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2008年5月16日 (金)

聖霊のバプテスマのしるし

最近、聖霊のバプテスマの話題は、それほどメジャーではない感じがしますが(笑)、話のついでに、聖霊のバプテスマにともなう「しるし」についてもふれておきます。

4、5年前だったでしょうか、親しくなった福音派の教会のある牧師と二人で食事をした時、彼は私にこう質問しました。「そちらの教団では、異言を語らないと救われていないと言うんでしょう?」私はあまりに驚いて、一瞬、絶句しました。(笑)

「日本の福音派の教会では、今でもそのような噂が流れているのか。だから聖霊派が異端扱いされ、福音派と聖霊派の壁が今でも残っているのか」という思いが、その質問の瞬間、頭の中を駆け巡ったのです。

一昨日のブログ記事にも記した通り、救いの条件は、創造主であり、キリスト(救い主)である神の御子イエスを信じることです(ローマ10:9-10)。人の思いを導き、「信仰告白」に至らせるのは、聖霊なる神の働きであり(1コリント12:3)、信じる者の心のうち(奥底)には、神の御霊なる聖霊が宿って下さいます(1コリント3:16)。この点については、福音派も聖霊派も、その神学的理解にほとんど違いがないと思われます。

違いが出るのは、「聖霊のバプテスマ」をどう理解するかという点で、福音派の多くの教会では、おそらく「聖霊のバプテスマ」と「内住」は同じであるとしているのでしょう。これに対して聖霊派では、この二つは別個の体験であると主張しています。しかし、「聖霊のバプテスマ」が救いの証拠だとは言っていません。それは、救われた人に対する神様からの追加プレゼントだという理解です。

さらに両者の溝を深めたのが、「しるしとしての異言」問題でした。聖霊派の始まりと言える20世紀初頭のペンテコステ運動において、聖霊のバプテスマと異言は、切っても切り離せないトピックでした。

(異言については、こちらも参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_73d3_1.html、ペンテコステ運動については、こちらもどうぞ→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_73d3.html

米国カンザス州トピーカで始まり、ロサンゼルスのアズサストリートに飛び火したペンテコステ運動と呼ばれるリバイバル・ムーブメントは、聖霊が力強く注がれ、そこに集う人々に必ずと言って良いほど異言が与えられたようです。この運動から生まれた「ペンテコステ派」の多くの教会では、この原体験を土台とし、「聖霊のバプテスマの最初でかつ唯一のしるしは異言である」という教理を唱えました。

この辺りから、キリスト教界でたいへんな神学論争になります。長くなるので今日は詳しく書きませんが、もうそれから100年も経つので論争は収束し、世界的に見れば福音派と聖霊派は仲良くしています。

救いの条件について共通理解が得られれば、その他の細かな神学的相違点はただ違いとして認め、クリスチャンとして互いに受け入れ合っていきましょうということですね。日本は、この世界的潮流に少々乗り遅れつつも、次第に垣根が低くなって来ているように感じます。

ちなみに私たちの教団は、手前味噌ながらペンテコステ派の中では穏健な方で、「聖霊のバプテスマの最初で唯一のしるしは異言だ」とは明言していません。ただ、「聖書時代と同じような形で聖霊が注がれる」と信じています。もちろん多くの場合、異言が与えられるかもしれませんが、聖霊のバプテスマや満たしにそれ以外の「しるし」(預言、喜び、大胆さ等)がともなうことも同時に認めています。

私たちは、互いに愛をもって受け入れ合い、神様から与えられた「霊的プレゼント」を活かして仕え合っていきたいですね。細かな神学的相違から仲たがいし、愛と信頼関係を失ってしまうようなことがあれば、それは「すべてのことを適切に、秩序をもって行う」という姿ではなく、神様に喜ばれないことでしょう。

「それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」(1コリント14:39-40、新改訳第3版)

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