死後の行き先
義父の葬儀の際、「キリスト教式は、もっと簡単なんでしょう?」と親族の方から何度も聞かれました。確かに教会の葬儀では、線香も上げず、供物をそなえることもなく、念仏を唱えることもありません。故人を通して創造主なる神様から受けた恩恵を感謝しつつ、賛美歌を歌い、聖書を朗読し、思い出を分かち合い、地上に残った人々のために牧師が慰めと希望のメッセージを語ります。告別の思いをこめて、最後に献花をする場合もあります。
そして、その他は、特に定められた「儀式」はありません。死後の行き先は、本人の生前の信仰と生き様に基づいてすでに決定されている、という考え方ですから、遺族がする追善供養にまったく意味はないのです。死者の霊がその辺をさまよっていて、浄化しなければたたりがある、あるいは成仏させなければ可愛そうだ、という信仰も、聖書とは相容れない考え方です。創造主なる神様がすでにすべてを取り計らっておられますから、死者が無事に天国にたどり着けるよう祈ることもしません。天国か地獄かは、神様と本人との間で決定済みのことだからです。
もちろん、遺族の要望に応じて、納骨式や何周年かの記念会等を行うことはあります。仏壇に線香を上げず、墓参りに熱心でないから、クリスチャンは先祖を大切にしない、などと批判されることはあります。しかし、聖書で繰り返し教えられていることは、形ではなく心だという原則です。たとえ仏壇や位牌やお墓に手を合わせる形をとらなかったとしても、心の中で祖先を思い起こし、立派な生き方をした人々を心に留め、その模範にならおうとする姿勢の方が大切ではないでしょうか。
イエス・キリストを信じる人は、誰でも地獄における永遠の死から解放され、天国に迎えられています。キリストによって救われた「先祖たち」とは、そこで再会する希望がクリスチャンには与えられています。どんな人たちと会えるか、今から楽しみですね。主イエスが私たちを、地獄と死から救って下さったことを感謝します。
「主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。」(詩篇102:19-20、新改訳第3版)
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