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2008年2月18日 (月)

神の愛を知る(ヨハネ5章)

Flower080217 アメリカにいた頃、牧師やスタッフが休暇をとることは、ごく当たり前の話でした。スタッフは交代でちょこちょこ休みをとっては、家族で旅行に出かけます。主任牧師も、1~2ヶ月の夏休みをとり、礼拝ではゲストスピーカーや協力牧師がメッセージをしていました。秋からクリスマスの繁忙期に向け、静かな祈りの時をもち、心の準備をするという意味もあったのでしょう。

帰国後は道南に住んだため、夏に家族そろって札幌に行き、毎年少しずつ大きくなる子どもたちを、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに引き合わせるのが恒例となりました。子どもの成長とともに、札幌以外にも立ち寄るようになり、年毎に小樽を訪問し、富良野を訪れ、帯広に足を伸ばし、そして支笏湖を皮切りにキャンプをするようになりました。日常の雑事から解放されてリフレッシュし、また家族の絆を強める良い機会にもなったと思います。

何年か前、ある日本人クリスチャンの集まりで、わが家のサマー・キャンプの話をしたことがあります。数日間の夏休みをとれた感謝の報告だったのですが、その場にいたある人から、批判的なコメントをいただきました。「私のところは、夏休みなどありません。日曜も祝日も、もちろんその他の日も、すべて神様のために働いています」というお話でした。そう言われれば、こちらは「怠惰な牧師でスミマセン」としか答えられません。(笑)

その後、別な機会に、あるドイツ人宣教師から夏休みのことを聞かれたので、1週間ほど休みをとって家族旅行をすると言いました。するとその宣教師から返ってきたメールは、驚くべきものでした。「たった1週間しか休みをとらないのか。日本人は働きすぎだ。牧師が休暇を十分にとる模範を示さないで、どうするのか」という内容だったのです。そう言われると、今度は「模範になれなくてスミマセン」ですね。(笑)

私自身は怠け者なので、休めるものならいくらでも休みたいくらいです。(笑)しかし、家族と教会の状況を考えれば、1週間(実はせいぜい5日か6日)の夏季休暇が、これまでの妥当な線でした。そして、毎年それだけの休暇がとれたことを感謝しています。

「休まなければならない」も「休んではならない」も、行き過ぎると律法主義に陥ります。律法主義とは、形を重んじ、心を軽んじる生き方です。「安息日を守りなさい」という律法は、本来は人が体を休め、心を静め、神様の恵みを感謝するための教えでした。しかし、それをただ形式的に守ろうとすると、人間の努力や作法をはるかに超えた、神様の愛を理解することができなくなってしまいます。

イエス・キリストが、安息日にベテスダの池で歩けない人をいやされた時、ユダヤ人たちは安息日に床を片付けた(つまり、働いた)と言って非難しました。しかし、安息日の教えを厳格に守っている人も、守っていない人も、神様は同じように愛しておられます。律法学者やパリサイ人のように「勝ち組」となり、社会で尊敬されていた人たちも、律法主義についていけず、落ちこぼれて「負け組」となり、人々から見下されていた人たちも、神様は永遠の愛をもって同様にいつくしんでおられるのです。そして、その愛はもちろん、安息日にも豊かに注がれています。

38年も床に臥せっていた人は、しっかり「負け組根性」を身に付けていました。回復が得られないことを、人のせいにしていたのです。しかし、ベテスダでキリストと出会い、その言葉に従って歩き始めた時、この人の人生に転機が訪れました。自らの足で立ち、奇跡的にいやして下さった神様の愛を知り、新しい人生を歩むようになったのです。

ベテスダとは、「慈悲の家」という意味だそうです。私たちも神様のいつくしみを知り、その愛に支えられて、一歩一歩歩んでいきたいですね。時には、休みをとることも大切です。(笑)

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ5:8-9、新改訳第3版)

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