国の祭司として、自分のためだけでなく、周りの人々のためにも祈る働きがゆだねられているのです。

神の国は、祭司の国です。創造主なる神の祭司として、「聖霊の宮(神殿)」とされた私たち自身の生き方をしっかりと治め、悪いことから守られるよう自己管理していきたいですね。全世界に広がる祭司の国を、ヒルマン監督やマイケル投手、セギノール選手らとともに築く者とされていることを感謝します。

「万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。」(ゼカリヤ3:7、新改訳第3版)

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2007年11月 2日 (金)

名古屋と「天下取り」

中日ドラゴンズが日本シリーズを制覇し、日本一に輝きましたね。ヒルマン監督と日本ハムを応援していた道産子としては残念でしたが、日ハムの選手たちも監督とGM交代のドタバタ劇の中、よく戦ってくれたのではないでしょうか。

かつて、「あいつに監督はできない」と陰口を叩かれながら、日本一の胴上げを受けるに至った落合博満監督。契約交渉に失敗し、入団テストからの再出発を図って、シリーズではみごとMVPに輝いた中村紀洋選手。今年の中日には、さまざまなドラマがあったように思います。

名古屋は、一度だけ行ったことがあります。8年ほど前、岐阜で開かれたクリスチャンの集会に出席した時、滞在しました。まあ何とかなるだろうと、よく調べもせずに訪れたところ、どの辺に何という町があり、何線に何駅があるのかもよく知らないため、電車一つ乗るにも右往左往したように記憶しています。(笑)

名古屋城を見に行った時だったでしょうか。何かに書いてあった、「天下」という言葉が心に残りました。信長も秀吉も家康も、この名古屋周辺で生まれ育ち、天下を取るに至ったと記されていたように思います。その一文には、「天下取り」への強い思いを感じました。金華山山頂にある岐阜城(稲葉山城)を山麓から見上げた時も、斎藤道三と織田信長の時代、そして「美濃を制するものは天下を制す」という言葉を思い起こしました。

「天下」とは、広い意味で世界のことですが、特に「天子(皇帝)の統治する地域」を指す古代中国の概念だそうです。日本では「天子」は天皇とされてきましたから、天下は「天皇の影響力が及ぶ範囲」ということになるのでしょうか。その範囲を治める武家のことは、「天子」とは区別して、「天下人」あるいは単に「天下(様)」と呼ぶようになったのでしょう。

聖書的に考えれば、「天」は創造主なる神様ご自身、そして神様がおられる場所を意味しています。全世界の「天下」を治める「天子」そして「天下人」は、十字架と復活によって「天下を取」られ、「天帝」として君臨しておられるイエス・キリストになりますね。

日本のプロ野球の世界で、約半世紀ぶりに「天下を取った」中日(旧称「名古屋軍」)は、大いに称賛に値します。もしそうなら、永遠にわたり、全世界の「天下を取った」イエス・キリストに対しては、「天下」の民による限りない賛美がふさわしいと言えるでしょう。

救い主イエスを、いつも心から賛美しつつ、歩んでいきたいですね。

「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9-11、新改訳第3版)

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2007年11月 1日 (木)

ヴォーリズ

遺愛学院の講堂を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880年、米国カンザス州生まれ。両親に伴われ、長老教会に出席し、そこで洗礼を受けたようです。その後、コロラド州デンバーに転居し、コロラド大学に進みます。

(デンバーは、松井稼頭央選手が活躍したコロラド・ロッキーズの本拠地ですね。余談ですが同チームは、キリスト教信仰に基づくチーム作りをしているそうです。)

建築家を目指していたヴォーリズは、大学在学中、カナダ・トロントで開催された学生向けの宣教大会に出席します。これが、彼の人生における大きな転換点となりました。宣教師ハワード・テイラー夫人のメッセージに心を動かされたヴォーリズは、建築家の夢を捨て、海外宣教の道を志すのです。

日露戦争中の1905年1月、ヴォーリズは来日し、近江八幡の公立校で英語を教え、自宅でバイブルクラスを開きました。彼の人柄を慕う多くの生徒が集まり、洗礼を希望したそうです。ところが新年度に仏教に熱心な校長が着任すると、バイブルクラスが問題となり、ヴォーリズは、2年足らずで英語教師を解任されてしまいました。

近江八幡にとどまって伝道を続けたヴォーリズは、活動資金を得るため、同じく海外宣教に重荷をもつ米国人建築家や学校の教え子たちとともに、会社を設立します。建築設計、建材や雑貨輸入を手がけました。メンソレータムも、輸入商品の一つでした。

ヴォーリズは、ミッション系の学校校舎やチャペルの多くを設計し、その数は1600以上にも上ったそうです。代表的な教会建築としては、近江金田教会、京都メソジスト教会、麻布南部坂教会、軽井沢ユニオンチャーチ。教育機関では明治学院大学チャペル、同志社大学や関西学院大学の校舎等があるようです。

ヴォーリズは、音楽にも豊かな才能を発揮し、ピアノやオルガンを演奏し、作詞作曲もしました。同志社大学のカレッジソング「One Purpose」(一つの志)は、ヴォーリズの作詞だそうです。実は、この曲、ある個人的な理由から、私はこの春、口ずさんで歌っていました。(笑)作詞者が誰かまでは、気づきませんでしたね。

この曲はもともと、神聖ローマ帝国滅亡後のドイツ統一運動の中で作られた、「ラインの守り」という軍歌だったそうです。映画「カサブランカ」では、ドイツ人将校たちが歌っているとのこと。その若々しく力強い旋律は、後に米国イェール大学校歌となり、同志社の英語校歌にも採用されたようです。これも、まったく知りませんでした。(笑)

日本人と結婚し、日本国籍を得たヴォーリズは、第二次大戦中も日本に留まり、終戦時にはマッカーサー元帥と近衛文麿元首相との会談を仲介、昭和天皇が戦犯とされないよう尽力したそうです。1964年、83歳で召天。日本国政府より、正五位勲三等、瑞宝章が贈られました。

ヴォーリズのさまざまな事業は、キリストの愛を日本に伝えるという、ただ一つの目的(One Purpose)に基づいていました。彼は、大学生の時に神様から与えられた志に、忠実に生きたのです。

私たちも、神様から与えられる導きをいつも求め、忠実な生き方をしていきたいですね。神様は、私たちの人生に祝福の計画をお持ちであり、どこに進んでいったらよいか、教えて下さるお方です。

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く。」(イザヤ30:21、新改訳第3版)

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