知識の組み換え
イエス・キリストを信じ、牧師を志した20数年前、丁稚のように住み込んだ教会堂の2階の部屋で、いつも夜一人だった私は、あることを考えていました。自分がそれまで学んできたことは、何だったのか。これから学んでいかなければならないことは、何か。そして、信仰を持つ前に得た知識は、信じた以降に得る知識とどのようにつながり、どのように生かされていくのか、ということです。
高校までの学校教育で学んだ5教科、国語、数学、社会、理科、英語のうち、すぐに役立ちそうなものは、国語と英語でした。聖書や解説書、神学書を読むためには、まずは日本語の読解力が必要です。英語は大学でも専門的に学びましたが、英文の参考文献も日本語とは比べ物にならないほど多いので、英語力はすぐに生かせます。海外からのゲストが来た場合は、通訳をする機会もあります。
数学は、学校で解く問題がそのまま役に立つわけではありませんが、論理的思考をするための基礎訓練だったと考えれば、何年にも及ぶ訓練(!)を積んで来たと言えるでしょう。算数というレベルなら、もちろん、教会にも日々のお金の計算があり、年間の予算決算もきちんと数字を合わせていかなければなりません。
問題は、理科と社会でした。この二つについては、大学に進んだ後も自然科学、社会科学、人文科学という分野に区分された、細分化された知識を習得しました。さらに大学卒業後は、「塾」で政治学、経済学の基礎をおさらいしました。「つまみ食い」も多かったように思いますが、それにしても、ずいぶん雑多な知識を詰め込んで来たものです。(笑)
高校までの理科、社会、そして大学以降の諸科学は、ほとんどの場合、啓蒙主義的な人間中心主義、理性主義、そして無神論的な基盤の上に立っています。唯物論的自然観や進化論、社会契約説、進歩史観など、近現代社会に大きな影響を与えた「仮説」の正しさが暗黙のうちに前提とされ、教科として教えられたりします。それらは、現代日本に支配的な「パラダイム」だからです。
(「パラダイム」については、こちら参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_ed3b.html)
人間中心的世界観から神中心の世界観にパラダイムが転換した私は、それまでに学んだ知識を総ざらいし、神中心の知識に組み替えていかなければならないと感じました。そう考えたのは、ひょっとしたら当時読んでいたフランシス・A・シェーファーの本、「それでは如何に生きるべきか」("How Should We Then Live?"の邦訳、いのちのことば社)の影響があったかもしれません。
それから早、20年強。「知識の組み換え」が順調に進み、神中心の知識体系が自分の頭の中で十分組み立てられたかと言うと、「欠け」が大きく、非常に心もとないものを感じます。まことに、「少年老いやすく学なりがたし」です。(苦笑)まだまだ学ぶべきことは多くあり、道半ばですが、いつか納得のいくレベルに達したいですね。
創造主なる神様が、私たちに必要な知識を与えて下さることを感謝します。
「もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、(創造)主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」(箴言2:3-5、新改訳第3版)
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