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2008年2月29日 (金)

解放

聖書の中には、奇跡やいやしのエピソード以外に、悪魔(サタン)や悪霊との対決が多く記されています。現代の日本において、唯物論(物質主義;materialism)的な世界観にどっぷりつかった多くの人にとっては、このような対決のエピソードも理解しにくい話に違いありません。

中学2年の夏(?)、「エクソシスト(The Exorcist)」という映画が公開されました。当時、私は千葉県の常磐線沿線に住んでおり、上野の映画館まで見に行った記憶があります。少女にとりついた悪霊と特別な訓練を受けたカトリックの神父が対決するという内容は、センセーショナルでした。今でも、いくつかの印象的なシーンとテーマ曲が記憶に焼きついています。

近代以降、欧米のプロテスタント教会から宣教師たちが世界各国に派遣された時、多くの場合、彼らは「未開の」宣教地の人々との世界観の違いに気がついたようです。啓蒙主義の時代から、欧米では、「科学(唯物論)的世界観」と「宗教(近代キリスト教)的世界観」との二分化が進んでいました。目に見える世界と目に見えない世界とが切り離され、キリスト教会もそのような考え方の影響を受けていたのです。

いわゆる「未開の」土地に行って、宣教師たちが発見したことは、そこでは目に見えない霊的な存在たちが、目に見える人々の生活に日々、影響を及ぼしていたことです。悪霊との戦いは、日常茶飯事でした。そのような状況下、宣教師のうちのある人々は、自分たちの世界観には、近代化の過程でどこか抜け落ちてしまった部分があるのではないか、と考え始めました。

私がかつてアメリカで学んだ神学大学院の教授、チャールズ(チャック)・クラフトは、その一人です。彼は何と、大学院で悪霊追い出しの選択クラスを教えていたのです。いわば、「エクソシストの基礎」です。(もちろん実際は、もっとアカデミックなタイトルです。)

そこでは他のクラスと同様、関連書籍を読み、聖書を精読し、講義を聞いて、レポートを提出しました。異なっていたのは、授業の中で、「悪霊追い出しの演習」があったこと。それは映画とは違い、ごく静かな実技訓練の場でした。

「悪霊追い出し(exorcism)」は、「解放(deliverance)」の働きと呼ばれます。悪い霊の影響に捕われていた人々が、創造主なる神の力によって自由にされ、解き放たれるからです。イエス・キリストが、すべての悪しき霊に勝利する権威を持ち、弟子たちにその力を授けて下さることを感謝します。

「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。」(マタイ8:16、新改訳第3版)

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