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2008年5月29日 (木)

監督派

昨日のブログに書いた長老派(Presbyterian)の教会は、カトリック教会の階層的な監督制度が聖書的でないと主張したカルヴァンから始まっています。改革派教会(Reformed Church)と呼ばれることもあります。

これに対して東方正教会、カトリック教会、英国国教会、そして国教会から自然発生的に枝分かれしたメソジスト教会、ホーリネス教会、ペンテコステ教会の多くは、監督制をとっているようです。

監督制とは、簡単に言うと、各教会の牧師や長老の上に置かれる指導者を認める制度のこと。教会によって、司教や主教、監督(英語では"bishop")、あるいはただ機能的に「教区長」などと、さまざまな呼び名が用いられます。要するに、牧師の牧師にあたる監督者を組織として認めるという制度です。

最近では、「使徒」という役職名を用いるケースもあり、論議を呼んでいます。時折耳にする「バルナバ牧師」、「ネットワーク牧師」といった役職も、おそらく「牧師の牧師」としての働きであり、あまり階層的なニュアンスはないかもしれませんが、機能的には似ている部分があるのではないでしょうか。

ただ、「監督派教会(Episcopal Church)」と言うと、通常は、英国国教会(Church of England)の世界的ネットワーク(アングリカン・コミュニオン)である「聖公会」のことを指します。日本には、日米修好通商条約締結の翌1859年、米国監督教会からチャニング・ムーア・ウイリアムズ宣教師が派遣され、長崎、大阪、東京で宣教し、東京築地に立教学校(現在の立教大学)を開設しました。長老教会のヘボン宣教師来日も1859年であり、来年はちょうど宣教150周年にあたります。

私の妻は、かつて留学した頃、米国テネシー州の監督教会の礼拝に出席したことがあるそうです。台本のような交読文があり、立つ時も座る時もすべて指定されていて、礼拝最後の聖餐では、丸いウェハーのような「パン」を牧師が信徒一人ひとりの口の中に入れたそうですから、カトリックのミサのようですね。

私たちの教団は、ペンテコステ派ですから、基本的には監督制です。ただ実際には、教会ごとの独自性がかなり尊重されているので、長老派あるいは会衆派的な教会運営がなされている部分もあります。もちろん、礼拝はミサのようではなく、もっと賑やかで自由度があります。

私個人としては、一人ひとりの牧師には公式、非公式のどちらにせよ、上に立つ監督者が必要なのではないかと痛感しています。初代教会の時代には、使徒たちが牧師や長老たちを指導していました。現代の牧師たちにとっても、彼らの霊的ケアに心を砕き、その健全な成長を助ける「牧師の牧師」たちの存在は、大きな意味を持つのではないでしょうか。

いずれにせよ、監督や牧師の条件は、第一に品性です。リーダーは、自分と同じレベルまでしか人を育てられません。監督や牧師の品性に問題があれば、教会も品性の問題に手をつけられないことになります。監督、牧師、長老、その他教会のリーダーとされている人は、何よりキリストの品性に近づいていくことを祈り求めていきたいですね。

「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである』ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──

また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」(1テモテ3:1-7、新改訳第3版)

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