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2008年3月17日 (月)

光に照らされて生きる(ヨハネ8章)

Flower080316 もし、今の日本に「姦通罪」が残っていたとしたら、どれだけの人が有罪となり、刑罰を受けることになるのでしょうか。「姦通罪」とは、もちろん、不倫の罪です。明治体制下の旧刑法には姦通罪の規定があったそうですが、第二次大戦後、廃止されたとのこと。理由は、男女平等を定めた日本国憲法に反する、というものだったそうです。

なぜ不倫の罪を罰するのが、男女平等に反するかと言うと、既婚女性が浮気した場合、相手の男性とともに罪に問われるだけだったからです。既婚男性が浮気した場合は、何もお咎めなしです。男女平等だから、既婚男性の場合も罪に問うようにしたらどうか、という意見もあったようですが、賛成多数とはならなかったとのこと。やはり、男性側が都合のよい解決を図ったということなのかもしれません。

ヨハネ8章では、姦通の現場で捕まった女性が、イエス・キリストのもとに連れて来られます。以前、この箇所を読んだある方が、相手の男性はどこに行ったのか、と私に質問しました。聖書では姦通罪は死刑であり、それはもちろん、相手の男性にも適用されます。「容疑者」の女性は、おそらく、死刑を覚悟していたでしょう。男は、どうしたのか。捕まったのがなぜ女で、男じゃなかったのか。それは聖書に記されていないので、私には分かりません。「男は、おそらく逃げたんじゃないでしょうか」と答えておきました。(苦笑)

姦通の現場に女性だけ残し、逃げた男は卑怯です。ただ、捕まえる側が、何らかの理由で女性だけ逮捕し、男性は逃がしたという可能性もあります。男性には社会的立場があったからか、逮捕する側に貸しがあったからか、あるいはまた別の理由があったからか。これも、聖書に書いていないため、よく分かりません。

一つはっきりしているのは、この「姦淫の女」を捕まえて連れて来た人々が、何を意図していたかでした。彼らは、イエス・キリストが何と言うかを聞き、その言葉尻をとらえて告発しようとしていたのです。律法の定め通り、死刑にしなさいと言えば、被占領民の手による死刑執行を禁じていたローマ軍に逆らうことになります。死刑にしてはならないと言うと、神から与えられた律法に違反することになります。キリストが何と言うか。それだけが彼らの関心であり、女性が生きるか死ぬかは、彼らにとってはどうでも良いことだったのです。

イエス・キリストは、この場面をみごとな言葉で切り抜けます。それは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という言葉でした。罪とは、神様の求める完全さに達しないこと。誰も自分は完全だと人々の前で言い切ることができず、一人去り、二人去り、最後に残ったのは女性とイエス様だけでした。そこでイエス様は、「もう以前のように罪を犯してはなりませんよ」と言って、この女性を解放されたのです。

その女性は、ここで一度死に、新しい人生が与えられたようなものです。未来のない絶望的な状況からイエス・キリストによって救われ、人生に新たな希望の光が灯されました。私たちにも同じように、神様が新しい人生を与えて下さいます。救い主イエスにより、私たちの歩む道に光が灯され、進むべき方向にいつも導かれていることを感謝します。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12、新改訳第3版)

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