聖霊の内住とバプテスマ
先週、聖書学校で教えたのですが、ある人から質問がありました。「聖霊のバプテスマは、聖霊の内住と違うのか」という内容です。これは、20世紀初頭にペンテコステ運動が始まってから、何度も繰り返して問われてきたテーマでした。
イエス・キリストを信じる人には、聖霊が心のうちに宿って下さいます(1コリント3:16、2テモテ1:14)。これは、「聖霊の内住」と呼ばれます。「キリストを信じる」という宣言、いわゆる「信仰告白」のことばと弟子としての新しい生き方が、「内住」の目に見えるしるしと言えるかもしれません。
これに対して「聖霊のバプテスマ」は、信仰告白と新しい生き方以外の特別なしるしを伴った体験を指すと、私たちは信じています。例えば、教会が誕生したペンテコステの日には、エルサレムのクリスチャンたちは聖霊に満たされ、外国語を話し出しました。
キリストを信じたサマリヤの人々に対して、ペテロとヨハネが祈ると、彼らは周りの人にもはっきり分かるような形で、聖霊を受けました(使徒8:15-18)。
カイザリヤのコルネリオの家では、ペテロが話をしている時、異邦人たちに聖霊が注がれ、彼らは異言を語り始めました(使徒10:44-46)。
パウロが出会ったエペソの弟子たちは、水のバプテスマ(洗礼)を受けた後、パウロが手を置くと聖霊が彼らに「臨まれ」、異言を語ったり、預言をしたりしました(使徒19:5-6)。
これらの聖書箇所を読めば、聖霊の内住と聖霊のバプテスマは、それぞれ別個の体験であると結論づけるのが妥当な解釈ではないでしょうか。
もちろん、聖霊のバプテスマは、救いの条件でも、クリスチャンとしてのしるしでもありません。イエス・キリストを信じる人が救われ、クリスチャン(キリストの弟子)とされているのです。聖霊のバプテスマは、あくまでも神の恵みの「賜物」(使徒2:38)、つまり神様がすべてのクリスチャンに与えると約束して下さったプレゼントと言えるでしょう。
創造主なる神様のプレゼントであれば、喜んで受け取っていきたいですね。天の父なる神様は、私たちに「良いもの」を与えて下さるお方です。(ルカ11:15)受け取ったから偉いとか、偉くないといかいう問題でもありません。神様が恵みとして与えて下さる素晴らしいプレゼントを、私たちは、ただへりくだって受け取り、感謝をささげていきたいものです。
「…パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。…その人々は、主イエスの御名によって(水の)バプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」(使徒19:1-2、5-6、新改訳第3版)
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