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2008年2月 6日 (水)

禅宗

クリスチャンになる前、鎌倉にある円覚寺の座禅会に参加したことがあります。20数年前、私が所属していた「塾」では、日本と日本文化を学ぶことを目的とした研修がいくつかありましたが、その一つが座禅研修でした。普段は、塾内で座禅を組む時間があり、お坊さんが指導に来られていました。そして年一回、円覚寺に「宿泊研修」に行ったのです。

私は大学の頃、少々、禅仏教に関心をもって、鈴木大拙の著作を拾い読みしていたこともありましたが、実際に座禅を組むのは初めてでした。般若心経を暗記し、足の痛みと眠たさをこらえつつ座禅を組み、警策(きょうさく)と呼ばれる棒で背中をしっかり叩かれました。泊り込みの研修では、一汁一菜のシンプルな精進料理をいただき、早朝から座禅を組み、掃除をしたように記憶しています。

「公案」と呼ばれる対話や瞑想、そして掃除等の修行を通して、悟りを開こうとする禅仏教のあり方は、釈迦が最初に教えた仏教に近いように私には思えました。そして、過去仏や未来仏、あるいは如来、菩薩、明王、天(梵天、帝釈天、弁天など)といった超越的存在を想定せず、ひたすら自らの悟りを求めるという姿勢は、他の仏教の宗派よりも理解しやすいように感じました。

ただ、私自身は当時、すでに創造主なる神の存在を信じていました。そして、その神様から与えられていた「公案」は、「創造主とイエス・キリストとの関係は何か」という問題だったのです。

聖書を読み進み、キリストは神のひとり子であり、創造主なる神ご自身だということを「悟った」時、私は洗礼を受け、クリスチャンになる決心をしました。神様が、真の「悟り」を与えて下さり、その悟りに至る「道」を人々に伝える者として下さったことを感謝します。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8、新改訳第3版)

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