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2008年2月26日 (火)

奇跡

新約聖書(特に福音書や使徒の働き)を読むと、奇跡(奇蹟)の話についていけない人が多いかもしれません。イエス・キリストや弟子たちは、多くの病人を奇跡的に回復させ、悪霊を追い出しています。イエスは、石をパンにすることはなかったかもしれませんが、水をワインに変えています。死んだ人(ラザロ)をよみがえらせた後、十字架の上で死なれたキリストは、自分自身が復活するという奇跡を成し遂げられました。

奇跡はすべてあり得ないから、奇跡に関わるエピソードを無視し、ただ教訓や名言録として聖書を読もうとする人たちもいます。しかし、よく考えると、なぜ最初からあり得ないと決めつけることができるのでしょうか。人類の長い歴史の中で、人々の予想をまったくくつがえすような驚嘆すべき出来事は、おそらく数え切れないほど起こって来たに違いありません。そう考えれば、奇跡が起きる可能性も否定できないのではないでしょうか。

クリスチャンになる前に読んだ本に、あるクリスチャンの科学者の話が紹介されていました。「すべての自然法則を定められた神様が、時折、その自然法則を破られることがある。それが奇跡である」と、奇跡を信じるその科学者は主張していたようです。私は、この論理に妙に納得しました。

私たちは、すべての物事が科学の法則に従って動くものだと考えがちですが、将来も、その法則通りのことが100%起こり続けるかどうかは、保証の限りではありません。そして、想定外のことが起こった時、それをすべて科学で説明し尽くすことができるかどうかも、100%の保証はできないでしょう。人類には、今でも分からないことがたくさんあるのです。奇跡は絶対起こり得ないと、誰が言い切ることができるでしょうか。

キリストが奇跡を起こされたのは、自らが神のひとり子であることを証明し、世界中の人々に神の国のメッセージを伝えるためでした。多くの奇跡、特に十字架上の死と復活の奇跡を通して、今、信じる私たちが神の国の民とされ、神様の愛によって生かされていることを感謝します。

「イエスは答えて、彼らに言われた。『あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアト(重い皮膚病)に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。』」(マタイ11:4-6、新改訳第3版)

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