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2008年2月

2008年2月29日 (金)

解放

聖書の中には、奇跡やいやしのエピソード以外に、悪魔(サタン)や悪霊との対決が多く記されています。現代の日本において、唯物論(物質主義;materialism)的な世界観にどっぷりつかった多くの人にとっては、このような対決のエピソードも理解しにくい話に違いありません。

中学2年の夏(?)、「エクソシスト(The Exorcist)」という映画が公開されました。当時、私は千葉県の常磐線沿線に住んでおり、上野の映画館まで見に行った記憶があります。少女にとりついた悪霊と特別な訓練を受けたカトリックの神父が対決するという内容は、センセーショナルでした。今でも、いくつかの印象的なシーンとテーマ曲が記憶に焼きついています。

近代以降、欧米のプロテスタント教会から宣教師たちが世界各国に派遣された時、多くの場合、彼らは「未開の」宣教地の人々との世界観の違いに気がついたようです。啓蒙主義の時代から、欧米では、「科学(唯物論)的世界観」と「宗教(近代キリスト教)的世界観」との二分化が進んでいました。目に見える世界と目に見えない世界とが切り離され、キリスト教会もそのような考え方の影響を受けていたのです。

いわゆる「未開の」土地に行って、宣教師たちが発見したことは、そこでは目に見えない霊的な存在たちが、目に見える人々の生活に日々、影響を及ぼしていたことです。悪霊との戦いは、日常茶飯事でした。そのような状況下、宣教師のうちのある人々は、自分たちの世界観には、近代化の過程でどこか抜け落ちてしまった部分があるのではないか、と考え始めました。

私がかつてアメリカで学んだ神学大学院の教授、チャールズ(チャック)・クラフトは、その一人です。彼は何と、大学院で悪霊追い出しの選択クラスを教えていたのです。いわば、「エクソシストの基礎」です。(もちろん実際は、もっとアカデミックなタイトルです。)

そこでは他のクラスと同様、関連書籍を読み、聖書を精読し、講義を聞いて、レポートを提出しました。異なっていたのは、授業の中で、「悪霊追い出しの演習」があったこと。それは映画とは違い、ごく静かな実技訓練の場でした。

「悪霊追い出し(exorcism)」は、「解放(deliverance)」の働きと呼ばれます。悪い霊の影響に捕われていた人々が、創造主なる神の力によって自由にされ、解き放たれるからです。イエス・キリストが、すべての悪しき霊に勝利する権威を持ち、弟子たちにその力を授けて下さることを感謝します。

「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。」(マタイ8:16、新改訳第3版)

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2008年2月28日 (木)

いやし

20世紀の世界を覆った「聖霊の働き」の大波は、キリスト教界に、さまざまな反応を引き起こしました。(「大波」については、昨日のブログ参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_73d3.html

キリスト教界は、決して「金太郎飴」のようではありません。大きな変化の際に異なった見解が示され、聖書を土台として活発に議論が交わされることは、初代教会の時代からあることで、ある意味、健全な状態なのでしょう。成熟した議論の末、意見の一致に至ることができれば、なお素晴らしいですね。

20世紀初頭にペンテコステ運動が始まった時、肯定派と否定派の議論は、残念ながらいつまでも平行線で、折り合うことが困難だったようです。議論の中心は、クリスチャン以外の人にはほとんど理解されにくい、「異言」という話題でした。

「異言(tongues; glossolalia)」とは、普通の方法で習得したものではない、神様から特別に与えられる言語のことです。通常は、話す本人にも(もちろん周りにも)意味が分からず、個人的な祈りの言葉として用いられます。時には、集会の場で解釈が与えられ、神様からの直接的な語りかけ(「預言」)としての働きをすることもあります。(新約聖書・第一コリント14章参照)

運動開始から100年を過ぎた今、振り返ってみると、実は議論の中心とすべきは「異言」ではなく、「いやし」だったのではないかと私は感じています。実際、第二・第三の波である「カリスマ運動」や「力の働き」の運動を推進してきたリーダーたちは、次第に異言よりもいやしを強調してきたように思えます。

「いやし(神癒、divine healing)」とは、神様が特別な(奇跡的な)方法で病人を回復させること。ペンテコステ、カリスマ、そして「力の働き」の波が世界中を覆ったのは、「いやし」の働きを担う指導者たちが、活発な宣教活動を行なったことが一つの重要な要因ではないでしょうか。

アズサ・ストリートのリバイバルも、指導者のウィリアム・セイモア牧師の下、いやしが多く行なわれたようです。私たちの属するフォースクエア教団を創設したエイミー・センプル・マクファーソンも、いやしの伝道者でした。その他、オーラル・ロバーツ、キャサリン・クールマン、ベニー・ヒン、ラインハルト・ボンケ等も、神癒の働きのために用いられています。

その働きの真偽については、かなり論議の的となっている人たちもいます。しかし、「いやし」というのは、「異言」よりも一般の人にずっと分かりやすいため、今ここにある「神の国」の力を体験し、キリスト信仰に導かれる人たちも多く起こされてきました。奇跡的に病がいやされた本人が、喜びに満ちてその経緯を説明(証し)すると、聞く人も大いに励まされ、神様の素晴らしさをともに賛美することができます。

今もなお「いやし」の働きを通し、世界中の多くの人々が神様の愛にふれられ、イエス・キリストを信じる者とされていることを感謝します。

「わたしは(創造)主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26、新改訳第3版)

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2008年2月27日 (水)

しるしと不思議

「聖書時代と同じ奇跡を、現代でも体験することができる。神様は、今でも福音書や使徒行伝の時代と同じように働かれている。」このような信仰に基づいた大衆運動の大波が、20世紀、全世界のキリスト教会に押し寄せました。

最初の波は、20世紀初頭の「ペンテコステ運動」と呼ばれるもので、米国カンザス州トピーカの聖書学校から始まったリバイバル(信仰復興)運動です。この新たな動きは、ロサンゼルスに飛び火し、アズサ・ストリートを拠点とした大きなうねりとなっていきます。私たちの教会が属するフォースクエア教団も、このペンテコステ運動の中で生まれました。

(フォースクエアについては、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_268a.html

第二の波は、1960年代以降の「カリスマ運動」です。ペンテコステ派とは関わりがないと思われていた監督派教会(英国国教会系)の牧師が、聖書時代と同様の「聖霊体験」をしたと告白したところから始まりました。この運動は、教団教派を超え、監督派以外にも長老派、メソジスト、ルーテル、バプテスト、メノナイト、カトリック、正教会等に広がったそうです。

第三の波は、1980年代以降の「力の働き(パワー・ミニストリー)」です。「聖霊の第三の波」とも呼ばれ、聖書全体を神のことばと信じる福音派の教会の間に広がった運動です。90年代の「トロント・ブレッシング」というリニューアル(教会刷新)運動も、この流れの中から生まれ、全世界に大きな影響を与えてきました。

聖書の中で、奇跡は、「しるしと不思議(なわざ)」とも呼ばれています。それは、イエス・キリストこそが救い主であることを人々に伝えるため、神様が「しるし」として起こされる超自然的な(不思議な)出来事のことです。日本でも、これまで神様の奇跡を体験した人たちがいたようですが、残念ながら、国全体に大きなインパクトを与えるほどではなかったようですね。

多くの人々が、神様の愛による奇跡を体験し、救い主イエスを信じることができるよう願っています。

「主よ。…あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」(使徒4:29-30、新改訳第3版)

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2008年2月26日 (火)

奇跡

新約聖書(特に福音書や使徒の働き)を読むと、奇跡(奇蹟)の話についていけない人が多いかもしれません。イエス・キリストや弟子たちは、多くの病人を奇跡的に回復させ、悪霊を追い出しています。イエスは、石をパンにすることはなかったかもしれませんが、水をワインに変えています。死んだ人(ラザロ)をよみがえらせた後、十字架の上で死なれたキリストは、自分自身が復活するという奇跡を成し遂げられました。

奇跡はすべてあり得ないから、奇跡に関わるエピソードを無視し、ただ教訓や名言録として聖書を読もうとする人たちもいます。しかし、よく考えると、なぜ最初からあり得ないと決めつけることができるのでしょうか。人類の長い歴史の中で、人々の予想をまったくくつがえすような驚嘆すべき出来事は、おそらく数え切れないほど起こって来たに違いありません。そう考えれば、奇跡が起きる可能性も否定できないのではないでしょうか。

クリスチャンになる前に読んだ本に、あるクリスチャンの科学者の話が紹介されていました。「すべての自然法則を定められた神様が、時折、その自然法則を破られることがある。それが奇跡である」と、奇跡を信じるその科学者は主張していたようです。私は、この論理に妙に納得しました。

私たちは、すべての物事が科学の法則に従って動くものだと考えがちですが、将来も、その法則通りのことが100%起こり続けるかどうかは、保証の限りではありません。そして、想定外のことが起こった時、それをすべて科学で説明し尽くすことができるかどうかも、100%の保証はできないでしょう。人類には、今でも分からないことがたくさんあるのです。奇跡は絶対起こり得ないと、誰が言い切ることができるでしょうか。

キリストが奇跡を起こされたのは、自らが神のひとり子であることを証明し、世界中の人々に神の国のメッセージを伝えるためでした。多くの奇跡、特に十字架上の死と復活の奇跡を通して、今、信じる私たちが神の国の民とされ、神様の愛によって生かされていることを感謝します。

「イエスは答えて、彼らに言われた。『あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアト(重い皮膚病)に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。』」(マタイ11:4-6、新改訳第3版)

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2008年2月25日 (月)

いのちのパンによって生きる(ヨハネ6章)

Flower080224 「人はパンのみにて生くるにあらず」というのは、クリスチャン以外の人々にもよく知られている言葉です。ある人によると、日本では終戦直後の左翼知識人が、この言葉をよく引用したとのこと。唯物論を信じ、「宗教はアヘンだ」とする共産主義の人々が、聖書のことばを引用したというのは、何とも皮肉です。

もっとも左翼の人々は、この言葉に続けて、「共産主義社会を実現するという理想のために生きる」という主張をしたかったのでしょう。それは、聖書のメッセージとは、明らかに異なる方向性を持っていました。他の方々も、よくこの言葉を引用されますが、ほとんどの場合、もともとの意味とはまったく関係のない文脈で用いられるようです。

イエス・キリストは、救い主としての働き(公生涯)を始められる前、荒野で40日間の断食をしました。その直後にあった悪魔の誘惑の一つが、「お前が本当に神の子なら、この石をパンに変えてみろ」という挑戦的な言葉です。父なる神の意思と関わりなく、ただ自らの空腹を満たす目的のため、与えられているはずの超自然的な力を魔法のように用いてみろというサタンのささやきでした。

この誘惑に対するキリストの回答が、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」という旧約聖書からの引用だったのです。人間は神によって生かされている存在であり、すべての必要は神によって満たされる。そして、人としてのイエス・キリストも、父なる神が命じられなければ、石をパンに変える奇蹟を起こすことはしないという宣言でした。

実はこの言葉は、「悪魔の誘惑」の千数百年前、モーセを通してイスラエルの民に語られています。エジプトから脱出し、荒野の40年を過ごした後、約束の地を目の前にした人々に対して、モーセはその言葉を語りました。40年の放浪生活は、神様がすべての必要を満たして下さるのだということを人々が理解するための訓練だった。だから、ただ即物的に日々の糧を追い求める生活をせず、創造主なる神にいつも信頼し、神のことばに従って生きなさいというメッセージでした。

荒野の40年間、イスラエルの民が食べたのは、「天からのパン」と呼ばれたマナでした。このエピソードに基づき、イエス・キリストは、ご自身を「天からのまことのパン」と呼ばれています。天から下ってきて、世の人々に永遠のいのちを与える「いのちのパン」だと宣言されたのです。

イエス・キリストが誕生したベツレヘムの町名は、「パンの家」という意味がありました。そして、キリストは神のことばであると、ヨハネ福音書は語っています。すべての人を生かす神のことばは、天から「パンの家」にご降臨された「いのちのパン」だったのです。

キリストを信じるすべての人は、永遠のいのちが与えられ、神とともに生きる者とされていることを感謝します。

「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」(ヨハネ6:35、新改訳第3版)

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2008年2月22日 (金)

健やかなる時も病める時も

非常事態は、いつでも突然やって来ます。昨日は午後、空き時間ができそうだったので、雑用を片付けようかと思っていたら、お昼過ぎに長男の中学校から電話がありました。保健室の先生からで、長男が急に熱を出して休んでいるため、迎えに来てほしいとのこと。急いで長男の部屋のふとんを敷き、車で中学校に向かいました。

聞くと3時間目の前あたりから寒気がし始め、保健室では8度8分まで体温が上がったのだそうです。とりあえず休ませ、近くの内科で午後の診療が始まる3時頃に、病院に連れて行きました。予防接種を済ませていたため、インフルエンザではないだろうとは思いましたが、「陰性」という検査結果にとりあえずホッとします。

処方箋をもらって薬局に行くと、お昼にJR駅に送ったばかりの長女からメールが来ました。「夕飯前に帰るけど、具合が悪いから食べられないかも」とのこと。「具合が悪い?」と聞き返すと、「頭痛、腹痛、熱、吐き気」という返信です。バスで帰るということだったので、ひとまず家に戻った後、すぐ近くのバス停まで車を出しました。

バスから降りてきた長女は、ガタガタと震えています。朝から具合が悪かったのに、友だちと会うため無理して出かけたようです。本人が保険証をもっていたので、そのまま、また内科に直行しました。体温を測ると、9度3分あります。「この子は予防接種を受けていません」と私が告げると、医師は、私の顔と長男のカルテをちらちらと見つつ、怪訝な表情で「では先ず、インフルエンザの検査をしましょう」と言いました。

結局、長女も「陰性」でした。ただ、ウィルス性の重い風邪の場合もあるので、少し様子を見て下さいとのこと。家に帰って来ると、居間でテレビを視ていた次女が、服の襟を立て、マスクのようにして「警戒態勢」をとっています。目からもウィルスが入るかもしれないから、「ゴーグルはどこか」と聞いていました。(笑)いくら家族でも、ウィルスは分かち合いたくないですね。

結婚時の誓約には、「喜びの時も悲しみの時も、健やかなる時も病める時も、富む時にも貧しい時にも」という言葉が含まれています。順境の時にも逆境の時にも、時が良くても悪くても、どんな状況に陥ったとしても、結婚する相手を愛し、敬い、慰め、助けること、そして命の日の限り(死に至るまで)堅く節操を守ること(つまり、浮気をしないこと)を誓うのです。

「健やかなる時も病める時も」愛し、助け続けるという約束は、配偶者のみならず、子どもたちにも適用されそうですね。神様が、弱っている人を支え、病をいやしてくださることを感謝します。

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。(創造)主はわざわいの日にその人を助け出される。…主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」(詩篇41:1&3、新改訳第3版)

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2008年2月21日 (木)

幸せ

高1の頃、「青春時代」という歌が流行りました。森田公一とトップギャランだったでしょうか。「青春時代が夢なんて あとからほのぼの想うもの 青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり」というフレーズが印象的でした。今から「想えば」、高校や大学、そしてその後の「塾」の頃は、確かに「道に迷って」ばかりだったようです。

結婚相手の条件にしても、家族の牧師になろうと思ったことにしても、今だから頭の中を整理してお話しすることができますが、まさにその「真ん中」にいる時は、手探り状態です。数々の(?)失敗を重ね、痛い思いもしました。自分だけでなく、人を傷つけたりもしました。「被害」をこうむった方々には、たいへん申し訳なく思っています。

ようやく結婚相手の候補を見つけ、プロポーズの段になりましたが、私には決して言えない言葉がありました。最近は、プロポーズをしないで結婚する人が多いようで、それはそれで私には驚きです。なんとなく雰囲気で結婚して、その後、重要なことをうまく話し合い、折り合いをつけて行けるのだろうかと、ちょっと心配になりますね。オジサンの余計なお世話かもしれませんが。(笑)

私は、はっきりとプロポーズはしました。しかし、そこで決して言わなかったのは、「幸せにする」という言葉だったのです。

「幸せとは何か」ということを、大学に入った頃からずっと考えていました。いろいろと本を読みました。人の話に耳を傾けました。答えが見つからず、自殺を考えたこともありました。幸せに生きていけないなら、生きる意味がないように思えたからです。そしてとうとう聖書を通し、人間にとっての幸せは、創造主なる神様に愛されていることを知り、その愛の中を歩んでいくことだという結論に至ったのです。

とすれば、幸せにして下さるのは神様で、その幸せを受け取るのは本人です。いくら周りの人が愛をもって接したとしても、本人がその気持ちを受け取らなかったとしたら、幸せだとは感じないでしょう。「幸せにする」という約束は、神様の領域を侵すようで、私にはあまりに大それた言葉のように思えました。「二人で幸せになろう」とも言えませんでした。信仰が弱く、神様の愛の中をいつまでも一緒に歩み続ける自信がなかったのかもしれません。(苦笑)

それでも、「結婚してほしい」と伝え、色よい返事をもらえたことは感謝です。青春時代も、もう終わりに差しかかっていました。聖書のことばにより「迷い道」から救い出され、創造主なる神様に教えられつつ最善の道を歩んで行けるのは、真に幸いなことですね。

「幸いなことよ。全き道を行く人々、(創造)主のみおしえによって歩む人々。」(詩篇119:1、新改訳第3版)

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2008年2月20日 (水)

「家の教会」の牧師

昨日のブログで「三つのC」のことを書いていたら、結婚前に自分が抱いていた「家庭のイメージ」を思い出しました。私は牧師になろうと思っていましたが、教会全体の牧師になる前に、家族の牧師になろうと考えていたのです。

聖書は、夫(そして父親)が、家庭の霊的なリーダーだと教えています。この場合、霊的リーダーとは神様に従い、家族のためにいつも祈り、その霊的状態に心を配り、一人ひとりの人格的成長のために手を差し伸べる人のこと。それは、ほぼ牧師の仕事と同じです。夫や父親は、「家の教会」の牧師なのです。

夫が牧師なら、妻は「家の教会」の「牧師夫人」になります。クリスチャン同士の結婚が、二人で新しい教会を立ち上げるようなものだとすると、プロポーズは、新しい教会のリーダーシップ・チームを作るため、メンバーをリクルートする行為になりますね。そこで大切なポイントが「三つのC」、つまり「品性(Character)」、「能力(Competence)」、「相性(Chemistry)」になるのは、当然の帰結と言えるでしょう。

「家の教会」の牧師の役割は、「牧師夫人」との良きチームワークをもとに愛に満ちた家庭を築き、その中で「子どもたち」を霊的に訓練し、新たな「家の教会」形成のために送り出す(巣立たせ独立させる)ことです。「子どもたち」は、実の子の場合も、法的な養子の場合も、「霊の子」(つまり霊的な「弟子」)の場合もあるでしょう。このようにすれば、次世代の「家の教会」を開拓し、クリスチャン・ホームのネットワークが広がっていくはずです。

家庭が簡単に崩壊する時代です。多くの人が神様の愛を土台とし、祝福に満ちた家庭を築いていってほしいですね。初代教会の時代も、人々は宮(エルサレム神殿)で礼拝する以外に、家庭での小さく、密度の濃い集まりを大切にしたようです。

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」(使徒2:46-47、新改訳第3版)

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2008年2月19日 (火)

結婚相手の条件

先日のバレンタイン・デーの前後、夕食時に子どもたちから、「なぜ(彼らの)お母さんを結婚相手として考えたか」と質問されました。男性側の視点ですから、特に長男に関心があったのかもしれません。突然の質問でしたが、もう20年以上も前のことを、少しずつ思い出しながら話しました。

最初に思い出した条件は、「私の母と仲良くしてくれそうな人」です。私の母は、嫁・姑の関係で苦労した人で、子どもの頃からそういった話を聞かされていました。父は嫁と姑の間にはさまれ、「嫁」の願うようには必ずしも行動しなかったようです。私自身、将来、両者の間にはさまれるのは嫌でしたし、姑と嫁の両方が不快な思いを抱くのを見るのも嫌だったのです。「わが家の長男には、姉と妹という『小姑』もいるんだよ」と言うと、長男は、「そんなのカンケーねぇ」と言っていました。(笑)

次に思い出した条件は、「同性(この場合は女性)の間で評判の悪くない人」です。男性は、どうしても女性の評価が甘くなり、「アバタもえくぼ」になりがちです。女性の方が、どちらかと言うと、他の女性を冷静に見ているようです。相手の女性が普段、どのような女性たちに囲まれていて、その人たちからどのように評価されているのか、という情報は、その人の人となりを判断する上で、たいへん参考になります。この条件は確か、若い頃、何かに書いてあったのを読んだのだと思います。

そして、私たちはクリスチャンですから、もちろん、「クリスチャンであること」という条件がつきます。これは、クリスチャン以外の人には分かりにくいかもしれませんが、クリスチャンにとっては重要な条件です。クリスチャンは、イエス・キリストの人格に近づくことを目標にして生きようとしています。そうでない人といつも一緒に暮らし、一つの家庭を築いていくのは、至難のわざと言えるからです。私の場合は特に、牧師になるつもりでしたから、牧師夫人がクリスチャンであることは必須条件でした。

ここまで話して、食事が終わってしまい、皆が席を立ち始めました。父親の話は、くどくて面白くなかったのかもしれません。(笑)しかし、座がお開きになった後、もう一つの条件を思い起こしました。それは、「二人でいい家庭を作れそうか」という大切な条件です。自分と相手の仕事と家事・育児の役割分担がどのようになり、将来、どのような家庭をイメージできるか、ということですね。二人のビジョンが、まったく別なものであったとしたら、結婚生活はうまくいきません。

その後、風呂に入りながら、最近読んでいるリーダーシップの本の内容を思い出しました。著者のビル・ハイベルズという牧師によると、彼の教会でリーダーシップ・チームを結成するメンバーの選出条件は、「三つのC」なのだそうです。第一は「品性(Character)」、第二は「能力(Competence)」、第三は「相性(Chemistry)」とのこと。なんだか結婚相手の条件とよく似ているな、と思いつつ、湯船につかっていました。

神様は、子どもたちに祝福の将来を計画されていると信じますが、私たちも、子どもたちがいつか良い結婚相手とめぐり合うよう、祈っていかなければなりませんね。神様が私に対して、最善の結婚相手を備えて下さっていたことを感謝します。

「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。」(箴言18:22、新改訳第3版)

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2008年2月18日 (月)

神の愛を知る(ヨハネ5章)

Flower080217 アメリカにいた頃、牧師やスタッフが休暇をとることは、ごく当たり前の話でした。スタッフは交代でちょこちょこ休みをとっては、家族で旅行に出かけます。主任牧師も、1~2ヶ月の夏休みをとり、礼拝ではゲストスピーカーや協力牧師がメッセージをしていました。秋からクリスマスの繁忙期に向け、静かな祈りの時をもち、心の準備をするという意味もあったのでしょう。

帰国後は道南に住んだため、夏に家族そろって札幌に行き、毎年少しずつ大きくなる子どもたちを、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに引き合わせるのが恒例となりました。子どもの成長とともに、札幌以外にも立ち寄るようになり、年毎に小樽を訪問し、富良野を訪れ、帯広に足を伸ばし、そして支笏湖を皮切りにキャンプをするようになりました。日常の雑事から解放されてリフレッシュし、また家族の絆を強める良い機会にもなったと思います。

何年か前、ある日本人クリスチャンの集まりで、わが家のサマー・キャンプの話をしたことがあります。数日間の夏休みをとれた感謝の報告だったのですが、その場にいたある人から、批判的なコメントをいただきました。「私のところは、夏休みなどありません。日曜も祝日も、もちろんその他の日も、すべて神様のために働いています」というお話でした。そう言われれば、こちらは「怠惰な牧師でスミマセン」としか答えられません。(笑)

その後、別な機会に、あるドイツ人宣教師から夏休みのことを聞かれたので、1週間ほど休みをとって家族旅行をすると言いました。するとその宣教師から返ってきたメールは、驚くべきものでした。「たった1週間しか休みをとらないのか。日本人は働きすぎだ。牧師が休暇を十分にとる模範を示さないで、どうするのか」という内容だったのです。そう言われると、今度は「模範になれなくてスミマセン」ですね。(笑)

私自身は怠け者なので、休めるものならいくらでも休みたいくらいです。(笑)しかし、家族と教会の状況を考えれば、1週間(実はせいぜい5日か6日)の夏季休暇が、これまでの妥当な線でした。そして、毎年それだけの休暇がとれたことを感謝しています。

「休まなければならない」も「休んではならない」も、行き過ぎると律法主義に陥ります。律法主義とは、形を重んじ、心を軽んじる生き方です。「安息日を守りなさい」という律法は、本来は人が体を休め、心を静め、神様の恵みを感謝するための教えでした。しかし、それをただ形式的に守ろうとすると、人間の努力や作法をはるかに超えた、神様の愛を理解することができなくなってしまいます。

イエス・キリストが、安息日にベテスダの池で歩けない人をいやされた時、ユダヤ人たちは安息日に床を片付けた(つまり、働いた)と言って非難しました。しかし、安息日の教えを厳格に守っている人も、守っていない人も、神様は同じように愛しておられます。律法学者やパリサイ人のように「勝ち組」となり、社会で尊敬されていた人たちも、律法主義についていけず、落ちこぼれて「負け組」となり、人々から見下されていた人たちも、神様は永遠の愛をもって同様にいつくしんでおられるのです。そして、その愛はもちろん、安息日にも豊かに注がれています。

38年も床に臥せっていた人は、しっかり「負け組根性」を身に付けていました。回復が得られないことを、人のせいにしていたのです。しかし、ベテスダでキリストと出会い、その言葉に従って歩き始めた時、この人の人生に転機が訪れました。自らの足で立ち、奇跡的にいやして下さった神様の愛を知り、新しい人生を歩むようになったのです。

ベテスダとは、「慈悲の家」という意味だそうです。私たちも神様のいつくしみを知り、その愛に支えられて、一歩一歩歩んでいきたいですね。時には、休みをとることも大切です。(笑)

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ5:8-9、新改訳第3版)

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2008年2月15日 (金)

バレンタイン・チョコ

Img_12461 昨日のバレンタイン・デーは、家族でチョコを食べまくりました。(笑)妻と長女は、朝からトリュフ作り、午後に帰って来た次女は、学校から「友チョコ」を持って帰り、その後は3人で、密かにミルクレープの製作(&つまみ食い?)にいそしんでいたようです。長男が部活から帰って夕食をともに食べた後は、チョコレートのオンパレードでした。うちのは「本命」でも「義理」でも、ただ「自分」だけでもなく、「家族チョコ」ですね。

日本のバレンタイン・チョコの由来は、1936年のモロゾフの英字新聞広告が最初らしいのですが、チョコレートのバレンタイン・セールが始まったは1958年で、メリーチョコレートカムパニーが仕掛けたとのこと。確かにメリーチョコレートのサイトに行くと、「メリーのバレンタインは50周年を迎えました」とのメッセージがあります。

昨年1月のライブドア・ニュース(http://news.livedoor.com/article/detail/2993583/)によると、若き日のメリー社社長が、映画「誰が為に鐘は鳴る」のイングリッド・バーグマンの告白シーンに感動し、それがキャンペーンを始めるそもそもの発端になったとか。当時の日本の「シャイ」な女性でも、「バレンタイン・デー」なら男性にチョコレートを贈り、愛を告白できるのではないかと考えたそうです。

私の周りでバレンタイン・チョコの話題が始まったのは、よく覚えていませんが、中学生くらいの頃だったでしょうか。それからもう30年以上経ち、「義理」や「家族」の分を含めると、きっとこれまで膨大な量のチョコレートを食べてきたのでしょう。すっかりお菓子屋さんの術策に、はまっているような気がします。(笑)

イエス・キリストは、私たちに愛を伝えるため、チョコレートは下さいませんでした。しかし、私たちのため、いのちを捨てて下さったのです。十字架は当時、処刑場でしたが、今は私たちに対する、神様の愛のしるしとなっています。来年の「家族チョコ」や「教会チョコ」は、ひょっとしたら十字架の形のチョコレートがいいかもしれませんね。(笑)

イエス・キリストが十字架の上で私たちにして下さった、永遠の愛の告白を感謝します。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13、新改訳第3版)

(写真は、ハート型のミルクレープ)

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2008年2月14日 (木)

Sweetヴァレンタインズ・デー

Img_12271 先週金曜日は、小中学生向けの集会で、バレンタインのスウィーツ作りをしました。妻が名づけた今回のイベント・タイトルは、「Sweetヴァレンタインズ・デー」。もちろん、私は共同製作には参加せず、スウィーツを作ったのはもっぱら女性陣です。夕食も一緒に食べましたので、私も途中から集まりに加わりましたが、何となく場違いな感じがして、小さくなっていました。(笑)

作品は、定番のトリュフと初登場のココア・ミルクレープ。お手伝いの女性の一人は、自作のココア・シフォンケーキも持って来てくれました。カレーライスを食べた後、デザートを堪能し、たっぷりとカロリーを摂取しました。(笑)出来上がったものはみな美味しかったですが、初めて食べたミルクレープは、特にクセになりそうな味わいでした。

トリュフにふりかけた抹茶が余ると、支援部隊の主婦二人が、捨てるのはもったいないから、お茶をたてて飲むと言います。教会堂には何も道具がないから、どうするのかと思っていると、一人がどんぶりに抹茶を集め、お湯を注ぎ、泡だて器でかき混ぜ始めました。(笑)思ったようには泡立ちませんでしたが、略式のお茶席の気分は味わったようです。

集会の最後に、バレンタイン・デーの起源を短くお話しし(起源については、こちら参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_0529.html)、聖書の中で「愛の章」と呼ばれる、第一コリント13章の有名な一節を皆で読みました。この言葉は、結婚式では必ず朗読されますと言うと、女の子たちは興味津々の様子でした。

聖書が教える「愛」は、ただ好きだとか嫌いだとか言う話ではなく、本当に相手のためになることをする行為なんだよ、と私が言うと、ちょっと意外だという表情が見て取れました。ひょっとして思いを寄せている男の子に、チョコレートを上げようと思っていたのでしょうか。聖書の「愛」には、言うまでもなく、チョコレート以上の深い意味があります。

神様が永遠の愛をもって私たちを愛し、聖書を通して、真の愛とは何かを教えて下さっていることを感謝します。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(1コリント13:4-8、新改訳第3版)

(写真は、ココア・ミルクレープ)

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2008年2月13日 (水)

嵐の日

今日は、京都にいる長女が帰ってくる日でした。1月から予定を決め、航空券を予約していましたが、数日前から「暴風雪」という予報が出ます。その後、「暴風雪」は木曜日にずれ込んだようですが、それでも水曜日の函館の天気は雪で、風速10メートルという予報でした。

関西空港に着いた長女からのメールでは、函館の天候によっては、千歳に向かうか関空に引き返すとのこと。千歳に着いたらJRでこちらに向かうことになるでしょうが、関空に引き返した場合はホテル宿泊だろうか、と予想しました。空港から長女のマンションまでは、かなり距離があり、なおかつ着替え等の荷物は、すでにこちらに発送したはずだからです。

そこで、関空周辺でまだ空室のある安価なホテルをいくつか探し、メボシをつけてから、パソコン持参で函館空港に向かいました。空港では無線LANが使えそうなので、いざとなったらそこで宿泊予約を入れようと考えたのです。ネットにつながらない場合も想定して、念のためホテル情報をプリントまでして持って行きました。

七飯では昼くらいまで、ちらちらと雪が舞う程度だったのですが、昼食後、空港に向かうと、途中で前方の見通しがきかない、吹雪のような状態になります。これでは到着できないかも、という思いが、心をよぎりました。そこで思い出したのが、イエス・キリストがガリラヤ湖の嵐を静めたエピソードです。もうこれは祈るしかないと思い、風雪がおさまるよう、車の中で祈り続けました。

到着ロビーに着くと、定刻の10分遅れで到着予定になっています。ほどなく飛行機は到着し、無事に長女が降りてきました。本日の丘珠便はすべて欠航、旭川便とその後の関空便は千歳へ向かい、羽田便は引き返したようです。予定が狂った方々はお気の毒でしたが、長女はなんとか帰ってくることができ、感謝しました。

飛行機はかなり揺れ、長女は少し酔ったそうです。「函館の天候は雪」と案内があると、「ゆき~?」という反応があり、「気温はマイナス6度」とのアナウンスには、「アカンやろ~」という声が聞こえたとのこと。関西便は、私がよく乗る東京便とは反応が一味違って、面白いですね。

後から聞くと、長女はまったく「非常時」を想定せず、ただ函館に到着するものだと思っていたそうです。長女の方が、「信仰」があったのかな?(笑)

私たちには、時に、「人生の嵐」と言えるような日があります。しかし、たとえそのような危機的状況に陥ることがあったとしても、イエス様がいつも私たちの歩みを支え、嵐を静めてさえも下さることを感謝します。

「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』

イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。 人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(マタイ8:23-27、新改訳第3版)

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2008年2月12日 (火)

プライベート・レッスン

昨日は、家族でスキー場に行って来ました。毎年、恒例になっている冬のイベントです。以前は、教会や近所の子どもたちを連れて行ったこともありましたが、最近は諸般の事情で参加者が減り、昨日はとうとう、うちの家族4人だけでした。

他の子どもたちも連れて行くと、いろいろ気を遣いますが、家族だけならどうにでも都合がつきます。今回、妻はまったく滑らず温泉に行きたい、中2の長男は初めてスノーボードをやるから教えてくれ、小6の次女はスキーを滑ってから母と一緒に温泉だと、それぞれ希望が違いました。家庭サービスにつとめる私がすべきことは、他の人のやりたいことに合わせて、決まることになります。(苦笑)

実はこの日の準備は、普段、運動不足気味の私自身のコンディション調整から始まります。いきなり家族連れでスキー場に行くと体がもたないので、2週間前と1週間前に一回ずつ、まず一人でスノボを滑りに行きました。シーズン初めはいつもハードですが、今年は特に、腰回りの筋肉がパンパンに張りました。(笑)

奥にしまい込んでいたスキー用品を出し、去年よりも大きくなった子どもたちに合うウェアとシューズがあるかどうか確認し、ビンディング(金具)を調整し、スキーにワックスをかけます。スノーボード用品は私の分しかないので、まだ成長途上の長男の分は、レンタルすることにしました。

午前の部は、まずゲレンデの一番下でボードを装着し、転び方や移動の仕方を練習します。そして、斜面を少し上って、横滑りや「木の葉落とし」の練習をしました。その後、ターンを試みますが、やはりなかなか難しく、簡単にはできません。隣でスキーの練習をしていた次女がリフトに一緒に乗ってほしいと言うので、長男には注意すべきポイントを伝え、一人で練習させました。

昼食後、弁当&写真係だった妻と次女は温泉です。長男は今度はリフトに乗ると言うので、私は温泉に後ろ髪を引かれながらも、長男について行きました。横滑りと木の葉落としが中心でしたが、何度かリフトに乗るうち、時折、小さなターンができるようになりました。ここまで来れば、後は場をこなすだけです。「コーチ」としては、ホッとしました。

3人の子どもたちには、スキーを教え、自転車の乗り方を教え、パソコンの基礎も教えて来ました。今回、長男にスノボを教えられたのも神様の恵みでしたね。これが本当の「プライベート・レッスン」でしょうか。親子でリフトに乗るのも、親としては嬉しいものです。

イエス・キリストを信じる人は、神の子どもとされています。父なる神様は、私たちのためにいつも「プライベート・レッスン」の時間を設け、「子どもたち」がどのように生きるべきかを教えて下さいます。私たちがその教えに従って生きようとする時、神様も喜んでおられるのでしょうね。天の父を喜ばせるような生き方をしていきたいものです。

「私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。」(詩篇119:102、新改訳第3版)

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2008年2月11日 (月)

真の礼拝者として生きる(ヨハネ4章)

Flower080210 イエス・キリストとの出会いは、人の生き方を一変させます。ヨハネ福音書4章に記される「サマリヤの女」も、まさに人生が一変した一人でした。

この女性には、過去がありました。結婚と離婚を5回繰り返し、さらに6人目の男性と同棲中だったのです。町でも、「あばずれ」として悪名高かったのでしょう。普通の人が水を汲みに来ない正午頃、人目を避けるようにして井戸にやって来ました。その場所で、まったく思いもかけない人物との出会いが用意されていたのです。

イエス・キリストがこの女性に水を求めた時、「サマリヤの女」は、不思議に思ったようです。町の嫌われ者だったこの女性は、人々から、もうしばらく声をかけられたことがなかったかもしれません。それだけではありませんでした。この声をかけた人物は、どう見ても、ユダヤ人だったのです。

純血を尊ぶユダヤ人は、すぐ隣に住む混血のサマリヤ人を嫌い、関わりを持とうとはしませんでした。どうしてこのユダヤ人は、サマリヤ人である自分に声をかけてきたのだろうか、疑問に思った女性は、ちょっと聞いてみることにします。それが新しい人生の始まりになるとは、思いもせずに…。

「サマリヤの女」は、見ず知らずの人物との井戸端での対話を通して、この人物が待ち望んでいた救い主であることを知り、町の人々に堂々とそれを知らせに行きます。過去に捕われ、人目を忍んで生きていた女性には、キリストの証人としての新しい生き方が与えられたのです。神様が約束されている将来に新たな希望を持ち、現在の男性との関係も、きちんとしたものにしていったに違いありません。

イエス・キリストがこの女性に教えたのは、礼拝者としての生き方でした。礼拝とは、形ではありません。場所が重要なわけでもありません。一番大切なのは、心です。「霊とまことによって」とは、心から誠実な思いをもって、ということです。それは、全身全霊をもって、創造主なる神様を愛する生き方と言い換えることもできます。

イエス様がサマリヤの女に教えられた通り、私たちも「真の礼拝者」として生きて行きたいですね。神様が、私たちの人生をも一変させて下さることを感謝します。私たちの生き方を通して、神様への愛をあらわして行く時、神様もそれを喜んでいて下さいます。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24、新改訳第3版)

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2008年2月 8日 (金)

死後の行き先

義父の葬儀の際、「キリスト教式は、もっと簡単なんでしょう?」と親族の方から何度も聞かれました。確かに教会の葬儀では、線香も上げず、供物をそなえることもなく、念仏を唱えることもありません。故人を通して創造主なる神様から受けた恩恵を感謝しつつ、賛美歌を歌い、聖書を朗読し、思い出を分かち合い、地上に残った人々のために牧師が慰めと希望のメッセージを語ります。告別の思いをこめて、最後に献花をする場合もあります。

そして、その他は、特に定められた「儀式」はありません。死後の行き先は、本人の生前の信仰と生き様に基づいてすでに決定されている、という考え方ですから、遺族がする追善供養にまったく意味はないのです。死者の霊がその辺をさまよっていて、浄化しなければたたりがある、あるいは成仏させなければ可愛そうだ、という信仰も、聖書とは相容れない考え方です。創造主なる神様がすでにすべてを取り計らっておられますから、死者が無事に天国にたどり着けるよう祈ることもしません。天国か地獄かは、神様と本人との間で決定済みのことだからです。

もちろん、遺族の要望に応じて、納骨式や何周年かの記念会等を行うことはあります。仏壇に線香を上げず、墓参りに熱心でないから、クリスチャンは先祖を大切にしない、などと批判されることはあります。しかし、聖書で繰り返し教えられていることは、形ではなく心だという原則です。たとえ仏壇や位牌やお墓に手を合わせる形をとらなかったとしても、心の中で祖先を思い起こし、立派な生き方をした人々を心に留め、その模範にならおうとする姿勢の方が大切ではないでしょうか。

イエス・キリストを信じる人は、誰でも地獄における永遠の死から解放され、天国に迎えられています。キリストによって救われた「先祖たち」とは、そこで再会する希望がクリスチャンには与えられています。どんな人たちと会えるか、今から楽しみですね。主イエスが私たちを、地獄と死から救って下さったことを感謝します。

「主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。」(詩篇102:19-20、新改訳第3版)

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2008年2月 7日 (木)

ホトケとカミ

「仏陀(仏)」の定義が、もし「真理に目覚めた人」であるなら、聖書の真理に目覚めたクリスチャンは、はたして「仏陀」と呼べるのでしょうか。(笑)そう呼ぶ人は、いないでしょうね。「仏陀」という呼称は、仏教の歴史の中で、次第に異なった意味合いを持つようになってきたようです。

出家と修行の後、悟りを開いて仏陀となった釈迦は、その死(入滅)後、神格化されるようになりました。地上において80年の生涯を生きた「歴史的仏陀」は、「永遠の仏陀」が衆生を救済するため、この世に姿を現したという思想が、大乗運動の中で生まれます。これは、まさに聖書が記すキリストの姿とそっくりです。ここにも、クリスチャンの宣教活動が大乗仏教に影響を与えた可能性を見ることができそうですね。

大乗仏教は、その教勢を広げるに伴い、多神教的なインドや中国のさまざまな神々を教えの中に取り込み、「諸仏」として崇拝するようになったようです。如来(阿弥陀、薬師、大日など)、菩薩(弥勒、観音、地蔵など)、明王(不動、孔雀など)、天(帝釈天、梵天、弁天など)等の超越的存在は、大乗仏教のシンクレティズム(折衷主義)的な性格を通して、教えの中に吸収され、信仰されるようになったのでしょう。

これらの超越的存在を広い意味で「仏(ホトケ)」と呼ぶなら、それは日本語の「カミ」とほぼ同義語かもしれません。「カミ」とは、もともと「人々の上にあり、特別な力を持ち、崇拝あるいは畏怖される存在」を意味したようです。とすると、上述した外来の「ホトケ」はすべて、「カミ」と言い換えることができるでしょう。

「ホトケ」と「カミ」は同じだとする考え方もシンクレティズムですが、日本では特に「神仏習合」と呼ばれています。奈良・平安時代には、日本の八百万の神々は諸仏の化身だとする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が生まれ、鎌倉時代には、逆に諸仏が神々の化身だとする「神本仏迹説」が主張されました。明治以降、神仏分離の動きがありましたが、唯物論的思考が支配的な現在でも、「カミ」や「ホトケ」をあまり区別せず崇拝する日本人は、多いのではないでしょうか。

聖書は、創造主以外の存在は、すべて「被造物」であると記しています。自然も、人間も、「諸霊」も、すべて創造主が造られました。釈迦も、「諸仏」や「八百万の神々」として崇拝される霊的存在(あるいはその背後にある霊たち)も、もともとは、すべての上に君臨し、絶対的な権威を持つ創造主なる神のみ手による被造物なのです。

創造主なる神様は、被造物を拝むことを禁じています。それらは真の神ではなく、それら「偶像」を拝む行為は、真の神への真実な思いを失わせる結果になるからです。イエス・キリストを通して、創造主の愛を知り、このお方だけをただひたむきに愛する者とされていることを感謝します。

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」(出エジプト20:3-5、新改訳第3版)

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2008年2月 6日 (水)

禅宗

クリスチャンになる前、鎌倉にある円覚寺の座禅会に参加したことがあります。20数年前、私が所属していた「塾」では、日本と日本文化を学ぶことを目的とした研修がいくつかありましたが、その一つが座禅研修でした。普段は、塾内で座禅を組む時間があり、お坊さんが指導に来られていました。そして年一回、円覚寺に「宿泊研修」に行ったのです。

私は大学の頃、少々、禅仏教に関心をもって、鈴木大拙の著作を拾い読みしていたこともありましたが、実際に座禅を組むのは初めてでした。般若心経を暗記し、足の痛みと眠たさをこらえつつ座禅を組み、警策(きょうさく)と呼ばれる棒で背中をしっかり叩かれました。泊り込みの研修では、一汁一菜のシンプルな精進料理をいただき、早朝から座禅を組み、掃除をしたように記憶しています。

「公案」と呼ばれる対話や瞑想、そして掃除等の修行を通して、悟りを開こうとする禅仏教のあり方は、釈迦が最初に教えた仏教に近いように私には思えました。そして、過去仏や未来仏、あるいは如来、菩薩、明王、天(梵天、帝釈天、弁天など)といった超越的存在を想定せず、ひたすら自らの悟りを求めるという姿勢は、他の仏教の宗派よりも理解しやすいように感じました。

ただ、私自身は当時、すでに創造主なる神の存在を信じていました。そして、その神様から与えられていた「公案」は、「創造主とイエス・キリストとの関係は何か」という問題だったのです。

聖書を読み進み、キリストは神のひとり子であり、創造主なる神ご自身だということを「悟った」時、私は洗礼を受け、クリスチャンになる決心をしました。神様が、真の「悟り」を与えて下さり、その悟りに至る「道」を人々に伝える者として下さったことを感謝します。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8、新改訳第3版)

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2008年2月 5日 (火)

日蓮宗

以前、インド宣教が阿弥陀信仰に影響を与えた可能性について、記したことがあります。(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_bc2c.html

新仏教としての大乗運動がインドで始まったのは、一説によると紀元前後だそうです。紀元1世紀から世界中に広がっていったキリスト教会による宣教運動が、インドにおける新仏教運動に何らかの影響を与えていた可能性は、あながち否定できないのではないでしょうか。

大乗運動の中でまとめられた経典の中には、浄土三部経以外に般若経、華厳経、法華経、涅槃経などがあります。中でも法華経は、「諸経の王」とも言われ、多くの人々の信仰を集めて来たとのこと。聖徳太子は法華経を講じ、平安時代、日本に天台宗を伝えた最澄(伝教大師)は、法華経を至上の教えとしたそうです。

鎌倉時代に日蓮によって始められた日蓮宗は、この法華経を信仰の土台としました。どんな人にも、「仏性(ぶっしょう、仏陀となりうる性質)」が備わっており、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えさえすれば、その仏性が現れ出ると、日蓮は主張したのです。「南無」とは「私は帰依します」という意味、「妙法」とは正しい教え、「蓮華経」は法華経の経典のことですから、この題目は、「私は正しい教えである法華経の経典を信じます」という信仰告白になります。

聖書には、すべての人が「神のかたち」に造られたと記されています。そして、イエス・キリストを信じる人は、主なる神と「同じかたち」に、姿が変えられていくとも書かれています。「私は聖書を信じます」という信仰告白は、仏教風に言うと、「南無妙法聖書」になるのでしょうか。信仰の構造としては、似ている部分がありますね。

ただ、キリスト教では題目を唱えるだけでなく、聖書を読むこと(「おしえ」)、神に祈ること(「おはなし」)、そして愛に基づいた生き方をすること(「おこない」)が、信仰者として成長し、キリストの姿に近づく上で不可欠だと教えています。(ちなみに私は、これを「三つの“お”」と呼んでいます。)そしてもちろん、キリストは仏陀ではありません。私たちを神の国に招待しておられる、すべてを造られた創造主なる神なのです。

神から離れ、「神のかたち」を失いつつあったかつての「古い自分」は、キリストによって日々新しくされ、本来のあるべき姿に回復されつつあります。聖書とキリストを信じる人は誰でも、限りない愛に満ちた神の似姿に変えられ、永遠の神の国に集う者とされていることを感謝します。

「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:9-10、新改訳第3版)

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2008年2月 4日 (月)

新しい人生を生きる(ヨハネ3章)

Flower080203 メール全盛時代、「ラブ・レター」という言葉は死語になりつつあるのかと思いきや、案外そうでもないようです。小学生の次女に聞くと、携帯もパソコンも使わない相手には、以前、手紙を渡す子がいたとのこと。昔と変わらず、「本人に手渡し」というのが一番確実な方法のようですね。

聖書は、神様からのラブ・レターだと言われています。創造主なる神様は、私たち一人ひとりにその愛を伝えるため、特定の使者を選び、メッセージを託されました。長い間、書き綴られた愛の言葉が、一つの「本」としてまとめられたのが、聖書です。聖書は本来、「宗教書」でも、「経典」でも、「学術書」でもありません。全世界の人々に対して、神様がその心の思いをしたためられた、長い長いラブ・レターなのです。

ラブ・レターというのは、そのメッセージを受け取った人が信じなければ、意味を成しません。書かれている内容は嘘だとか、書いたのは差出人本人ではないとか、誰かが自分を騙すために書いたのだとか、自分に宛てて書かれたのではないとか、あるいは読んでも文字通り受け取れないとか、信じない理由は、いくらでも思い浮かびます。

難しい学術研究の対象にしたり、意味不明でもただ有難く唱えてみたり、あるいは科学万能の現代には通用しない、時代遅れのアヤシイ書物だという先入観をもって読んだとしても、そこに記される愛のメッセージは、読み手にまったく伝わらないでしょう。それは、ラブ・レターの正しい読み方ではないからです。

しかし、もしこの世界最大のラブ・レターのメッセージを信じ、受け取ることができるなら、その人の人生には新しい「神の国の視界」が開けます。自分は孤独な意味のない人間ではなく、神様が綿密な愛の計画をもって造られた、大切な存在なのだということを知ることができます。そして、それまでとはまったく違った新しい生き方、永遠の神の国へ至る人生を歩むことができるのです。

創造主なる神様がラブ・レターの言葉を信じる私たちに、神の国における新しいいのちを与えて下さり、新しい人生を歩む者として下さったことを感謝します。

「イエスは…言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」(ヨハネ3:3、新改訳第3版)

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2008年2月 1日 (金)

シンクレティズム

私が仏式の葬儀に深く関わったのは、今回が初めてです。周りの人々が「常識」としてとる行動、そしてその背景にある考え方は、普段、キリスト教会の全く異なった「常識」の中に生きる私にとって実に珍しく、「日本文化」の勉強になりました。

仏教はよく知られているように、紀元前5世紀頃、古代インドに生まれたゴータマ・シッダッタから始まりました。人生に悩み、出家して瞑想と苦行の末に悟りを開き、「解脱(げだつ」して「仏陀(仏)」となった、つまり「成仏した」そうです。「仏」というのは、「目覚めた者」という意味とのこと。この「釈尊」につき従い、釈尊と同じように悟りを開いて「仏」になりたいと思った人たちが弟子となり、教団を形成し、経典を整えてきました。

悟りを開いた人が「仏」ですから、本来、仏になるのは生きているうちの話です。死んでからでは、瞑想も苦行もできません。そして、悟りを開いて仏になるかどうかは、自分自身の心掛けにかかっているはずです。他人がいくら修行したとしても、本人に全くその思いがないのであれば、その人は「目覚めた者」にはなれないはずです。「南無妙法蓮華教」と唱えたり、あるいは他力本願で「南無阿弥陀仏」と唱えたりするのも、他人ではなく、本人の義務ですね。

ところが日本の仏教は、死者供養に関する民俗信仰と結びついて、死んだ人を「仏」と成すために儀式を執り行うようになりました。死んだ人がやり残した善行を生きている人が代わりに行い、それを死者に振り向ける「追善回向(ついぜんえこう)」という考え方です。死者の霊魂が辺りをさまよっているため、その霊を鎮め、たたりを免れるという日本特有の霊魂観が、大きな影響を及ぼしたようです。

異なった信仰をごちゃまぜにする考え方や行動を、「シンクレティズム(syncretism、折衷主義)」と言います。日本の仏教は、シンクレティズムにより死者供養に特化し、日本の歴史と文化の一側面を築いてきました。きよめの塩や水は神道由来、四十九日等の法要は道教由来、位牌は儒教由来のようです。ただ私としては、こうした死者供養を通して、本人が本当に「目覚めた者」となることができるのかどうか、「釈尊」は本当にそう教えていたのかどうか、大いに疑問です。

聖書は、シンクレティズムを禁じています。神様のことばの純粋さを守るためです。宗教改革に代表されるキリスト教会の刷新運動は、不純なものを捨て去り、「聖書のみ」に立ち返ろうとする動きでした。そしてその精神は、現代も世界中に広がる多くのキリスト教会に受け継がれています。

神様が、混じりけのない「ことば」によって、私たちを教え導いて下さっていることを感謝します。

「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」(申命記4:2、新改訳第3版)

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