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2008年2月 7日 (木)

ホトケとカミ

「仏陀(仏)」の定義が、もし「真理に目覚めた人」であるなら、聖書の真理に目覚めたクリスチャンは、はたして「仏陀」と呼べるのでしょうか。(笑)そう呼ぶ人は、いないでしょうね。「仏陀」という呼称は、仏教の歴史の中で、次第に異なった意味合いを持つようになってきたようです。

出家と修行の後、悟りを開いて仏陀となった釈迦は、その死(入滅)後、神格化されるようになりました。地上において80年の生涯を生きた「歴史的仏陀」は、「永遠の仏陀」が衆生を救済するため、この世に姿を現したという思想が、大乗運動の中で生まれます。これは、まさに聖書が記すキリストの姿とそっくりです。ここにも、クリスチャンの宣教活動が大乗仏教に影響を与えた可能性を見ることができそうですね。

大乗仏教は、その教勢を広げるに伴い、多神教的なインドや中国のさまざまな神々を教えの中に取り込み、「諸仏」として崇拝するようになったようです。如来(阿弥陀、薬師、大日など)、菩薩(弥勒、観音、地蔵など)、明王(不動、孔雀など)、天(帝釈天、梵天、弁天など)等の超越的存在は、大乗仏教のシンクレティズム(折衷主義)的な性格を通して、教えの中に吸収され、信仰されるようになったのでしょう。

これらの超越的存在を広い意味で「仏(ホトケ)」と呼ぶなら、それは日本語の「カミ」とほぼ同義語かもしれません。「カミ」とは、もともと「人々の上にあり、特別な力を持ち、崇拝あるいは畏怖される存在」を意味したようです。とすると、上述した外来の「ホトケ」はすべて、「カミ」と言い換えることができるでしょう。

「ホトケ」と「カミ」は同じだとする考え方もシンクレティズムですが、日本では特に「神仏習合」と呼ばれています。奈良・平安時代には、日本の八百万の神々は諸仏の化身だとする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が生まれ、鎌倉時代には、逆に諸仏が神々の化身だとする「神本仏迹説」が主張されました。明治以降、神仏分離の動きがありましたが、唯物論的思考が支配的な現在でも、「カミ」や「ホトケ」をあまり区別せず崇拝する日本人は、多いのではないでしょうか。

聖書は、創造主以外の存在は、すべて「被造物」であると記しています。自然も、人間も、「諸霊」も、すべて創造主が造られました。釈迦も、「諸仏」や「八百万の神々」として崇拝される霊的存在(あるいはその背後にある霊たち)も、もともとは、すべての上に君臨し、絶対的な権威を持つ創造主なる神のみ手による被造物なのです。

創造主なる神様は、被造物を拝むことを禁じています。それらは真の神ではなく、それら「偶像」を拝む行為は、真の神への真実な思いを失わせる結果になるからです。イエス・キリストを通して、創造主の愛を知り、このお方だけをただひたむきに愛する者とされていることを感謝します。

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」(出エジプト20:3-5、新改訳第3版)

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