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2008年5月15日 (木)

聖霊のバプテスマと満たし

先週教えた聖書学校のクラスは、リーダーシップがテーマだったのですが、最後の質疑応答の時間に聖霊のバプテスマに関する質問が続きました。昨日記した「内住との違い」に続く、次なる質問は、「聖霊のバプテスマと聖霊の満たしは、どう違うのか」という内容です。

イエス・キリストは天に昇られる前、弟子たちが間もなく、「聖霊のバプテスマを受ける」ことを予告されました(使徒1:5)。そして、その直後のペンテコステの日に起こった出来事こそが、史上初の「聖霊のバプテスマ」だと理解されています。しかし、その現象は「バプテスマされた」、つまり「浸された」ではなく、「聖霊に満たされた」(使徒2:4)、あるいは「聖霊が注がれた」(使徒2:17-18、33)と描写されています。

通常、「聖霊のバプテスマ」の例に挙げられる他の聖書箇所でも、「聖霊を受ける」(使徒8:15&17、10:47、19:2)、「聖霊が下る」(使徒8:16、10:44)、「聖霊の賜物が注がれる」(使徒10:45)、「聖霊が臨む(来る、現れる)」(使徒19:6、1:8参照)という表現のバリエーションがあります。

これらがすべて「聖霊のバプテスマ」だと解釈されるのなら、「聖霊のバプテスマ」と「聖霊の満たし」は、イエス・キリストを信じる者に対して神様が特別なプレゼントとして与えられる、ほぼ同一の体験を指していると言えるのではないでしょうか。私たちは、「聖霊が下り」、「注がれ」、「臨まれる」時、「聖霊を受け」、「聖霊に浸され」、そして「聖霊に満たされる」のです。

トロント・ブレッシングのリニューアル(霊的刷新)の流れでは、「soaking」という言葉があります。「soaking」は「浸すこと」ですから、これはギリシヤ語の「バプテスマ」に相当しますね。ジョン・アーノット牧師は、「soaking」とは「ともにおられる聖霊にふれられ、神の愛の中に安らぐこと」と説明しているようです。これは「聖霊の浸し(バプテスマ)」であり、同時に「聖霊の満たし」の体験なのでしょう。

ただ一般的には、「聖霊のバプテスマ」と言うと、各自が初めて体験する「聖霊の満たし」に意味を限定しています。聖霊派の多くの教会では、「聖霊のバプテスマ」はただ一度だけだが、「聖霊の満たし」は何度でもあり得ると、説明していると思われます。ですから、「聖霊のバプテスマ」は何度でもあり得ると主張すると、異端ではないかと変な顔をされる可能性があるので、ご注意下さい。(笑)

聖霊のバプテスマも聖霊の満たしも、イエス・キリストの証人として生きる私たちが、天与の力で強められる特別な体験です(使徒1:8、4:8&31、7:55-56)。創造主なる神様から授けられる特別な力により、私たちの言葉と行動を通して、神の愛を伝える者となっていきたいですね。

「御霊(聖霊)に満たされなさい。」(エペソ5:18、新改訳第3版)

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