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2008年4月28日 (月)

互いに愛し合う(ヨハネ13章)

Flower080427 「足を洗う」という表現は、日本語では「悪事や、いやしい職業の世界から抜け出す」という意味です。しかし、聖書の中で「足を洗う」という言葉は、まったく別の意味を持っています。それは、イエス・キリストが十字架にかかる直前になされた、特別な行為を指し示しているからです。

レオナルド・ダ・ビンチの画題にもなった「最後の晩餐」の夕べ。キリストは、いよいよ自らの死が近づいていることを知り、食事の途中、いきなり弟子たちの足を洗い始めました。

一日中サンダルのような履物で外を歩き、土ぼこりにまみれた足を洗うというのは、本来、使用人の仕事です。この日、食事をした場所には使用人がいなく、また弟子たちの中にも、自発的に足を洗おうとする人がいなかったのでしょう。弟子たちは、誰が弟子の中で一番偉いのか張り合っているくらいでしたから、自ら他の弟子の足を洗うことなど、論外だったのかもしれません。

彼らの師であり、神の国の王、救い主であるイエスが、いきなり弟子たちの足を洗い始めたのですから、彼らは驚きました。ペテロは、「私の足など洗わないで下さい」と言います。しかし、ペテロに対するイエスの答えは、「もし洗わなければ、あなたと私は何の関係もありません」というものでした。

弟子たちが、深く知っておかなければならなかったこと。それは、イエス・キリストが彼らのことを限りなく愛しておられたということです。キリストは、この「最後の晩」に、特にその愛を伝えたいと願われていました。そして、自ら「仕える者」の姿をとり、一人ひとりの足を優しく丁寧に洗われたのです。すべての人を愛し、十字架の上でいのちを捨てようとされているキリストにとり、弟子たちの足を洗うことなど、ごくたやすいことでした。

イエスを裏切るイスカリオテのユダは、この時、足を洗われた弟子の中にいました。キリストは、ユダが裏切ることを知っていました。しかし、それでもなお、ユダに対しご自身の愛をあらわし、その足を洗われたのです。「自分の敵をも愛しなさい」と弟子たちに命じたことばを自ら実践し、弟子たちに模範を示されたのでした。

イエス・キリストが教えた愛は、人に好意を持ったり、肉体関係を持ったり、「限りなく奪う」ようなものではありません。相手にとって真に益となることを心から願い、そのために「仕える者」として自分ができることを最大限に行い、時には相手のために命まで捨てることです。

キリストは、自らが弟子たちを愛されたように、弟子たちも互いに愛し合いなさいと命じられています。救い主イエスを信じる私たちは、互いに受け入れ合い、仕え合っていきたいですね。クリスチャンの間に見られる愛を通して、周りの人々は、神様の愛がどのようなものであるかを知っていくことができるのです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35、新改訳第3版)

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