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2008年3月24日 (月)

信仰によって生きる(ヨハネ20章)

Flower080323 昨日は、イースター(復活祭)でした。もちろん、イエス・キリストの復活をお祝いする日です。キリストは十字架で死に、三日目によみがえったというエピソードは、新約聖書の複数箇所に明確に記されており、キリスト教会の根本をなす教義の一つとなっています。

「死者の復活」というのは、1世紀のローマ帝国の人々にとっても信じがたい内容であり、教会に集まって来る人の中にも、その事実をなかなか受け入れられない人たちがいたようです。しかし使徒パウロは、復活がもし事実でないとしたら、弟子たちはすべて偽証したことになり、キリスト信仰も宣教活動もまったく意味がなくなると指摘しています。もしそうなら、クリスチャンは世の中で一番哀れな者だとさえ言い切っています。

キリストが葬られた翌々日の日曜日早朝、遺体に香油を塗ろうと女性たちが墓を訪れると、入口の大きな石が取りのけられ、墓が空になっていることを発見しました。イエスがよみがえったと天使から告げられた女性たちは、急いで、弟子たちに知らせに行きます。弟子たちは十字架の後、自分たちも捕まり処刑されるのではないかと恐れ、隠れていたのでした。

この日の夕刻、よみがえった主イエスは弟子たちと再会し、その後も多くの人々と会い、復活が事実であったことを証明します。そして、新たな希望に満たされた弟子たちは、その後、殉教をも恐れず、イエス・キリスト復活のニュースを世界中の人々に伝えていくようになるのです。

啓蒙主義の影響を受けた近代的視点から見ると、イエスの行なった奇跡、特に復活に関する記述などは、「科学的でない」という理由で退けられるのかもしれません。かつては理系で、科学論に大きな関心があった私も、聖書を読み始めた当初、復活の話をなかなか信じることができませんでした。

しかし考えてみると、科学とは起こった現象を一定の方法で研究し、そこに何らかの法則性を見出し、仮説を立て、まだ起こっていないことを予測するための知識です。起こったと報告されている現象を、起こっていない(あるいは「起こったはずがない」)と、十分な根拠なしに否定することはできません。もし説得力ある「科学的」証拠なしに、ただ「ありえない」と言っているだけなら、それこそ非科学的態度と言えるでしょう。

イエスが復活した証拠は、第一にイエス自身の予告、第二に空の墓、第三に新約聖書がまとめられた当時、まだ生きていた目撃者たちの証言、第四に死をも恐れなくなった弟子たちの劇的変化だと言われています。これらを完全に否定するに十分な反証は、その後2000年の歴史を通して、未だに提示されていません。

そもそも、いのちが創造主なる神様から与えられるのだとしたら、いのちを一旦失った後、もう一度神様がいのちを与え直したとしても、何の不思議もありません。イエス・キリストは、十字架上で死んだ後、奇跡的に死からよみがえられました。それは、救い主イエスを信じる者に対して、新しい「復活のいのち」が与えられるためだったのです。

復活のイエスを目撃した証人の一人である使徒ヨハネは、その驚くべき事実を福音書として後世に遺しました。その執筆目的は、人々がキリストを信じ、いのちを得るためだと記しています。今、私たちは、救い主への信仰により新しいいのちを受け取り、永遠の神の国への希望に満ちた人生を歩む者とされていることを感謝します。

「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:30-31、新改訳第3版)

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