天皇の人権
昨日のブログを書いた後、ふと気になったのは、天皇には基本的人権が保障されているのかということです。私は、法律の専門家でなく、小・中・高の社会科と大学教養の法学の授業を、それもずいぶん前に受けただけなので、詳しい解釈は分かりません。ただ、素直に日本国憲法を読む限り、天皇は日本国民統合の象徴であるにも関わらず、日本国民ではないようです。
とすると、日本国民に保障されている基本的人権が、憲法上、天皇には保障されていません。天皇は、主権の存する日本国民の総意にその地位がゆだねられ、日本国の象徴として生き、国事行為については、国民の代表である内閣の助言と承認が必要です。その一挙手一投足がすべて国民の監視下にあるようなもので、これでは見方を変えると、国民の奴隷のようです。
信教の自由や表現の自由、職業選択の自由も保障されていないのではないでしょうか。聖書的な観点からすると、信教の自由が与えられていないのは、たとえ本人が創造主なる神に救いを求めたとしても、それを周りの人がとどめていることになり、これ以上の奴隷的拘束はないように思えます。
皇太子が結婚される以前、妃候補の条件の一つに、「クリスチャンでないこと」という項目があったという話を聞いたことがあります。その真偽は確かめようがありませんが、皇室が関わる儀式がすべて神道に基づくものであり、天皇家の人々はそれを一切変更できないとしたら、神道の儀式を拒否するクリスチャンは、敬遠されるに違いありません。
しかし、もし天皇家の人々がイエス・キリストの救いを信じ、クリスチャンになりたいと言ったら、主権をもつ国民は、その人々の信教の自由を尊重してあげるのでしょうか。「私はイエス・キリストを信じます」と公表したいと言ったら、表現の自由を尊重するのでしょうか。天皇になりたくない、あるいは辞めたいと言ったら、職業選択の自由を守ってあげるのでしょうか。基本的人権が保障され、主権者とされた国民には、天皇家の基本的人権も尊重する責務があるはずです。
イエス・キリストは、すべての人に自由を与えるため、私たちのもとに来て下さいました。罪からの自由、奴隷状態からの自由、絶望の暗闇からの自由、死からの自由です。その対象者は、全世界の「国民」だけではありません。国民の象徴である天皇家の人々にも、神様の救いは約束されているのです。
キリストが、世界中の人々に恵みを注いで下さっていることを感謝します。
「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19、新改訳第3版)
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コメント
天皇及び皇族は、主権者としての「国民」ではないが,国の構成員という意味での「国民」であるとのこと。したがって、基本権の享有主体である。
但し、世襲制(2条)、国政に関する権能を
有しない(4条)などから、政治活動の自由
や、婚姻の自由が制限されている。
天皇や皇族の基本権制限は、「天皇制」という仕組みを採用していることによるそうです。
確かに、それでは、信教の自由はあるのかという疑問が生じますね。ちょうどエステルのように、主なる神を信じることができるといいですね。
投稿: コナン将軍 | 2007年12月 5日 (水) 20時16分
コナン将軍さま
コメントありがとうございました。
天皇家とその周辺の人々には、すでにクリスチャンとなっている人が多い、という話も、以前聞いたことを思い出しました。
これも真偽のほどは確かめようがないですね。
天国でどんな方々にお会いできるか、楽しみです。
投稿: shigeki | 2007年12月 6日 (木) 10時33分