救い主を仰ぎ見る(ヨハネ9章)
ヨハネ福音書は、先週引用した20章30、31節に記されている通り、はっきりとした目的の下に書かれています。それは、読者がイエス・キリストを信じ、(永遠の)いのちを受け取るためでした。ですから、そこに記されているエピソードも当然、執筆目的に沿うものが厳選され、掲載されています。
ヨハネ9章に出てくる、いやしの奇跡もそうです。イエス・キリストと弟子たちは、ある時、エルサレムで生まれつき目の見えない人に出会います。弟子たちは、その人を見て、目が見えないのは天罰が下ったせいだと考えました。その人か、その両親のどちらかが悪いことをしたから、そういう状態にあると思ったのです。
イエス・キリストは、そのような弟子たちの考えを否定します。「その人が生まれつき目が見えないのには、神様のご計画がある。創造主なる神様がその人に、特別なことをなさろうとしているためだ」と言われたのです。そして、この人の目を奇跡的にいやされました。生まれつき目の見えない人が、突然、見えるようになったのです。
周囲の人たちは、この奇跡に驚きました。最も否定的な反応をしたのは、社会的な影響力を持つ指導者層、特にパリサイ人たちです。彼らは、旧約聖書に記される律法の規定を厳格に守り、「自力」で神様の完全さに近づこうとしていたグループでした。その敬虔そうに見える生き方は、一般の人々から尊敬を受けていましたが、実は、偽善的な形式主義に陥っていたようです。パリサイ人は、外側の行動だけ立派に見せながら内側の心をなおざりにしていると、イエス・キリストから批判されています。
このパリサイ人の一部が問題にしたのは、奇跡が安息日に行われたことでした。安息日は、律法の規定から言うと労働してはいけない日なので、その日に奇跡を行う人は、律法を守らない罪人であり、神様からの使者ではない。つまり、奇跡も奇跡を行う人も、ニセモノだと主張したのです。それは、パリサイ派神学による重箱の隅をほじくるような議論でした。
目が見えるようになった人にとっては、そのような細かい神学的議論は、どうでも良いことでした。自らの身に起こったことが間違いなく奇跡的な出来事であり、その奇跡を起こしたのは、創造主なる神様から遣わされた特別な人に違いないと確信していたからです。そして、イエスご自身がメシア(キリスト、救い主)だと聞いた時、彼は、それを素直に受け入れました。
このエピソードは、象徴的な意味を持っています。私たちはもともと、霊的に目が見えない状態でした。本当の神様を知ることがなく、イエス・キリストが誰なのかも、初めは理解できなかったのです。キリストは、そのような私たちの「霊の目」を開いて下さり、創造主なる神様が私たちを愛し、いのちを与えて下さっているという真理を教えて下さったのです。
起こった出来事によって自らの神学の真偽を検証することなく、あくまでも自分たちの神学の細部にこだわり、自分たちだけが神様を正しく「見ている」と主張し続けたパリサイ人には、イエスが旧約聖書に約束された救い主であるという最重要な真実が、「見え」ませんでした。今、私たちはイエス・キリストと出会い、救い主を「仰ぎ見る」生き方が与えられていることを感謝します。
「イエスは、…彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子(メシア)を信じますか。』その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。』彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」(ヨハネ9:35-38、新改訳第3版)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント