神々の正体
「創造主なる神以外のすべての霊的存在(と物的存在)は、創造主によって造られた」というのが、聖書の基本的立場です。と言うことであれば、創造主以外の「神々」は、天使や人間と同じ被造物ということになります。では「神々」の正体は、一体、何なのでしょうか。
一昨日のブログで、4種類の霊のお話をしました。創造主なる三位一体の神と人間、良い天使、そして悪い天使です。先ず明らかなことは、世の「神々」はほとんどの場合、創造主なる神とは言えません。絶対的な権威を持つ天地創造の神ではなく、神々の一人ひとりは、多くの神々がともに住む世界において相対的な権威しか持たない存在として理解されています。
「神々」は、また明らかに「良い天使たち」でもありません。「(良い)天使」の役割は、創造主なる神に仕え、その栄光をあらわすことです。神のしもべとして常に創造主をほめたたえ、その栄光を自分のものとすることがありません。つまり、「神々」のように人に拝まれることを求めはしない、ということです。
では「神々」は、人間の霊なのでしょうか。日本人は、生きている人をも「○○の神様」と呼ぶことがありますから、日本の伝統的な世界観から言えば、ある意味、この解釈は妥当と考えられるのかもしれません。しかし、人間の霊が死後、超人的、あるいは超自然的な力を人々に及ぼすという点について、聖書は否定的です。
残るのは、「悪い天使たち」、つまり悪魔(サタン)と悪霊たちです。絶対的でなく、限定的ではあるけれども超人的、超自然的な力を持ち、自分たちを敬い拝むことを要求し、創造主なる真の神(キリスト)から人々の目を離そうとする、という働きは、まさにサタンと悪霊たちのしわざに他なりません。「神々」の正体は、実は、悪しき霊だと言って間違いないでしょう。
もう一つの可能性は、「神々」が霊的存在ではない、ただの物的存在ということも考えられます。「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉があります。鰯の頭のような「物質」であっても、そこに何らかの霊的な力があると信じた時、それが信じる人にとっての「神」になります。「鰯の頭」は、どちらかというとバカにしている例ですが、これが石や木などで作った像、おふだ、神棚、仏壇等になると、ただの「モノ」として見ることができない人が多いのではないでしょうか。
聖書はもちろん、これらの「モノ」を「神々」として祀ることについて否定的です。「モノ」は、あくまでも物的存在であり、霊的存在ではないからです。もしその「モノ」に霊的力が宿っているということであれば、それは、その「モノ」自体の力ではなく、別の力が働いていることになります。それは、創造主なる神様の栄光につながらない働きであるなら、悪い霊の力ということになりますね。
イスラエルの民は、周囲の民族に影響され、異教の神々を礼拝する過ちを犯しました。その「神々」は実は、「悪霊ども」だったと聖書に記されています。私たちも、かつては知らずに同じ過ちを犯していたかもしれません。しかし、イエス・キリストを通して創造主なる神様の愛を知った今は、唯一このお方だけを礼拝していきたいですね。
「彼らは異なる神々で、(創造)主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。」(申命記32:16-17、新改訳第3版)
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