規範
昨日の朝日新聞の「オピニオン」コーナーに、玄侑宗久さんという芥川賞作家のお坊さんが寄稿していました。このところ犯罪が発覚しても、容疑者に罪の意識が感じられないことが多く目に付きます。それは、個々人が罪を犯さないようにしようと心に誓うことがなくなったからではないかと、同氏は指摘しています。
外側から人を、法令や決まりで一律に規制しようとする最近の風潮に対しても、玄侑氏は異議を唱えます。どんなにこまごまとした法令を作り、道徳教育に力を入れたとしても、本人がそれを守ろうと決心しなくては、自制も罪の意識も生まれないのではないか。そして、一番の問題は、約束を守りますと誓う相手がなくなってしまったことではないか、と言っています。それは、つきつめていくと、神や仏といった至高の存在になるのではないかとも示唆しています。
目に見える物的世界の原則だけを土台とし、すべてを人間理性により論理的に秩序立てようとした結果、社会は規範を失いつつあります。物的世界自体には善悪を指し示す基準が存在せず、また理性によって何らかの基準を「発見」したとしても、次の時代にはそれが「古い」と否定され、新しい(一時的な)基準に取って代わられたりするからです。実はこの傾向は、ルネサンスと啓蒙主義、そして進化論がもたらした近代社会のパラダイム(基本的考え方)と言えます。
同じく近代社会を生み出したもう一つの流れは、宗教改革です。日本の歴史教科書では、「ルネサンスと宗教改革」と一まとめにされますが、宗教改革はルネサンスとは全く違った方向性を持っていました。ルネサンスが多神教の、つまり相対的価値観をもつギリシア・ローマ文化に回帰しようとしたのに対し、宗教改革は、唯一の神が語られたことばである「聖書のみ」に回帰しようとしたのです。一方は人間中心であり、もう一方は神中心であると言い換えることもできます。
人間中心の流れは、その後、日本にも大きな影響を及ぼし、特に伝統的価値観が徐々に崩壊してきた20世紀後半以降、主流となっているようです。伝統的な規範も失われつつありますので、社会全体がアノミー(無規範)状態となっているように思えます。この社会が今後、グローバルスタンダードに沿った新たな規範を再構築できるかどうか、規範を守ろうとする人々が社会の屋台骨を支えていくことができるかどうかが、日本の大きな課題なのでしょう。
すべてを創造された神様は、さまざまな夢や幻、ことばによる語りかけ、歴史上の出来事を通し、すべての人が守るべきルール、人類共通の規範を授けて下さいました。それは一言で言うと、「神を愛し、人を愛する」という規範です。長い間に口述され、書きためられた「聖なることば」は「聖書」としてまとめられ、人間の尊厳、自由、(神の下の)平等、人権といった考え方の土台となってきました。そして今も将来も、私たちがどのように生きるべきか、どのような社会を築いていくべきか、聖書のことばは教え続けてくれるのです。
創造主なる神様が与えて下さった聖なる規範を守り、罪に支配されない確かな生き方をしていきたいですね。
「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。」(詩篇119:133、新改訳第3版)
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