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2008年4月

2008年4月30日 (水)

神のしもべ

昨日の朝日新聞に、イエズス会第30代総長に選出されたアドルフォ・ニコラス神父が紹介されていました。同氏は、1936年スペイン生まれ。60年代の来日から2004年まで、通算35年余りの日本滞在歴を持ち、日本語に堪能だそうです。

日本では上智大学神学部で教鞭をとり、またイエズス会日本管区長も務めたとのこと。総長に選出された後、ローマ教皇(法王)ベネディクト16世に謁見すると、教皇は日本について言及し、文化との対話や日本の若者へ福音を伝えることの大切さなどを強調。日本のイエズス会の「使徒職」の中で、上智大学が最も大切なものの一つだと語ったそうです。

上智大学は、イエズス会が1913年に設立しました。日本のカトリック教会の文化的基盤となる大学を設立してほしいという強い要請が、信者の方々からなされたそうです。カトリックは、キリシタン時代にコレジオやセミナリオを設立していた歴史があり、また明治維新以降、プロテスタント系の学校が次々に設立されていたという背景もあったのでしょう。

イエズス会は、今でもイグナチオ・デ・ロヨラの著した「霊操(心霊修業)」を教本とし、司祭に叙階される前後にそれぞれ30日間の黙想を行うそうです。(ロヨラと「霊操」については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_5b58.html

黙想は、先ず自らの生活と罪、次に「神の国」をテーマとし、最後には、キリストの十字架をともに担い、貧しくなったキリストとともに貧しくなる生き方への決意に至るようです。そのような決意は、当然、彼らの設立する学校の教育方針にも反映されますね。上智大学も、社会に奉仕する人間づくりを重視しているようです。

貧しい者たちに仕える「神のしもべ」としての生き方は、イエズス会総長就任直後のニコラス神父による「感謝のミサ」メッセージでも強調されています。

「新聞や雑誌は、『黒い教皇、白い教皇、その権力』といった決まり文句を掲げているが、それらは政治好きな人々への話の種に過ぎず、我々向けのものではない。我々の使命は、主イエスにならい、神のしもべとして貧しい人々に救いの喜びをもたらすことである」というのが、ニコラス神父のメッセージでした。(ちなみに「黒い教皇」とは、イエズス会総長のニックネームで、衣の色に由来するそうです。)

私たちも一人ひとり、「神のしもべ」として、それぞれ遣わされた場所で人々に仕える生き方をしていきたいですね。

「主は仰せられる。『ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」(イザヤ49:6、新改訳第3版)

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2008年4月29日 (火)

花見と吹奏楽とメタボの道

Img_13881 いよいよ函館周辺も、桜が満開です。今朝は、私と妻、次女の3人で義母を迎えに行き、まず香雪園(見晴公園)に行きました。きれいに咲いている桜や紅梅がありましたが、全体的にはもう2、3日後が見頃でしょうか。その後、桜ヶ丘通りと五稜郭公園を車で通り過ぎましたが、こちらはほぼ満開。素晴らしい景色を堪能しました。

午後からは、長男の吹奏楽部とすぐ近くの高校のジョイント・コンサートがあるため、函館郊外の森町に向かいます。野外会場のすぐ傍で妻の力作の花見弁当を食べた後、水筒に入れたコーヒーと途中で買ったドーナツを手に、演奏会を聴きに行きました。吹奏楽定番の「宝島」や「錨を上げて」の他、「旅立ちの唄」、「千の風になって」、「きよしのズンドコ節」、「ディズニー・メドレー」、「ピンクレディー・メドレー」等をみごとに演奏してくれました。

コンサートの帰路、今度は北斗市のせせらぎ公園付近の桜並木を観賞。そして、鈴木牛乳のさくらソフトを食べつつ、家路につきます。夜はピザをとり、小原商店のコアップガラナも飲みました。これでは、明らかにメタボ道まっしぐらです。明日から、またカロリー制限しなくては…。(笑)

ともあれ今日は、花見と吹奏楽と美味しい食べ物で、たっぷり楽しませていただきました。神様が、私たちの心に楽しみを与えて下さっていることを感謝します。

「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴言17:22、新改訳第3版)

(写真は、せせらぎ公園脇の桜並木)

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2008年4月28日 (月)

互いに愛し合う(ヨハネ13章)

Flower080427 「足を洗う」という表現は、日本語では「悪事や、いやしい職業の世界から抜け出す」という意味です。しかし、聖書の中で「足を洗う」という言葉は、まったく別の意味を持っています。それは、イエス・キリストが十字架にかかる直前になされた、特別な行為を指し示しているからです。

レオナルド・ダ・ビンチの画題にもなった「最後の晩餐」の夕べ。キリストは、いよいよ自らの死が近づいていることを知り、食事の途中、いきなり弟子たちの足を洗い始めました。

一日中サンダルのような履物で外を歩き、土ぼこりにまみれた足を洗うというのは、本来、使用人の仕事です。この日、食事をした場所には使用人がいなく、また弟子たちの中にも、自発的に足を洗おうとする人がいなかったのでしょう。弟子たちは、誰が弟子の中で一番偉いのか張り合っているくらいでしたから、自ら他の弟子の足を洗うことなど、論外だったのかもしれません。

彼らの師であり、神の国の王、救い主であるイエスが、いきなり弟子たちの足を洗い始めたのですから、彼らは驚きました。ペテロは、「私の足など洗わないで下さい」と言います。しかし、ペテロに対するイエスの答えは、「もし洗わなければ、あなたと私は何の関係もありません」というものでした。

弟子たちが、深く知っておかなければならなかったこと。それは、イエス・キリストが彼らのことを限りなく愛しておられたということです。キリストは、この「最後の晩」に、特にその愛を伝えたいと願われていました。そして、自ら「仕える者」の姿をとり、一人ひとりの足を優しく丁寧に洗われたのです。すべての人を愛し、十字架の上でいのちを捨てようとされているキリストにとり、弟子たちの足を洗うことなど、ごくたやすいことでした。

イエスを裏切るイスカリオテのユダは、この時、足を洗われた弟子の中にいました。キリストは、ユダが裏切ることを知っていました。しかし、それでもなお、ユダに対しご自身の愛をあらわし、その足を洗われたのです。「自分の敵をも愛しなさい」と弟子たちに命じたことばを自ら実践し、弟子たちに模範を示されたのでした。

イエス・キリストが教えた愛は、人に好意を持ったり、肉体関係を持ったり、「限りなく奪う」ようなものではありません。相手にとって真に益となることを心から願い、そのために「仕える者」として自分ができることを最大限に行い、時には相手のために命まで捨てることです。

キリストは、自らが弟子たちを愛されたように、弟子たちも互いに愛し合いなさいと命じられています。救い主イエスを信じる私たちは、互いに受け入れ合い、仕え合っていきたいですね。クリスチャンの間に見られる愛を通して、周りの人々は、神様の愛がどのようなものであるかを知っていくことができるのです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35、新改訳第3版)

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2008年4月25日 (金)

証人

水曜夜は、今年から札幌勤務になった中学校時代の同級生と会って来ました。札幌に出掛ける用事ができたので、連絡してみると、ちょうどその日は空いているとのこと。待ち合わせ場所は、定番の「すすきの駅改札前」です。

午後6時ちょうどに行くと、マジメな彼は、もうそこで待っています。近くの炉端焼きのお店に入り、3時間以上、よもやま話に花を咲かせました。友人はビールと焼酎、私はもっぱらウーロン茶。料理が塩辛いせいか、なぜか私も大きなグラスのウーロン茶を3杯も飲み干しました。(笑)

話の中で一つ印象に残ったのは、友人の会社で働くある人の話です。いい意味でどこか違うと感じていたそうですが、ある時、その人がクリスチャンだということが分かったのだそうです。私の友人は、それで少し納得がいったとのこと。生き方についての考え方の違いが、仕事の面にもあらわれていたようです。

翌日の木曜朝、訪問した教会では、私がクリスチャンになった経緯(救いの証し)をお話しさせていただきました。その時、また思い出したのが、小・中・高と8年間クラスが一緒だったもう一人の友人です。(その友人については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_b75a.html

その8年間の学校生活の中で、彼は私にとって、神様から遣わされた「キリストの証人」でした。私はその間、ほとんど教会に顔を出すことはありませんでしたが、彼とその家族の姿を通して、クリスチャンとはどういう人たちなのかを学んだのです。

そして、同じことは、水曜夜に会った友人の知り合いについても言えます。その人の生き方、考え方、仕事の仕方を通して、クリスチャンとはどういう人なのか、周りの人が理解していくことになるのです。

最近は、マーケットプレイスの伝道が話題になっています。マーケットプレイスとは、「市場」のこと。日本では特に、ネット上の売買の場を意味するようです。アマゾンでも、「マーケットプレイス」に出品しているいろいろなお店から、古本を買ったりできますね。

しかし、英語圏のキリスト教界で今、話題になっている「マーケットプレイス」とは、ネット上の市場のことではありません。仕事を持つクリスチャンが、ビジネスで関わりのある領域のことを言っています。「万人祭司」とされている「キリストの証人」は、神の国からその仕事場に派遣されている。だから、仕事上の人間関係を通しても、創造主なる神様の愛を伝えていくべきである、という考え方です。

広い意味で言えば、学生にとっての「マーケットプレイス」は、学校ということになります。ですから、かつての私の友人も、本人が強く意識するしないに関わらず、自らの生き方、考え方を通し、「キリストの証人」として「マーケットプレイス伝道」に携わっていたのでしょう。

イエス・キリストを信じる私たちは、それぞれ神様から遣わされる場所で、創造主なる神様の素晴らしさを周りの人に伝える、愛に満ちた証人となっていきたいですね。

「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24:46-48、新改訳第3版)

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2008年4月23日 (水)

伝道

明日は、ある教会で伝道についてのお話をする予定になっています。伝道とは、文字通り、「道」を伝えること、そして「道」とはイエス・キリストとその教えのことです。

十字架の後、よみがえられたキリストは、弟子たちに重要な使命をゆだねられました。イエスが創造主であり、神の国の王であり、救い主であるという「良い知らせ(福音)」を世界中のすべての人に伝え、キリストの教えを忠実に守る新たな弟子たちを育てなさいと命じられたのです。

この「大宣教命令」に従った弟子たちは、師であるキリストがいのちを捧げられた姿に範をとり、命がけで世界各地にこの「福音」を伝えに行きます。なぜ命がけになったかと言うと、それを「良い知らせ」とは受け取らず、自分たちの立場を脅かす「悪い知らせ」と考える人たちが多くいたからでした。

「福音」は、それを喜んで受け取る人と受け取らない人がいます。キリストは、すべての国の人々に福音を伝えなさいと命じられました。しかし、残念ながら、すべての人々がそれを喜んで受け取るとは約束されていません。どのような受け取り方をするかは、人それぞれです。

一生懸命、愛をもって伝えようとしても、その思いを受け取ってもらえないのはつらいものです。そして、喜んで受け取ってもらえなかった時、多くの場合、クリスチャンは責任を感じ、自分を責める傾向があります。しかし、もしきちんと伝えたのであれば、本当の責任は、受け取らなかった側にあります。

初代教会最大の「伝道者」であった使徒パウロでさえ、彼が伝えた福音を受け取らなかった人たちが大勢いました。私たちは、結果の良し悪しにかかわらず、ただ自分に与えられた「伝道」の使命を忠実に果たしていけば良いのでしょう。

イエス・キリストを信じるのは、説得力ある人の言葉によるのではありません。私たちが「福音」を語る言葉を用いて、人の心に直接ふれて下さる、聖霊なる神様の働きなのです。伝道は、人の力でなされるのではありません。創造主なる神様がなされる超自然的な働きなのです。

「…聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(1コリント12:3、新改訳第3版)

P.S. 都合により、明日の更新はお休みします。

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2008年4月22日 (火)

平和の祈念

「むかし海の向こうから いくさがやってきた」、「あの日 鉄の雨にうたれ 父は死んでいった」というのは、森山良子さんなどが歌った大ヒット曲、「さとうきび畑」の一節です。

私は、この歌には少し違和感がありました。大陸からの引揚者の両親の下、北海道で生まれ育った私。両親からは空襲の話も聞いたことがなく、近しい親族の中に戦死者はいません。ですから、第二次大戦に対しては、この歌とは違った感覚を持っています。「海の向こうからやってきた」というより、「日本人が海の向こうに、いくさをしに行った」のではないかと感じていました。

しかし今回、沖縄平和祈念公園を三度目に訪れ、資料館の展示を見た時、「海の向こうから いくさがやってきた」という「うちなんちゅ(沖縄人)」の感覚をわずかながらも垣間見たように思います。平和な南の島に薩摩がやって来て、幕藩体制の中に組み込まれ、ペリーの黒船来航後は、明治維新とともに琉球王国が消滅。そして第二次大戦も終わりに近づいた1945年4月、1500隻もの大艦隊を率いた米軍が、本島中部の読谷村(よみたんそん)に上陸したのです。

日本軍は、1942年6月のミッドウェイでの完敗後、太平洋における制海権を失いつつありました。早期に停戦していれば、沖縄戦はなかったかもしれません。しかし巻き返しを期する日本側に、停戦への大きな流れは、まだありませんでした。連戦連勝を続ける米軍は、いよいよ日本列島に迫り、本土攻略の前線基地とするため、沖縄に侵攻します。

沖縄戦における戦死者数は、20万人以上。そのうち半数近くが、戦いに巻き込まれた一般市民だそうです。劣勢だった日本軍は、市民の多くが避難していた南部に退却。そこを300万発近い米軍の銃弾が、「鉄の雨」のように降り注いだとのこと。今は静かで平和な祈念公園の場所は当時、凄惨な地獄絵のようだったのでしょう。

今回、沖縄に集まった私たちのグループは、日本人、アメリカ人、韓国人、そして台湾と香港の中国人が混じっていました。このグループに、さらにフィリピン人が加わり、読谷村の海を眼下に臨む教会で、ともにバーベキューをいただきました。また南部の平和祈念公園では、互いに手をつないで一つの輪となり、神様が地に平和をもたして下さるよう祈りました。

イエス・キリストを信じる人は、創造主なる神様が、心を平和で満たして下さいます。アジア各地から沖縄の平和祈念の地に集められた私たちが、世界の平和のため、心を一つにして祈る機会が与えられたことを感謝します。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。」(コロサイ3:15、新改訳第3版)

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2008年4月21日 (月)

光の子どもとなる(ヨハネ12章)

Flower080420 先週は、沖縄に行ってきました。北海道に住む私たちの感覚からすると、沖縄は、もう真夏です。(笑)特に水曜日は、予報では曇のはずだったのに、快晴で最高気温が27度くらいまで上がりました。函館周辺では、まだ朝晩ストーブをつけており、やっと桜が咲きそうな季節だというのに…。日本は、広いものです。

会議の間を縫って平和祈念公園を訪問すると、さんさんと降り注ぐ陽光の下、修学旅行生たちがぞくぞくと集まって来ます。のどが渇いた私が自動販売機の場所に行くと、若い人たちが買い残した「さんぴん茶」しか、もうありませんでした。帰る頃には、それもすべて売り切れていたとのこと。あの日差しでは、誰しも喉がかわきます。

ホテルでの夕食時、レストランから綺麗な夕暮れが見えました。水平線のすぐ上に薄い雲がかかり、そこに赤みがかった夕陽が落ちていきます。しばらく名残りを惜しむように夕闇の時間が続き、その後、海は真っ暗になりました。手前にある人口の入り江の入口に、緑と赤の小さな光が、わずかに点滅しているだけです。

朝になると日が昇り、夜になると沈んだ太陽の代わりに月や星が地上を照らすという一日のサイクル。私たちは、ごく当然のように考えていますが、実はそこには、精巧に組み立てられた創造の奇跡的秩序があります。もし太陽や月が少しでも近すぎたり、遠すぎたりすると、地球の気候変動や潮の満ち欠けなど、今とはまったく違う環境となり、下手をすると人間は生きていくことができません。天地万物の創造主である神様の偉大な配慮をほめたたえます。

「光」を創造された神様は、ご自身がまた「光」に例えられています。神様は、私たちの歩むべき道を照らし、その光で真実を明らかにし、私たちの心に希望の光を輝かせ、世界中の人々に限りない愛の光をさんさんと注いでおられます。イエス・キリストを信じる私たちは今、「光」なる神様の子どもとして、全世界を明るく照らす新しい生き方が与えられていることを感謝します。

「イエスは彼らに言われた。『まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。』」(ヨハネ12:35-36、新改訳第3版)

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2008年4月14日 (月)

神の栄光に期待する(ヨハネ11章)

Flower080413 どう考えてみても、明るい未来など思い描けない。将来に何の希望も持てない。そのような状況に陥る時が、ひょっとしたらあるかもしれません。長い人生、何が起こるか分りません。時には、絶望感を抱き、生きているのが嫌になるようなことも、まったくないとは誰にも言い切れないのです。

ベタニヤに住んでいた三人兄弟にも、そのような時が突然やってきました。ラザロが病気で倒れ、死んでしまったのです。マルタとマリヤの二人は、イエス・キリストにその病気を癒してほしいと願い、使いを出していました。しかし、救い主はなぜか、すぐに来ようとはされません。来られた時には、もうラザロは墓の中でした。

私たちにも、時に似たようなことが起こります。神様は、なぜ祈りに答えて下さらなかったのだろうか。なぜ、すぐに事態が好転しないのだろうか。なぜ、何も起きないのだろうか。なぜ、神様はこのようなことを許されたのだろうか。神様に聞いてみても、何も教えて下さらない。そのように感じることもあります。

しかし、どのような苦しみの中にあったとしても、ただ一つ、明らかなのは、神様が私たちをいつも愛しておられ、将来の祝福を約束して下さっているということです。ラザロも、マルタもマリヤも、イエス様に深く愛されていました。そして、すぐにラザロの病気を癒しに来られなかったことは、神様の不思議なご計画の中にあったのです。

「もっと早く来て下さったら、ラザロは死ななかったのに」と迫るマルタに対して、イエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります」と約束されます。そして、「いのちを与えることのできるわたしを信じますか」とマルタに問われています。絶望的な状況の中、全知全能の神への信仰がゆさぶられるような試練の時、イエス様は、同じ問いかけを私たちになさるのです。「わたしを信じますか?」それは、苦難を通して私たちの信仰を試し、訓練されるためです。

死んで墓に葬られ、4日たっていたラザロ。どう考えても、その人生は、すべてが終わりでした。マルタもマリヤも、そしてそこに集った人全員が、悲しみに暮れていました。ラザロの将来は、すべて灰燼(かいじん)に帰していました。誰の目にも、少なくともそう見えました。

ところが、イエス・キリストは約束通り、このラザロをよみがえらせるのです。人にいのちを与えられる創造主なる神様にとって、死後にもう一度いのちを与え直すことは、たやすいことでした。私たちの人生にも、神様は同じような奇蹟を約束して下さいます。もう自分の人生は終わりだと思ったとしても、創造主なる神様がそう言われたのでなければ、まだまだ続きがあります。私たちが知らない祝福の「サプライズ」を、神様は密かに用意しておられるのです。

創造主なる神様が、私たちの人生を天の栄光で輝かせて下さいます。その思いもよらない祝福のご計画に期待していきましょう。自分で勝手に終わりを告げてはなりません。終わりの時は、神様が定められているのです。

「イエスは…言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」(ヨハネ11:4、新改訳第3版)

P.S. 都合により、今週の更新は本日のみとし、明日以降はお休みします。また来週お会いしましょう。「lifestream community」読者の皆様の上に、創造主なる神様の祝福が豊かにありますように。

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2008年4月11日 (金)

「東洋の使徒」ザビエル

プロテスタント運動がドイツ、フランス、北欧、スイス、イギリス、スコットランド、オランダへと拡大する中、カトリック教会内に改革刷新運動が起こります。教会の世俗化と堕落を反省し、聖職者の規律が厳格化され、小教区の重要性を確認し、教育に力を入れるようになったとのこと。祈りと黙想を通して、個々人の信心を深めるという新たな潮流も広がっていきました。

そのような時、イエズス会が発足します。創立者はスペイン・バスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラ。戦争で負傷した後、アッシジのフランチェスコの伝記を読み、海外宣教のビジョンが与えられたそうです。洞窟で黙想していると、イエス・キリストの姿を心の中に繰り返し見るという体験もしました。霊的訓練について記した彼の著書「霊操」は、イエズス会士の基本図書となりましたが、ロヨラが体験した創造主なる神との深い人格的交わりが土台になっているのでしょう。

1534年にイエズス会が創立された時、フランシスコ・ザビエルはその初代メンバーでした。彼もやはりスペインのバスク地方出身。戦乱に翻弄される少年期を過ごした彼は、司祭だった叔父の影響から、カトリック教会の聖職者を目指します。パリ大学留学中にロヨラと運命的な出会いを果たし、これが彼の将来を決定づけました。

ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世の要請により、植民地だったインドのゴアに初代宣教師として派遣されます。ゴアを拠点としてインドや東南アジア各地で宣教し、1549年、日本を訪れました。来日は、マラッカにいた鹿児島出身のヤジロウという日本人との出会いがきっかけです。これも、神様が導かれた運命的出会いだったのでしょう。

日本滞在はたったの2年でしたが、その後の日本におけるカトリック宣教の基礎を築き、キリシタンは爆発的に増加します。その勢いは、江戸幕府による徹底的な迫害により宣教師たちが追放され、日本人キリシタンの多くが殉教し、あるいは「隠れキリシタン」として地下に潜伏するようになるまで続きました。

ザビエルはその後、日本文化に多大の影響を与えている中国での宣教を目指しますが、旅の途中で病に倒れ、天に召されます。46歳でした。「使徒(apostolos)」とは、もともと「遣わされた者」という意味ですが、ザビエルはアジアに派遣された宣教師として、まさに「東洋の使徒」と呼ばれるにふさわしい働きをしたと言えるでしょう。

「フランシスコ」とは「自由な人」、「ザビエル」とは「新しい家」という意味があるそうです。ザビエルは、イエス・キリストが与えられる自由に基づいた、新しい「神の家」をアジアに築こうとしたのでしょうか。キリストを信じる私たちが今、「神の家」、「神の家族」とされていることを感謝します。

「…キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(ヘブル3:6、新改訳第3版)

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2008年4月10日 (木)

「使徒」カルヴァン

来たる2009年は、プロテスタント日本宣教150周年、函館開港150周年と記念行事が重なっているなと思っていたら、カルヴァン生誕500周年にもなるそうです。世界中のプロテスタント教会が、さまざまな記念行事を計画しており、また記念賛美歌とカルヴァンの今日的意義に関する「新しく驚くべき観点を提供する興味深く、内容があり、人の心をとらえる説教」を募集中とのこと。どんな歌と説教が選ばれるのか、たいへん「興味深い」ですね。

ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)は1509年、フランスに生まれました。英語では、ジョン・カルヴィン(John Calvin)と呼ばれます。父は弁護士で教会行政の役職も持ち、裕福な暮らし向きだったようです。ジャンは、教会から奨学金をもらい、最初は神学の勉強をしていましたが、父がカトリック教会を離れた後、法学に転向し、博士号を取得します。この進路変更は、この後の彼の生き方、考え方を象徴する出来事だったように思えます。

1533年頃、カルヴァンは突然の回心を経験します。カトリックの教えを固く信じていた彼の心を、創造主なる神様がある時、突然とらえられ、整えられ、従順にして下さったそうです。まるで、使徒パウロの回心のようです。このカルヴァンの特別な回心体験は、その後、「神の選び」を強調する彼の神学(「予定説」)の基礎を形作っていくことになります。

フランスでは、プロテスタント迫害の嵐が吹き荒れていました。身の危険を感じたカルヴァンは亡命し、スイスのバーゼルで「キリスト教綱要」を出版します。独自の聖書研究から宗教改革の意義を体系的にまとめ、フランスのプロテスタント運動について理解を求めたいというのが、執筆の目的だったようです。26歳の時、ラテン語で書かれたこの著作は、本人も驚くほどの大ベストセラーとなり、カルヴァンは一躍、プロテスタントの理論的指導者と見なされるようになりました。

1536年、ジュネーブの夜。旅の途中に立ち寄ったカルヴァンのもとに、ジュネーブの改革者ギヨーム・ファレルが訪ねて来ます。それは、神様が導かれた運命的な出会いでした。ファレルの要請に応え、カルヴァンはジュネーブにおいて、「プロテスタント都市」の建設を目指します。それは聖書信仰に基づき、一切の妥協を排除した、切迫感をともなった町づくりでした。

カルヴァンは、新たな「組織神学」のモデルを作り、プロテスタント神学の基礎を築きました。彼が組織化した長老を中心とする教会制度は、改革派(長老派)教会として世界中に広がっていきます。フランスのユグノーやイギリスのピューリタンも、この改革派の流れです。教会と国家の代議制度は、民主主義の発展にも影響を与えました。教育の奨励は、新世界(アメリカ)でのカレッジ新設運動につながります。そして、神の召命による職業と勤労という考え方は、かのマックス・ウェーバーが指摘した通り、資本主義の発達に寄与しました。

カルヴァンの生涯は、彼を選び、召し、プロテスタント運動を推進する使徒的な働きをゆだねて下さった創造主なる神様に、すべてささげられていました。すべては、「神の栄光」のためだったのです。私たちも、自分たちの栄光を求めるのではなく、イエス・キリストのいのちの代価をもって罪の中から救って下さった、神様の栄光を求める生き方をしていきたいですね。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(1コリント6:19-20、新改訳第3版)

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2008年4月 9日 (水)

「使徒」ルター

1517年10月31日、マルティン・ルターはヴィッテンベルク城教会の掲示板だった扉に、「95ヶ条の論題」と呼ばれる文書を貼り付けました。大学教授かつ司祭だった一人の人物が、神学上の議論を求めて行ったこの行為が、世界史上の大事件となることなど、この時点では本人を含め、誰も予想しなかったのではないでしょうか。「神のみぞ知る」とは、まさにこのことです。

ルターが疑問を感じていたのは、100年前の「預言者」フスと同様、贖宥状の販売でした。(フスについては、こちら参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_8374.html

贖宥状を購入さえすれば、罪の償いが軽減されるというキャッチフレーズは、罪の問題に悩みぬき、ようやく「信仰のみ」という境地に達したルターにとって、見逃すことの出来ない神学的テーマだったのです。

ルターの時代、さかんに贖宥状が販売されたのは、ローマ(現在はバチカン)にあるサン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂の莫大な建設費用を捻出するためです。ドイツにおいて大々的に贖宥状が販売された背景には、マインツ大司教の座を多額の献金で獲得し、後に枢機卿にまで昇りつめたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク、そして販売益の50%を懐におさめた当時の大富豪フッガー家の思惑もあったとのこと。キリスト教会は、明らかに悔い改めるべき時が来ていました。

ルターの「論題」は、数週間のうちに、ドイツ中に印刷されたコピーが配布されたそうです。それだけ、贖宥状販売を問題視していた人たちは、多かったのでしょう。贖宥状の売り上げは急落し、ルターを異端だと攻撃する勢力が騒ぎ出し、ローマ教皇庁は事態を静観できなくなりました。

この後、数々の論争を経て、ルターはカトリック教会から除名されます。しかし、ルターはフスの場合と違い、神聖ローマ皇帝の対抗勢力だったドイツ諸侯たちの保護を受けられたため、処刑されることはありませんでした。身の安全が守られる中、彼は次々と著作を発表し、聖書をドイツ語に翻訳します。教会改革運動の同調者とともに、新たな教会づくりのための教義をまとめ、音楽によって信仰を表現できるよう、賛美を歌うことも提唱しました。

ルターの働きを通して生まれ、世界最初のプロテスタント教会となる「ルーテル教会」は、その後、世界中に広がっていきます。「近代音楽の父」と呼ばれるヨハン・セバスティアン・バッハやオラトリオ「メサイア(キリスト)」で有名なゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルも、ルーテル教会員だったそうです。

「領邦」を治める諸侯を中心とした「領邦教会」という新たな教会のあり方は、ドイツや北欧諸国に根を下ろし、1555年のアウグスブルクの和議により、ヨーロッパにおける市民権を得ます。領主が領地の信仰を決定するという考え方は、イギリスにおける宗教改革にも、少なからず影響を与えたのではないでしょうか。

ルターは、本人が当初意図しなかったにも関わらず、神様から与えられた使徒的な働きを突然担うことになり、新たな教会のネットワークを形成することになりました。その働きは、後に出現する無数の使徒的リーダーたちや教会ネットワークのモデルとなります。結婚して家庭を築くという新たな牧師像も、ルターを通して初めて、西欧のキリスト教世界に示されました。

皇帝カール5世がルター尋問のために招集したヴォルムス帝国議会の場で、自説を撤回するよう求められたルターは、こう宣言したそうです。「…明らかな理由によって誤りだとされない限り、私は自分が正しいと信じてきたことを何も捨て去ることはできないし、また、そうする意志もありません。…私はここに立っています。私には他のことはできません。神よ、私を助けて下さい。アーメン。」

神様は、ルターの祈りに確かに答えて下さり、彼の働きを助けて下さいました。私たちも、いつも助けて下さるイエス・キリストを信じ、創造主なる神様から与えられている使命を十分に果たしていきたいですね。

「神は、私の敵から私を助け出される方。まことに、あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。それゆえ、(創造)主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。」(詩篇18:48-49、新改訳第3版)

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2008年4月 8日 (火)

ルターへの「神の声」

宗教改革の代表的人物マルティン・ルターは、「神の声」を聴いたでしょうか。彼は、実際に「声」を聴いたわけではなかったようですが、創造主なる神様から重要なメッセージを受け取り、それが人生の転機となる体験が、若い時に少なくとも二度ありました。

最初は、父の希望に沿い、法律家を目指して勉強をしていた22歳の夏。帰省して大学に戻る途中、激しい雷雨に見舞われ、近くに雷が落ちました。その時彼は、自分が死と隣り合わせに生きていることを悟り、修道士になる誓いを立てたのです。その雷は、神様からの進路変更を促すメッセージだったのでしょう。父は猛反対しましたが、息子の決心が変わることはありませんでした。

二度目の人生の転機は、ヴィッテンベルクの修道院の部屋の中でした。ルターは、20代半ばで大学教授となり、学生や同僚たちからの信望を集めていました。しかし、彼の心の中には、解決されない重大問題があったのです。それは、「いくら善行を積んでも自らの罪深さからは解放されない。神の前には依然として罪人であり、罰せられるべき存在である」という恐怖感でした。

ルターをその恐怖感から救ったのは、「義人は信仰によって生きる」という聖書のことば(ローマ1:17)でした。イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、人は罪が赦され、神の前に正しい者(義人)とされるという真理が、30代を迎えたルターの心を、初めて平安と喜びで満たしたのです。聖書のことばを通して、神様は、ルターの心に語って下さったのでした。

これら二つの体験が、後年、ルターを通して伝えられる預言的なメッセージ、そして使徒的な働きのための土台となっています。私たちも、神様が今、どんなことを語ろうとしておられるのか、いつも静かに聴く心を持っていたいですね。

預言者サムエルは、「神の声」を聞いた時、創造主なる神様に「お話しください」と祈り求めました。私たちも、同じように「神の声」を聴き、語られるメッセージに忠実に従う生き方をしていきたいものです。

「そのうちに(創造)主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております』と申し上げた。」(1サムエル3:10、新改訳第3版)

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2008年4月 7日 (月)

牧者の声を聞き分ける(ヨハネ10章)

最近は、本当か嘘か知りませんが、「刺せと言う声を聞いた」との理由で殺人事件が起きたりするようです。たとえ本当に「声」が聞こえたとしても、その「声」が命じることが、すべて正しいとは限りません。真の知恵をもって、判断していかなければなりませんね。

「声」にも、いろいろあります。神様が語られる場合もあるし、悪霊の場合もあります。自分で自分の心に語っている場合もあるかもしれないし、聞き違いの可能性もあります。それが誰の「声」なのか、メッセージを真正なものとして受け取る前に、確かめる必要があります。

「声」が、創造主なる神様からかどうか、確かめる方法には少なくとも四つあります。第一に、聖書の教えに合致しているかどうか。「殺しなさい」というメッセージは、明らかに聖書の教えに反しているので、神様からではないことがすぐ分かります。

第二の方法は、自分の心に平安があるかどうかです。創造主なる神様は、平和(平安)の神でもあります。「声」が原因で不安や恐怖、怒り、破壊的な衝動などを感じたりする場合は、それが本当の神様の「声」ではない可能性が高いでしょう。

第三は、信頼できるクリスチャンのリーダーに相談すること。これを「吟味」と言います。場合により、一人の相談相手だけでなく、「セカンドオピニオン」を求めても良いかもしれません。自分が感じたことと相談相手の「吟味」に一致があれば、確信が得られます。

第四の方法は、「声」の語る通りに、周りの状況が動いていくかどうかを見ることです。神様は多くの場合、「声」によるメッセージを与えられると同時に、別な形の「しるし」を確証として与えて下さいます。「どうか、しるしを与えて下さい」と祈っても良いでしょう。神様は、真摯な祈りに答えて下さるお方です。

創造主なる神様と被造物なる人間との関係は、聖書の中で、羊飼いと羊に例えられています。イエス・キリストは、「良い牧者(羊飼い)」です。「羊」である私たちを救うためにいのちを捨て、私たちの人生をいつも先導し、神のいのちの豊かさで私たちを満たして下さいます。

私たちを先導されるイエス・キリストは、確かに、「声」をかけて下さることもあります。一人ひとりを名前で呼び、歩むべき道へ伴って下さるのです。私たちは、いつも「良い牧者」の声を聞き分け、その導きに従って、最善の道を進んでいきたいですね。「良い牧者」なるキリストこそが、「羊」たちが歩むべき「最善の道」をご存知です。

「…門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:2-4、新改訳第3版)

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2008年4月 4日 (金)

「預言者」フス

「『預言者』フス」なんて書くと、かなり怪しげですが(笑)、昨日の宗教改革前夜の話の続きです。

「預言者」ウィクリフの「叫ぶ声」は、イギリスからドーバー海峡を越え、遠くボヘミア(チェコ)にまで届きました。イギリスでは、フランス国王の言いなりになるローマ教皇や複数並立する教皇たちへの不信感が強まったとのことですが、ボヘミアでは、神聖ローマ帝国の支配に反発する民族意識が生じ、カトリック教会を見る目も厳しくなっていたようです。

ボヘミアのヤン・フスは、プラハ近郊に住む貧しい家庭に生まれました。若いヤンは、聖職者を目指し、プラハ大学を卒業。後に同大学の学長となっています。ヤンの学生時代、神聖ローマ皇帝でボヘミア王だったカール4世の娘アンが、イングランド王リチャード2世と結婚します。これを機に両国の交流が深まり、ウィクリフの著作がボヘミアに紹介されたとのこと。神様は、人々にメッセージを伝えるため、王家の婚礼をも用いられたようです。

ウィクリフに感化され、カトリックの教会改革を目指したヤン・フスの教えは、当時のローマ教皇庁には受け入れがたいものでした。最も論議の的となったのは、後のルターの時代にも問題となる「贖宥状(免罪符)」の販売です。カトリック教会は、十字軍の遠征費用をまかなうため、購入すれば罪の償いが軽くなる「証明書」を売り始めたのです。これは、聖書に記されるイエス・キリストの教えに、明らかに反していました。

フスは、贖宥状に反対し、十字軍に反対し、さらに教会のかしらはキリストであり、教皇の存在は有害無益であるとまで言い放ちました。裁判でも決して発言を撤回しなかったフスは、「異端の主謀者」という烙印を押され、火刑に処せられます。処刑日は、1415年7月6日。ルターによる宗教改革運動の、ほぼ100年前の出来事です。

フスの信仰を受け継いだタボル派は、後にボヘミア兄弟団というグループを作り、そこからモラヴィア兄弟団という教会が生まれます。この教会はキリスト教会史上、最も宣教活動に熱心な教会の一つとなり、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーにも影響を与えました。現代の学校教育のしくみを提唱した教育者コメニウスも、モラヴィア兄弟団の一員。フスが命懸けで伝えた「預言」、創造主なる神様のメッセージは、プロテスタント教会運動と現代社会のあり方に、しっかりと受け継がれていくことになります。

私たちは、どんな状況にあったとしても、語るべきことははっきり語らなければいけませんね。人目を恐れ、妥協する生き方は、私たちに尊いいのちを与えて下さった神様を悲しませることになります。私たちを限りなく愛し、見守っておられる神様は、私たちのどんな生き様を喜んで下さるのか、いつも心にとめていきたいものです。

「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19-20、新改訳第3版)

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2008年4月 3日 (木)

「預言者」ウィクリフ

「ハインリッヒの法則」は、1つの重大事故の前に29の軽い事故があり、その前には300ものヒヤリとする経験がある、と指摘しています。アメリカの損害保険会社調査部にいたハーバート・ウィリアム・ハインリッヒ氏の発見だそうです。

宗教改革は事故ではありませんが、ヨーロッパ史をゆるがした一大事件でした。その一大事件は、ルターやカルヴァンの時代に、突然始まったわけではありません。そこに至るまで、数多くの予兆があり、ローマ・カトリック教会に対する警告がありました。

もし、カトリック教会がそれらの予兆を察知し、警告に耳を傾けていたとしたら、人類の歴史はもう少し違ったものになったかもしれません。しかし中世のカトリック教会は、政治的にも、経済的にも、そして組織的にもあまりに巨大になり、感覚が麻痺していました。小さな予兆や遠くからの警告には迅速かつ的確な対応ができず、宗教改革という、ヨーロッパのキリスト教世界全体をゆるがす大事件を座して待つことになります。

ローマ教皇が呼びかけた十字軍は結局失敗に終わり、教皇はフランス国王の言いなりになって「アヴィニョン捕囚」が起こり、さらにローマとアヴィニョンの両方に教皇が立つ「教会大分裂(大シスマ)」という異常事態が発生したのは、それぞれ衝撃的な出来事でした。しかし、その後の宗教改革とプロテスタント教会の誕生・発展という、世界史上の重大事件と比較して見れば、それらは、まだ「予兆」だったと言えるでしょう。

そのような時代背景の14世紀、「宗教改革の明けの明星」として現れたのが、ジョン・ウィクリフです。彼は、オックスフォード大学教授でカトリックの聖職者でしたが、当時のカトリック教会のあり方に疑問を持ち、改革運動を推し進めようとします。不道徳な聖職者を除き、腐敗の根源とみられたローマ教会の莫大な財産を棄て去るべきだと主張しました。

ウィクリフはさらに、ローマ教皇の権威に異を唱え、聖書に記されている通り、教会のかしらはキリストであって教皇ではない、と言い始めました。クリスチャンにとって最終的な権威は聖書であって、教会や教皇ではない、と宣言したのです。後の宗教改革の神学で、キーワードの一つになる「聖書のみ」という考え方は、すでにウィクリフによって提示されています。

ウィクリフの神学はカトリック教会には受け入れられず、彼は破門され、大学の職を失いましたが、同志とともに「貧しき説教者」というグループを作り、改革思想を普及させようとしたそうです。

聖書こそが究極的権威だと考えたウィクリフは、ラテン語訳が読めない一般大衆のため、初めて聖書の英語訳を出版します。この聖書翻訳の働きも、後のプロテスタント教会における一大運動となります。これ以降、聖書は2000以上の言語に訳され、現在でも億単位の売り上げを数える史上最大のベストセラーとなっています。

ウィクリフの聖書の序文には、「この聖書は、人民の、人民による、人民のための統治に役立つ」(This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people.)と書かれていたとのこと。この言葉の後半は、よく知られている通り、1863年、アブラハム・リンカーンによって引用されます。

ウィクリフの生き様は、イエス・キリストの登場を準備した、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)に似ています。バプテスマのヨハネは、旧約に基づく最後の預言者として神のメッセージを語り、「荒野で叫ぶ声」と呼ばれました。「聖書のみ」というウィクリフの「預言」は、宗教改革の基本信条となり、プロテスタントの信仰者たちによる新たな教会と社会が、世界各地に形成されていく土台となったのです。

私たちも、神様が今、何を語ろうとしておられるのか、よく耳を澄ませていきたいですね。創造主なる神様は、日々の出来事、聖書や人の言葉、心に残る印象、そして時には実際に耳に聞こえる「声」を通し、私たち一人ひとりに愛をもって語りかけて下さるお方です。

「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする。【主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ】』と言われたその人である。」(マタイ3:1-3、新改訳第3版)

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2008年4月 2日 (水)

使徒と預言者

20世紀前半の神学論争は、「現代にも奇跡はあるか」とか、「異言(神が超自然的に与えた特別なことば)や神癒(奇跡的ないやし)は本物か」とか、「聖霊は今も聖書時代と同じように働かれるか」というようなテーマだったようです。ペンテコステ・カリスマ運動の拡大は、大きな神学論争を引き起こしました。

しかし、世界的に見れば、この論争はほぼ収束してきたようです。聖霊は、今も昔と同様に働かれ、聖書に記されている通り、奇跡も神癒も異言も存在するという認識が、世界各地の教会に広まってきました。日本ではまだ名残がある福音派とペンテコステ・カリスマ派の垣根は、海外ではもはやほとんどないようです。

20世紀末から現在に至る神学的テーマは、いわゆる「五職」でしょうか。教会には、五種類のリーダーが与えられていると、聖書に記されています。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の5つです。

「教師」は、一番、分かりやすいですね。聖書で言う「教師」は、学校の先生ではなく、聖書の真理を理解しやすいように教える人です。「牧師」は、教会に集まる人々の実際的なお世話や心のケアをし、人々の人格的成長を助ける人。「伝道者」は、クリスチャン以外の人々にイエス・キリストを紹介し、信仰に導く人です。ここまでは、特に論争の種になるような内容はありません。

問題は、預言者と使徒です。預言者は、神から直接語られたメッセージを預かり、人々に伝える人のこと。現代にも預言者がいるかどうかは、現代も、創造主なる神様が人々に直接的に語りかけることがあるかどうか、という理解にかかっています。もちろん、私たちの教会では、神様は今でも直接的に語りかけられると信じています。しかし、そう信じていない教会も、あるようですね。

使徒とは、もともとはイエスの十二弟子のこと。その職名は、後にバルナバとパウロについても用いられています(使徒14:14)。パウロは、イエス・キリストの直弟子ではありませんが、ローマ帝国内に異邦人教会を数多く生み出し、「異邦人の使徒」と自称しています。ということであれば、パウロのように新たな教会を次々に生み出し、それぞれ牧師を任命して教会のネットワークを広げていく働きをする人のことを、「使徒」と呼ぶこともできるはずです。

カトリック教会では、フランシスコ・ザビエルが「東洋の使徒」と呼ばれ、正教会ではニコライ・カサートキンを「日本の亜使徒」と呼んでいるようです。「亜使徒」とは、「使徒に等しい働きをした人」という意味だそうです。

プロテスタント教会では、「使徒」という呼称は長く使われなかったようですが、考えてみると、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンは、「宗教改革の使徒」と呼んでも良いだけの働きをしています。それに先立つジョン・ウィクリフやヤン・フスは、「宗教改革の預言者」と呼んでも良いのではないでしょうか。

誰も彼もを「使徒」と呼んだり、自分のことを「使徒」と呼べというような高ぶった態度には、問題があります。しかし、一つの教会に責任を持つ牧師以外に、多くの教会を生み出し、牧師のネットワークを築く働きをする人が現在もいることは確かです。そのような人のことを、「使徒的な働きをする人」として認めることは、聖書に沿った考え方だと私は思います。

現代においても「使徒」や「預言者」の働きがさらに神様に用いられ、世界各地に福音が宣べ伝えられ、教会のネットワークが広がっていってほしいですね。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:11-13、新改訳第3版)

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2008年4月 1日 (火)

神学

神学(Theology)とは、文字通り、神(theos)の学(logos)です。神様は、どのようなお方なのか、どんなことをなさるのか、私たちとどのような関係にあるのか、ということを調べ、理解し、まとめた知識の総体が神学です。

神学には、大きく分けて二つの研究方法が考えられます。一つは、自然、人間、歴史等の被造物の世界を研究し、そこに神の創造の秩序や道徳的性格、あるいは遠大な計画を見出そうとする方法。いわゆる「一般啓示」の研究です。この方法は、誰にでも取り組みやすいかもしれませんが、研究者の世界観により結論が大きく左右される欠点があります。そこに、真の神の「足跡」をまったく見出すことができない人たちも、数多くいます。

もう一つは、「特別啓示」と呼ばれる聖書を研究する方法です。聖書は、紀元前15世紀前後から紀元1世紀末まで、千数百年間におよぶ神の語りかけの記録が、慎重な吟味の末、正式な文書(正典)としてまとめられたものです。天地創造の経緯、イスラエルの起源と歴史、救い主イエスの生涯とキリスト教会の誕生、そして世界の終末等について記されています。聖書に表された神のメッセージを研究することにより、創造主なる神の性質や人類への祝福の計画などを知ることができます。

特別啓示である聖書の研究は、一般啓示よりも研究範囲が絞られていますが、それでもやはり、研究者の世界観が色濃く反映する結果となります。聖書全体が「神のことば(メッセージ)」なのか、一部なのか、あるいはまったく「神のことば」でないのか、立場の違いにより、さまざまな「神学」が生まれます。ちなみに私たちの教会では、聖書自体の内容の確かさに基づき、聖書全体が「神のことば」であると信じる福音主義的な立場をとっています。

しかし、聖書全体が「神のことば」だとしても、「神学イコール聖書」ではありません。神学は、「神のメッセージ」をどのように解釈し、どのように整合性をつけ、まとめたかという作業の結果、得られる知識です。聖書が絶対的真理だったとしても、神学は絶対的真理とは言えません。歴史上のある時点で正しいと思われていた神学が、後の時代に修正され、一部変更されることもあり得るのです。神学が「神の学」である限り、それは人間の知的営みであり、「科学」と同様、仮説に過ぎないと言えるのかもしれません。

もちろん、私たちは、自分たちの神学が、かなり信頼度の高い「仮説」だと信じています。そして、例えば「イエスは救い主である」というような根本的な教義については、未来永劫、変わりようがないと確信しています。しかし、神学の細部については、将来、修正の可能性もあり得るということさえ認めていれば、細かい点で違いのある他のキリスト教会とも一致し、協力していく道が開けるのではないでしょうか。

創造主なる神様が、永遠の愛をもって私たちに語りかけて下さっていることを感謝します。「真理の御霊(聖霊)」なる神様は、私たちに今、神の真理を教えようとしておられます。神様がどのようなお方かを知るためには、先ず、神の語りかけを聴こうとする、へりくだった姿勢が大切ですね。そうでないと、かつてのパリサイ人たちのように自らの神学を絶対化し、細事にとらわれて、重要な真実を見失う危険性があります。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:13、新改訳第3版)

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