シンクレティズム
私が仏式の葬儀に深く関わったのは、今回が初めてです。周りの人々が「常識」としてとる行動、そしてその背景にある考え方は、普段、キリスト教会の全く異なった「常識」の中に生きる私にとって実に珍しく、「日本文化」の勉強になりました。
仏教はよく知られているように、紀元前5世紀頃、古代インドに生まれたゴータマ・シッダッタから始まりました。人生に悩み、出家して瞑想と苦行の末に悟りを開き、「解脱(げだつ」して「仏陀(仏)」となった、つまり「成仏した」そうです。「仏」というのは、「目覚めた者」という意味とのこと。この「釈尊」につき従い、釈尊と同じように悟りを開いて「仏」になりたいと思った人たちが弟子となり、教団を形成し、経典を整えてきました。
悟りを開いた人が「仏」ですから、本来、仏になるのは生きているうちの話です。死んでからでは、瞑想も苦行もできません。そして、悟りを開いて仏になるかどうかは、自分自身の心掛けにかかっているはずです。他人がいくら修行したとしても、本人に全くその思いがないのであれば、その人は「目覚めた者」にはなれないはずです。「南無妙法蓮華教」と唱えたり、あるいは他力本願で「南無阿弥陀仏」と唱えたりするのも、他人ではなく、本人の義務ですね。
ところが日本の仏教は、死者供養に関する民俗信仰と結びついて、死んだ人を「仏」と成すために儀式を執り行うようになりました。死んだ人がやり残した善行を生きている人が代わりに行い、それを死者に振り向ける「追善回向(ついぜんえこう)」という考え方です。死者の霊魂が辺りをさまよっているため、その霊を鎮め、たたりを免れるという日本特有の霊魂観が、大きな影響を及ぼしたようです。
異なった信仰をごちゃまぜにする考え方や行動を、「シンクレティズム(syncretism、折衷主義)」と言います。日本の仏教は、シンクレティズムにより死者供養に特化し、日本の歴史と文化の一側面を築いてきました。きよめの塩や水は神道由来、四十九日等の法要は道教由来、位牌は儒教由来のようです。ただ私としては、こうした死者供養を通して、本人が本当に「目覚めた者」となることができるのかどうか、「釈尊」は本当にそう教えていたのかどうか、大いに疑問です。
聖書は、シンクレティズムを禁じています。神様のことばの純粋さを守るためです。宗教改革に代表されるキリスト教会の刷新運動は、不純なものを捨て去り、「聖書のみ」に立ち返ろうとする動きでした。そしてその精神は、現代も世界中に広がる多くのキリスト教会に受け継がれています。
神様が、混じりけのない「ことば」によって、私たちを教え導いて下さっていることを感謝します。
「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」(申命記4:2、新改訳第3版)
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