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2007年12月19日 (水)

刷り込みからの自由

高校3年の時の同級生が、本を出版しました。「スポーツニュースは恐い 刷り込まれる〈日本人〉」というタイトルの新書です。野球やサッカーなどのニュースを通し、メディアは、情報の受け手である私たちが気がつかないうちに、「日本人」としての意識づくりをしていると指摘しています。

その本の中で、ベネディクト・アンダーソンという人の「想像の共同体」という書籍が紹介されていました。83年に出版された本で、「ナショナリズム論の必読書のようになっているから、読んだ人も多いだろう」と書かれていますが、私は不勉強なため、読んでいません。(苦笑)

アンダーソンによると、「国民」とは「イメージとして心の中に描かれた想像の共同体」だとのこと。言語、文化、遺伝的近親性(血縁関係)によって「国民」が形成されるというのは「共同幻想」であり、その幻想を形作るのは、日々、「共同体」内外の情報を発信している新聞等のメディアだと言うのです。

新書の別な箇所には、「日本人論」についても言及がありました。アメリカの日本研究者ブライアン・マクベイは、日本人論を、日本人の「特殊性」に関する「国を挙げての思索」だと言っているそうです。「日本は小さな島国だから、私たち日本人は○○である」という論理はしばしば耳にしますが、よく考えると論証不十分ですね。

ハルミ・ベフという社会人類学者は、日本人論は「現代の修身の教科書」とまで言い切っているようです。それは、「国民の文化的アイデンティティー」の源となっており、日本人論で書かれた通りに行動しないと「日本人らしくない」とみなされると言います。

これらを読んでいて、ハッと思い出したのは、私が洗礼を受けた前後のことです。私は大学入学以来、「日本人論」が好きで、よく読んでいました。その中には、「日本人は八百万の神々や諸仏を信じる多神教で、砂漠地帯で生まれた一神教は、日本の風土に合わない」、あるいは「日本には先祖伝来の信仰、神道や仏教がある。欧米のキリスト教は、日本人向けでない」といった議論が、よくなされていました。

クリスチャンになった後は、「日本人でなくなってしまった」ような感覚がありました。しかし、よく考えてみれば、憲法には信教の自由が保障されていますし、日本国籍を喪失したわけでもありません。クリスチャンになって神社仏閣、あるいは神棚や仏壇の前で手を合わせないようになったとしても、遺伝子がすべて組み替えられてはいないし、日本語を話し、白米や味噌汁を食べ続けています。

「切支丹(キリシタン)」や「耶蘇(ヤソ)」になったら日本人でなくなる、という意識は、ひょっとすると日本人論を読んでいるうちに、知らず知らずの間に私の心の中に「刷り込まれていた」のかもしれませんね。イエス・キリストが、真理を教えて下さり、私たちを「ナショナリズム」の幻想による呪縛から自由にして下さっていることを感謝します。

「…イエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」(ヨハネ8:31-32、新改訳第3版)

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コメント

刷り込みからの自由は、必要ですよね!

日本人だから・・・は、よく聞くフレーズですが、根拠は特にありません。

戦前・戦中は、このキャッチコピーで「お国のため」とか「非国民」とか言われて、多くのキリスト者が妥協しましたし、多くの若い命が強制的に死に追いやられました。

啓示録にも出てくる「666」の印を額に持つ者も、きっとこうした画一化に飲まれた人なのでしょうね!

投稿: コナン将軍 | 2007年12月20日 (木) 09時31分

妥協せずに、信仰を貫く人生を歩みたいですね。

投稿: shigeki | 2007年12月21日 (金) 17時16分

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