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2008年1月 8日 (火)

夢と幻

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」というのは、織田信長が好んで舞った「敦盛」の一節とのこと。「天界」の時間と比べれば、地上の人間世界の50年など一瞬のようだ、という意味のようです。

ここで「夢幻」は、「はかないもの、確かでないもの、すぐに消え去ってしまうもの」の代表例に挙げられています。「夢」には「将来の希望」という意味もありますが、「幻」にはそのような使われ方もなさそうです。「夢想」、「幻想」、「幻覚」というと、現実でないことを見たり、思い浮かべることになります。

ところが夢と幻について、そのようなイメージをもったまま聖書を読むと、違和感にとらわれること必至です。確かで消え去ることがなく、人の生き方に大きな影響を与える夢や幻がいくつも登場するからです。

エジプトに行ったヨセフは、王の夢の意味を解き明かし、宰相として飢きん対策の食糧備蓄を進めました。旧約の預言者たちは、与えられた幻を書き記し、最重要な人生の指針として人々に伝えました。使徒ペテロは、幻に導かれてローマ軍人コルネリオの家に行き、パウロはマケドニア人の幻を見て、ヨーロッパ伝道を開始しました。

神様は、夢や幻を通して、人々に語られたのです。創造主なる神様から与えられた夢や幻は、神様から預けられたメッセージ、「預言」でした。そしてその夢や幻が、本当に創造主からのメッセージだったかどうかは、伝えられた内容が実現するかどうかによって判断されました。実現しない、偽の「預言」は「偽りの夢」、「むなしい幻」と呼ばれ、真の夢や幻とは区別されたのです。当時、偽預言者は死刑と定められていましたから、夢や幻を伝える人も命懸けでした。

創造主なる神様は、今なお私たちに、夢や幻を与えて下さいます。昨日の記事でご紹介したYWAMも、創始者ローレン・カニングハムが見た幻から始まりました。私たちの教会も、神様から与えられた幻によって設立され、今もビジョンに導かれて歩んでいます。聖霊なる神様が、私たちに夢や幻を与えて下さることを感謝します。

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2:28、新改訳第3版)

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